迷い鯉探し 思いがけない、一泊二日の旅行となった。
「お昼もおいしかったね」
「ああいうのが一番うまいんだよなぁ」
東京へ戻る新幹線の中で、暁人とKKはすっかり満足していた。アジトに戻って報告したら、きっと麻里や絵梨佳は羨ましがるだろう。凛子は少し呆れるかもしれない。
いくつも駅を通り過ぎるたび、車窓の景色はだんだんと街へ変わっていく。
きっかけは今回受けた依頼だった。東京を出て県境をふたつ跨ぎ、とある山間の町へ出向くことになった。暁人にとっては初めての、他県での仕事となる。
目的は既に達成している。マレビトとの交戦もあったが、なんとか無事に片付けられた。暁人は足元に置いたバッグを開き、中を確認した。
「見張らなくても、もう逃げやしねぇよ」
「念のため。新幹線の中で泳ぎ出したら大変だろ?」
「そりゃあ見ものだな」
KKは愉快そうにする。見慣れた髭面もなんだか張りがあって、今回の遠出でリフレッシュできたようで嬉しい。彼と初めて電車に乗った時は、怪しい都市伝説を確かめるためだったから、こうして景色を楽しみながら、のんびりと楽しめるのが感慨深い。
バッグの開口部からは、大きな鱗模様が覗いている。それをさらりと撫でて、またチャックを閉めた。
○
「鯉のぼりが逃げ出したんです」
それが依頼主からの相談内容だった。
長く彼の実家で保管されてきた、古い大きな真鯉だった。
その日は曇天で、昨日には激しい春の雨が降った。夜明けまで降り続いた雨により、空気はたっぷりを水を含んで、土の匂いがしていた。
「昨年息子が産まれたので、鯉のぼりを揚げようと思ったんです」
父母への顔見せのタイミングに合わせ、長くしまい込まれていた鯉のぼりを揚げようということになった。依頼主の幼少期にも、四月に入ると祖父母が揚げてくれていたものだ。
箪笥から引っ張りだした時はただの布だった。庭のポールにくくりつけた時もくったりしていた。
それが、矢車のすぐ下まで引き上げられ、ひとつ強い風を受けた途端に、まるで生きているかのように身をくねらせたのだ。
「それで、ロープを振りほどいてしまって、そのまま飛んでいってしまったんです。…あ、その…風に飛ばされたんじゃないんです、そういうのじゃなくて」
空を泳いでいってしまった。
まだ混乱しているらしい依頼主を宥めつつ、暁人は相棒を見やった。
KKはなかなか面白そうな顔をしていた。鯉のぼりが動いて逃げ出した、という。暁人とKK、そして二人の属する『ゴーストワイヤー』にとってはうってつけの依頼だ。新人の暁人にも、原因はいくつか目星がついていた。
しかし依頼人にとっては驚天動地の出来事で、ともすれば自身の頭さえ疑わしくなる世迷い言だ。
「ええと、本当に、酔ってるとかじゃなくて」
「大丈夫ですよ。ちゃんと信じてますから。僕たちなら力になれると思います」
「そういうこった。で、鯉のぼりの行き先に心当たりは?」
依頼主はぽかんとしてから、大きく肩の力を抜いた。だがKKの問いには途方に暮れた様子だった。急に動き出した物がどこへ行くかなど、見当もつかない。
「話を聞く限り、付喪神の可能性がある」
KKがそう伝える。人間に大事に扱われて長い年月を経た器物は、魂を得ることがある。そして自分の意思を持ち、生きているかのように動き始めるのだ。それが付喪神だ。
依頼主曰く、その鯉のぼりは祖父の誕生時に購入されたもので、家に来てから凡そ九十年近く経っている。劣化しやすい布が今日まできれいに残っているということは、それだけ大事にされてきた証だ。付喪神に変じるには申し分ない。
「元はあんたの爺さんの物か。鯉のぼりについて何か聞いてないか」
「祖父は、数年前に亡くなってます。よく話はしてましたけど、鯉のぼりのことは特に何も…」
「そうですか…」
依頼主からそれ以上の収穫は無かった。彼が帰った後に、さっそく『ゴーストワイヤー』の優秀な科学者たちが情報を集めにかかった。
「もう何件も投稿されてるわ。空飛ぶ鯉のぼり」
『かなり高くを飛んでいるようで、はっきりとは目視されていないようだが、充分だね。人は未確認飛行物体に心惹かれるものだ』
SNSには、曇天の雲間をひらりひらりと見え隠れする鯉の動画がいくつも投稿されている。まだ大きな話題にはなっていないが、いつどこから火がつくかわからない。
『目撃情報のあった場所と鯉のぼりの進んでいる方向を、しらみつぶしに洗い出してみた。正確性は欠けるが、彼の家から、どちらの方角へどの程度進んでいるかは予測できる』
「人間より機械との方が仲の良い奴がいると助かるな」
「それで、鯉のぼりはどっちに?」
「方角で言えば、西北西ね。多分もう東京を出てるわ」
KKが呻く。面倒臭そうだ。東京都内ならまだ土地勘があるが、他県となると難しい。逃げ出した地点からすると、別の地方に入っている可能性すらある。
電話で連絡したところ、依頼主はやはり困惑した。ずっと前の代から、依頼主の家は東京に拠点を置いていた。親戚はある程度散らばっているが、それでも関東地方を出ない。他の土地に、これといった縁は無い筈なのだ。
「真っ直ぐに進んでるってことは、きっと行き先があるんだよね」
「わざわざどこに行ったのやら。まさか、遡上してるんじゃないだろうな?」
『その可能性はある』
野生の鯉も、春になると産卵のために浅瀬へ遡上することがある。本物の鯉であればの話だ。しかし生き物の形を模しているだけの布に、魂が宿り、本物のような習性を獲得することだって、この界隈ではあり得る。
それから数日して、凛子とエドが情報をまとめ上げた。
「この周辺で、目撃情報が途切れてる。それ以降の投稿は無いわ」
「ありがとうございます。手伝えなくてすみません」
「適材適所よ。それに、実際に行ってもらうのは貴方たちだからね」
そうして共有された位置情報に従い、二人は遠出することになったのだ。暁人が『ゴーストワイヤー』に加わって、初めての出張だった。
逃げた鯉のぼりの行き先は、意外にもすぐに判明した。
だが見つけ出すのは少々骨が折れた。
東京駅から新幹線で一時間半の、とある地方都市。駅を出た後はバスを乗り継ぎ、エドが目星をつけた地点へ向かう。バスは大きな川に沿って、どんどん山間地へ向かっていくようだった。
「暁人、霊視してみろ」
ちょっとした遠足気分で車窓を眺めていると、隣のKKが囁いた。首を傾げつつ霊視をしてみると、ふわりと目の前に青い光が現れた。
「うわ、」
うっかり車内で声を上げかけて、慌てて口を押さえる。
鯉の形をした青白い影が、川の上を泳いでいた。エーテルの痕跡だ。ちょうど今二人が乗っているバスと並走するように、五メートルはあろうかという鯉が上流へと向かっている。いや、向かっていたのだ。
「あたりだな」
「すごいね」
来た甲斐があったようだ。
雲に隠れるほどの高度を飛んでいた鯉のぼりは、この辺りまで来ると、地上付近に降りてきたらしい。おそらく夜間の出来事だ。
その後は霊視を行いつつ痕跡を辿り、やがて田地が広がる小さな町に行きついた。
「やれやれ。随分辺鄙なところだな。田舎の爺さんの家を思い出すぜ」
「僕、こういうところは初めてかも」
「貴重な経験だな、暁人くん。存分に楽しめよ」
見えるのは両側に迫るような山と、道路と、いくつかの民家。そして、谷間を流れる川だけ。駅からずっと遡ってきた川の上流だ。川幅は狭くなったが、駅周辺よりも、水はずっときれいだった。
暁人は柵に手をかけ、清流を臨んだ。目の前に色鮮やかな鱗模様が連なり、翻っては陽光の下で照り輝く。
「ここだね」
「ああ」
川の上には、何十匹という鯉のぼりが吊るされ、風にたなびいていた。
端午の節句に合わせた地元の名物らしい。川辺にはちらほらと見物客らしき姿がある。今日は風が強く、快晴で、色とりどりの鯉のぼりが宙を泳ぐ様は実に見事だった。
堤防には桜並木が続いている。花盛りと鯉のぼりが重なれば、きっと素晴らしい景観だっただろう。今はほとんどの花弁が落ちて、青々とした若葉に移り変わっていた。だが木陰は涼しく、木漏れ日に川面の景色がよく映える。
KKがさっそく霊視の滴を落とす。すると、下流の方から一匹の鯉の影が現れ、鯉のぼりの群れに合流する様子が視えた。
「間違いなく、こいつらの中のどれかだな」
「えっと、黒い真鯉、だったよね…」
暁人の声が小さくしぼむ。真鯉は、鯉のぼりの定番だ。一見しただけでも二十匹以上はいそうだった。
「一匹だけとびきり古いやつなら、なんとか見分けも付きそうだが…」
KKは顔をしかめた。どうにも、ばらばらなのだ。色も柄も大きさも統一されていない。先頭の五匹程度は新品らしく同じ型だったが、その他はどれも、細かな個性があった。
「…目当ての写真は?ねえのか」
「無いみたいだよ」
「気が利かねぇ依頼人だぜ、クソ」
詳しく調べようにも、許可なく触れるのはご法度だ。暁人は必死に目を凝らすが、川岸からの目視では判別は難しい。
KKは肩を竦めて、ぽんとひとつ暁人の肩を叩く。
「仕方ねぇ。夜を待つか」
「え、夜?」
「妖怪や怪異ってのは、夜の方が領分なんだよ。ってことで、宿探し頼むぜ」
「はあ⁉」
泊まりを想定していなかった訳ではないが、そうなれば駅周辺のビジネスホテルを利用するつもりでいた。人口の少ない山間地で、検索にヒットしたのは民宿二件。より川に近い方に連絡してみれば、運良く空きがあったようで、すんなりと受け入れてくれた。
「こういうの、KKの方が慣れてるんじゃないの?」
「何事も経験させないと、成長しないだろ?」
「押し付けた、の間違いだろ」
今の時期は、鯉のぼりを見物するために宿泊する観光客も多いらしい。女将はにこやかに二人を迎え、夕飯には鯉こくも出すと語った。
「鯉こく?」
「ええ。この辺りでは昔から、鯉の養殖が盛んなんですよ」
「じゃ、刺身とかあらいも食えるのか?」
「うちでは鯉こくだけですけど、近くのほら、飲み屋で出してますよ」
KKの気分が目に見えて上がったので、暁人は内心ため息した。
幸い夜間のライトアップなどは行われていないようで、午前零時過ぎの川辺はひっそりとしていた。
宿を取ってから日が沈むまで、意外にもKKは現地調査に勤しんだ。周辺を歩いて地元住民と立ち話をしたり、年季の入った公民館で町史をめくったり、めぼしい場所に足を運んだりと、かなり精力的だ。そんなKKについて、暁人も情報を集めた。
曲がりなりにも元刑事なのだ。現地の情報をどう集めたらいいかをよく知っている。ちょっと悔しい気持ちになったが、暁人も負けじとネットを活用し、KKの情報を保管していった。
そして万全を期して、ひと気の無くなった夜の川に赴いている。
真っ暗な川面に、ひそやかに笑いさざめく声が満ちている。
鯉のぼりたちの声だ。
淡く光を纏った鯉のぼりたちが、川の上を自由に泳ぎ回っている。
括られていたロープはすっかり空いてしまっている。ロープに残っているのは、くったりとした新品の五匹だけ。他の数十匹は、昼間の姿が嘘のように、ゆったりと心地良さそうに夜空を泳いでいた。
「すごい光景だな、こりゃ」
桜の幹に隠れ、KKが小さく感嘆した。
まさか依頼主の鯉だけではなく、ほぼ全てが動き出してしまうとは。だが日中の調査で、大体の予想はついていた。
(すっかり晴れたねぇ)
(この間の雨はすごかったね)
(流されちまうかと思った)
仄かに青白く発光する鯉のぼりたちは、そんな風に和やかに言葉を交わし合っている。まるで人間のようだ。声色に男女の違いさえ感じられた。
地元住民の話によると、川にかけられた鯉のぼりは先頭の五匹を除き、全てが地元の一般家庭から自治体へ寄贈されたものだという。使われなくなった鯉のぼりを集め、こうして観光資源としているのだ。
「付喪神じゃないね」
確信して呟いた。KKも頷く。
普段捕まえている唐傘小僧とは随分違う。どちらかといえば、そう。かつて動く日本人形を追いかけたことがあった。その人形の正体は、持ち主の姉の霊だった。そのケースに近い。
暁人とKKが様子を窺っていると、鯉のぼりたちはやがてどこかへと移動し始めた。
「追うぞ。バレないようにな」
「あんまり気にしてないようにも見えるけど」
「それなら好都合だがな」
夜風に身をくねらせ、鯉のぼりたちは町の上を泳いでいく。移動はそう長くはなく、山を背にして開けた場所にくると、鯉たちは楽しげに遊び始めた。
「ここって…」
「小学校の跡地だな。今は交流会館になってるが」
明らかに古い校舎を改築したと思しき建物と、広い校庭。隅には掲揚台と遊具もあった。校門跡には、学校の名前が今も刻まれている。
二十余年前に廃校となった、この町の名前を冠した小学校だ。
鯉のぼりたちは、校庭で追いかけっこをしたり、ジャングルジムにまとわりついたり、かつての校内に入り込んだりしている。動きは魚だが、行動はまるっきり人間の子供のようだ。見るからに楽しそうで、二人のことなど本当に気にしていない。
「…懐かしんでるのかな」
「だろうな。童心に返るってやつだ」
暁人とKKは隠れるのをやめて、鯉たちの様子を眺めた。夜の廃校跡に、灯篭のように光る鯉のぼりたちが無邪気に遊んでいる。不思議だが、きれいな光景だった。
付喪神ではない。この地で生まれ、亡くなった人々の魂が、鯉のぼりに宿っている。
春は豊穣の神が山から降りてくる季節だ。それは同時に山の神でもあり、祖霊の神でもある。里の人々の魂は、死後に山へ行き、神となる。そして農業の巡りに合わせ、恵みをもたらすために故人らは里へ帰ってくる。
この地で、その依代となったのが、かつて故人が所有していたという鯉のぼりだ。
それがふたりの調査結果だった。
「まさかこんなに大勢だとは思わなかったけどな」
「帰りたくなるところなんだね、きっと」
例外は、二人が東京からはるばる追ってきた、依頼主の真鯉だ。
まだ見分けもつかないが、その鯉のぼりだけはここの生まれでも育ちでもない。
「さあて、どう見つけるか…」
「KK」
暁人は素早くKKの袖を引いた。右手にエーテルを集中させる。
(また来た!)
(やだ、もう)
(逃げろ!)
鯉のぼりたちが一斉に騒ぎ出す。
校庭に次々と闇が凝っていく。呪、怨、祟、そんな文字から成る穢れの塊が、悍ましいバケモノの形を取る。
金切り声を上げて現れたのは、マレビト〈髪姫〉の群れだった。
「どこまでも邪魔くさい奴らだぜ」
「同感」
髪姫は手当たり次第に鯉のぼりを襲い始める。赤黒い火の玉を飛ばして焦がそうとし、鋭い髪の毛で貫こうとする。飛びかかり、爪で引き裂こうとするのもいる。
「止めるぞ!」
「もちろん!」
暁人は麻痺札を投げ、髪姫たちの動きを止める。KKは風のチャージラッシュを撃ち込んで、注意をこちらへ向けさせる。髪姫は突然の闖入者に怒りの咆哮を上げ、二人に狙いを定めた。
複数体が群れとなった髪姫はかなり厄介だ。離れれば火の玉や髪の毛を飛ばしてくるうえ、突進攻撃も行う。他のマレビトよりも動きが複雑なため、こちらのリズムを乱されやすい。長引けば消耗するだけだ。
「KK」
背中を合わせて相棒に囁く。返事は無く、KKはただ暁人を見てにやりと笑った。
完全に同じタイミングで、体内のエーテルを放出し、共鳴させる。二人だけの大技、絶対共鳴だ。
その衝撃で何体かの髪姫のコアが露出する。二人で息を合わせ、即座にワイヤーでコアを引き抜く。まだ動いている髪姫も、動きが鈍っている。暁人は容赦なく火のエーテルでその体を貫き、KKは凝縮した水のエーテルを直接叩き込んで凍らせた。
「せっかく爺さん婆さんが仲良く同窓会してんだから、野暮なことするんじゃねぇよ」
「邪魔だよ」
絶叫する髪姫のコアを鷲掴みにして、渾身の力で握り砕く。それぞれが最後の一体を仕留める、そのタイミングも同じだった。
やがて校庭にはきらめくエーテルの残滓だけが残り、二人に吸収される。
静けさを取り戻した廃校跡で、暁人はひとつ息を吐いた。
「おい、見ろよ」
KKに肘で小突かれる。交流会館の方を見てみると、建物の影に鯉のぼりたちが集まってこちらを窺っていた。
「あ、えっと…」
暁人はとりあえず会釈した。
すると、放流された稚魚のようにわっと鯉のぼりたちが飛び出して、くるくると二人の周りを泳ぎ回った。
(あんたらすごいねぇ、ありがとう!)
(本当に困ってたよ、ありがとう)
(これで心置きなく動き回れる)
「これがオレ達の仕事なんでね」
「助けになれたみたいで良かったです」
(若い方は素直だねえ)
代わる代わる話しかけてくる鯉のぼりたちの話を聞くと、髪姫たちは少し前からここに現れるようになったという。マレビトはエーテルと穢れから生じる。
(ここも、年寄りばっかりになったからねぇ)
(山もなかなか手入れできないのさ)
(そこの山も、荒れるばっかりで)
(それが良くなかったね)
その場の気が淀むと、穢れが溜まりやすくなる。わかりやすいのは水だが、野山もそうだ。管理する者のいなくなった野山は、木々が野放図に生い茂り、土砂崩れなどの災害が起きやすくなる。それも自然状態のひとつではあるが、だからといって清浄ではないのだ。
ひとまず、穢れの塊である髪姫たちは浄化した。しばらくは大丈夫だろう。環境そのものの管理は、暁人たちの領分ではない。
「あ、そうだ。聞きたいことがあるんです」
(なあに?)
(なんでもいって)
「あんたらの中に、東京のやつはいるか」
KKが言うと、鯉のぼりたちは一斉に群れの中の一匹を見た。
ふよふよと、黒い真鯉が前に出てくる。古く、立派な鯉のぼりだった。
(もしかして、僕を探しに来たのかな)
「そうなんです。あなたのお孫さんから依頼されて」
(急に飛び出してしまったからね。悪いことをした)
「気の毒なくらい驚いてたぞ。出て行くんなら行き先くらい伝えてやれよ」
「それもそれで驚くと思うけど…」
他の鯉のぼりたちは、再び学校跡地で遊び始めた。依頼主の真鯉はその様子を眺め、懐かしそうに丸い目を細める。
(昔ね、戦争があった時、僕はここに疎開してきたんだ)
そう語る。先の大戦当時、依頼主の祖父は七、八歳だった。同じ地区の子供たちと共に、この町に疎開をして、二年余りを過ごした。
その幼少期のたった二年が、彼をここに帰らせた。
(悲惨な時代だったし、貧しかったけれど、それでもここでの生活は楽しかった)
彼は地元の子供たちとすぐに打ち解け、毎日遊んだ。空襲に怯えるばかりの東京では食べられないものも食べた。例えば、鯉の刺身や、あらいや、味噌で煮込んだ鯉こくなど。短かったが、強く心に刻まれた、子供時代の思い出だった。
(いつかまた来よう来ようと思ってるうちに、うっかり死んでしまった)
軽く笑う依頼主の祖父に、他の鯉から(ぼけ老人が)(昔ものんきな奴だった)と茶々が入る。きっと、まさに幼い彼と遊んだかつての学童たちなのだろう。
(こうして仲良くなれたのもよかったんだ。のんきな性格が合ってたんだろうね)
彼は幸運な方だった。全員がそうではなかった。孤独と望郷の念で苦しむ子供も、やはりいたのだ。疎開先で苦難を味わった子供達も、決して少なくない。
髪姫は、家族や友達から切り離された孤独から生まれるマレビトだ。八十年近く前の負の感情が、今もうっすらと土地に残り、蓄積された穢れと反応してマレビトとなった。どこにどういう根があるかは、隈なく掘って調べてみないとわからない。
思い出の土地への“里帰り”を果たせぬまま亡くなった彼は、成仏する気の起きないまま、しばらくは家族を見守っていた。だが孫が、生まれたばかりのひ孫を連れて帰ってきた時に転機が訪れた。
遠い昔、自分のために父が買ってくれた鯉のぼり。それを久方ぶりに目にした時、これに乗って帰ろう、と思ったのだという。鯉は丈夫な魚だ。県境を越える長旅も、きっと軽やかに泳いでいける、と。
(満足したら帰るつもりだったけれど、せっかくお迎えが来たんだ。僕はもう行くよ)
それに、この鯉のぼりは息子や孫たち、そして生まれたひ孫たちのためのものだ。これからを生きる子どもたちを祝うため、自分は去るべきだ。
依頼主の祖父が言うと、周囲の鯉たちから柔らかな贐の言葉が贈られた。
(そうか)
(最後に会えてよかったねえ)
(またどっかで会えるよ、多分な)
(また来い)
(じゃあね)
真鯉が夜空に向かってくるりと身をくねらせる。すると、筒の中から青白い魂が抜け出て、解けるように消えていった。
ぱさりと、布の吹き流しが校庭に落ちた。
(それじゃ、あたしらも川に戻ろうかね)
(まだしばらくは、川にいるからね)
(もう少ししたら、ちゃんと行くから)
山から降りてきた故人たちが里でどのように過ごすのかは、神秘の域だ。ただの人間である暁人とKKには知りようもない。
(あ、そうだ)
(お礼お礼)
(退治してくれてありがとねえ)
鯉のぼりたちが体を振ると、布である筈の体からきらきらと鱗のようなものが落ちる。それはすぐに生き物の形になって、ふたりに近寄ってきた。渋谷でも、異空間などでたまに見る機会がある、小さな金色の魚たちだ。
光る魚たちはひとしきり暁人とKKにじゃれつくと、すうっと体の中に入ってしまった。
「えっ、入っ……えっ?」
「おい、魚なんて飼ったことねえぞ」
(お守りだよお守り)
(じゃあね。またいつでも来なさいよ)
(あ、そうだ。あそこの民宿の鯉こく、どうだった?)
「あっ、すごく美味しかったです。味が濃くて身が柔らかくて」
(そうでしょ。宿の女将はね、あたしの孫娘だよ)
「へえ、そうなんですね。お世話になってます」
「おい、普通に談笑するんじゃねえよ」
ぺし、と背を叩かれる。鯉のぼりたちは笑いさざめきながら、川へと戻っていく。
暁人は真鯉の吹き流しを拾い上げ、土を払って丁寧に畳んだ。
顔を上げると、もうそこは暗い夜の廃校跡で、あるのは月明かりだけだった。霊たちの淡い光も、穏やかなさざめきも幻のようだった。
ひゅるりと夜風が吹く。暁人は体を震わせた。今更になって、晩春の寒さが体に沁みてきた。
「寒いな」
「うん。こっそり抜けてきちゃったし、戻ろうか…」
KKの方を振り向いた暁人は、思いがけず近くにあった相棒の体に声を途切れさせた。すぐさま腕が回ってきて、引き寄せられ、そして唇がくっつく。
―――急すぎでしょ、このおじさん!
心の中で罵倒しながらも、暁人はなんとかキスに応え、ゆるく抱き返すくらいの気概を見せた。唇が離れたらさっそく文句を言った。
「ねえ、急すぎじゃない?普通はムードとかが先だと思うんだけど」
「ムードもナニもねえよ。いいか、今仕事は終わったな」
「これをあの人に届けるまでが仕事だよ」
「細かいやつだな。この町での仕事は終わった。だろ」
「まあね…」
「だったら、あとはフリーだ。わかるな」
暁人はちょっとだけ口をひん曲げた。不満だからじゃない。照れだ。面映ゆいからだ。
つまりこれからは、恋人の小旅行の時間だと、この中年は言っている。
「……いま、午前二時だからね。僕は寝るよ」
「つれねえな。まあ、オマエは寝ててもいいぜ」
「…ちょっと、絶対何かする気だろ、やめろよ!」
身を寄せ合って、やいのやいのと騒ぎながらふたりは宿へ戻っていく。
それから、東京へ戻る夕方の便に乗るまで、どのように過ごしたか。
暁人はもう一度鯉こくに舌鼓を打ち、KKは鯉の刺身も酒も満喫した。ぐっすりと眠りもしたし、起きていたりもした。晴れた空にたなびく鯉のぼりを眺めながら、並木道を散歩したりもした。
それで、帰路についた彼らがどんな気分だったか。
確かなことは、逃げ出した鯉のぼりが、無事に家に戻ったという結果だけだ。