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    『ファンダ・メンダ・ワーズ』(文庫/164P/¥1200-)
    7/23発行予定のモクチェズ小説新刊サンプルです。

    ヴ愛後しばらくしての時間軸。あるきっかけで二人がモクマの実家に里帰りすることになる話。
    ※オレク、モの母&兄&その家族、犬など捏造まみれですので何でも許せる人向けです
    ※主な構成要素:真面目なモ、実家の面子に気に入られるチェ、頭を使うモクチェズ、振り回されるオレク、馬に蹴られるアロ

    ##モクチェズ
    #モクチェズ
    moctez

    ファンダ・メンダ・ワーズ1.

    「長期休み?」
    差し出されたコーヒーを受け取りながら聞き返すと、チェズレイは軽く頷いた。
    「えぇ。先日の仕事の後始末も兼ねて、になりますから純粋な休みとは言えませんがね。それでも、『思い思いに過ごすように』と言うのが命令ですから、彼らもそれなりに羽を伸ばせるでしょう」
    チェズレイの視線の先には、ここ一年で増えた部下達の姿がある。人数にして5人——オレク、カーター、ネス、マチダ、ウィルソン。いずれも明らかに『その道の人』みたいなスーツの男たちが談笑してるのを見ると、何つか本当に『マフィア』って感じだ。いやまぁ実際そうなんだけども。
    (……まぁこの部屋のせいもあるかもしれんねぇ)
    俺はそう思いながらぐるりと部屋を見渡した。古い外観に反して、内部はしっかりと手入れが行き届いている。部屋の隅にはセンスの良い調度品が飾られてるし、真ん中に置かれた革張りのソファだって相当良い値段がするんだろう――こんな郊外のセーフハウスでも、だ。
     ヴィンウェイやハスマリー、リカルド……各地を転々としている間も何だかんだでついてきた彼らと、チェズレイは諦めてこないだついに雇用契約を結んだらしい。正式に部下を迎えることになった組織は——さしずめ新生ニコルズ・ファミリーと言ったところなんだろうか。
    「おや、エンドウ・ファミリーでも良いのですよ」
    俺の心を読んだかのようにチェズレイがくすくす笑いながら口を挟んでくる。
    「いやいやおじさんそんな柄じゃ……」
    「釣れないお方だ。私を娶ってはいただけないので?」
    「あ、そっち」
    モクマ・エンドウ・ファミリーって話じゃなく、チェズレイ・エンドウ・ファミリーって話ね。まぁ戸籍の問題はどうでも良いんだけども——裏社会だとどうとでもなるモンだし。
    「……しかし実質暇を出すみたいな聞こえ方するんじゃない? 納得するかねぇ」
    俺は言う。部下たちは揃いも揃ってチェズレイの熱狂的なファンみたいなところがあるし、俺たちが何回か撒こうとした時も執念と意地でついてきたような連中だ。
     チェズレイは澄ました顔でコーヒーを口に運びながら答えた。
    「ハネムーンの邪魔をするような無粋な部下を持った覚えはない、とでも言えばよろしい」
    「お前さんとはもう熟年夫婦に近いでしょうが。……それ逆効果だって分かってて言ってない?」
    俺はため息をついて、部下たちの方を見やった。特にオレク辺りはめちゃくちゃ複雑そうな顔をするんじゃなかろうか——あいつ、未だに色々拗らせてそうだからなぁ。
    「……まァ、必要に応じた話はしますよ。言ったでしょう、後始末の面もあると」
    「あぁ、それなんだけど。実際おじさんも何も分かってないんだけど、説明してもらっても良い?」
    言うと、チェズレイは頷いて、ソファの方へ歩き出す。どうやら俺も含めて、全員にまとめて説明するらしい。
     部下たちはチェズレイの足音に居住まいを正した。俺ならこんなに畏まられちゃ返って気後れするってモンだが、チェズレイの方は慣れた様子だ。こういう時のこいつは、本当に堂々としていて組織のトップに相応しい格を態度で示していると思う。まぁ、俺はって言うと、その後ろで何とな〜く控えてるだけなんだけども。
     チェズレイがタブレットを操作すると、部下たちのタブレットや——俺のタブレットにも通知が来た。アップロードされた新しいフォルダを見ると、いくつかのファイルが格納されている。
    「……次の仕事、表向きは『休暇』になります」
    チェズレイが話し始める。部下たちは怪訝そうな顔でファイルに目を通してるようだったが——そのうち、オレクが納得できないとばかりの表情で顔を上げた。
    「休暇? 何のつもりだ? ……あんたはどうする」
    予想通り噛み付くように矢継ぎ早に聞いてくるオレクを、チェズレイは手で制した。
    「待ちなさい、順を追って説明します」
    チェズレイはそう言ってから続ける。
     話をまとめるとこうだ——先日壊滅させた組織のタブレットを確認していたところ、うちがその組織を潰す直前に別の組織へファイルを送ってるのが確認された。『新生ニコルズ・ファミリーの詳細』と題された資料には、事細かにうちの内情が書かれていたらしい。
    「カーターくんは、妹2人だっけ?」
    以前雑談混じりに聞いた覚えのまま俺が尋ねると、カーターは頷いた。なるほど、俺の欄に書かれた内容も正確だし、それなりにきちんと調べ上げられたもののようだ。取引のある情報屋、各国のセーフハウスの大まかな位置——流石に隠し口座なんかは分からなかったようだが、それでもこれだけ情報を集めるにはカネも時間もそれなりにかかったに違いない。そもそもこないだ潰したあの組織自体、どこから聞いたかチェズレイが『やられる前にやりましょう』とかこともなげに言って計画を立てて壊滅させたわけで、なるほど——潰すだけの理由はあったらしい。
    「内情が漏れたことでどのような影響があるか、どう対策するかを考える必要がありますので、しばらく各々休暇とします。『自由に』過ごして構いません」
    チェズレイは言う——この場合、『自由に』っちゅうのは実質こういう意味なんだろう。『このファイルに書かれた内容から考えられる身内などに危険が及ぶ恐れがないか、まずは確認しにいくように』。
    「……それで、あんたは?」
    再度オレクが聞いてくる。チェズレイの家族に関しては、おおよそ狙われる可能性はない。何せその家族と既に仲違いして、命まで狙われている。思い思いに過ごせ、といったところでチェズレイ自身どうするんだってところはまぁ確かに気になりはするだろう。
    「言ったでしょう、休暇だと。プライベートはとやかく詮索しないのが利口というものだ」
    チェズレイは言う。冷ややかとも取れる反応に、オレクは押し黙った。
    「期間は、1ヶ月から……長くて3ヶ月ほどになるでしょう。『休暇中』は定期連絡だけ入れるように。こちらも後の動きはメールで指示します」
    そう言われると同時にメールが送られてきた。改めて今後の予定と、定時連絡のテンプレート、それに追加の指示が幾つか並んでいる。
    「では、このセーフハウスを明朝には後にするように」
    「ちょい待ち!」
    場を締めくくろうとしたチェズレイの言葉に俺は言葉を重ねる。怪訝そうな顔で視線を向けてくるチェズレイに俺は言った。
    「明日の朝までまだまだ時間あるし、バタバタしてて『祝勝会』もしとらんかっただろう? 今夜は皆でパーっと飲まんか?」
    ね、とウィンクしながら頼むと、瞬きをしたチェズレイは呆れたように、あなたねェ、と額に手を当ててため息をついた。


     夜風にあたろうとベランダへ向かうと、先客がいた。振り返った先の室内には——ひい、ふう、みい……なるほど、こいつの姿はなかったか。
    「どう? 一杯」
    聞くと——オレクは首を振った。まぁ俺は上司じゃなし、無理に酒を飲む必要があるわけじゃないが——
    「お前さん下戸でもないだろうに、今日一口も飲んどらんよねぇ」
    「……あんた、ずっと観察してたのか」
    「いんや、半分当てずっぽうだよ。どうやら図星だったみたいだけど」
    オレクは舌打ちをして、俺から視線を外すと手すりにもたれかかった。俺は手にしたぐい呑みの酒を呷って、なるべくのんびり聞こえるように言う。
    「10時の方角くらいじゃない? ……監視の可能性があるとしたら。ま、買い出し行った時に少し寄り道したけど特に準備の跡とかもなかったし、思ったより木が邪魔になるよ、あの位置からじゃ」
    目ぇ凝らして見ても今んとこ誰もいなそうだしねぇ、と付け加えると、オレクは目を見張ってから小さく舌打ちをした。人が悪いとでも言いたげな視線を避けて、俺は笑う。
    「案外働き者なのよ、おじさん」
    俺はそう言って、また室内の方に目をやる。部下たちに囲まれたチェズレイの姿を見るのは、まだ何となく新鮮な感じだ。どうやらそれなりに話に花が咲いてるらしく、時折ここまで笑い声が聞こえてくる。郷里の話なんかが主のようだから——チェズレイは自分からはそんなに話さないかもしれないが。
     俺の視線を追いながら、オレクが聞いてくる。
    「……あんたはどうする?」
    聞かれてるのは『休暇』のことなんだろう。あぁ、と俺は相槌を打ちながら頭を巡らせた。組織の中で一番身内が多かったのが俺だ——父こそ亡くなったものの母は存命だし、兄妹も多い。何なら会ったことはないが、甥も姪もいるらしい。まぁ、とは言え——
    「兄妹とは十数年連絡取ってないしなぁ。向かうんならおふくろ……母のとこかねぇ」
    「……南か」
    「ま、そんなとこ」
    オレクは考え込むように黙り込んだ。
     俺は思い出す——オレク・ヨハンソンの情報に書かれた家族の欄は空欄だった。調べが及ばなかったか、それとも——
    「お前さんの方は、家族は?」
    聞くと、オレクは特に隠す様子もなく答えた。
    「父母は亡くなっている。記載がなかったのはタチアナさ……タチアナ・バラノフのおかげだ」
    「あぁ、なるほどね」
    チェズレイの前の組織が壊滅した後、こいつが最終的に身を寄せたのはタチアナ・バラノフの組織だった。国の中枢まで手の及ぶ彼女の元なら、経歴から何から白紙にするのは難しい話じゃなかっただろう。
    「実際のところは、身内みたいなのはどうなの? 血が繋がってなくても、育ての親とか……恋人とかさ」
    「女はここ数年いない。間に合ってたんでな」
    「……あ、そう……」
    間に合ってた、がどう間に合ってたのかはまぁ置いておこう。もしかしたらチェズレイが絡むのかもしれんし、絡まないのかもしれんし。
     だが、しかし——
    「そうすると、お前さんは完全に『休暇』になるんだねぇ」
    俺は言う。危険が及ぶ可能性のある相手がいないんなら、確かめる必要もない。それはそれで寂しいことなのかもしれないが気が楽ってこともあるし、どちらにしろ他人が横から口を出すのは余計なお世話ってものだ。
    (うーん、けどそれならせめて、)
    お節介かもしれんが、『良い休暇』にするための助けなら、少しくらいはできそうな気がする。多少古い知識にはなるかもしれんが、世界中色々放浪してきたのもあって、それなりに地域事情は頭にある。例えば、今だと割とシーズン的にどこも高くつく時期だけど、北の方の——
    「……南の国ってのは、どんな塩梅だ?」
    考え込んでたところへ、そんな言葉が飛んでくる。顔を上げると、視線を逸らした——正確に言や、視線をチェズレイに向けた状態のオレクが目に入った。
    (…………あー……)
    俺は目を泳がせる。
     しまった、こりゃ先にあいつと相談してから、話しかけた方が良い案件だったか。


     コンコン、とドアをノックすると、夜分ではあるもののすぐに、どうぞ、と答えが返ってきた。部屋に入ると、ベッドじゃなくソファに腰掛けてるチェズレイが目に映る。寝る体勢じゃない辺り、どうやら俺が訪ねるのを予想してたらしい。
    「すまんね、夜中に」
    言うと、チェズレイは悪戯っぽく笑う。
    「いえ。あなたの夜這いには慣れてますので」
    「こんな正面からしたことないでしょうが」
    俺はため息をつく。チェズレイはクスクス笑いながら立ち上がると、部屋の隅の方へ向かった。コーヒーを淹れるつもりらしい。なるほど、俺も賛成だ——何せそれなりに長い話になりそうだし。
    「モクマさん、ミルクか砂糖はいかがです?」
    こっちに背を向けたまま、チェズレイは聞いてくる。
    「あぁ、おじさん今日はミルクだけで」
    答えると、チェズレイは小さく頷いた。
     ソファに座って待ってると、しばらくしてチェズレイが湯気の立つコーヒーカップを持ってくる。差し出されたカップを受け取ると、チェズレイは俺の隣に腰を下ろした。立ち上るコーヒーの香りと、それ以上に匂い立つような抱き慣れた連れ合いの気配。あぁ、こんな事態じゃなけりゃ今すぐこのソファに押し倒したいところなんだが。
    「……では、改めて状況を整理しましょう」
    そんな風にチェズレイが口火を切った。
    「始まりは、例の組織だね?」
    「えぇ。押収したタブレットの情報を吸い出してみたところ、メールに添付された例のファイル……『新生ニコルズ・ファミリーの詳細』が見つかりました。内容は夕方のあのブリーフィングで説明した通りです」
    「……それ自体罠ってことは?」
    「罠? ……あぁ、実際に別のファミリーの幹部へメールで送られた記録がありましたし、『我々の組織の情報が外部へ流出した』ことは事実です。煩わしいことですが」
    「なるほど」
    俺は顎を摩りながら頭を巡らせる。
     今考えるべきは大きく2つ。今後どうすべきかと——なぜこんなことが起こったか、だ。そして今回の場合、前者を考えるにあたって、後者の事情を可能な限り推察しておいた方が良い。
    「……ひとまず、セーフハウスは全て引き払います」
    とは言え、チェズレイから返ってきたのはまずは前者の話だった。俺は記憶をたどりながら聞き返す。
    「良いの? どこも正確な位置までは割れてないし、多くはないけど載ってないとこもあったでしょ」
    「表向き載っていないからと言って、安全とは限りません。何も連絡手段はメールだけではないし、それこそ、壊滅させた組織の残党が逃げ延びて出し惜しみしていた情報を手土産に保護を要求する可能性だってある。記載がなかったセーフハウスは2箇所……いずれも襲撃しやすい環境にありますしね」
    「……まぁねぇ」
    郊外で人目につかない別荘と、スラム街の奥まったところにあるアパート。前者は人知れず襲うことが可能だし、後者では誰かが襲われたところで見て見ぬ振りがまかり通る界隈だ。おまけに場所が離れてる上に用途だって全く違う……つまり使い分けも読みやすい。片方が空なら候補はもう片方だけ——イージーにも程があるモグラ叩きだ。やれやれ、下手な勿体ない精神は捨てた方が良いな、これは。
     チェズレイはコーヒーを見下ろしながら言った。
    「……新しいセーフハウスを見繕うのに、2週間ほどかかるかと」
    「その話なんだけどさ、おじさんがかな〜り昔使ってたとこはどう? お世辞にもセーフハウスなんて大層な使い方はしてないから逆に割れにくいと思うし、お尋ね者やら脛に傷がある輩が隠れるにはもってこいだよ?」
    俺の提案に、チェズレイは少し考え込むように顎に手を当てて俯く。
    「……そうですね、悪くないかもしれません。あなたの過去をたどられればいずれ暴かれてしまいますが、『場所が割れるのにどれだけ時間がかかるか』は……まだ分かりませんからね」
    チェズレイの言葉には含みがある。
    (…………まぁ、同じ結論になるよなぁ)
    思いながら、俺はカップに口をつけた。丁寧に焙煎されたんだろうコーヒーはいつも通りに淹れられてるだろうに、冷め始めてるせいか妙に苦い。カップを置いて一息つくと、俺はゆっくりと口を開く。
    「…………誰かねぇ」
    可能な限り何でもない風に言ったつもりだったが、チェズレイがふっと小さく息をするのが聞こえた。傷ついてないか心配になるが、そんなことを俺に容易に読ませてくれるやつじゃない。
    (そう……問題は『誰か』だ)
    持ち出された情報の正確さを鑑みるに、奴さんは腕利きの情報屋を使ったか——内部を抱き込んだ、あるいはお抱えのスパイを潜り込ませた、そのどれかだろう。つまり『つい最近』雇用契約を結んだ新たな部下たちの誰かが『裏切ってる』って話も充分にありえる。
    「……あなたのかつて使っていた『隠れ家』はいくつありますか?」
    チェスレイは特に『誰か』って話題には触れずにそう聞いてくる。俺は首を捻った。
    「う〜ん、すぐに使えそうなのは3つかな。衛生状態問わないんならもうちょい増えるけども」
    「……最低6つは欲しいところだ」
    「……あいよ。実際使うかは分からん……っちゅうより『餌』ならほぼ使わんだろうし、それなら何とでもなるよ」
    言うと、チェズレイは頷く。
     どれだけ腕の立つ情報屋であっても外部からあれだけの詳細を調べようとするならカネと——時間が必要だ。だが、内通者がいるなら事情は全く違ってくる。何せ直接俺たちから情報を得られるんだから、リアルなところ『話が早い』。
     誰が情報を漏らしてるのか——ここから新たに緊急のセーフハウスという名の『餌』を用意するとして、割れるのに時間がかかったなら外部の情報屋、すぐに割れたなら内通者と見て良いはずだ。更に、部下ごとに共有する隠れ家を別にしときゃ、内通者絡みの場合にはそれが『誰か』に即行で辿り着けるって寸法だ。
    「ばら撒くとしたら、皆がバラバラになる明日の昼以降かねぇ。お前さん、これ見越してあの追加の指示書いてたの? 『念のため、休暇中はお互いに接触はなし』、『定時連絡以外の連絡は基本的に禁止』って」
    この作戦の一番大きな穴は内通者が複数いる場合だ。セーフハウスの情報を突き合わせられて『別々の場所を教えられた』事実が炙り出されれば、こっちの意図を読まれて逆に利用されるリスクがある。いずれ何らかの形でバレはするんだろうが、少なくとも仕掛けた罠が発動するまでの初動の段階で悟られるのは避けておきたい。
    「……否定はしません。まァ守られるかは分かりませんが、守られなかったら守られなかったで一定の牽制にはなるでしょう。あの指示から『こちらが疑っている』というメッセージを読み取れる相手ならば、ですが」
    チェズレイは言う。さらりとした口調からは、やっぱりこいつが傷ついてるのかは分かり難い。
    (……それも、こいつからの言外のメッセージなのかもしれんな。『触れてくれるな』っちゅう)
    そんなことを考えてると、チェズレイがふっと息を吐いて、悪戯っぽい目でこっちを見てくる。
    「体には、触れていただいてかまいませんよ?」
    「お前さんねぇ……」
    蠱惑的な胸元に目をやりそうになるのを堪えてると、チェズレイはクスクス笑った。本当に四十路のおじさんを捕まえて何でこんな風にからかうんだか。
    「……話は変わりますが、あなたのご実家とは連絡は取れたのですか?」
    チェズレイはしばらくして気を取り直すようにそう聞いてきた。
    「ん? あぁ、まぁね」
    俺は答える。
     おふくろにはついさっき電話をしておいた。少し前に突然ふらりと訪ねたっきりまた音信不通になったのを穏やかな言葉で少し指摘されはしたが、もう四十路にもなる男がそうスタイルも変えられないだろうと半ば諦めたような声音でもあった。何か変わったことはないか、さり気なく聞いてみたが、返ってきたのは不穏な兆候と言うわけじゃなく——
    「今、ちょうど兄が帰ってるらしい」
    「……モクマさんのご兄弟は、確か上に4人、下に1人でしたか」
    「うん。上は全部男……つまり兄で、下は妹だね。今回帰ってるのは一番上の兄らしい。嫁さんと子供も連れて来てるんだとさ」
    言うと、チェズレイは、あぁ、と独りごちた。
    「なるほど、そういった時期ですか」
    「…………あぁ」
    長らくマイカを出てたのもあって実感はなかったが——そろそろ墓参りの季節だ。兄が戻ってるのもそういう理由なんだろう。
    「……どうされますか?」
    チェズレイが聞いてくる。まぁ確かにこいつが慮ってくれてる通り、正直バツが悪い。碌に顔も出してこなかった俺が盆だからと実家を訪ねることも——それが単なる方便で、実際は狙われるかもしれないおふくろや親類を守るためなんて、そんな。
    「……俺が、逆に火種を持込む形になるかもしれんしなぁ」
    自然と口をついて出た言葉を、俺自身吟味して自嘲する。あぁ、そうだ……穏やかに余生を暮らしているおふくろの元にこんな親不孝な息子一人出向くより、どこかで派手に動いて敵を引きつけておいた方が良いんじゃなかろうか——そんな風に考えていると、チェズレイが、わざとなんだろう、少しおどけた様子で聞いてきた。
    「たとえ墓前になってしまったとしても……ご紹介の一つもしていただけない?」
    「…………」
    俺は俯いた。
     以前おふくろの元へ出向いた時は、チェズレイのことを『連れ合い』だと紹介した。道行きを共にする相棒とも、それ以上の意味を持つ相手とも、どちらとも解釈できる狡い言葉だ。おふくろは頷いただけで、チェズレイに対する態度に話す前も後も変わらなかった。
     おふくろが、チェズレイに対して——俺たちに対してどう思ったのかは、未だに分からない。あの時は遠慮があったのもあって、結局親父の墓参りも俺しかしなかった。つまりは何もかもが中途半端なままなのが現状だ。
     口籠もってる俺に、チェズレイはため息をつく。
    「何もかも落ち着いてクリアにして、と言うのは難しい相談です。何せ私たちは世界征服の途中ですし、全部事が収まってから……などと考えていては、老年になってしまいますよ?」
    「お前さんは年取っても綺麗でしょ……ってそういう問題じゃないか」
    俺はため息をつきながら額に手を当てた。チェズレイは俺の方を見ながら小さく笑う。
    「何もかも……しかも悪い方向だけやたらとバリエーション豊富に織り込んで先読みするのはあなたの悪い癖ですよ、モクマさん。実際、何も起こらないかもしれません。ただの取り越し苦労で、受け取った側の組織が情報を採用しない可能性だってある。罠だと思って勝手に自滅する可能性もね。…………きっと、」
    あなたと私ならどうとでもなります、と続けてチェズレイは俺の指に指を絡めてきた——小指の約束は、あの時からずっと生き続けている。俺は結ばれた小指を見下ろして、小さく笑った。
    「そんな楽観的な……お前さんらしくもない」
    戸惑い混じりになったのは、こと冷静に物事を捉えて美学に則った行動を取るために入念に下準備するのを信条としてるだろうこいつの口から、そんな言葉が出てきたのに驚いたからだ。
     俺の意外そうな顔に気づいたのか、チェズレイは俯いてコーヒーカップに視線を落とした。
    「……確かに、私らしくないかもしれません。けれど、あのヴィンウェイでの出来事があってから、私は決めたのです。あなたと『幸せに』添い遂げるためなら何でもしようとね。それには、あなたの心を守ることも、今の自分を変えていくことも含まれます」
    チェズレイは言う。瞬きをして視線を向けた先、チェズレイはこっちを見つめている。
    「人生は短い。幸せに生きようとするならば……時に厚かましくなくては」

     それは酷く収まりが悪く傲慢で——お互いをこれまでを踏み躙るような言葉だった。

    「…………お前さんは、充分厚かましいでしょうが」
    俺は照れ隠しにわざと軽口を叩く。

     実際のところ、こいつが肝心な部分でいかに自罰的で奥ゆかしくて——厚かましいなんてのとは程遠いことを俺は知っている。こいつはこいつなり美学を持って、自身のルールの元、それに恥じぬよう生きてきた。それがこいつなりの、自分自身に失望しないための生き方だったからだ。
     だが、俺があの時ヴィンウェイで吐露した言葉を受けて、そんな自分をこいつは変えたいと言った。その変化が、こいつが守ってきた美学を破るような、厚顔無恥で後ろ指を指されるような、恨みと誹りを受けるようなものだとしても。こいつが忌み嫌ってきた、他者を無神経に踏み躙るような下衆に成り下がるとしても。
     ただ、幸福に生きたいと願うこと自体は何に恥じることもないし、否定されるべき物でもない。ならば――俺もその覚悟を受けて、それに応えなくては。

    「……えぇ、ですから今度こそ私のことを『伴侶だ』とご紹介いただきますよ」
    黙りこくっていた俺に、チェズレイが茶目っ気をきかせて笑いかけてくる。
    「伴侶ねぇ……」
    俺はそれに乗るように腕を伸ばすと、チェズレイの腰を引き寄せた。
    「尻に敷かれてるのがバレバレでおじさん恥ずかしいったら……☆」
    「……物理的に私を抱え上げて『尻に敷かれてる』なんてつまらないことは言わないで下さいね」
    「あっ、ハイ」
    思わず手を離すと、チェズレイが逆に顔をすり寄せてくる。えっ、と驚くと、チェズレイは不思議そうに首を傾げた。
    「何故手を離されるんです? つまらないことを言わず普通に抱きしめていただければ構いませんよ」
    「あっ、ハイ」
    つい同じ返事を二度してしまった。何でこう照れもなく……こいつはこういう時にやたらとスマートで男前なんだろう。
     俺が改めて膝の上に抱き上げると、チェズレイはゆっくりと背中に手を回してきた。
    「ご安心を。情の下にあるあなたは強い……ですから、あなたのお母様の無事は私が保証します。私がついていくのは、」
    単純にあなたの傍にいたいからですよ、とチェズレイは囁いた。





    2.

     結局おふくろには再度一報を入れた。急だが明日にはそちらの国に着くこと、数日――場合によってはそれ以上滞在すること、可能であれば少しで良いから泊めてほしいこと——それから、チェズレイも連れて改めて墓参りがしたいこと。おふくろは特に拒むことなく了承してくれたし、そんなに長い滞在になるなら好きなだけうちに泊まっていきなさいと言ってくれた。……何も聞いてこなかったのは、会った時にでも、って話なんだろうか。


    「長旅だったねえ」
    伸びをすると、体のあちこちが解れていく。飛行機を乗り継いでようやく辿り着いたのは、この国唯一の空港だ。特に目玉になるような観光資源なんかもないのんびりした小国だからか、そもそも飛行機の便数自体が多くない。おかげで早朝の到着になっている。諸々の手続きがスムーズに進んだのはありがたいが、時間が時間なだけに空港内は閑散としていた。
    「……久しぶりですね」
    チェズレイが呟いた。こっちは十数時間の時差なんか物ともせずしゃんとした様子で辺りに目をやっている。
     俺は案内表示を一通り眺めた。
    「大分早いけど、休憩がてら朝飯食おうか。この時間だと市街地への移動手段もあんまり動いてないしね」
    提案すると、チェズレイは頷いて——少し含みのある顔でこっちを睨め付けてきた。
    「えぇ、あなたにはお伺いしたいこともありますから。朝食の際にでもゆっくりと、ね」
    「えっ、な、何……お手柔らかにね……?」
    俺はびくっとして冷や汗をかく。何だろうか……思い当たることは山ほどあるけども。出発前日だっていうのに激しくしすぎて失神させたことか、荷物を直前までまとめてなかったことか、それとも——
     うんうん考え込んでると、チェズレイはふっと気分を切り替えるように顔を上げた。
    「そう言えば、前回こちらへきた時、名物を食べ損ねたとあなたはしばらくブツブツ言ってらっしゃいましたねェ」
    チェズレイが言う。視線の先には塩っぱいものから甘いものまでよりどりみどりだ。観光こそ盛んじゃないが、土地が肥沃なのもあって作物は豊富——観光者向けって言うより実際に日常的に食われてるんだろう食品の素朴なパッケージは、食道楽の目には魅力的に映るだろう。
    「バタバタしとったからねぇ。名物っちゅうても色々あるみたいだから、今度こそいっぱい楽しめると良いけども」
    俺が言うと、チェズレイは顎に指を当てながら悪戯っぽく頷いた。
    「そうですねェ。ですが、前回駆け込みで買って帰ったお土産も好評でしたから、また帰りに買いましょう。ボスも喜ばれます」
    「えっ……またあのクリームまみれのやつ買うの……? いや確かに約2名めちゃくちゃファンができとったけども」
    頭の中に、思い出した二人の声がこだまする。
    『あっまーい! このたっぷりのコクのあるクリームと、中にふんだんに惜しみなく使われたシロップ漬けのナッツがたまらない! 噛むほどに生地のモチモチ感とザラザラで少しほろ苦いカラメルのコーティングが口の中でハーモニーを!』
    『お土産ありがとう、すごく美味しかった。でもシキやナデシコさんにも渡そうとしたら遠慮されちゃって……顔に出てたのかな、あぁいうゴテっとしたお菓子大好きなんだ』
    アーロンは『あんなモン一口二口でギブだったわ、ガキどもは食ってたがよ』っちゅうてたし、おじさんもアレ、正直そんな得意じゃなかったんだよなぁ。いや今度は真面目に自分用にツマミがないと泣いちゃいそうだ。特に海に囲まれてるだけあって海産物はめちゃくちゃ良さそうだし。
    「……まァ、今開いてるのはカフェぐらいのようですから、ひとまずそちらで腰を落ち着けるとしましょう」
    チェズレイの一言で俺は我に返った。あぁ、そういやそうだ。こんなとこに突っ立ってるのもなんだし、まずはモーニングと洒落込——
    (…………あ、)
    カフェの方に向けた俺の視線はそのまま止まってしまった。空港の入り口の自動ドアから入ってくる人影に、妙な馴染みが感じられる。成長してからは会ったことは一度もないはずなのに、どこか懐かしい。
    「……黙真だな」
    近寄ってきたその人物——兄は、そう声をかけてきた。

     車は空いた道をスムーズに進んでいく。高速でもないのに結構なスピードが出せるのは、早朝なのもあるだろうが、普段からそもそも交通量が少ないからだろう。今も市街に向かってるのはこの車とあともう一台くらいのもので、後部座席から見える景色も酷く長閑だ。親父とおふくろが終の住処としてこの国を選んだんだろうことがどこか眩しく、そして遠く感じられて俺は少し目を伏せた。
    「申し訳ありません、わざわざこのような時間に送迎していただくなど」
    隣に座ってるチェズレイがそう兄に声をかける。兄はバックミラー越しに少し視線を寄越しながら答えた。
    「構わない。母からも頼まれてきた」
    会話はそれ以上続かない。素っ気ないと取られても仕方ない簡潔な言葉から、必要以上に語らない寡黙さと、沈黙を特段恐れない神経の太さが伝わってくる。
    (…………相変わらず、なのかもしれないねぇ)
    俺は思う。背格好や顔立ち、声音なんかはもう薄っすらとした記憶すらないが、それでも何かしら感じるものがある。
     迎えにきたのは里帰りしてきている長兄——秀真(ほつま)だった。一番歳が離れていたのもあって、俺から見りゃ父に最も似てるように感じていたのがこの長兄だ。筋が通った人だが、物静かで何を考えてるのか態度にも現れにくいところは、父もこの兄もそっくりだったと思う。尤も、最後に顔を合わせたのはミカグラを出る数年前、まだ年端も行かぬ子供の頃だったから、あれからどう変わったかは分からないが。
    「…………30年弱くらいか、久しいな」
    「……はい」
    どう答えて良いか分からずに自然と丁寧な——余所余所しい声音になった。思うところがあったのかもしれないが、兄はそのまままた黙り込む。
    しばらく静かな車内はまた、すれ違う車の音が聞こえるだけになった。
    「……ご家族も里帰りをされていると、お伺いしましたが」
    チェズレイが口を開く。聞かれた兄の目尻が僅かに緩んだ。
    「嫁と、子供も連れてきている。騒がしいかもしれん」
    言葉とは裏腹に、声音は優しい。父もそうだったが、兄も家族想いなのがこの一言だけで伝わってくる。
    「お子様はおいくつですか?」
    「7歳と5歳……息子と娘だ。上にもあと3人いるが、受験だ部活動の合宿だ何だと言うから置いてきている」
    なるほど、とチェズレイは頷いた。
    「7歳と5歳となると、特にお嬢さんの方は、お喋りが楽しい年頃ですね」
    「小さくても女だ、かしましくて敵わん」
    ぶっきらぼうとも聞こえる答え方だが、娘を可愛がってるのが表情から分かる。兄の年齢からするに、少し歳がいってからの子供だ。格別に愛しいに違いない。
    「母と嫁……シノが朝食を用意している。苦手なものは?」
    「あぁ、前におふくろに伝えたけど特にないよ。甘いのが苦手っちゅうくらいで」
    「私も、特には」
    俺たちが答えると、兄はそうか、とだけ答えた。まぁ朝食の話だし、こいつが下戸だってのはまた改めて伝えれば良いだろう。
     気づけば窓から見える景色は少しずつ様変わりして、朝の光の中、ぽつぽつと民家らしきものが見え始めていた。どこか見覚えがあるような気もするが、じゃあどこが母の家かと聞かれれば判然としない。着いたらまた思い出すものもあるのかもしれないが。
    「あと5分もかからない」
    兄はちらりと時計に目をやった。
     言葉の通り、しばらくして車はとある民家の前で止まった。車を置いてくる、と告げて去っていく兄を見送ってから、俺は改めて辺りを見回す。
    (あぁ、こんなだったな……)
    簡単に舗装されただけのなだらかな上り坂の先にある平屋は、多少古さを感じさせるもののしっかりとした造りだ。周りにある畑も広くはないものの、豊かな緑が茂っている。この国に移り住んだ際に中古で買ったと言っていたから、きちんと手入れをしているんだろう――親父が亡くなった後も。
    「……前にお伺いした時も感じましたが、何処かノスタルジックな感覚に陥りますね」
    チェズレイが家の方を見上げながら言う。
    「あぁ、そうだね。住んだことなんかないのに、何か懐かしいもんだ、こういうのは」
    俺はそう答えて緩やかな坂を登り始めた。
    (……あぁ、そうだ)
    家が近づくに連れて記憶が蘇ってくる——確か玄関にはマイカの印の入った飾りがかけられていたはずだ。たとえ土地を離れたとしても、マイカの民であることを忘れなかった父母らしい主張。前回来た時は、この飾りについて話したのが最初の会話だったか。
     つらつらと思い出していると、玄関の灯りがつくのが見える。
    「お帰り、黙真。チェズレイさんも、いらっしゃい」
    車の音を聞きつけたのか、扉がカラカラと開いて、中からおふくろが顔を出した。シワなんかはあるものの、しゃんと背筋を伸ばした姿勢は到底実年齢を感じさせない。返って猫背になりがちな俺の方が年食ってる錯覚に陥るくらいだ。
     軽く頷いた俺の横から、チェズレイが頭を下げて紙袋を差し出した。
    「ご無沙汰しております。こちら、つまらないものですが」
    俺は目を白黒させる。いつの間にお土産を買ったのか分からないし、何なら今までどこに持ってたんだって感じだし、何よりそんなマイカ流の言い回しとか今まで俺の方はした覚えがないし——本当に驚くくらいにできた連れだ。
    「そんなに畏まらなくても……あら、この包み……」
    おふくろが紙袋を受け取りながら言う。チェズレイは少し微笑んだ。
    「以前お持ちしたもののうち、特にこちらを気に入られていたようなので」
    「えっ」
    思わず声を上げた俺に、チェズレイは有無を言わせぬ笑顔を向けてきた。こうなれば俺はもうただぼけっと突っ立ってるしかない。
    (そ、そうだったっけ……?)
    俺は首を捻った。そう言われたらそう……だったような。いやけど、この前はどれにどんな反応してたかなんて覚え切れないくらいに山盛り土産持ってった気がするんだけども。
    「気づかれていたなんて、恥ずかしいわ。……ここのお菓子はどれも小豆の甘みがやさしくて、少しマイカが懐かしくなってね」
    おふくろが目を細めた。チェズレイは唇に指を当てながら頷く。
    「私もこのくらい甘さが抑えられているものの方が好きです。豆の皮の残し方も粗すぎず……」
    「あら、そうなの? 粒あんだと舌触りが引っかかるから苦手なひとも多そうだと思ったけれど、チェズレイさんはそうでもないのね」
    「こちらのお菓子ではありませんが、モクマさんが召し上がっているものを偶に相伴に預かりますので、慣れました。回転焼き、というものは先日初めていただきましたが……」
    所在がないってのはこういうことを言うんだな、と思いながら俺は頭を掻いた。いや、連れ合いと母親の話が弾んでるのは全然悪くないんだが、親不孝なほど顔を出さなかったのもあって、いかんせん居心地が悪い。
    (どうしたもんか……)
    そう思いながら何となく庭の方に目をやると、隅の方に前はなかった小さな小屋があるのが見えた。物置っちゅうにはかなり小さいが……って、あぁ、なるほど。
    「おや、」
    チェズレイも気づいたらしく、俺と同じ方向に目を向ける。ちょうどその時、騒がしく感じたのか、小屋からひょいっと犬が顔を出した。茶色の豊かな毛並みと大きな体格——ゴールデンレトリバーだろうか。
    「犬飼い始めたんだ?」
    聞くと、おふくろは頷いた。
    「番犬……でしょうか?」
    チェズレイがまずそう聞いたのは、人付き合いの濃い田舎とは言え、一人暮らしになっているおふくろの身を案じてのことなんだろう。田舎特有なのか、さっきも明らかに玄関の鍵かかってなかったし。
     だが、おふくろは首を振った。
    「そういうのは一応監視カメラとかもあるし……純粋に新しい家族なのよ。あのひとは、あまり生き物を飼うのに賛成じゃなかったから飼ってなかったけど……一人だとどうもね」
    おふくろの目が少し細められる。その視線を追うと、先には山間が広がっていた——親父の墓も、あの山の麓にある。
    「…………名前は何と?」
    チェズレイが聞くと、おふくろは気を取り直したように笑顔を作って犬に呼びかけた。
    「ボス、いらっしゃい」
    「っっっ」
    思わず吹き出しそうになって我慢した。傍らのチェズレイは何やら複雑そうな顔で——あ、いやこれウケてるだけか、肩震えてるもんな。ルークやアーロンに比べたらマシかもしれんが、それにしたってボスとは! 妙な偶然もあったもんだ。
    「朝の散歩がまだだったわねぇ」
    おふくろが近寄ってきた犬——ボスの頭を撫でた。飼い始めてしばらく経つのか、ボスはおふくろの手を気持ち良さそうに受け入れている。結構な懐きぶりからするに、元来人懐っこいのかもしれないが。
    「散歩であれば、モクマさんと私で行きましょうか」
    チェズレイが横から——俺に目配せしつつ、おふくろにそう提案した。
    「着いたばかりなのに悪いわよ」
    そんな風に固辞するおふくろと——横からも低い声がかかる。
    「……車に酔わせたか」
    駐車し終わったらしい兄がいつのまにか戻っていた。
     チェズレイは緩やかに首を振ってボスを見下ろした。
    「いえ、申し分なく快適な運転でした。ただ、車だけでなく飛行機なども長時間乗り継ぎましたので、少し散歩をして外の空気を吸いたいのです」
    朝食まで時間があるならの話ですが、と付け加えたチェズレイに、おふくろは納得したらしく頷いた。
    「そういうことなら頼もうかしら。賢い子だから道案内もしてくれると思うわ」
    おふくろは俺にリードを渡してくる。ワンッと元気よく鳴いて、ボスは道案内するようにぐいぐい先を歩き出した。

     ボスは元気に凸凹道を歩いていく。偶にリードを口で引っ張って方向を示してくれる上、少しこっちを待ってもくれる辺り、生真面目な気質が察せられる。人懐っこくかつ真面目——『ボス』の名に恥じない犬だ。
    「しかし何だ、お前さんすごいねぇ」
    俺がそう漏らすと、チェズレイは首を傾げた。
    「何の話です?」
    「いんや、いつの間にお土産用意してたの? おじさん全然気づかなかったよ」
    「訪問が決まった時点で手配は済ませていましたよ。受取りは隙を見て……今時の空港は便利ですねェ。……けれど、」
    どちらかと言えば、あなたが驚いていたのは別のところでしょう、とチェズレイは言う。俺は頭を掻いた。
    「……おふくろが気に入った土産がどれかなんて気づかなかったなぁ」
    なるべく何でもない風に言おうとしたのに、思った以上にその言葉は情けなく響いた。チェズレイはひたむきに人を見る奴ではあるが、それにしたっておふくろの好みに肉親の俺が気付けなかったのは——何と言うか色々な意味でバツが悪い。
    (…………あの小豆の、小さめの菓子)
    確か到着したその日に、せっかくだからと3人で摘んだものだ。けれど、思い出せるのはそんな『単なる事実』だけ。
    (…………あの時、)
    おふくろはどんな顔をしてあの菓子を食べて、どんな感想を言っていただろうか。確かに食べたはずなのに味の記憶すら朧げだ。
    「……お前さんがおふくろのことよく気づいてくれて助かったよ。おじさんが選んでたら下手すりゃめちゃくちゃ外した土産になってたかもしれんし」
    酒とかさぁ、と付け加えて、ははっとわざと自嘲するように笑った俺を——チェズレイは笑わなかった。見下ろしてくる視線は、どこまでも柔らかい。しょうがない人だ、とでも言いたげな甘やかさだ。
    「……私がよく見ることができたのは、『他人』だからですよ。あなたは、あの時目を逸らしがちでしたから」
    チェズレイは言う。
    「肉親と数十年ぶりに会ったのであれば、どんな視線を向ければ良いのか分からないのは当たり前でしょう。己を損なうような生き方を長くしていたのであれば、尚更。それをそんな風に言うのは実にあなたらしい……下衆ですが、それは誠実さとも言える」
    俺は瞬きをして俯いた。横から注がれるチェズレイの視線に気づかないふりをして――せめて下衆なりにチェズレイの言葉に甘え過ぎないよう、思考を止めて道に伸びる影を意味もなく見つめる。
     風向きが変わったのは、立ち止まってた俺たちを促すように、ボスがリードを引っ張ったからだった。
    「……あ、あぁ、すまん」
    そこで俺は黙ったままのチェズレイに目をやる。
    「……次は、あなたが土産を買う番ですからね」
    そう囁くように言うチェズレイに、俺は頷いた。次を作るということ、そのために俺が俺なりにおふくろに向き合うことを約束させたチェズレイは、この話は終わりだ、とでも言うように前を向く。
    (…………他に話すべきことだってあるのに、こいつには敵わんなぁ)
    思いながら、俺はほうっと息を吐いた。とは言え、もう一つの話すべきことを話すには、民家が立ち並ぶこの辺りでは『まだ少し早い』。
     しばらくお互い無言で道なりに進んでいく。何度か道を曲がった辺りで、チェズレイが唇だけ動かして聞いてきた。
    『どうです?』
    「……特に監視はないね」
    俺が呟くように言うと、チェズレイは頷いて——それから一瞬だけ森の方に目をやる。
    「……視線はありますがね」
    「…………悪かったよ」
    俺は頭を掻く。まぁ人一倍狙われてきたこいつのことだから、ずっと隠し通すのは難しいと思ってたが、思った以上にもたなかった。
    「……それで、オレク・ヨハンソンはどういうつもりでついてきているんです?」
    チェズレイは言う。まぁ、ぶっちゃけ空港で咎めようとしたのもこの話に違いない。

     オレクが頼み込んできたのは、俺とチェズレイの今回の南国入りにこっそりついて行きたいって話だった。
    『こっそり、っちゅうんなら寧ろ俺にも言う必要はないんじゃない?』
    探るように言ったものの、オレクは舌打ちをしながら返してきた。
    『冗談が下手だな。癪な話だが……あんたの目は誤魔化せないだろう』
    律儀なんだか計算高いんだか、或いは両方か。オレクは目を逸らさずこっちを見つめてくる。
    『おじさんが敏感なのは、狙撃と横恋慕だけよ?』
    わざと茶化すように言ったものの、オレクは、そんなのじゃない、と言ったきり黙り込んだ。そのまま無言を貫き通すオレクに、最後には、休暇なんだから好きにするといいんじゃない、としか言えなかった。

    「ハネムーンについてくるなど、無粋も甚だしいですね」
    チェズレイがため息をつく。俺はチェズレイを宥めるように言った。
    「ま、奴さんにも事情があるんでしょうよ。……真面目な話、どう転ぶか分からん以上、今は泳がせるタイミングだ」
    オレクの申し出はこうだった——情報が流出したのなら、組織のトップであるチェズレイこそ狙われる可能性が高い。それなら、寧ろチェズレイを遠くから監視しておくのが相手の出方を伺うのに最適だろう、と。
    (まぁ、言い分としちゃ正論だ)
    だからこそ、断れなかった——断ったらその時点で、お前を信用してないと言ってるようなものだからだ。実際、オレクがチェズレイを狙ってるのか護ろうとしてるのか他の意図があるのか——今の段階じゃ何も分からない。本当にチェズレイの身を案じてるなら、オレクの性格を考えりゃ神経を逆撫でして寝返られかねないし、結局向こうがあの申し出をした時点で取れる最善策は一つしかなかった。
    「えぇ、私も同意見ですよ。……どちらにしろ、あなたが傍らにいてくださるのなら何の問題もない。頼りにしていますよ、守り手殿」
    チェズレイはそう言って笑う。ワンッと何故か相槌を打つようにボスも鳴いた。あぁ相槌っちゅうか、ある程度散歩もしたからそろそろ戻ろうってことか。本当に賢い犬だ。
    「……差し当たって、今のところは出歯亀が一人というところ。しばらく情報収集しつつ、相手の出方を伺いましょう」
    言いながら、チェズレイは俺の眉間に指を当ててくる。皺寄っちまってたか、と俺は首を振った。あらゆる危険からチェズレイの身を守り、どこかから仕掛けられるかもしれない攻撃からも身内をやはり守る——それは、放浪していた日々を思えば身に余る重みで。
    (…………こんなに欲張って、)
    何とかなるんだろうか——そんな風に燻る不安の種を摘むように、チェズレイが微笑みかけてきた。
    「モクマさん、同じ動けないのであれば少し肩の力を抜いて過ごしましょう。これは『休暇』なのですから」
    嗜めるような声に、俺は瞬きをしてから意識的に表情を和らがせる。
    (…………あぁ、そうだ)
    何より俺が思い詰めた顔をしてちゃ、おふくろたちに何かと気取られるものもあるかもしれない——それだけは、避けなくては。
    「んじゃ、帰りますか」
    俺は、今度こそへらりと笑ってみせる。チェズレイは一つ頷いて踵を返した。





    3.

    「……っちゅうことがあってね」
    『……何で俺は電話越しに中年男の惚気を聞かされている』
    「ありゃ、惚気に聞こえた? 事実を伝えただけなんだけど。あぁ、あとおふくろがペット飼い始めててさ、その名前が聞いて驚くんだけど、」
    『犬の名前などどうでも良い!』
    電話の向こうのオレクが叫ぶ。いやでもこっちだって伏せるところを伏せると何か話そうにも惚気以外に話題がないくらいに平和なんだから仕方がない。
     最初は名目だった『休暇』は、何も動きがないのもあって実質上もそうなりつつあった。少なくとも休み始めてから二、三日経った今、俺たちだけじゃなく世界中に散り散りになった部下たちも似たような状況らしく、至ってのんびりしたもんだ——タブレット越しに青筋立ててるだろうオレク以外は。
    「っちゅうか、そんな生真面目に頑張らなくても良いのに。チェズレイが伝えてた通り、何もないかもしれんし、そしたらお前さん単なる出歯亀、」
    『ッッッ‼︎』
    ガチャンと明らかな不協和音が聞こえた——カップか何かでも割れたんだろうか。
    「……ともかくさ、あんまり棍詰めないようにね。思考が狭まってると柔軟に対応できんよ?」
    俺が言うと、オレクは深く長いため息をついた。イライラさせたお前が言うなって話もあるが、その反面、恐らくオレク自身も自分の欠点だと認識してはいるんだろう。
     しばらくして、幾分クールダウンした声でオレクが言う。
    『それで、もう一度聞くがそっちの状況は。惚気以外にもあるだろう』
    「まぁね。……間取りはメッセージで伝えた通り。部屋の割り振りは、一番広い客間に兄の家族、俺たちは離れの方かな」
    俺は素直に答えた。現状オレクが味方か敵かは分からないが、こっちを見守ってる以上、遅かれ早かれオレクの方で気づくだろうことは、最初から開示したところでリスクは変わらない。
    「兄の家族とやらはどうだった?」
    オレクがそう聞いてくる。単なる興味か、何かしらの意図があってかは分からないが……俺は昨日初めて会った兄嫁――シノさんや子供たちのことを頭に浮かべながら口を開いた。
    「どうっちゅうても……まぁ普通の家族だったよ。夫婦で少し歳の差あるって言ってたかなぁ……案外兄嫁さん、おじさんよりちょいと年上ぐらいなのかもしれないけど、気さくなタイプだったからお互い特に敬語とか使わなかったし」
    『……特に今のところは異常なしか』
    「そうみたいだねぇ。皆特に俺やチェズレイに対する態度に違和感ないし、そもそも何かトラブルに巻き込まれてたら里帰り自体中止にするだろうからなぁ。あぁそういや甥っ子や姪っ子……アラタとヒマリっちゅうんだけどさ。可愛かったんだけど、あいつら、チェズレイみたいなタイプの人間に会ったことなかったみたいですぐに夢中になっちまってねぇ」
    俺は思い出す——顔を合わせたアラタとヒマリは最初こそ人見知りするようなそぶりを見せたものの、チェズレイの姿を見るなり目をキラキラさせた。
    『すごい! かみきれー! おひめさまみたい!』
    『王子さま、じゃないかなあ』
    なるほど、『柔らかい物腰の』『物知りで上品で優しい』『素敵な美人のお兄さん』なんてレアな存在は、普段そうお目にかからないのもあったんだろう。おまけに、チェズレイは持ち前の頭で二人がその時家中を探し回ってたぬいぐるみを瞬く間に探し当ててみせた。以降、二人はほぼチェズレイに懐きっぱなしで、最早実際血が繋がってるはずの俺の方が返っておまけみたいな扱いだ。昨日の夕飯だってどっちがチェズレイの隣で食うかで喧嘩し始めてたし(結局俺がチェズレイの正面に座り直したっけ)、しばらく子供たちの『チェズレイフィーバー』は終わりそうにない。
    (…………何ならボスもチェズレイに懐いとるしなぁ)
    俺は心の中でため息をつく。チェズレイはこの滞在中ボスの餌もやってくれてるし、おじさんの存在って何なんだろうってくらいだ。まぁ、チェズレイ本人は俺に遠慮してか、『……申し訳ないことをしてるのかもしれませんがね』なんて言ってたが。
    「今だって、兄貴たちが買い出しに行ってる間、チェズレイとおふくろで子供たちを見てくれてるんだよなぁ。アラタもヒマリもきゃあきゃあ騒いじゃってさ。下手すりゃおじさんがいないことにも気づいてないかもしれないねぇ」
    苦笑してると、まさにそのタイミングで居間の方から子供の笑い声が聞こえてきた。うーん、予想通りか。いざ不人気を実感すると寂しいもんだ。
    『……それは都合が良いな』
    オレクが思いがけずそう言ってくる。俺は聞き返した。
    「うん? 都合が良いって?」
    『子供は何かと邪魔になる』
    「…………まぁね」
    言ってることは分かる。子供はリスクも損得も測れない酷く刹那的な生き物で、特に戦闘なんかにおいちゃまず排除すべきイレギュラーな存在だ。下手に巻き込んじまうとそれだけ事態が読みにくくなるし、単純に死なれたり怪我されたりなんかすると後味が悪い——そんなことは分かってはいるが。
    『…………あんた、身内の子供に会った程度で鈍になったりするのか?』
    オレクが訝しげな声で聞いてくる。まさか、みたいなトーンで言い放たれた言葉に、俺は向こうに聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
    「どうだろうねぇ……」
    そんなものは鈍の意味にもよる——としか言いようがない。
    黙りこくってると、居間の方から、モクマさん、とチェズレイが俺を呼ぶ声がした。画面の向こうのオレクにも聞こえたらしく、ふっと鼻で笑うような声がする。
    『本当に大事なものを取り違えるタイプには見えないが……意外だな』
    そんな風に言われても、俺は何も言い返せなかった。





    4.

    「ちぇずれーさん、みつあみしてもいい?」
    「! いいないいな、わたしもやる!」
    畳敷きの和室に子供の声が響き渡る。幼い歓声に囲まれて穏やかに笑うチェズレイの姿に、俺は目を細めた。
    (…………本当に、)
    未だに見る度信じられない気持ちになる。滅多に見ない光景だし、恐らくは今後もそう見ることはないんじゃなかろうか。まず子供が纏わりついてるチェズレイってのがレアだし。

     おふくろの家に滞在し始めて一週間が経っても、相変わらず『動き』はなかった。仕掛けた『罠』に誰もかかった様子はないし、オレクからも——嘘か本当かは分からないが、自身以外に俺たちに対する監視なんかは特にないと報告を受けている。
    『……情報屋経由ですかね』
    『そっちの線も出てきたねぇ』
    そんな話をしながら、相手の出方を待って数日。おかげで、こうして兄の子供の世話を引き受けたりボスの散歩をしたりで、思いがけずのんびりと過ごす形になっていた。まぁ俺の方がよりのんびりになっちまってるんだが――相変わらず、子供たちもボスもチェズレイに夢中になっとるし。

    (しかしよく懐くもんだ)
    最近はヒーローショーより裏の仕事を優先してきたし、こんな風に身近に子供の笑い声を聞くのは久しぶりのことだ。子供特有の屈託ない笑顔に釣られてか、視線の先のチェズレイの表情も柔らかい。裏組織のボスなだけあって一種独特の雰囲気を纏ってるチェズレイが、これだけ素に近い姿を見せるのは少し驚きだった。
    「あたしがやるの!」
    「ぼくもやりたい……」
    気も主張も強いヒマリとのんびり屋だが譲らないアラタ——子供たちの性格を一言で言うとそんな感じだろうか。おかげで割と喧嘩になりやすいらしく、しょっちゅう言い合いになっている。今も、チェズレイの髪をどちらが結うかで、下手すりゃ取っ組み合いでも始めそうな雰囲気だ。
    (昼飯までのほんの僅かな間でも、ちょっとした火種で喧嘩になりそうになるんだねぇ)
    思いながら、俺は二人に声をかける。
    「まぁまぁ二人とも、どっちかはおじさんの髪でどう?」
    ほれほれ、と指で髪を引っ張ってみせたものの、ウケは全く良くない。
    「おじさんのかみ、みつあみできないでしょ!」
    「みじかいよ……」
    二人はチェズレイの傍から一歩たりとも動かない。何なら邪魔だとすら思われてそうだ。
    「うぅ、ごもっともな振り文句……おじさん泣いちゃいそう」
    泣くふりをしてみても、二人とも知らんぷりをしてくる。同情的なのはすぐそこの小屋から覗いてくるボスくらいなもんだし――あ、違うな、ありゃチェズレイと遊びたがってる顔だ。小屋のおもちゃ引きずり出してきてじっとチェズレイのこと見とるし。
    「あっちいってて!」
    「やだ、いかない」
    ちょっと視線を逸してる間にも子供たちは一触即発の雰囲気になっている。この頃の子供はとにかく引くってことを知らないし、一度こだわり始めればめちゃくちゃに固執するもんだから気を逸らそうにもなかなか難しい。
     どうしたもんかと困っていると、当のチェズレイが二人に割って入った。
    「わかりました、では片側ずつに分けましょうか」
    言いながら、チェズレイは二人の真ん中に座って髪を綺麗に両側に分けてみせる。さらりと靡く髪は、一刻も早く結いたいと思わせるに十分に見えた。
    「あたしこっち!」
    「じゃあ、ぼく、こっち」
    アラタとヒマリは途端にさっきまでの歪み合いはどこへやら、分かれてチェズレイの髪をいじり始めた。
    (…………上手くやるもんだ)
    俺は感心する。
     チェズレイ自身、親戚とは仲が良いとは言えないだろうし、身内の子供と接する機会なんてなかっただろう。なのに、こんなに子供の扱いが上手いとは思ってもみなかった。長年ヒーローショーで相手をしてきたのもあってそれなりに子供に好かれる自信があったが、実の甥姪に関して完敗する羽目になるとは分からないものだ。
    「……黙真」
    背後から声がかかる。振り返ると、兄がふらりと顔を出していた。
    「どうかした?」
    「手が空いているようであれば手伝ってくれ」
    言いながら、兄はちらりと部屋の真ん中へ目をやる。明らかな暇人の俺と、子供たちに髪を結われているチェズレイ――チェズレイはほんの少し兄の視線に応えて、小さく頷いた。まぁ、ここは任せても大丈夫だろう。
     顔を引っ込めて先を行く兄の後を追う。追いついて足並みを揃えると、兄は小さく呟いた。
    「…………意外だった」
    「うん?」
    「あんな風にうちの子供が、お前の連れに懐くとは思わなかった」
    兄は言う。マイカの出身だ——兄もそれなりに人の実力を見抜くところはあるだろう。立ち居振る舞いやら何やらから、チェズレイが只者ではないことくらい察していたに違いない。
    「……人懐っこい子たちじゃない」
    とは言え、俺は誤魔化すように言う。兄は静かに答えた。
    「……それでも、大の男にはあまり絡みに行かん」
    話しながら足を進めているうちに縁側に出た。視線の先の庭には竹が無造作に数本置かれている。どうやらすぐそこに見える竹林から調達してきたらしい。あぁ、と考えが巡ったところで、答え合わせをするように背後から声がかかった。
    「流しそうめん、どうかなぁって」
    振り向くと、シノさんがニコニコ笑いかけている。
     無口でともすれば無愛想に見える兄とは真逆で、シノさんはおしゃべりで笑顔の絶えない人だった。意外にも亭主関白な雰囲気はなく、寧ろ年下だという割にアクティブなシノさんの方がどちらかと言えばイニシアチブを握ってるようだ——とすれば、恐らくこの流しそうめんも彼女の発案なんだろう。
    「黙真くん、器用なんだって? 私こういうのからきしでさ。申し訳ないけど、秀真くんのこと手伝ってくれると助かる」
    シノさんは言う。そもそも竹だってこの大きさならそれなりに重いし、男女二人より男二人の方が良いだろう。俺が頷くと、シノさんは、ありがとう、と笑った。
    「具沢山のそうめんにしようかなってお義母さんと言っててさ。嫌いな具とかない?」
    「特には」
    「はいよ。それじゃ、楽しみにしてて」
    シノさんは台所の方へ引っ込んだ。
     俺は改めて先に庭へ降りていた兄の元へ向かう。兄は竹を割ったものを既に幾つか作り終えていた。綺麗に真ん中で割られている辺りやっぱり器用だし、見た感じ手際も良い。
    「どんな風にするか、決まってるの?」
    「庭の広さを考えると、途中で折り曲げるしかない」
    兄は言う。犬小屋以外特に置かれてない庭ではあるが、大人5人と子供2人を交えて流しそうめんをするなら確かにそれなりのスペースが必要だ。植わっている草木やら竹林やら何やらを考えると、一直線でやるのはかなり厳しい。
    「……こんな感じ?」
    竹を手に取ってざっとコの字に並べていくと、兄は、あぁ、と頷いた。
    (あ、そうか……)
    よく考えれば、子供が楽しむのを考えても曲げて流す方が良いだろう。高さもそれなりにある方が面白いかもしれない。
    (……流しそうめんなんて、あいつ初めてだろうな)
    想像して、ふっと口元が緩んでしまう。食に対するチェズレイは基本堅物——と言うか、上流出身特有の、遊ぶことを知らない真面目さだ。屋台や立ち食いなんかも俺が付き合わせたのが初体験だったらしいし、夜食すらほとんどやらない。
    (…………そういやこの前、)
    ルークがチェズレイと飯食ってる写真を送ってくれたが、あいつチョコレートの滝みたいなやつに若干引いた顔してたっけ。いや、まぁあれはもしかしたらルークがフルーツにつけてたチョコレートの量の問題だったのかもしれんが。
     思い出し笑いをしてると、ふと竹が動かされる音がした。
    (っと、まずは作業作業)
    俺は我に返って改めて庭全体を見渡す。兄は一番端の最も高さが必要なスタート地点の仮組みを始めていた。立体化するための柱にする竹は長さを調整しつつ——あと数本は使うだろう。だがそれでも恐らく取ってきた竹はいくらか余りそうな雰囲気だ。
    (……なら、)
    俺はまだ半分に割ってなかった竹に手を伸ばす。胴の部分に少し切り込みを入れておいてから改めて上からノコギリを入れてみる。すると、入れておいた切り込みのところで刃は止まって、竹はカランと切り離された。
    (おっ、なかなか悪くないんじゃない?)
    出来上がった細工に目をやって、俺はにやりと笑った。作ってみたのは簡単なトンネルだ。普通の流しそうめんだけでも面白いだろうが、どうせ楽しめるようにするなら他にも色んな趣向を凝らすのも悪くない。
    (どうにかしてジャンプ台みたいなのも作れんかな……まぁそこまでいくと流石に完全に遊びになっちまうからマナー的によろしくないかもしれないけども)
    考えながら節の部分をくり抜いていく。それも終わってまた新しい竹を取りに行くと、兄が顔を上げて俺の方を見てきた。
    「…………お前の連れは、あぁいうのが好きなのか」
    聞かれて、俺は何だか気恥ずかしくなってきて頭を掻く。
    「いんや、流石にあれは子供用。まぁでも、何事も興味深げに吸収してくれるやつだから、意外とこういうのも楽しんでくれると思うよ」
    俺は答えながら、全体を改めて見渡した。兄の手際を考えると、仮組みは任せてしまった方が返って邪魔にならないだろう。改めて縄をきつめに縛り上げるタイミングで協力した方が良さそうだ。
    (んじゃそれまでは、トンネルなり……あとは余った竹で箸やらお猪口やら作っても良いかもしれんなぁ)
    そんなことを思いながらまた作業を始めようとしたところで、兄が小さく呟いた。
    「…………お前が今やっていることに、危険はないのか」
    聞いてくる兄の言葉に、すぐには答えられなかった。しばらくしてから、俺はわざとへらっと笑いながら言う。
    「あぁ、確かにもう少しトンネル短くした方が良いかもしれないね。そうめんが途中で詰まっちゃった時簡単に直せた方が良いし」
    返した言葉に、兄は小さくため息をついた。
     本当は分かっている——聞かれてるのは、チェズレイとの道中の話なんだろう。もしかしたら、裏社会に身を置いてることぐらいは察せられてるのかもしれない。
     俺は手元を見つめる。思い出すのは、つい数日前のチェズレイの言葉だ。

    『……次は、あなたが土産を買う番ですからね』

     次を作るということ。おふくろとまた疎遠になりかけていたのは——多分向き合う勇気がなかったからだ。自分が踏み込んだら、相手にも踏み込まれる。何をしてたのか、これからどうするのか——そんな話を並べてたらいずれ親不孝な話もせざるをえなくなる。後ろ指を指されても仕方がないような汚れ仕事をしていること、危険な場所に身を置いていること——そして俺が何があったってそれを止める気がないこと。
    (…………だとしても、)
    永遠に何も話せないままになってしまった親父のことを思う。黙して真を為す——黙ったまま何もかも抱えて生きていくことだって、それはそれで美徳だとは思う。

     だが、そのままでは——俺は何も変われない。

    「……俺はさ、」
    気づけば、口を開いていた。兄は手を止めず、俺に視線も向けてこない——その兄なりの気遣いに感謝しながら、俺は続ける。
    「この数十年危ない橋をいくらか渡ってきたけど、ついこないだまでは、後ろ向きな理由だったんだよね」
    タンバさまに顔向けできるよう、誰かを守って死ぬ——それだけを目指して生きていた。生き永らえて『しまった』とすら思い、毎日自分を呪うような人生だった。誰かの代わりに命を投げ出すような危険や、緩やかに体を痛めつけるような酒に身を晒して、ただただ一日でも早くこの命が絶たれてしまえば良いと、そればかり思って。そしていつしかその死にたがりの心からすら目を背けて、誰にも踏み込まれぬようのらくらと生きてきた——あいつに出会うまでは。踏み込まれただけじゃない、痛いところを突かれてぐちゃぐちゃに掻き乱されて、自分の中にこんな感情がまだあったのかと、化石みたいだと思っていた自分がまだ生きてるんだと気づかされて。
     あいつが、俺を生き返らせてくれた——生への執着や、俺がどういう人間だったのかを、思い出させてくれた。
    「あいつは、俺があいつといることが両手を上げて賛成してもらえるようなもんじゃないと分かってるよ。危険だし、恨みは買うし、お天道様の下を大っぴらに歩けないような後ろめたさもあるしね」
    具体的には語らなかったが、それでも兄には伝わっただろう。裏社会に身を置いて、気の休まらない日々を送っている。とても正気じゃないとすら思われるかもしれない。
    「それでも、俺は今幸せなんだ。あいつの傍にいて、これから先ずっとあいつと共に生きていくことが何よりの希望で幸福で、……そう思えることが、誇らしい」
    「…………そうか」
    兄はそう言って立ち上がった。いつの間にか流しそうめんの台は粗方組み上がっている。
    「お前は、名前の通り……小さい頃から心の底に何もかもしまいがちだった。本当は誰より譲りたくないものがあっても、だ」
    兄が俺を促した先には、一つだけ組み上がってない箇所がある——俺は手にしたトンネル付きのルートをそこに嵌めた。ぴったりだった。兄はそれを見下ろしながら、ぽつりと呟く。
    「そんなお前が、それだけ本音を出して譲れないと言えるようになったなら……それは祝福すべきなんだろう」
    けして踏み込み過ぎない、それでいて突き放すこともない物言いに、少し鼻がつんとする感じがして俺は目を伏せた。
    「最後まで話聞いてくれてありがとう、兄ちゃん」
    「よせ、兄ちゃんなんて年じゃない」
    わざとおどけるように言った言葉に、兄はため息をつく。この話は終わりだと言うように、それ以上はお互い語らなかった。無言のまま、二人で流しそうめんの台の縄を締めて仕上げをする。完成したところで、もうそうめん茹でて大丈夫?とシノさんが聞いてくる声がした。





    5.

     車から降りると、足元の砂利が鳴る。太陽が真上に来るまでまだ時間があるってのに、外は既に蒸し暑そうだ。俺は出がけに渡された帽子を被る。あんまり似合わない自覚はあるが、背に腹は変えられない。ここはマイカじゃないし、暑いんだから畏まらなくても良いわよ、とはおふくろの言で、皆派手な色は避けてるとは言え、とても喪服とは言えない格好でここ——親父が眠る墓地を訪れていた。
    「来る度に近くで良かったって思うのよねぇ」
    おふくろが言う。ちょっとの間なら問題ないだろうと甘いことを考えてしまったが、なるほど、この日差しは殺人的だ。ちなみにここから墓地まではそんなに歩かないらしい——ありがたい話だ。
    「じいじ、あつくないかなぁ」
    「……そうね、今日は暑いから、お水いっぱいかけてあげようね」
    「じょうろどこ?」
    「あっちだ、階段の上にある……来るか?」
    「うん!」
    前を行く兄の家族の声を聞きながら、俺はチェズレイと言葉少なに駐車場を歩く。南国特有の極彩色の花があちこちに咲いている状況は、とてもマイカの墓地とは似つかないが、どことなく落ち着いた雰囲気に思えるのは辺りが静かだからだろうか。
    「…………綺麗な場所ですね」
    チェズレイが口を開く。おふくろは、あら嬉しい、とニコニコ笑いながら山の中腹の方へ目をやった。
    「本当はもう少し登ったところでも良いかしらと思っていたけれど……あの人高いところ苦手だったのよね」
    「……そうだったの」
    覚えのない話に俺は呟くように返す。
    「そうよ。あの人は何でもないフリをしようとしてたし、黙真はまだ小さかったから分からなかっただろうけど」
    クスクス笑うおふくろに——俺は申し訳ない気持ちになった。そうだ、小さい頃家を出てから『親父が高いところが苦手』なんてことに気づかないくらいに――俺はずっと。
    「…………実は、モクマさんは甘いものが苦手で」
    「へっ?」
    不意に横から口を挟んでくるチェズレイに俺は瞬きをした。何をそんな唐突な、ちゅうかさっきおふくろが出してきた饅頭食べたばっかだし――そんなことを思いながら、俺は慌てて言い訳を口にする。
    「あ、いや、苦手っちゅうてもゴテゴテしたクリームとかそんなんが苦手ってだけだし、その……前一緒に仕事してた仲間の一人がそりゃあ甘いのが好きで、一度付き合って食ってたら胸焼けして気持ち悪くなっちまったことがあってさ、」
    何だかもごもごした物言いになったのは、そもそも何で言い訳し始めたのか途中で分からなくなってきたからだ。いや、まぁ別に素直に好みぐらい口にして良いんだろうが、そもそもいい年して好き嫌いがあること自体、少し気恥ずかしい。
    「あら、そうなの。マイカにはあまりクリームを使ったお菓子なんかはなかったものね」
    おふくろが俺を見上げながら言う。
    「まぁ、餡子の甘いのとかは別に大丈夫だし、屋台でおやつみたいなのは寧ろ好物で……」
    「あァ、この間の回転焼きですね」
    「いや、あれは結構曲者なんだよ。中にクリーム入ってることあるし、そもそも回転焼きっちゅうか大判焼きっちゅうかで派閥が分かれるし、他にも言い方に諸説あって、」
    俺が話してると、ふっと隣から声が聞こえる。視線を向けると、なぜかおふくろが笑いを堪えるように口元に手を当てていた。
    「……笑うところだっけ?」
    「……いえ、特には」
    顔を見合わせた俺たちに、目尻の涙を拭いながらおふくろは言う。
    「あなたたち、思ったより平和なこともしてるのね……少し安心したわ」
    チェズレイの視線がほんの僅かに揺れる。それでもチェズレイが何も言わなかったのは、居た堪れない気持ち以上に、それを表に出すことを恥知らずだと考えたからなんだろう。

     前回おふくろに会った時、ある程度回復した頃に訪ねたとは言え、それでもこいつの体にはまだ薄く傷がいくつも残っていた。隠してはいたが、時折体を動かす時にぎこちなくなることだってあって——それは、おふくろに『何か』を悟らせるには充分だったのかもしれない。

     俺は手を握りしめた。少し遠くから、兄の家族の声が聞こえる。多分親父の墓を綺麗にしたり拝んだりしてるんだろう。それは普通の家族の光景で、或いは俺だってあぁ在ったかもしれない——そんな『もしも』だ。
    (……けど、)
    そうはならなかったって、単にそれだけの話だ。里に出されて修行をして色々あって流浪して——そして今こいつと縁あって同道している。ごく普通とはとても言えない日々を送ってはいるが、それをこいつが気に病む必要はない。
    (…………なぁ、チェズレイ)
    俺はこっちを見ない相棒に、心の中で呼びかける。

     だって何より——

     俺はおふくろに向き直った。
    「……今は、意外と幸せなもんだよ、俺の人生」
    自然と口角は上がっていた。チェズレイが俺の方を見るのが分かる。俺は敢えて同意を取るように、おふくろの前でチェズレイにへらっと笑ってみせた。
    (…………だってさ)
    そりゃあ怪我だってしたし、その中にゃ命に関わるような大きいやつだってあった。今は五体満足にしろ、いつのまにか裏で名も知れちまったから明日どうなってるかも分からない身だ。
     けど、それでも——あのまま死んだように生きている日々よりずっとマシだ。
    (……それも全部、)
    「おふくろ、そもそもここに来れたのは……来る心持ちになれたのは、こいつがいたからなんだよ。……今の、俺の総てだ」
    振り返って告げると、おふくろは何か堪えるように少し瞬きをして、僅かに俯く。
    「…………」
    風も凪がない日差しの中、長い沈黙が降りた。時折聞こえる子供たちの声だけが耳に響く。
     しばらくして、おふくろが徐にチェズレイを呼んだ。
    「……チェズレイさん」
    「……はい」
    「ありがとう、黙真を連れて来てくれて」
    その言葉は風に消えてしまいそうなくらいにか細くて。
     目を見開いたチェズレイは、いいえ、と俯いて、言葉を噛み締めるようにゆっくりと首を振った。


     『二人でいってらっしゃい』とおふくろに見送られて、俺たちは兄の家族と入れ違いになる形で親父の墓の前に立った。アラタやヒマリが随分と水をかけてくれたらしく、綺麗になった墓石は太陽の光を受けて輝いている。
    「…………」
    いざ親父の墓を前にしたチェズレイは、紹介してくださらないのですか、なんてことは言わなかった。二人で墓に手を合わせて、黙祷する。チェズレイは挨拶でもしてるのか、長いこと目を閉じたまま動かなかった。
    「……お前さんみたいな美人さんにそんな長いこと話しかけられたら、親父も照れちまうよ」
    茶化すように言うと、目を開けたチェズレイは澄ました顔で答える。
    「きっとお義父さまが照れる相手はお義母さまただ一人だけですよ。大恋愛だったそうですし、近所からもおしどり夫婦と評判だったとお伺いしてますから」
    「えっ、おじさん知らんよ ……大恋愛だったの」
    そんなの実子の俺の方が聞いとらんけどもいつの間に! ……まぁ、いつの間にっちゅうか、おふくろから聞いたのか、それこそこの滞在のどこかのタイミングで。
    「……まぁ、少なくとも俺が親父から聞くことはなかっただろうねぇ」
    言いながら、俺はしゃがみ込んで墓石の文字に目線を合わせた。チェズレイはただ黙って隣で佇んでいる。
    「…………何と読むのですか?」
    しばらくしてチェズレイがそう聞いてきた。生前の親父の意向だったのか、墓には名前の他に文字が彫られている。ここに来るまで見かけた他の墓にも文字は彫られちゃいたが大分様子は違っていて、ただ一文字大きく書かれているのは——
    「……読みは『マコト』だよ。真実とか、本当とか、そういう意味かな」
    俺は言う。兄弟の名全てに『真』の字を入れた親父は、俺の知る限り自身も実直に、真に恥じない生き方をしていたと思う。
    「なるほど……あなたの名は『黙真』と書くのでしたね」
    チェズレイは空中で黙の字らしき書き順を披露してみせた。マイカの字はそれなりに癖があるが、たった二、三年でよく覚えたもんだ。
    「……そんなに習得できてはいませんよ。けれど、生涯の伴侶の名ぐらい書けて然るべきでしょう」
    俺の心中を読んだかのようにチェズレイは言った。あぁ、確かに——俺も、チェズレイ・ニコルズの名は空で書ける。口に馴染む名前は何度も呼んで、生涯一番口にするだろうものだ。
    「お前さんの名前は、どんな意味なんだっけ?」
    聞いてから、浅慮だったかもしれないと少し後悔する。

     名前は——この世で受ける最初の祝福(のろい)の一つだ。

     込められた意味が良いものとは限らないし、こいつの出自を考えれば——
    「……牧草地、をイメージしているそうです。のびのびと健やかに育ってほしい、と」
    だが、チェズレイは静かにそう答えた。
     のびのびと健やかに——過程はどうあれ、今こいつがそう在るだろうことは傍らから見ていて分かる。それなら俺も、こいつのおふくろさんに向ける顔もあるってもんだろうか。
     チェズレイは顎に指を当てて、呟くように言う。
    「……黙、は……沈黙、黙視……黙っていることですか。実にあなたらしい」
    「そうかい? 近頃は言うことは言うようにしてるんだが」
    俺は苦笑する。ヴィンウェイでの出来事があってから、折に触れてこいつに伝えるべきことを伝えてるつもりだ。例えば、向き合って夕食を食べてる時に。例えば、大仕事を終えて疲れ果てた時に。例えば、同じベッドで朝を迎えた時に——名前と一緒に、伝えるべき情を口にしている。
    「……確かに、最近のあなたは少し……いえ、大分饒舌ですね」
    チェズレイは肩を竦めた。照れてるのかもしれないが、少なくとも表面上はそれを読み取ることはできない。
     しばらくまた沈黙が降りた。そろそろ戻った方が良いんだろうが、伝えるならこのタイミングだと本能が立ち上がることを躊躇わせている。チェズレイも俺の雰囲気を察したのか、合流しましょう、とは言い出さない。
     やがて、俺は静かに口を開いた。
    「……『黙して真を為せ』」
    呟くように言うと、チェズレイは眉を顰める。マイカ特有の言い回しに近いのもあって、流石のこいつにも読み解きは難しいだろう。俺は顔を上げて墓石を見つめた。
    「黙って、己の真実を成し遂げよ、って……おじさんの名前に込められた意味」
    幾分噛み砕いて説明すると、チェズレイは俺の言葉を咀嚼するようにして俯く。
    「…………それは、また……随分と厳しい願いですね」
    しばらくして、チェズレイはそう呟くように言った。『厳しい』——言い得て妙だと思う。もう四十路にもなるが、そもそも『真を為す』なんて大それたことをできた気がしない。これから先は、どうか分からないが。
    「おじさん自身が名前に追いつけるかは、これから次第かねぇ」
    俺は苦笑しながら立ち上がる。そもそも為すべき真が何かすら惑ってはいるが、それでもこうして親父の墓の前で『名に込められた意味』に向き合うことができたのは、多分前進だ。
     今は——それで良い。
    「……じゃあ、また来るよ」
    そう告げた俺に合わせるように、チェズレイは親父の墓に頭を下げる——と。
    「……あ、」
    答えるようにざあっと吹く風に、俺たちは目を細めた。花びらが舞う中、ただそこに静かに在る墓。それは、花に嵐と言わんばかりの美しい光景だった。
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