猫の嫁入り アジサイの花房を、剪定鋏でぱちりと切り取る。
花弁が傷つかないように丁寧に背負い籠に収めて、ふうと一息ついた。
「暁人ぉ、そっちどうだ」
「結構集まったかも」
少し先で、ひょいとKKが顔を覗かせる。籠を背負った状態で、ずっと腰を屈めて作業をしているので、いててとつらそうに肩や腰を摩っている。
「はぁー、この歳になって中腰の作業は疲れるぜ」
「確かに、しんどいね、これ」
ぐっと体を伸ばして筋肉をほぐす。収穫作業など、小学生の頃に農業体験に参加して以来、ほとんどしたことがない。いくら若くて体力のある暁人といえど、籠をいっぱいにするのはなかなか大変だった。
KKと合流して、籠を下ろす。二人分の籠には、鮮やかなアジサイの花房がいっぱいに収穫されている。
「これだけありゃ充分だろ。ったく、いいようにこき使いやがって」
「まあまあ。準備でみんな大忙しみたいだし、これくらいなら手伝ってあげようよ。ちゃんとお金もくれるしね」
「ちょっとは断ることを覚えろ」
ちょとちょろと側を流れる小川から、冷やしていた冥緑茶を二本拾い上げる。片方をKKに渡し、一気にお茶を呷ると、作業で火照り渇いた体になんとも心地良い。
「それじゃ、とっとと帰るぞ。こんなところに長居したら、そのうちあの世の仲間入りだ」
「えっ、マジで?」
「案内人がいなけりゃ神隠しみたいなもんだぞ」
KKが視線をやると、すぐ側で待機していた木霊が応えるようにきゃっきゃと跳ねた。
籠を背負い、振り返る。
空恐ろしいほどに静かな、深い森。
夢の中のように霧がかっていて、風はない。太い杉の幹が、粛然として彼方まで林立している様は、どこか古代の神殿の柱を思わせる。はるか頭上の梢は霞んでいてよく見えない。晴れているのか、曇りなのか。
杉林の足元を埋めるように、アジサイの群生がどこまでも続いている。
空気中に満ちた水分をその葉で受けて、花の色は鮮やかだ。優しく薄い水色に始まり、濃さを増して夏空の青へ、徐々に赤みが兆してきて気品のある紫、可憐な桃色へ変わって、最後に紅色。そして合間に清廉な白。
この世のものとは思えない絶景。
しかし人の気配は無く、虫の動く音も、鳥の声もしない。
細い流れの小さな水音だけ。
ここはあの世だ。
「暁人、いくぞ」
KKに返事をして、踵を返す。跳ねる木霊の後に続いて、一際大きい杉のウロに入る。
一瞬だけ視界が暗闇に包まれて、すぐに明るく景色が開ける。
するとそこはもう、閑散とした渋谷の住宅街の街角だった。
○
猫又が祝言を挙げたいのだという。
『報酬は弾むから、頼むよぉ』
人手、いや猫手が足りないのだとにゃんにゃんと懇願される。何しろ花嫁が、とてもこだわりのある猫だそうで。
花嫁衣装は特別な拵えの色打掛で、式は神前式、花嫁行列も盛大にしたい、小道具も装飾も妥協はしたくない、とのこと。
そして何より、式は六月。
「ジューンブライドだから?」
『そうそう。この梅雨の時期にねぇ』
相談してきた猫又は既に準備に追われ、疲労困憊の様子だった。元来気ままな猫にとって、忙しさというものは堪えるらしい。しかし一応の仲間意識はあって、花嫁の希望は叶えてやりたいし、何より花嫁は此度の婚礼のために惜しげもなく大枚をはたいているし。
冥マタタビへの憧れを捨ててまで、素敵な式を挙げたがっているのだ。力になってあげねば、猫又の誇りが廃るというもの。
というわけらしいが、KKは嫌そうだった。
「なんで猫の嫁入りの手伝いをしなきゃならないんだよ」
「でも珍しくない?猫又の結婚式なんてさ」
「確かに見たことも聞いたこともねぇが、興味もねぇ」
「僕は興味あるよ」
「下手なこと言うな、あいつらすぐ調子に乗るぞ」
わざわざ『ゴーストワイヤ―』のアジトを訪ねてきてまで依頼をしてきた猫又は、しょんぼりと耳を寝かせて「お願い」のポーズを崩さない。さすが猫だけあって、おねだりの仕方を心得ている。
心ばかりの手土産、と持ってきた菓子も、既にアジトの女性陣の心を掴んでいる。可憐なアジサイやアサガオの形をした練り切りと、小さな金魚が泳ぐ錦玉羹。ただし、妖怪の土産なだけあって、やはりこの世で作られたものでない。普通の錦玉羹は、餡でできた金魚が本当に寒天の中を泳いだりはしない。
しかしこのアジトには適合者が四人もいる。冥界の食べ物だっておいしく食べられる。それに残る科学者連中も、あの世に関することならば喜んで受け入れる。サンプルとして、だあ。
「報酬は弾むって言うけど、いくら?」
凛子が単刀直入に尋ねる。猫又はふよふよと浮いて、こしょこしょと凛子の耳元で囁く。くすぐったいのかくすくすと笑いながら凛子は耳を傾け、それから頷いた。
「わかった。受けてあげるわ」
「おいおい凛子、勝手に決めるんじゃねぇよ。動くのはオレ達だぜ」
「そう悪い条件じゃない。動いて損は無いわ」
「それを決めるのはオレ達だろ。こそこそガキみたいに隠しやがって。金の額にやましいことでもあんのか?」
「額は申し分ないし、そうだな、ボーナスもつく」
猫又は凛子の言葉に嬉しそうに鳴いて、すりすりと擦り寄って肉球まで差し出す媚の売りよう。なおも噛みつこうとしたKKをどうどうと暁人が宥める。
「でも、さすがに仕事の内容くらいは教えてよ。あまり大変なことだと、僕たちも受けられないからね」
『もちろん、もちろん。ただの手伝いです。難しいことなんか、ありゃしません』
そうして猫又は、手伝ってほしいことリスト、と書かれたメモを見せた。
○
まず一つ目が、あの世に咲くアジサイの採集である。
案内してくれた木霊に別れを告げ、暁人たちが向かったのは河童ヶ池。
『たくさん採ってきてくれたんだねぇ、ありがとう』
アジサイでいっぱいになった籠を受け取ると、依頼主の猫又は満足げに頷き、いそいそと池の中へ運んでいく。
時刻は真夜中だ。公園内に人影は無い。しかし池の中には、あくせくと動き回るいくつもの影があった。婚礼の準備のために集まった猫又たちだ。
「これ、どうするの?」
『見てのお楽しみ』
KKと一緒に岸辺に座って眺めていると、猫又たちは何度も、水面に前脚を入れては上げてを繰り返している。じゃぶじゃぶと何かを水に浸しているらしかった。黒々とした夜の水面に隠れてよくわからないが、どうやら布のようだ。
「打掛か、あれ」
「え?…お嫁さんが着るやつ?」
「みたいだな。こんなところで水通しか?何やってんだかさっぱりだ」
池に浮かべられた灯篭がゆったりと動き、仄かに猫又たちの手元を照らす。水に浸されているのは、確かに真っ白な着物のようだった。しかし色打掛と聞いたのに、まっさらな白地なのは何故だろうか。
すると、アジサイの籠を抱えた猫又がにゃんにゃんと合図をした。水に入った猫又たちがにゃんにゃんと返事をして、てきぱきと役割分担しながら別の作業を始める。
「猫又って水平気なんだね」
「人間がいなくなりゃコンビニ乗っ取る奴らだぜ、なんだって平気だろ」
数匹の猫又がばしゃりばしゃりと水面を跳ね上げて、水飛沫を作り始める。まるで水遊びだ。
別の数匹は、水面に浮かぶ灯篭をえっさえっさと寄せ集め、打掛の側へ持ってくる。そして籠を持った猫又は、ひとつまたひとつとアジサイの花房を水面に浮かべ始めた。
「わぁ…きれいだ」
小さな祭のように、池の片隅が明るく照らされる。降り注ぐ飛沫が、水面に絶えず波紋を作り、同心円から成る複雑な模様が描かれる。そして細波に揺られながら、灯篭の間を泳ぐアジサイ。
『いくよ~~慎重にねぇ』
現場監督らしい猫又が合図をかける。すると打掛を持つ猫又たちがにゃにゃんと応じて、打掛を揺らしながらタイミングを測る。
『今!』
猫又たちが一斉に鳴き、掬い上げるように打掛を水から引き揚げた。
暁人は驚いて声を上げ、KKも目を丸くした。
するすると、水面の模様が打掛に写し取られていく。魔法のようだ。
地の色は夜の水。濃淡で描かれるのは精緻な波紋。灯篭の光によって陰影が生じて、そこにハッとするような鮮やかさで、青から紅色へ移り変わるアジサイが彩りを添えている。
打掛が裾まで岸へ揚げられると、池に浮かんでいたアジサイはいくらか減っていた。
『完成―!』
猫又たちがにゃあにゃあと嬉しそうに歓声を上げる。池に浸かっていた者もぞろぞろと岸に上がってきて、出来上がった打掛の模様を満足気に確かめる。
「…ほお、染めの作業だったのか、これは」
「ええ…⁉どうなってるのかさっぱりだよ…」
確かにこの手で摘み取った、あの世のものとはいえ形ある花が、今は布の模様になっている。一体どういう手法、どういう原理なのか、どれだけこの世界に携わっていても、不思議なことは尽きない。
『ありがとうねぇ、良い色の花を採ってきてくれたから、おかげで綺麗な打掛ができたよ』
「それならよかった…かな?すごく不思議なものが見れたよ」
『あの子も喜ぶよぉ』
あの子とは花嫁のことだろう。二人はまだ面識が無いが、どんな猫又かはある程度教えてもらった。
渋谷で商売をする猫又たちの中には、特定の嗜好を持ち、あの手この手で気に入った品々を集めようとする蒐集家がいる。花嫁たる猫又もそういう気質らしい。
彼女は『色』を好むという。
ここでいう色とは恋愛や肉欲ではない。『色彩』の方だ。とにかく色鮮やかなものが好きで、物の形や用途は問わず、気に入った色や模様の物を片端から集めているらしい。
長く長く生きた猫が、霊力を備えて猫又になると、様々な能力が拡張される。その最たる例は人語を解することだが、色彩感覚もまたそのひとつだという。猫だった時には識別できなかった色がわかる。世界がいっそう鮮やかになった。彼女はそれが嬉しかったらしい。
『あの子はどんな色も好きだけど、この季節はやっぱりアジサイ!って言ってたからねぇ』
「猫のくせに、風流が好きとはな」
『風流は人間だけのものじゃないさ』
さらさらと雨が降ってきた。深い紫の番傘を差して、猫又は目を細める。
他の猫又たちはえっさほいさとできたばかりの打掛を運び、やがてどこかへ消えていった。
二つ目の頼み事は、嫁入り道具の浄化だった。
「うわ、すごい数だね」
「よほど拘りがあるんだな」
夜陰に紛れ、アジトのあるマンションの屋上へ運び込まれた道具の数々。ぎゃあぎゃあと運搬役をしてくれた烏天狗たちが鳴いて、また夜空へ飛び去っていく。依頼主の猫又はその後ろ姿にひらひらと手を振った。
アジサイの在処へ道案内をしてくれた木霊といい、今回の婚礼は妖怪たちが総出で行うかなり大掛かりなものらしい。こうなってくるとKKも興味をそそられたようだった。
「桐箪笥は定番だな。鏡台に、これは…化粧道具か?あいつら化粧すんのか?」
「してもおかしくはないんじゃない?けどほら、見てよこれ、猫ちぐらだよ。クッションもたくさん」
「猫は猫か…」
古式ゆかしい道具類に加えて、猫らしい品々も並んでいる。どういった経緯を経て揃えられた品々なのかは不明だが、どれも古いなりにきちんと手入れがされている。
しかし依頼主の猫又曰く、『ちょっかいを出された』のだという。
『ちゃんときれいにして保管してたんだけどねぇ、置いてた蔵が襲われたんだよ』
「襲われた?誰に?」
『真っ白くて大きな女』
ああ、とKKと目を合わせて頷く。妖怪を襲うような存在は限られている。
十中八九、マレビト〈白無垢〉だろう。
「楽しそうに婚礼の準備してんのが鼻持ちならなかったのかねぇ」
「どうだろうね。それで、白無垢は?」
『どこかに行っちゃった。また来るかも』
「おいコラ、オレたちに預けてから言うんじゃねぇよ」
猫又たちは道具を持って死に物狂いで逃げ隠れし、どうにか白無垢から守り抜いたとのことだった。だが白無垢は強い呪いの力を持つマレビトだ。その周囲に溢れる瘴気までは防げなかったらしい。
『触ってみて』
言われたとおり、桐箪笥に触れてみる。その瞬間に、指先に痺れるような痛みが走った。
「うわ冷たっ‼」
「おいおい!」
まるで氷の塊だ。まるで今もなお氷点下の寒空に曝されているかのような、刺々しい冷たさ。
暁人が驚いて指を離すと、KKがすぐにその手を取った。ぎゅっと指先を握り込まれて、じんわり痺れが引いていく。たった一瞬触れただけなのに、凍てつくような穢れが移ってしまったらしい。
「言われたからってほいほい触るなよ、こっちがヒヤッとしたぜ」
「ごめん…」
KKの手は熱いくらいだった。冷えた指先にKKの体温が滲み込み、やがて冷たさなどすっかり解けてしまう。最後にKKがふっと息を吹きかけると、「冷」「凍」「氷」といった白い穢れが指から落ちて、氷片のように消えた。
『見せつけてくれるねぇ』
「抜かせ畜生が、先に言えって言っただろ!」
『触ってみるのが一番わかりやすいでしょ』
白無垢に追い回された猫又たちは、今も穢れが抜け切らず、この初夏の季節に寒さに震えているのだという。
『全部がそんな状態だから、頼むよ』
「くそっ、これで生半可な報酬だったら承知しねぇぞ」
「そうだね…」
霊視してみると、瞬く間に全ての道具に白い霜が浮き上がり、嫌な冷気を放ち始めた。
冷蔵箱のようになった桐箪笥。鏡面から真っ白い霧を吐き出す鏡台。かちこちに凍った布団。一塊の流氷のような行李。霜に覆われて最早判別できない日用品や食器、そして酒樽や扇子といった結納品。
箪笥や行李の中に詰められた着物なども含め、その数およそ五十点。
「これひとつひとつ浄化するのかぁ…」
「しゃらくせぇ、神酒か塩でもぶっかけたら祓えねぇか」
『傷むからやめておくれよ、ほんとに』
三つ目。これは二つ目からだいぶ時間を空け、いよいよ婚礼当日の仕事である。
「護衛ね。わかりやすくて助かるな」
「本領発揮だね」
式が行われるのは広川神社だ。
よくも妖怪の婚儀を受け入れたものだと驚いたが、下見で訪れた際、神主は無いことではないと鷹揚に笑っていた。ごく稀に、人ではないものが祈祷や祝言を頼みにくる。去ってからあれは人ではなかったなと悟る。そういうこともあるのだという。
広川神社には、暁人とKKの二人にとっても特に思い入れがある。やる気もひとしおだ。
しとしとと雨が降っている。梅雨真っ只中だ。
噎せ返るような暑さは仕事をしている身としては辟易するが、当の花嫁は晴れなら良し、雨もまた梅雨らしくて良しと潔い姿勢らしかった。ジューンブライドにこだわり、細部にこだわり、風情にこだわる猫らしい。
神社に隣接するビルの屋上で待機していると、やがてシャン、と鈴の音が鳴った。表の道路から、にわかに人々のざわめきが聞こえてくる。
「お、来たな」
神社前の歩道に、全く唐突に、畏まった花嫁行列が現れた。
神職に先導され、花嫁と花婿が寄り添い合うように静々と歩いてくる。黒地に波紋、アジサイの柄の打掛を纏った花嫁は、一見すると人間の女性だったが、裾から二又の尻尾の先が覗いていた。
「黒猫か」
「黒の猫又だね」
対する花婿は、と視線を転じて、二人はん?と目を眇めた。
こちらも人間の男性に化けてはいるが、間違いなく妖怪だろう。しかしどうにも、猫とは思えない。尻尾も見えない。では何に見えるかと言えば。
「………もしかしてあれ、烏天狗?」
「…オレもそう思う」
行列はゆっくりと進み、神社の鳥居をくぐる。するとにわかに雨脚が強まった。まるで森の中のように水の粒子で辺りが煙り、人々の目から神社を隠す。
「猫又…いや、烏天狗の方か?神社ごと化かしてるのか。大掛かりだな」
「貸し切りってことだね」
雨に包まれた境内に入ると、もう化ける必要も無いからか、行列と参列客たちの姿が露わになる。花嫁の側には、紋付袴や着物を着た猫又たちが。花婿の側には、袴やいつもの山伏姿の烏天狗たちが。にゃあにゃあぎゃあぎゃあと歓声を挙げて、夫婦を祝福している。
「…猫と烏ってのは仲が悪いもんじゃねぇのか」
「まぁ妖怪だから…?」
てっきり、猫又同士の結婚だと思い込んでいた。異なる種族同士の結婚だから、準備にもあれだけ気合が入っていたのだろう。猫又と烏天狗が仲良くしている場面など見たことがないが、遠目に見ても、花嫁と花婿は仲睦まじい様子だった。
喝采を浴びながら枝垂れ柳の下を抜け、アジサイがあしらわれた石灯籠の間を通り、随神門に続く石段に差し掛かる。
「暁人」
KKが低く合図した。その瞬間に緊張が張り詰める。
「やっぱり来た」
「予想通りだな」
門の先の境内に、不意に白いつむじ風が巻き起こる。ぱきぱきと地面に氷が張り、一帯に恐ろしいような冷気が立ち込めた。行列の到着を待っていた妖怪たちが悲鳴を上げて散り散りに逃げ出す。
――アァ…アアァァァ……
黒髪を振り乱し、風の中から現れたのは白無垢を着た巨大な女。
マレビト〈白無垢〉だ。
「ったく、他人の幸せくらい素直に祝えねぇのかよ!」
「同感だね」
白無垢は物憂げに俯きながら、隋神門を、そしてその先の花嫁行列を捉える。
死人じみた青白い手を伸べ、行列へ襲いかかろうとした白無垢の横っ面へ、燃え盛る火の球をお見舞いする。
「涼しいのは助かるんだけど、この冷たさはなんだか嫌だな」
屋上から境内へ飛び降りて、暁人は火のエーテルを構える。よろめいた白無垢が暁人を振り返り、憎々しげに醜い唇を歪めた。
――アァ…!
振りかぶられた腕を避け、地面を覆う氷に足を取られないよう気を付けながら、白無垢の注意を引く。
白無垢の装いは紛れも無く花嫁のそれなのに、裾は汚れ、長々と垂らした髪に生気は無く、胸元に差された彼岸花ばかりが鮮やかだ。連れ添うひともおらず、虚ろに彷徨う姿は憐憫を誘うが、呪いを振り撒く化け物には違いない。
暁人へ掴みかかろうとした白無垢の後頭部に、今度は別の方向から火球が炸裂する。
「相手がいねぇからって、人の男に手ぇ出すなよ」
本殿の屋根の上に陣取ったKKが啖呵を切る。
熱に悶えながら白無垢は鋭い氷片を飛ばすが、KKはひょいひょいと避けてみせる。攻撃の合間を見計らい、今度は白無垢の顔面に、凝縮した火のエーテルを撃ち込んだ。
―――ウウゥ…アァ…
のけぞった白無垢の体が砕け、コアが露出する。
「暁人!」
「OK!」
その背後から貫くように、暁人がしっかりとコアを鷲掴みにする。抵抗の間も与えず、そのまま思い切り握り砕いた。
―――ァ……
白く巨大な影が崩れ落ち、光の粒子となって消える。それと同時に、境内に渦巻いていた冷気もふっと解け、掻き消えた。
「やれやれ。狭いとこでは戦いたくないやつだな」
「囮役、頑張っただろ?」
「ああ、よくやったな」
屋根から下りてきたKKにわしゃわしゃと頭を撫でられる。犬のような撫で方に唇を尖らせていると、隠れていた妖怪たちがぴょんぴょんと戻ってきた。
『よかったよかった。ありがとねぇ、助かったよ』
『やれ、また凍傷になるとこだったよ。やっとこの前のが治ったのに』
『さすがの手際じゃないか。頼んでよかったよ』
『飾り付けも無事で良かった』
ひとしきり暁人とKKを囲んでわいわいと騒いでから、隋神門の方へ合図を送る。
猫又たちに袖を引かれ、手水所の側で待っていると、やがて花嫁行列が本殿まで進んできた。
黒猫又はアジサイ柄の打掛を優美に着こなし、微笑んでいる。暁人たちの前を通りすがる時、彼女はふと顎を上げ、真っ黄色の目を細めて会釈をした。礼のつもりだろう。傍らの烏天狗は少し緊張気味の様子で、肩に力を入れながら、嘴をつんと上げていた。
『きれいだねぇ。そう思わないかい、ご両人』
「うん、きれいだよ」
「ま、なかなか趣味は悪くないな」
目を潤ませているのは依頼主の猫又だ。どうも、花嫁の兄のような立場の猫らしい。
妖怪である猫又に血縁関係や、それに近しい紐帯があるとは思えないが、やはり絆はどこにも生まれるということだろう。今回の依頼には、花嫁本人の拘りと同じくらいに、妹分の門出を祝ってやりたい兄貴分の矜持が込められていた。
広川神社の神主が新郎新婦を出迎え、行列が本殿へ入場する。これから、修祓を始めとして、三献の儀などの婚礼の式が行われる。
『おかげで良い式だよ。本当にありがとうねぇ』
「その分、きっちりお代はもらうぜ」
「KK…」
『もちろん、もちろん』
奮発するよと猫又は笑った。
○
「それで、内訳は?」
「冥貨が二百萬縁。各種御札の四枚セットが二ダース…」
「露核札も?」
「あるわ。…それと、矢が六本十組。戦うための物資はかなり助かるわね」
「当分、あいつらの世話にならずに済むな」
「形代も補充できそう。それにほら、これとかあなた向けじゃない」
「お酒だ!」
後日、アジトに猫又の一群が現れ、えっさほいさと『報酬』を運び込んできた。
そしてただでさえ手狭な和室を全て埋めてしまうと、『今後ともごひいきに~』と揃ってお辞儀をしてあっという間に去ってしまった。
冥貨が詰められた長持に、大量の物資が添えられた様は、まるで昔話のようだった。
冥貨はあくまであの世のお金なので実生活では使えないが、まあこのアジトはあの世を相手に仕事をしているのだ。どの世界のものであれ、懐が潤うに越したことはない。御札と矢も、お礼の品というにはかなり無骨だが、たくさんあればもちろん助かる。
KKは本格芋焼酎『猫神』の瓶を取り、なかなかに嬉しそうに目を細めた。
「飲み過ぎないでよ」
「わかってるよ。だが見ろよこれ、純米大吟醸だぞ。オマエも飲むだろ?」
「……まぁ、たまには…」
「二人で飲み過ぎないでよ」
他にも『博之』や『虎彦』といった酒を囲んでこそこそと喋る二人に、麻里から呆れ混じりの諫言が飛んだ。
「報酬はこれで全部みたいね。聞いたとおり、猫又にしては太っ腹だわ」
「もっとふんだくってもよかったんじゃねぇか」
「欲張ると痛い目見るぞ。特に妖怪相手だとね」
『妖怪の婚礼なんていう非常に貴重なデータも取れた。僕としては大満足だね』
「オマエはそうだろうな」
やっと面倒な手伝いが終わったと言わんばかりのKKに、暁人は苦笑した。良いお酒をたくさんもらったことだし、麻里の手前すこし気まずくはあるが、さっそく二人で宅飲みでもしよう。
そんなことを考えていると、不意に凛子がチケットを取り出した。
「それと、これはあなた達へのボーナスね」
暁人とKKに差し出された紙片をぽかんと見つめる。これは予想外だ。
「ボーナスですか?…そういえば、言ってましたね」
「何のチケットだ、そりゃ?…ツアー?」
チケットには、緑豊かな神社の写真を背景に、『祖国再発見之旅』の文字。今月から始まった寺社仏閣巡りのツアーだ。それがちょうど二枚。
「少し早い夏休みになるわね」
「旅行?えー、いいなぁ!」
「二人で旅行かぁ。ゆっくりできそうじゃない?」
女性陣が楽しげにはしゃぐ傍らで、暁人とKKはしばらく無言だった。一妖怪が一体どうやってツアーのチケットを入手したのか。後で面倒なことになりはしないか。しかし凛子が渡してくるということは安全なのか。
しばらくいろいろなことを考えた後、暁人が顔を上げると、KKと目が合った。
「……行くか、旅行」
「え、……あ、うん。行きたい」
仕事ではなく、完全にプライベートで、旅行。KKと二人で。
にわかに気恥ずかしくなってきて、俯いてしまった。
そして、渋谷を飛び出して緑豊かな山間の旅館を訪れ、今は夜。
「……………」
「あ~~~………」
熱い温泉に浸かり、うっかりと親父くさい声が出てしまう。隣のKKは、岩にもたれて完全に脱力しきっている。無言だ。
ガイドによる解説付きの寺社巡りは楽しかったし、旬の食材を使った郷土料理もおいしかった。美しく整えられた野山の景色は美しい。街中で降られればうんざりするような雨も、屋根の下で、湯に浸かりながら眺めるのならば風情あるものだ。
「……まぁ、これだけ厚遇してくれるんだったら、たまにはこき使われてやるのも悪くない」
「そうだね…あーあったかい…」
毎日渋谷の街を駆けて飛んでは落下して、蓄積された疲れが、湯に溶けていくようだ。
「…そういや、嫁の方の猫又が天狗に近付いた理由、聞いたか」
「ん?いや、聞いてない」
「黄色い目の黒猫だったろ。色がおんなじだったから、親近感が湧いたんだってよ」
一瞬沈黙して、天狗の姿を思い返してみる。そういえば…肌の色はなんとも言い難いが、羽は黒で、目は黄色だ。しかし天狗は皆そういう体色で、花婿に限った特徴ではないのでは。
「親しくなるきっかけは案外些細なもんだったりするんだよな」
「へぇ…それで仲良くなって、好きになったんだね」
「……結婚、ねぇ」
「……実は気にしてた?」
「いーや、そこまでくさくさしてねぇよ」
猫又と烏天狗、全く異なる種族の妖怪が、結婚までこぎつけたのだ。もちろんこれからどうなるかはわからないが、ここに至るまでに、互いに歩み寄る努力があったのは確かだろう。「………」
KKは、結婚してからその努力をし損なった。
ひっそりと隣の暁人の横顔を見る。安心しきって、リラックスしきったゆるゆるの顔。相棒で弟子で、恋人。
KKは自他共に認める古い人間だ。こういう話題になるとどうしても意識してしまう。
だが暁人は若くて、対して言うなら新しい人間だ。一人で先走って、気負ってしまっては同じ轍を踏むだけだ。
「…なるようになるかぁ…」
「なにが?」
「なんでもねーよ」
ぐったりと湯に沈み、庇越しに空を見上げる。
雨のそぼ降る、六月の夜だった。