空に誓い 今一番不幸なのは自分なのでは。そんな感覚に襲われる日がある。
乙骨憂太にとってはこの一週間がそんな日々だった。
幼い頃に両親を亡くし、頼れる身内もなく施設で育った。そこで出会った女の子と恋をして、ずっと一緒に過ごした。幼いおままごとのように思われていた恋も、五年十年と続けば結婚という恋のその先も見えてきた。
週末には式場の見学に行こう。そんなこれからの話をした翌日、最愛の婚約者であった折本里香を事故で亡くした。
葬儀や身の回りでしばらく仕事も休んだが、それでも生きている以上仕事には行かなければならない。一週間ほど休みを取って久しぶりに仕事に行くと、上司から「帰って休め」と言われてしまった。
なんでもいいからなにか食べて寝ろ、と言われてそういえば最後に食事をとったのはいつだろうかとぼんやり考えたが、思い出せない。食べるのも眠るのも生きるために必要な行為だ。それを自分からする気にならなかったことは、なんとなく覚えている。
とりあえず、帰る前になにか買おうと商店街に入ったが、なにも食べる気にならない。そんな時、ふと綺麗な建物が目に入った。
シャッターの閉まる店が多い寂れた商店街に似合わない、オシャレなカフェのようなウッド調の外観。壁には覗き窓のような細いガラス部分があり、そこからしか中は見えない。そしてドア横には『ペア専門店 partner』の文字。それを読んで、何の店か理解できた。
世界には、猫族や犬族など、人の姿に獣の耳や尻尾のついた生き物、総称して獣族と呼ばれる存在がいる。もちろん普通の犬猫のような動物も存在し、獣族は少数だ。そんな獣族には共通した特徴がある。それは、飼い主となるパートナーを求めるということ。
耳やしっぽ以外は普通に人と変わらない体格をしているので、一人で生活し自立している獣族も存在するが、基本的に愛情を注いでくれるパートナーを求める性質があるらしい。ここは、そういったパートナーを求める獣族を集めた店なのだろう。そういった店を、獣族との仲介所と呼んだりもする。
普段はあまり関わることのないその場所に、なぜか強烈に心惹かれた。
(見るだけなら……)
そんな想いで、憂太はその店のドアを開いた。
中は、外観から感じたように、まるでおしゃれなカフェだった。いくつかのテーブル席があり、各テーブルに椅子は二つ用意されており、片方の椅子に獣族が座っている。中にはもう片方の椅子に人が座っているテーブルもある。あれはおそらく、相性の確認中だろう。
獣族はプライドが非常に高い。犬族なら犬、猫族なら猫に性質は似ているが、すべての獣族は総じて獣族であることに誇りを持っている。その分パートナーとなる飼い主には従順だ。そんな性質を持つ分、パートナー選びには非常に慎重であり、パートナーを決める際の主導権は獣族側にある。
(あ……)
気になって見てしまっていた相性確認中の人が、残念そうに顔を伏せて席を立った。向かいに座っていた獣族は、そんな人に対して一切視線を向けない。相性が合わなかったのだろう。
(すごい。かっこいいな……)
たまに街中で見かけることもあるが、こんなにたくさんの獣族を一度に見るのははじめてだ。失礼にならない程度にぐるりと店内を見渡し、獣族の姿を見る。
ピン、ととがった耳に茶髪の女の子。勝気そうな目元が綺麗な猫族だ。なぜかテーブルの上に金槌を置いているのは、お気に入りの物なのだろうか。ピンクがかった髪に茶色い大きな耳と、目元に模様のある大柄な男の子は、人懐っこそうな笑みを浮かべて大きく尻尾を振っている。
彼だけでなく、見渡してみるとなぜか自分に視線が集まっているのを感じる。おまけに、半数以上は尻尾を振っているし、どれも好意的な視線に感じた。イメージしていた獣族の印象と少し違う。おまけに、見渡してみると十代半ばぐらいの子が多い気がする。
「いらっしゃいませー」
「あっ、す、すみません」
突然声をかけられ、咄嗟に謝ってしまった。店の奥から出てきたのは、かなり長身の大柄な男性だ。胸元に『オーナー夏油』と書かれた名札をつけており、この店の店主だと分かる。
「いえいえ。仲介所ははじめてですか?」
「は、はい。通りがかって、気になったので……」
憂太も決して身長が低いわけではないが、それでも顔を上向けるほどの長身だ。そうして見上げていると、夏油は「うーん」と憂太の顔を覗きこんでにっこりと笑う。
「呼ばれたのかな」
「え?」
「いえ。獣族には未知の部分がまだ多いですからね。気に入ったパートナーを自ら呼ぶこともあると言われているんですよ」
そんな風に言われても、呼ばれたなんて感覚は無かった。ただ、たまたまここに足が向いただけだ。戸惑ったままなにも言えずにいると、この中に気になる獣族はいますか、と夏油から促されて、顔を上げた。もう一度店内の獣族達をゆっくり見渡すと、大きな黒い耳の男の子が立ち上がった。
「こっち」
黒い耳に黒いふさふさの尻尾。少し目つきは鋭いが、優しい低い声で手招きをされた。
「へえ、恵。気に入った?」
夏油が声をかけても、恵と呼ばれたその黒い男の子は応えない。そういえば、獣族は基本的に口数が少なく、パートナー相手としかあまり会話をしないと聞いたことがある。
するといきなり、背後から抱きしめられた。
「ひぃっ?!」
「ダメだよ恵。この子は僕の」
低いのに、澄んだ綺麗な声。驚いて振り返ると、そこには大柄の男性が居た。いや、白くて大きな耳と、ふわりと脚に絡まれた尻尾。獣族、それも大型の犬族だ。
夏油のことも背が高いと思ったが、背後に立っている彼はそれ以上だ。驚いて硬直していると、夏油はふっと笑う。
「呼んだのは悟か」
「おいで、こっち」
夏油の言葉を無視するように、悟と呼ばれた獣族に手を引かれた。戸惑うまま連れていかれたのは、一番奥の席。たっぷりと角砂糖が詰め込まれたシュガーポットと湯気を立てるコーヒーが置いてあるテーブル。なぜか、はじめからコーヒーは二つ用意されていた。
他のテーブルと動揺に椅子は二つ。そこに座るのかと思ったが、先に座った悟に腕を掴まれ引っ張られる。
「うわっ、ちょ、ちょっと」
抵抗する隙もなく、膝の上に抱えられた。おまけにそのまま肩に顔を埋め、首を振られる。耳が頬や首にあたってくすぐったい。
「え、あの、その……」
いったいなにが起きているのか分からない。大きな犬族に抱っこされて、これは、懐かれている……いや、甘えられているのか。どちらにしても、誇り高い獣族のイメージとはかけ離れた行動に戸惑って夏油の方に視線を向けると、苦笑した夏油が悟の肩に手を置く。
「悟。いきなりマーキングするのは失礼だろ」
「……」
悟は肩に置かれた夏油の手を叩き払うと、さらに憂太を抱く腕に力を込める。その力は苦しくなるほど強くて、ああ本当に獣なのだと、他人事のように感心した。
「すみませんね。普段はこんなことするどころか、相性確認に来た客を追い返すような最低なやつなんですけど」
「あ、あの……、僕、なにかしたんですか?」
獣族に好かれるようななにかをした覚えなんて全くない。
「たまに居るんですよ。獣族に好かれる人。一般的に、獣族は愛情が欲しくてパートナーを求めているなんて言われますけど、僕から見ると、獣族は愛情ではない別のなにかを求めて人と暮らすことを好んでる気がするんですよね」
「なにかって……」
「それは分かりませんけど」
へらりと笑って流された。その間も、悟はずっと憂太を抱きしめたまま離そうとしない。姿は自分より大きな男性なのに、こんな風になつかれるとちょっと可愛く見えてくる。試しにそっと手を伸ばしてふわふわの耳に触れると、悟はもっと撫でてと言わんばかりに頭を擦りつけてくる。
(あったかい……)
こんな風に、自分以外の体温を心地いいと感じるのは久しぶりだ。求められるままに悟を撫でていると、なぜか胸がじんわりとあったかくなる気がして、憂太も悟を抱きしめるように撫でる。
「それにしても、あの悟がここまで懐くとはね」
「えっと、この人、なにかあるんですか?」
さっきから、夏油はすごく驚いたり感心したりしながら、悟の様子を眺めている。憂太としても、少し疑問はあった。
悟は背が高いだけでなく、顔立ちもすごく整っていた。真っ白な耳や尻尾もよく似合い、まるでモデルのようにさえ思える。だが、肝心なその両目はなぜか黒い布で覆われていた。
怪我でもしているのかと伺うようにそっと黒い布に触れてみたが、特に拒むような様子はない。
「別に怪我もなにもしていませんよ。悟は実は獣族の中でもさらに希少な狼族でしてね」
「狼……」
「その分、他の他のよりもさらにプライドが高く、気に入らない相手だと相性確認さえ応じない。他の獣族よりもかなり歳も上だし、はっきり言って行き遅れですよ」
夏油の言葉に、悟の尻尾がぴしゃりと動く。言い方が気に入らなかったようだ。
パートナーを探す獣族は大体が十代半ばで、それまでは生みの親の愛情を受けて育つ。十代半ば頃から自分だけのパートナーを求めるようになり、こうして仲介所を利用する獣族が増えてくるのだという。
「こんな風に顔も隠して見せようとしないし、触るどころか声をかけられるのも拒む。ほんとプライドの高くて困った犬ですよ」
「いえ、あの、そのぐらいで……」
夏油がなにかを言うたびに、苛立たし気に揺れる尻尾があたってくすぐったい。夏油の話と今見ている悟の態度はまるで結びつかず、憂太はますます混乱する。
「さて。どうしますか、お客さん」
「どうしますって……」
「誰がどう見ても悟からの許可は出ています。あとは、あなたがパートナーを了承するかどうかですよ」
「え、えっと……」
ふらりと立ち寄っただけで、まさかこんなことになるなんて欠片も想像していなかった。獣族とパートナーを結ぶのは、簡単なことではない。一人につきパートナーになれる獣族は生涯ただ一人。それは獣族側にとっても同じことで、獣族とパートナーになるには役所に届け出す必要がある。
正式に獣族とのパートナー契約届出書というのだが、ちまたでは獣族との婚姻届なんて言われることもある。
(……里香ちゃん)
心の中で、もう帰らない婚約者の名を呼ぶ。
入籍はしていなかったが、憂太にとって里香は生涯側にいる存在だと思っていた。それが、急に目の前から居なくなってしまった。当然のように思い描いていた未来は跡形もなく消え、もう叶うことはない。
それでも、生涯里香を想い愛し続けることは変わらない。
(だけど……)
一人は、寂しい。
誰も居ない家も、一人で食べる食事も、何度かけても繋がらない電話も、なにもかもが寂しくて、一人であることを思い知らされる。
夏油は自分がここに来たことを呼ばれたと言ったが、やはり違う気がする。無意識に、側に居てくれる誰かを求めたのかもしれない。
憂太は顔を上げて振り返ると、悟を見つめた。布に覆われて見えない瞳が、自分をまっすぐに見つめ返しているのを感じる。
もっと慎重に決めるべき。そんなことは分かっているのに、まるでこうなることが決まっていたかのように、目が逸らせない。離れるなんて、考えられない。
「はじめまして。僕は、乙骨憂太といいます。僕の家に、来てくれますか?」
「五条悟。悟でいいよ、憂太」
そう返してくれた悟は、また憂太を抱きしめその髪に頬を寄せる。
あたたかくて、柔らかくて、心地いい。そんなぬくもりを抱きしめ返していると、夏油から肩を叩かれた。
「じゃあこれ、こいつに着けてください」
渡されたのは、真っ黒な革製の首輪。パートナー持ちの獣族はその証として首輪をつけるのが決まりだ。同時に、誇り高い獣族が首輪をつけることを許すのは、その相手をパートナーと認めた時のみ。
「僕が、つけてもいい?」
伺うように尋ねると、僅かに身体を離した悟が顔を上げた。首輪をつけやすいように上を向いてくれたのだと分かって「ありがとう」と呟き、自分より太く逞しい首にそっと手を伸ばす。あまり苦しくならないように、と調節して首輪をはめる。
こんな美しい獣を自分のものにしようとしている。そんな気がして、ただ首輪をはめるだけなのに、すごくドキドキした。何度か失敗しながらも首輪をつけ終えて手を離すと、悟は自らその瞳を隠していた黒い布を剥ぎ取る。
その瞳は、まるで里香と遊んだ公園の空のように、美しく澄んだ青だった。