蜘蛛を洗う話.
「……わお。俺ちゃん、なんか怒らせるようなことした?」
ドアの前、影のように無言で佇む漆黒の蜘蛛を刺激しないよう、穏やかに問いかけながら、俺は急いで朝からの行動を振り返る。
昼まで寝て、起きた後は部屋を掃除して、二人分の洗濯物をコインランドリーに突っ込んで、それから銃の手入れをして、夕飯を作った。メニューはシチューとサラダ、デザートにアイス。
自分で言うのもなんだが、今日の俺ちゃんはすげえイイコだ。表彰されるべきだ。昨日までの仕事だって、ただの要人警護だったから誰も殺してない。一体、何が気に障ったってんだ?先週プリン食っちまったの、まだ根に持ってる?
「アッ!分かった!最近ずっと帰りが遅かったから、欲求不満なんだろ?ごめんな、実はセントラルパークでアメリカマナティの大群を発見しちまって、保護の申請を」
「……今日戦ってた場所がインク工場で」
「もういい分かった、何も言うな」
アメイジングなトレードマーク、ご自慢の赤と青のスーツを全身真っ黒に染め上げた蜘蛛が、返事の代わりに盛大にくしゃみをする。
よかった、ただのピーターだ。けったいな異星人に闇堕ちさせられたわけじゃなかったらしい。
「とりあえず風呂だな」
スーツが冷たいとぼやく顎の先からは、いまだにポタポタとインクが滴っている。
*
「インクには染料インクと顔料インクがあってね、染料インクは内部まで染み込むんだけど顔料インクは表面に付着するだけだから皮膚についても落としやすくて、」
「ハイハイ、塗料でも肥料でもなんでもいいけどよ。ちなみに、アンタが落っこちたのはどっちのインク壺だ?」
「………両方」
「ご愁傷様」
スーツのままバスタブの中に座らせて、頭からじゃばじゃばシャワーを掛ける。透けないほど濃い色水が、どんどん排水口へと流れていった。
「うう、グローブもブーツも全部真っ黒になっちゃった。ねえこれ、頑張って洗ったら落ちないかなあ。インクって分解できない?」
「それができたら、アンタは海の救世主になれるな」
「やっぱ作り直しかあ…」
今月の給料が、と悲しげに溜息を吐く頭から、インクで染まったマスクを引っこ抜く。現れた顔もマスクに負けないぐらいに黒い。
「ほっぺたから髪の中まで、塗ったくったみてえに真っ黒。すげーなこりゃ」
「洗ったら落ち…」
「肌はともかく、髪は無理かもな」
「ううっ」
呻いて項垂れてしまったピーターの頭目掛けて、俺は片手でシャンプーのボトルをひっくり返す。落ちてきた液の冷たさに、ピーターがびくっと身を竦めた。
「冷たっ!ちょっと、洗うのは自分でできるってば!」
「アンタにバチャバチャ暴れながら洗われたら、インクが飛び散って掃除が大変なんだっての。大人しく洗われてな」
「お風呂で暴れたりしないよ、子どもじゃないんだし」
「んーじゃあ、明日の掃除当番代わってくれる?自分がいつも、どんぐらい暴れん坊か分かるかもよ」
途端に、ピタッとピーターが静かになった。苦笑しつつ、俺はワシャワシャとシャンプーを泡立てる。白いはずの泡が今日はどんより鈍い灰色だ。その泡を髪に放置したまま、今度は貼り付いたスーツを脱がしていく。
「うっわ、スーツの下も真っ黒じゃんか」
「頭から落っこちたからね。ちょっと飲んじゃったから、多分口の中も黒いよ」
「マズそうなランチだな。具合悪くなったりしてねえ?」
「うーん、お腹減った」
「……オーガニックとか、気にしてんのがバカバカしくなってくるな。いっそシンナーで洗うか?」
んべっと出された黒い舌に笑いながら、これまた黒い肌にボディスポンジを滑らせると、一瞬で色が変わった。もちろんスポンジの方の。あーあ、買いなおしだな、こりゃ。
「ハーイ背中向いて〜」
「はーい……」
スポンジの再利用は早々に諦め、予備のスポンジも全部並べて、全身ごしごし擦っていく。普段ならもう少し抵抗して猫の子みたいに暴れるのに、今日のピーターは俺ちゃんにされるがまま、随分大人しい。多分、先週同じように暴れて蛇口ぶっ壊したのが尾を引いているんだろうな。あの日落っこちたのは下水で、その前はハドソン川だっけ?
コイツを洗った回数を数えながら、染まった爪の間にも爪用ブラシを這わせ、指の股にも丹念に泡を伸ばした。くすくす笑いながら、擽ったそうにピーターが身を捩る。深追いせず、下心が元気になりそうな部分はなるべくスルー。ここしばらくの禁欲が効いてるけど、まずは風呂だ、風呂。汚れが落ちなくなっちまう。
そうこうしているうちに、寒さに強張っていたピーターの身体から、段々と力が抜けていく。それに気を良くして、首筋から尾骶骨までを何度もスポンジで撫で下ろす。気持ちよかったのか、ピーターがほうっと息を吐いた。
「ねえ、今の僕って、王様みたい」
「そりゃ良かった。俺ちゃんはどっちかって言うと、なんかのトリマーになった気分」
「無礼な家臣だな。不敬だぞ」
膨れた頬に笑いながらキスをして、俺は洗濯を再開する。ヘソを曲げた時のピーターみたいに頑固なインクも、何度も擦るうちにやっと薄れてきた。その下から現れる、シャワーの熱に上気した肌。ピンク色の目元。いつものピーターの色。
「そういやさ、散歩に出かけた仔犬が、誰もそいつだって気付かないくらい汚れちまう絵本、あったよな」
「ああ、自分でブラシ持ってきて、洗ってもらうんだっけ……」
喋りながら、足の爪先からゆっくりと熱いシャワーを掛け、とろとろと泡を落としていく。流れる湯に促されるみたいに、ピーターが目を閉じる。ふーっと長い長い溜息。
「どうした?」
「僕も、……君にも分かられなくなっちゃうかも。今度こそ、」
そしたらどうしよう、とシャワーの隙間から、ぽつりとそんな声がした。どうやら、珍しくお疲れらしい。今からブラシどっかに準備しとくか、と茶化すと、「どうせすぐダメにしちゃうし」と本格的に拗ねた言葉が返ってくる。
「なんだなんだ、闇堕ちフラグか?」
「かもね」
「この俺が、アンタがちょっと変わったくらいで、分かんなくなると思う?」
「見た目だけじゃないかも」
「アンタがどっかの川に落ちて、そのまま海まで流れてアメリカマナティになって、海の底でキャベツ食ってても絶対分かる」
「………なにそれ」
マナティってキャベツ食べるのかな、とズレたツッコミを入れるピーターの鼻の頭についた泡を掬う。コイツはいつも、俺ちゃんのファン魂を舐めすぎだ。
「何度でも、好きなだけ落っこちたらいいさ。ちゃんと気付くし、アンタを洗うのも嫌いじゃない。デッキブラシ持って深海まで素潜りしてやるよ」
「好きで落ちてるわけじゃないってば……」
まあでも、君が洗ってくれるならいいか。そう呟くピーターのほんのり赤い頬に、誘われるようにキスをする。インクと泡の味がちょっとした。
「髪も流すぜ」
「うん」
灰色の泡が全部無くなれば、今日のところはいつも通りの、可愛いピーターだ。まあ、まだちょっとあちこち汚れてるし、髪もなんかのっぺりしてるけど。多分マナティにしたら清潔な方。
「よし、終わり」
「まだ全部落ちてないよ?」
「これ以上は、今すぐは無理だろ。お湯ためて、しばらくそこでふやけとけよ。落ちやすくなるから」
イイコにしてな、と身体を離す。あんまりダラダラここにいると、俺ちゃんの下心のテンションがそろそろやべえ。そそくさと去ろうとする俺の腕を、ピーターが掴んだ。
「ウェイド」
「あ?」
「ごほうび」
ちゅ、と頬に濡れた感触。まるで機嫌の良い動物が鼻面を押し付けてくるみたいに、柔らかくスタンプされる唇。ふわっと香ってくるシャンプーと肌の匂い。
「………俺の下心への挑戦か?」
「何言ってるの。家臣を褒めるのは王様の役目だろ」
「王様ごっこ、まだ続いてたのかよ」
「……あ、ごめん」
「へ?」
レアな接触に驚いている俺に、ピーターは壁の鏡を指さした。
「うお、何これ!」
「あはっ、君も汚れちゃったね」
鏡の中の俺は、頬に黒インクのキスマークをべったり付けていた。ピーターの口に残っていたインクが移ったらしい。
「……どうする?一緒にふやけていく?」
ピーターの瞳がいたずらに揺れる。どうやら、よほど本日の丸洗いがお気に召したらしい──いいのかよ。このタイミングでのお誘いは、完全に下剋上へのフラグだぞ。王国が崩壊しちゃうぞ。
「……風呂場で暴れちゃダメだって言ったろ」
明日の掃除、手伝ってあげてもいいよ。寛大にもそう宣下した王様の上に、俺は服のままダイブした。