俺の誠意とお煎餅傑と喧嘩した。
きっかけは確か、俺が窓のババアにきちんと挨拶をしなかったからとか、そんな些細なこと。
「挨拶くらい幼稚園児でもできるよ」って呆れたみたいに言われて、頭にきて「庶民」とか「ブス」とか「変な前髪」とか色々言い返した。
気付いたら傑は目の前からいなくなっていて、取り残された俺は夜蛾センからゲンコツを食らったのだった。
「くっそ……。」
一晩経ってもイライラが消えてなくなることはなく、俺は八つ当たりみたいに教室の扉を乱暴に開けた。
三つ並んだ席のその真ん中で、傑は涼しい顔をして携帯をいじっていた。中学時代の知り合いとでもメールをしているのだろうか。そう思ったら、胸がモヤモヤムカムカした。
俺はわざと音を立てて、自分の席にドカッと座る。いつもだったら俺に気付けば「おはよう」と言ってくれるのに、傑はこちらを向くこともなかった。挨拶をきちんとしろって昨日言ったのお前だろ、と思ったが、こちらから話しかけるのは負けた気がして俺も黙ったままだった。
残る一人の同級生の方をちらりと見れば、俺達の様子を気にすることはなく静かに机の中から教科書を出していた。
その日一日、結局傑とは一度も口を利かなかった。そればかりか目も合わず、あいつは俺をまるでいないもののように扱っていた。俺は傑の前では透明人間になっていたらしい。
最初はただ腹が立っていたが、放課後一人で学生寮に帰る頃には寂しいという気持ちが勝った。こういうときに限って任務もなく、気を紛らわせることもできない。
「は〜ぁ……。」
俺は深い溜め息を吐き、着替えるのも億劫で制服のままベッドに倒れ込んだ。
目を閉じて昨日のことを思い出してみると、認めたくはないが段々俺が悪かったような気がしてきた。
けれど。
「誰かに謝るときって、どーすりゃいーんだよ……。」
実家にいたときのことを考える。
家にいた連中に謝ったことなどないがその逆ならばしょっちゅうあった。大の大人が、俺に向かって床に額をこすりつけていた。
その滑稽さを思い返しながら、この謝罪のしかたはふさわしくないなと思った。少なくとも、今回傑に対しては。
ふと、俺がもっと子どもだった頃を思い出す。泣き喚く俺に、使用人達はどんどん甘味を持ってきていた。柔らかな餅に包まれた豆大福に、つやつやのみたらし団子、香ばしいきな粉のかかったぷるぷるのわらび餅。蒸したばかりの黒糖饅頭は、素朴な味わいでおいしかった。真冬には温かいお汁粉、夏場は見た目にも涼しいかき氷やあんみつなども膳の上に並んだ。
それは分かりやすいご機嫌取りであったが、ガキの俺には有効な手段だった。
「そうだ、傑の好きなもん…!」
俺はガバッと起き上がると、居ても立っても居られずに部屋から飛び出した。
目指すは最寄りのスーパーだ。
休み時間に、傑がスクールバッグからおもむろにお菓子の袋を取り出した。やや渋いデザインのそれは煎餅のパックのように見えたが、通学用の鞄からでかいファミリーパックが出てくるとは思わなかったので俺は二度見をしてしまう。
「何それ、せんべ?」
俺がそう尋ねると、傑は「そうだよ」と頷いた。
「悟も食べる?」
そう言って差し出された煎餅を、俺は迷うことなく受け取った。個包装されたそれを、傑は目の前で開封して豪快にかぶりつく。バリッといい音がした。
その様子に倣い、俺も初めて見た米菓をかじった。それは甘辛い醤油味をしていて、軽い食感と飾らないシンプルな味が幅広い年代に好まれそうな揚げ煎餅だった。
「…うまい。」
「そうだろ?」
俺の感想を聞いて白い歯を見せた傑は、「このお煎餅、子どもの頃から好きなんだ」と教えてくれた。
香ばしさと絶妙な甘辛さがクセになり、もう一つ欲しいとねだると「自分で買いな」とにべもなく断られた。ケチだ。そんなにいっぱいあるのに。
俺は灰原のチャリを無断で借り、その煎餅を買うために夢中でペダルを漕いだ。
好物でご機嫌取りなんてガキくさいって分かってる。でも、今の俺にできることは傑が好きなお菓子を持って謝りに行くことぐらいだった。
明日も透明人間になるのは、真っ平ごめんだ。
仕事帰りのサラリーマン達を尻目に、俺はスーパーのお菓子売り場へと一直線に向かう。
萌葱、柿、黒の、定式幕の色。その引き幕の実物を見たことはなくとも、日本人ならば一度は目にしたことがあるカラーリングが目印のパッケージ。
数多く並ぶ米菓の中からすぐに見付かったそれを、俺は次々にプラスチック製のカゴへと放り込んだ。会計のときにレジ係のおばちゃんに「随分たくさん買うのねぇ」と驚かれた。まぁ、ありったけを買ったから仕方がない。
「これからパーティーするんで。」
おばちゃんに適当なウソを吐いた後、両手で持ち切れないほどの煎餅を自転車の前カゴに強引に積み、元来た道を急ぐ。
タイヤから火ィ吹いたらごめんな灰原!
無事に発火などさせずに寮へと戻って来た俺は、二つのでっかいレジ袋をガサガサ言わせながら女子寮にある傑の部屋に走った。
「傑〜!!」
俺が迷惑を顧みずに大声で呼ぶと、三十秒あまり後にドアが開いた。ゆっくりと、不本意であると言わんばかりに。
「何。」
未だ制服姿の俺とは違い、傑は楽な部屋着に着替えていた。俺ではなく俺の背後を見ているような傑を見下ろすと、襟ぐりの大きく開いたTシャツから少しだけ胸の谷間が見えた。俺はそれから目を逸らし、意を決して言う。
「…昨日は、その……悪かった…。」
俺の謝罪に怪訝な顔をし「は?」と返した傑に、購入したばかりの山のような煎餅を押し付ける。
「やる!」
「…えっ、わ、歌舞伎揚?」
「これが好きだって前に言ってただろ。だから、やる!」
少しの間の後に俺の手からレジ袋を受け取った傑は、くすくすと笑い出した。
「なるほど。これがお詫びの印ってことなら、受け取ってあげるよ。」
バッと顔を上げると、細められた琥珀色の、猫のような瞳と目が合う。
「それにしても、多過ぎじゃない?明日はみんなで歌舞伎揚パーティーだね。」
楽しそうに笑っている傑に釣られて、俺も笑顔になる。レジのおばちゃんに言ったことが本当になりそうだった。
「傑、昨日はキャンセルになっちゃってごめんね。急におじいちゃん達に呼び出されちゃってさ。」
僕はこちらに背を向けている恋人にそう言う。
昨夜、僕達は神田でおいしいお蕎麦を食べる予定だった。けれども、緊急の呼び出しがかかり行けなくなってしまったのだった。
「ねぇ、傑。ねぇってば。」
何度呼びかけても彼女は返事をしてくれない。無言が寂しくて、そのまま後ろから抱き締めた。黒いつやつやの髪からはいい香りがした。
「……歌舞伎揚、買ってきてくれたなら許してあげる。」
ぼそっとそう言った傑に、僕は大きく頷いた。
「たっくさん、買ってきたよ。」
仲直りのキスは、いつだって揚げ煎餅の味がした。