【イルアズ】喧嘩するほど……「入間様、それは何枚目ですか?」
突如後から掛けられた声に、入間はぴゃっ、と飛び上がった。
お菓子警察の取り締まりから逃れるべく、校舎と校舎の隙間に隠れていたというのに、優秀な捜査官は抜け目がない。恐る恐る振り返ると、にっこりと微笑んでいるアリスと目が合った。
「あ、あはは…………ろ、六枚目?」
「充分ですね」
没収です、とアリスの手が素早く動いて、入間の手からクッキーの詰まったパッケージを取り上げる。
六枚と言っても、一枚一枚はそれほど大きくないので、まだ全然食べた気がしない。これくらい食べたところで、昼食が食べられなくなるなんてことないのに、と、入間のお腹の虫がしくしくと泣き出す。
「あとちょっと! あとちょっとだけー!」
入間はアリスの手からクッキーの袋を取り戻そうと手を伸ばす。しかし、ただでさえ上背のあるアリスが、そのすらりと長い腕を高く掲げてしまえば、その先の手の中にあるクッキーの袋に入間の手が届くことは絶対にないのだった。
「お昼ご飯は! ちゃんと! 食べるからっ! お腹空いちゃって! お願い!」
入間はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、アリスが高々と掲げているクッキーへと手を伸ばす。
しかし、普段は入間に忠実なはずのアリスは、お菓子警察をするときだけは絶対に融通が利かない。
「残りは昼食の後になさってください」
「……アズくんの意地悪ぅ……」
ぴしゃりと言い放つアリスの声に、入間は思わずうぐぐ、と歯を食いしばるようにしながら呻いた。すると、アリスの形の良い眉が、片方だけついと持ち上がる。
「……仕方がありませんね」
やれやれ、とでも言いたげな様子でそう呟くと、アリスは手にしたお菓子の袋から、クッキーを一枚つまみ上げた。入間の顔がぱっと期待に染まる。
アリスの指に摘ままれたクッキーが、すっと入間の顔の前に降りてくる。入間はキラキラとした眼差しでそれを見上げ、あーん、と大きく口を開けた。
良い香りのするそれが口元にやってきたので、ぱくり、とそれに食い付こうとしたその瞬間。
ひょいっ、とクッキーは入間の目の前から逃げていき、次の瞬間には、それはアリスの口の中に半分ほどが消えていた。
入間の顔が一瞬、「無」になる。全ての感情が抜け落ちたような虚無を湛え、呆然とアリスの口に咥えられているクッキーを見上げる。
「意地悪、とはこのような仕打ちのことを言うのです。入間様の健康を思ってのおやつの管理は、意地悪とは言いません」
アリスはつんとした表情で、残りのクッキーも口に運ぶ。
不意に、戸惑いと落胆と悲哀と驚きと怒りとが全て同時に沸き起こって、入間の腹の奥底で、得体の知れない衝動が暴れ出す。何かに突き動かされるように、身体が動いた。
一歩を踏み込み、アリスとの距離を縮める。腕が伸びて、アリスの制服のぴしっと整った襟を乱暴に掴む。ぐいと引くと、アリスの戸惑ったような顔が急に近付いてくる。その口に咥えられたクッキーごと。
――僕の、クッキー!
入間の頭の中には、それしかなかった。
それしかなかったから、その行為が、どういう結末を招くのかなんて、これっぽっちも考えていなかった。
ただ、食料を取り戻そうという生存本能に突き動かされるまま、クッキーに齧りつく。
それを咥えていた、アリスの唇ごと。
「――ッ?!」
アリスが戸惑う気配があって、クッキーを支えていた唇が緩む。今だ、とばかりに入間は舌を伸ばして、アリスの唇をこじ開けた。ひゃ、と甘い声と共に、クッキーの欠片は入間の口の中に落ちてくる。
クッキーを取り戻せたので、入間は素早く伸ばしていた舌を引っ込め、二度とクッキーを口の中から連れて行かれないように唇を固く結び、そして、アリスの制服を掴んでいた手を離す。
「……もうっ、アズくんがそんな意地悪するなんて思わなかった!」
素早くクッキーを咀嚼して嚥下して、それから、収まりきらない怒りを滲ませながら、入間は腰に手を当てて仁王立ちの姿勢になった。
さてアリスはどう言い返してくるか、と、臨戦態勢でアリスの出方を窺う。
が、しかし、アリスは余程怒っているのか、わなわなと顔を真っ赤にして俯き震えたまま、ただの一言も喋ろうとしない。
「アズくんが意地悪するのが悪いんだからね!」
アリスが言い返して来ないでは、振り上げた拳の下ろしどころに困ってしまう。入間はアリスを焚きつけるように言葉を続けた。しかし、アリスは顔を上げようともしない。
「ねえ、なんとか言ってよ、アズくん」
アリスの態度に一層苛立ちを募らせた入間は、身長差を利用して、俯いたアリスの視線の先に自分の顔をねじ込む。すると、アリスはぱっと顔を上げて、飛び退いた。
やっと見えたその表情は、怒っている、と言うよりは、ただただ戸惑って、慌てふためいているという様子で、入間は毒気を抜かれてしまう。
「……アズくん?」
視線を合わせてから首を傾げて見せると、アリスはひゃい、と変な声で答えた。
「……どうかした?」
「いっ…………いえっ……あの、その……入間様……ッ」
顔中、どころか、耳の先から首筋まで真っ赤に茹で上げ、ばたばたと落ち着き無く、クッキーを持っていない方の手で自分の身体のあちこちに触れてから、最後に唇にそっと指先を遣ったところで少し落ち着いたらしい。
「……い……」
「……い?」
アリスの唇の隙間から漏れてきた音はしかしそれひとつきりで、入間は思わず復唱して首を先程とは反対側に傾ける。
長いような短いような沈黙があって――
「……入間様の……入間様の……いじわる……っ!」
アリスは突然そう言うと、踵を返して走り去ってしまった。
「えっ……ねえ、何が?! 何が意地悪? 僕、意地悪してないよ?!」
あまりにも突然放り出されてしまった入間は、走り去るアリスの背中に向かって叫ぶ。
けれど、アリスの背中はどんどん小さくなって、人混みに紛れてしまった。
「いやぁ、だって、いきなりキスはさあ、いくらなんでも拙いって、イル坊」
一人残された入間の前に、悪食の指輪の精が姿を現して、そう教えてくれるまで、入間はさっぱりアリスの言葉の意味を理解できずに居たのだった。
「……キス?」
「したじゃん」
アリさんの言葉に、入間は自分の行動を改めて振り返ってみる。
――血の気が引いた。
「………………した、かも、しれない」
「かもしれない、じゃないでしょー、舌まで入れちゃって」
「…………」
これは、相当拙いことをしでかしたのかもしれない、と震え出す入間に、アリさんは「流石に謝った方が良いと思うぜぇ」と言い残して消えた。
言われるまでもなくその通りである、とすっかり悄気た入間は、とぼとぼとした足取りで教室へと向かう。アリスのことだ、授業をサボることはないだろうから、どこに居たとしても授業の前には教室には戻ってくるだろう、と。
果たしてその読みは中り、王の教室の入り口で、やはりしょぼしょぼとした足取りで歩いているアリスと行き合った。
お互い、お互いの姿に気付いて足を止める。
「あ、あのっ」
「あ、アズくんっ」
二人の声が重なる。しばらく、どちらから話し出すか探るような沈黙があった。
「ご、ごめんっ!」
「申し訳ございません!」
沈黙を破るように先に謝ろうとしたら、アリスもまた同じタイミングで口を開いたものだから、またしても二人の声が重なる。
それがなんだか少し愉快で、僅かに気が緩んだ。
「……ごめん、アズくん」
気が緩んでしまえば、素直に謝れるような気がしてきて、頭を下げる。
「い、入間様、謝らねばならないのは私の方で……!」
「ううん……僕、クッキーのことしか見えて無くて……その……き、キス、したみたいになっちゃって、ごめん、あの、ダメだったよね、あんな風に触れたら」
「い、いえっ、そのっ……わ、私の方こそ、訳が分からなくなってしまい、入間様を一方的に責め立て、逃げ出してしまい……」
「だって、し、仕方ないよ、あんなことしちゃったんだから……嫌だったよね、ごめん……食べ物が絡むと、どうも頭に血が上っちゃって……」
しょぼくれた表情で頭を下げると、アリスの慌てたような「どうかお顔を上げて下さい」という声がする。
「違うのです……嫌ではなくて……ですからその……う、嬉しくて――」
アリスは再び目元を紅潮させて呟く。その言葉に、え、と、入間の目が驚きに見開かれる。
「嬉しかった……のです。唇で――舌までもで触れて頂いて……一瞬で、崩れ落ちるかと思うほどの衝撃でした。ですから、つい、浅ましくも、もっと、と、期待してしまったのです。しかし、入間様が、私からクッキーを取り戻そうとしていただけだと――つまり、もう口付けは下さらないのだと分かり……しかし、もっとして下さい、などと浅ましいことはとても口に出せず……それで思わず、咄嗟に……意地悪、と……申し訳、ございません……」
話しているうちに居たたまれなくなったのか、いつの間にかアリスは両手でしっかりと顔を覆っていた。入間は、今にも泣き出しそうになっているアリスの、顔を覆う手にそっと手を添えて、ゆっくりと下ろさせた。それから、うるうると水気を湛えた瞳を見上げて笑う。
「よかった、怒ってたんじゃなくて。……教えてくれて、ありがとう」
「……申し訳、ございませんでした……」
「ううん、僕の方こそ、ごめんね。まさかアズくんがあんなイタズラするなんて思ってなくて、カッとなっちゃって」
「いえ! 私の方こそ、入間様にご不快な思いをさせると分かっていながら、つい、苛立ち任せにあのような失礼な真似を……」
「……さっきはね、びっくりし過ぎて怒っちゃったけど……でも、アズくんの新しい一面が見れたのは、ちょっと、嬉しいかも」
ふふ、と入間が笑うと、アリスはその寛大さに打ち震え、再三頭を下げた。
「……だから……仲直り、しよ?」
「勿論です」
アリスは胸元に手を添えて晴れやかに微笑む。丁度始業のチャイムも鳴き始めた。二人は並んで、教室内へと急いで足を向ける。
その道すがら。
「……ねえ、アズくん」
「何でしょうか」
「……また、キス、していい?」
どさくさ紛れに入間が呟いたものだから、アリスがその場に崩れ落ちて気を失い、二人揃って授業には遅刻、担任にこってり絞られたのは、また別の話――