戯れで構いません「来なさい」
出された手を取ることに少し戸惑った。けれども、これも一つの練習になればよいと思い、自分よりも身長が幾分か低い男の手を取った。
今日は初めての出勤日だ。ドッドッと早鐘を打つ心臓が痛いくらいで、背中には冷や汗が絶えず流れているような気さえした。ちらりと横を見ると、晴明は涼し気な顔で運転をしている。時折煙草にのばす手が相変わらず白かった。本来であれば出勤日はまだまだ先だったのだが、人だけでも紹介しておこうと言われ、車に乗せられた。でもこれは晴明が言い出したことではないと、なんとなく道満にも察せられていた。この男は、自分の扱いにことさら神経を使っているから。極力触れず、でも会話は丁寧。そんな男が、昨日の夜に
「病院行きますか」
「え、な、なんと」
「おまえの職場。私の職場でもありますけど、事務の資格取れそうなんですよね?」
「このままいけば、そうですが…」
「では予習がてらに」
とトントン拍子に決まってしまった。大方、出勤時に言われたのだろう。なんとなくそんな気がする。
晴明は職場の話を基本しない。患者の話はもちろんだが同僚のことすらも。話はしないが、道満の話をしきりに聞きたがる。日々に代わり映えなどあまりないのに。
「着きましたよ」
「は、はい」
心臓が緊張で潰されそうだった。吐きそうなくらいで助手席から動くことも叶わない。はやく、はやくしなくては…
「道満」
「せ、晴明殿。すこし、お待ちを…すこし、少し…」
「大丈夫とは気軽に言っていい言葉ではないと思う。だから私は信じてほしいとしか言えない。私を信じてほしい。ベータの香水もかけた。私以外のアルファはこの病院には居ない。もし、何かあれば私がどうにかするよ」
いつも、いつもこの男は欲しい言葉を言ってくれる。あの時みたいに。
『信じて』
その言葉と一緒に差し出された晴明の手を掴む。そのまま引っ張られ、立ち上がった駐車場の空気は少し湿り気を帯びた暑さが充満していた。