無題3 霧の海に、巨大なビルが一棟聳えている。
窓には灯りが点っているが、人の気配はない。命ある人々が住まう現実世界から、適当に切り取られて、そこに漂着したようなうら寂しいオフィスビル。
その周囲に、ゆっくりと浮遊する小さな影が群れを成している。
『あれを始末してもらいたい』
番傘の上で祟り屋が言う。
その隣に浮かんだ番傘の上で、暁人はうんざりして溜息した。
あの霧の夜、今は亡き相棒から借りていた様々な霊能力。あの夜から実に十年が過ぎた今になって、再び能力を獲得した暁人は、やはりと言うべきか除霊やマレビト退治といった活動をするようになった。
決して積極的にではない。そのつもりはない。暁人も今やごくごく普通の会社勤めで、真っ当に生きているつもりなのだ。サラリーマンと霊能力者もどきの二足の草鞋など、たやすく履けるわけがない。
だが正直な現状としては、履きかけている、と言ってもよかった。
会社から帰宅した後、暁人は夜の街を歩いていた。日中に見かけた、彷徨える幽霊たちを探すためだ。暁人は青白い影となってしまった彼らを視認し、声を聞き、行くべき場所へ導くことができる。
その頻度はだんだんと増えて、今では週に三度は夜の街へ出るようになっている。限りなく人に溢れた東京の街で、誰の目にも留まらない不毛な行いだ。幽霊も悪霊もマレビトも、尽きることはないというのに。けれどどうしても放ってはおけないのだと、暁人は既に諦めた。
今夜もそういう夜だった。家に帰れず困り果てていた老婆の霊を送り届け、街角で人々に呪詛を吐く悪霊を祓った。
他に異常も見当たらず、さて帰ろうと踵を返した瞬間に、右手を引かれたのだ。
驚いて見れば、いつの間にか右手に赤い糸が巻き付いていた。途端に苦々しい気持ちになる。一か月ほど前、祟り屋の棒術使いから渡された品である。試しに捨てても翌日には戻ってきて、部屋に放っていても気付けばポケットの中に入っている。なんとも粘着質な糸だ。
糸はしきりに暁人の手を引っ張る。糸の先は地面に垂れて、雑居ビルの間にある細い道へ続いていた。
どうせ切っても切れないし、解こうとしても逆に絡まるのだろう。
暁人は肩を落として、引かれるままに暗い道へと足を踏み入れた。何も見えなくなったあたりで唐突に地面が無くなり、暁人はどことも知れない奈落へと落下し……。
――そうして、この霧の海を見下ろす番傘の上へ落ちてきたのだ。
待ってましたとばかりにスタンバイしていたのは、祟り屋の射手だった。腹が立つ。価値観と生きる世界が違うのは充分にわかっているが、こちらの都合も考えず唐突に呼びつけてくると、さすがにムカつく。
文句たらたらの暁人に構わず、祟り屋が口にした『今回の頼み事』が先の件だ。ブロックしたい、と暁人は半ば現実逃避した。
実際、ここは現実世界ではない。祟り屋の仕事場とも言える『祟り場』だ。
気乗りしないまま、射手が示すビルを観察する。彼らの扱う祟りや怨み、穢れから生まれるこの異空間は、本当に摩訶不思議な景色ばかりだ。物理法則も時空も生死の理も、根本から異なる次元に、現実世界の景色を転写したらこうなるだろうか。暁人が暮らしている街によく似ている一方で、あり得ないものばかりが目に飛び込む。
今まで見てきた中では比較的殺風景な場所だ。果てしなく広がる凪いだ霧、遠景には岩山。そしてぽつねんと聳えるビルと、浮遊する二つの番傘。それだけの空間。
心底早く帰りたい。
『君は弓もよく使っていたのだろう』
「…そうだけど」
かつて使っていた弓はもう手元に無い。かなり特殊な形状の弓であったし、マレビトや悪霊と無縁の生活では必要の無い武器だ。一応は元の所有者…に近いエドに返却し、それ以降は知らない。
武器が無ければ、あんなに遠くの敵はどうにもできない。連れてきたって無駄だぞ、という不服を隠さずにいると、徐に射手が暁人の番傘に移ってきた。
「ちょっと、何だよ」
『これを使うといい』
差し出された物を見て、暁人は思わず息を呑んだ。
かつてKK達のアジトで入手して、共に霧の夜を戦い抜いた、特別製の弓。祟り屋の手にある物は、それととてもよく似ていた。一瞬思い出の品と見紛うほどに。
だがよくよく見れば細部が違う。上下についた三つ巴の意匠は、金ではなく銀。龍を思わせた鱗模様や流線は無く、全体が武骨な鋼色だ。そして、弓の持ち手に結ばれた飾り紐は紫ではなく、濃い赤。
「…KKもそうだったけど、こういうのどこで手に入れるんだ?」
『それは企業秘密だな』
「持ったら呪われたりしないだろうな」
『酷い物言いだ。そんな無粋な事はしない』
全く信用ならない。だが悲しいかな、祟り屋の頼み事を聞いてやるしか今は選択肢が無かった。警戒しつつも弓を受け取る。いつの間にか、足元に矢筒まで用意してあった。
持ち場に戻った射手が大きな和弓を構えた。暁人の弓と比べると随分シンプルだ。
しかし。
射手は矢をつがえ、ぐっと一息に引き絞る。ぎしりと弦が鳴った。黒い装束の下で、腕の筋肉が矢に十全の力を込め、黒い爪の先がぴたりと狙いを定める。
そうして放たれた矢はヒュッっと空気を裂いて、浮遊する敵の一体に命中した。
見事だ。それがまた暁人の気持ちを逆撫でする。
生死の境を行き来する生業をしているのなら、もう少しか細い、幽鬼じみた姿をしていてもいいのではないか。棒術使いといい、妙に体つきがしっかりしているものだから、本当に油断できない。
『あれはどんどん湧いてくる。ずっとここにいたいのであれば、何もせずとも構わないが』
「…冥貨十萬縁」
暁人がぶっきらぼうに言うと、覆面の下で小さく笑った気配がした。
『安いものだ』
正直祟り屋と金銭のやり取りなんてしたくはない。だが一方的に貸してやるばかりなのも良くない。どういう形で返ってくるかわかったものではない。来てしまった時点で暁人は後手に回っている。それならば、貸してやった分は都度清算した方がマシだ。
暁人は弓を構えた。懐かしい感覚だった。
目を眇めて、眼前のビルを、そして射抜くべき敵を見据える。
造礁サンゴに纏わりつく小魚のように、高いビルの周囲を浮遊するマレビト。紙冠をつけたシーツお化けと言うべき姿をした、虚牢だ。マレビトの中では対処しやすい部類だが、群れられると面倒臭いのは暁人も覚えている。
ゆらゆらと掴みどころのない姿をしっかりと捉え、矢を放つ。弧を描いて飛んだ矢は、虚牢の動きを呼んで正確に射抜いた。
『お見事』
隣から賛辞された。返事はしない。
射手の言ったとおり、一体倒してもまた霧の海から白い影が現れ、数が増えていく。
『アレも無限ではない。数は多いが、確実に倒せばそのうち尽きる』
「本当かよ…っ」
とっとと終わらせないと、現実世界は朝になってしまいそうだ。こんなところで余計な時間を使いたくはない。ただでさえ最近睡眠不足で、職場の人たちに心配されているというのに。
早く終わらせるという一念で、暁人は射手と二人がかりで虚牢を射続ける。
弓を構えていると、あの夜のことがまた少しずつ思い出される。相棒であるKKの魂を体に宿して、二心一体でマレビトに立ち向かった。
暁人の視線の先で、また一体、虚牢が消滅する。
――ガキのくせにうまいもんだ。
からかうような声が脳裏によみがえる。つん、と目の奥が痛んだ。
初めは死人呼ばわりされて、無理やり体を奪われかけた。それから成り行きで協力関係となり、取引をして、二十万超の人々と、妹を救うために一緒に戦った。何度も馬鹿にされたし呆れられたし、本当に口の悪いおじさんだった。
また一体、虚牢を射抜く。
――成長してるな、暁人。
けれど相棒であり、師だった。
一夜きりだったとしても。もう本当の意味で、死ぬまで会えないのだとしても。
視界が滲む。ぐっと瞼を閉じて、開く。湧き上がってくる感傷を抑えなければ、仕事を片付けられそうもない。震える手にも力を込めて、暁人は射続けた。
どれほど矢をつがえただろうか。最後の一体を射抜いたのは暁人だった。ただ目の前には灯りのついたビルがあるだけ。動くものはもう何も無かった。
『片付いたな。どうにもあれが邪魔で困っていたところだ。礼を言う』
「…そっちの事情はどうでもいい。終わったなら早く帰してくれ」
構えていた弓を下ろす。祟り屋は人道からは外れた存在だが、余計な小細工はしない。用が済んだなら帰してくれるだろう。けれど暁人の心は波立ったままだ。
『祓い屋が恋しいか?』
まさに胸の内を言い当てたような言葉に、暁人はハッとして射手を見た。相変わらずの覆面で、表情はわからない。
彼らと話す時に弱みを見せるべきではない。どこにどうやって付け込まれるか、わかったものではない。そもそも彼らは暁人を殺そうとしたのだ。…途中でやめはしたが。
「…亡くなった人を偲ぶのは、普通のことだろ」
当たり障りなく返しておく。
生きていれば、どんな傷も時間が覆ってくれる。両親の死も、妹の死も、平気ではいられないが、生きてはこれた。KKとの別れも同じだ。誰かがいなくなっても日々は続く。毎日を繰り返しているうち、痛みは薄れていく。
だが消えたわけではないと、思い出に触れるたびに痛感する。
単なる傷ならまだしも、あの夜の記憶と別れは杭のように深々と心に刺さっている。それが普通になれば痛みは薄れるが、ふと動かすようなことをされれば、また痛む。
杭。悔い。そういえば、点滴スタンドや踏切の遮断機など、様々な形を取った未練に繋ぎとめられた幽霊たちもいた。『悔』とはよく言ったものだ。
ぼんやりとビルを見ていると、すぐ側で衣擦れの音がした。
「…っ⁉」
隣に目をやり、間近に立つ射手に気づいてのけぞる。祟り屋は動く時に全く気配を感じられない。本当に不気味だ。
彼らが被っている笠に入ってしまいそうなくらい、というか体が触れている。厚い装束に身を包んでいるからか、体温も体臭も感じられない。目元に入れられた真っ暗な切れ込みの奥から、じっと暁人を見ているようだ。
離れろ、と言おうとした瞬間に、ぐらりと視界が歪んだ。
「あ…?」
ひどい頭痛がする。体に力が入らない。目の前が明滅する。
バランスを崩し、番傘から落ちそうになった暁人の体を、射手が抱き留める。そのまま座らされて、顔に触れられる。
まさか、何かされたのか。また暁人の知らない理由で、理不尽に何かの術を。
慄く暁人をよそに、射手は瞼の裏を見たり、口を開かせたりする。
やがてひとつ頷いて、射手は言った。
『寝不足はよくないぞ』
ふと目を覚ます。
こちこちと時計の音がした。
丸い蛍光灯と四角い電気傘が見える。灯りは落とされていて、周囲は暗い。ゆっくりと身を起こす。そこは見覚えのない和室だった。
暁人は布団に寝かされていた。ジャケットはハンガーにかけられている。ボディバッグも枕元にあった。卓袱台の上の時計は、午前三時半を指している。
年季の入った箪笥に、型の古いテレビと素朴なテレビ台。束ねられた新聞紙と、お菓子の空き缶に入った文具類。生活感に溢れていて、居心地が悪い。
『起きたか』
突然声をかけられて飛び跳ねる。がらりと襖が開いて、射手が入ってきた。暁人の側で膝を突くと、また何度か顔に触れて、頷く。
驚きで声が出ない暁人に、射手は淡々と言う。
『急に倒れたので、ここに運んだんだ。過労だろう。後で薬を飲むと良い』
見れば、卓袱台の上に薬の包みが置いてある。だが祟り屋の用意する薬?暁人の表情があまりに如実だったのか、『市販薬だ』と付け加えられた。
『用があれば、奥に声をかけてくれ。他の二人も戻っている。帰りたければ、障子の方から出て行くといい』
それだけ伝えて立ち上がろうとしたが、少し考える素振りをして、言った。
『ここにいる分には、構わない』
そして出て行った。状況を呑み込むのに少し時間がかかった。
「はぁ………」
暁人は大きく溜息をついた。自分への呆れだったり、祟り屋へのムカつきだったり、無視できない疲労感だったりで。
奴らにもアジトのような場所があったらしい。構造を見るに、どこかの店の奥かと思われた。こんなありふれた部屋で相対するには、あの装束と編み笠はかなり珍妙だ。
襖の先に彼らはいるらしいが、何の音もしない。真夜中だから静かなのは当然だが、いるような気配も感じられず、射手が出入りした時に見えたのはただ真っ暗闇だけ。用なんて無い。報酬は…彼らのことだから、そのうち律儀に支払うだろう。
暁人はのっそり布団を出て、水を飲み、薬を飲んだ。仕事は休んだ方がいいかもしれない。ここ最近休むことが多くて、申し訳なさばかりが募っていく。服を整えて障子から出ると、やはりそこには商品棚があり、カウンターがあった。
「……医薬品?」
薬局だ。趣はやや古いが、今でも営業しているようだ。暁人のためにかシャッターが半分開いていた。腰を屈めて店から出て、看板を仰ぎ見る。
クスリのタタリヤ
しばらく唖然としてから、暁人は呟いた。
「………マジで?」
視線を下ろす。隣を見る。『タンポポ』の青い看板。振り返る。中華料理屋『天鼎飯』。左手には渋谷駅の入り口がある。
「………マジか…」
ここは、渋谷駅の地下商店街ではないか。だがこの店の存在なんて、それどころかタタリヤの文字なんて、全く意識にも上らなかった。もう何年とこの街で暮らしているのに。
…現実の世界でも仕事をしているのか、あいつらは。
真夜中の地下街でしばらく呆然とした後、暁人は帰宅すべくふらふらと歩き出した。
倒れたところを介抱してもらった、その礼が必要だろうか。
これは借りになるだろうか。
そんなことを考えながら。