シュレーディンガーの箱庭―×日目―
「起きて、ふぅふぅちゃん」
柔らかい声に、意識が引っ張り上げられて、目を開ける。
「……また先を越されたな」
「ふふ……慣れてきたからね。負けないよ」
まだ寝癖がついた頭が寄ってきて、頬にキスをして離れていくので、身体を起こした。首を左右に傾けて固まっていた筋肉を伸ばす。
歯を磨いて、顔を洗って、キッチンでコーヒーを飲む浮奇の前で愛犬の朝食を準備をする。
浮奇が広げているハードカバーは随分と字が詰まっていて分厚い。
「難しそうな本を読んでるな」
「たまにはね」
最近の浮奇は随分と早起きをするようになった。ここのところ、いつも起こされている。それ自体は心地よくて何の不満もないが、早起きに慣れない彼が、日中眠そうにしていることが増えたのが、少しだけ心配だった。
「調子はどう?」
「ん? 悪くないよ」
最近少しだけ聞き分けのない相棒に朝食をやってから、手を洗う。タオルで手を拭きながら、浮奇といつも通り他愛もない会話を続ける。
「本当に?」
「嘘をつく必要があるか?」
なんだか疑うような浮奇の目に苦笑をすると、浮奇は目を伏せて本に手を戻した。
心配される原因はわかってはいるので、責める気持ちはない。
「そんなに心配をしなくても、今は体調はいいよ。まぁ……そうだな、ゲームをする気にならないのがちょっと気になるくらいかな」
鼻が詰まっているわけでもないのに、頭がぼんやりとする気はしていた。
キッチンのテーブルに座っている浮奇の後ろを見ると、暖かそうな日差しが差し込みはじめている。
「春が近いからかな……ちょっと、ぼーっとしていたい気分だ」
「……休暇中で良かったね」
「はは、確かに」
―◇日目―
浮奇の部屋を覗くと、立ったまま愛猫を抱きかかえてゆらゆらと揺れていた。まるで赤子をあやすような動きだったが、顔をふわふわの毛並みに埋めるようにしていて、むしろあやされているのは浮奇の方なのかもしれなかった。
俺の気配に、小さな頭が振り向いて、その動きにつられて浮奇も顔をあげる。
「邪魔して悪いな」
「いいよ」
「キッチンでスマホが鳴ってたから」
「あぁ……ごめん、ありがとう」
浮奇は少し眉をひそめつつも差し出したスマホを受け取る。
「あまりよくない連絡なのか?」
「いや……みんなからのメンションが続いただけかな。ふぅふぅちゃんにも行ってるでしょ?」
「あー……ここ何日かまったく見てないな」
気のせいか、少し咎めるような目をされた気がしたが、浮奇はすぐに肩をすくめた。
「まぁ、休暇中だしね」
「そうそう。どこかでまとめて見るよ」
「でもみんなまだ心配してるよ。近々会いに来たいって」
「なんで」
今度こそ呆れた目を向けられて両の手のひらをあげてみせる。
「わかった、悪かった。でも無事だったろ?」
数秒沈黙が続いてから、ようやく「そうだね」と静かな声が返ってきた。心配性の彼の気をそらすために、そろそろ話題を変えたい。
どうして立っているんだ、と問うと、「なんとなく」とそっけない声が返ってきた。
―□日目―
最近夢見が悪い。精神的苦痛を味わうような夢には慣れているけど、肉体的に痛みを与えられる夢には、なかなか慣れることができない。経験したことがないはずの、電気ショックを与えられる夢まで見せてくるんだから、脳の想像力には驚かされるばかりだ。脚を折られる、腹を刺される、頭を砕かれる、電気を食らう――多岐にわたってもいいはずなのに、最近の俺は大きな物に身体を吹き飛ばされる夢ばかり見ている。何を表しているのはわかるけど、その時の記憶は俺にはない。
直前に強い感情がわいてくるのはわかるのに、どういう感情なのかが、今ひとつわからない。全身が痛む、というよりも焼けるように熱く感じる。足下から真っ黒いものに飲み込まれそうになるところで、いつも優しい声に揺り起こされる。
「起きて、ふぅふぅちゃん……起きて」
「……っ……」
目を開けると、月明かりの中で、眉を寄せた浮奇の顔が見えて、力を抜く。覚醒してくると、自分の額に髪が貼り付いているのがわかる。胸に絡んだ重たいものを吐きだすような息をした。
「あぁ……いつも、わかるんだな、浮奇には」
「悪い夢を見ているのが?」
ぎこちなく唾を飲み込んでいると、浮奇は「わかるよ」と呟きながら俺の前髪を手で払って避けた。
自分よりも少し体温の低い指先が額に当たる。ふと、浮奇の能力のことを思う。
「俺の悪夢が伝播でもしているのか?」
だとしたら申し訳ないと思ったが、浮奇は曖昧な笑みを浮かべて首を横に振った。
違うなら良かった、と思う。
こんな酷い気持ちを味わうのは、一人で十分だろう。
―△日目―
今日は浮奇が苛立っている。がこん、と乱暴な音がして、彼の愛猫がリビングから飛び出してきた。
「どうかしたのか?」
「ふぅふぅちゃん……」
リビングのゴミ箱はひっくり返っていて、紙くずやお菓子の包み紙が周囲に散らかっている。それよりも、中に分厚い本が突っ込まれている方が気になった。
思わず眉を上げて浮奇を見ると、目をそらされた。
「……ごめん」
「あー……よっぽど、面白くなかったんだな」
まぁ、たまには物に当たるのもいいんじゃないかとでも言おうかと思ったが、それは胸にしまっておく。片付けるのは後回しにして、頭を抱えはじめた浮奇の傍による。ゆっくりを腕を差し出しても、身体を引かれなかったので、腰と背中あたりに腕を回す。
「浮奇ー?」
「……っ」
「どうしたんだ?」
腕の中の身体が息を止めているのがわかる。背中をとんとんと宥めるように叩くと、嘲笑に近い声がした。
「別に……俺には、できないことがたくさんあるって……思い知らされてる、だけだよ」
「何を言ってるんだ」
仕事で、プライベートで、不安に苛まれる気持ちは経験があるだけに、笑い飛ばすことはできなかった。ぐす、と鼻を鳴らす彼を完全に癒やすことはできないだろうとも思った。
「……それでも毎日起きて、息をしてるだけで、俺にとっては充分だよ」
癖がついた髪を撫でると、腕の中で、浮奇がひとつ、震えるような息をしてから「そうだね」と呟いた。
―○日目―
昼過ぎに、用事を済ませてキッチンに戻ると、浮奇がテーブルに座っていて、タブレットを使っていた。
「最近はそこがお気に入りだな」
近づいて頭にキスをすると、曖昧な返事を返しながら浮奇が頭を寄せてくる。
「陽が当たるからね」
「長く座るにはちょっと椅子が固いんじゃないか?」
「へ……いき」
平気、と言いかけて、浮奇は抑えきれなかったあくびを漏らす。
「んん……ごめん」
最近の浮奇はますます眠そうにしていて、やっぱり心配になる。それなのに、昼寝をしているところを見かけない。それどころか、考えてみると、最近あまりリラックスをしている姿をみていない気がする。
「いや……眠いなら少し寝てきたらどうだ?」
近づいて浮奇の頬に手を添えると、浮奇は頭を預けるように傾けて目を閉じる。今日は後で外にでも出るのか、既に出てきたのか、薄く化粧をしているようだった。
「んー……いい、大丈夫」
そういう彼は、少し痩せた気がする。そういえば、最近一緒に食事をとっていない。食欲が落ちてはいないだろうか。……本格的に心配になってきた。
「……今日は出掛けたりするのか?」
「ううん? 家にいるよ」
「じゃあ、あっちで一緒に座らないか」
あっち、とリビングの方を指すと、困ったように眉を下げられるので、無線キーボードに乗ったままの手を取って指先に自分の唇を寄せた。
「少しだけ……だめか?」
そのまま手を握って、少し引くと、手元を見ていた浮奇はため息をつきつつも微笑みを返してくれた。
「わかった。すこしだけね」
柔らかいソファーに腰を下ろして、しばらく静かな会話をしていると、浮奇のあくびが増えて、瞼が下がってくる。
「――それで、すごくいい一節があるんだけど、ちょっと聞いてくれるか」
「うん……」
目を擦りながら返事をする浮奇に、気に入っている詩集から一つ詩を読み聞かせる。できるだけ声を抑えて、穏やかに、ゆっくりと読み上げると、徐々に浮奇の瞼が下がってくる。
「……浮奇?」
そっと呼びかけると、ふらふらと浮奇の目が見上げてくる。
力の抜けた身体に手を置くと、浮奇が身じろいで、小さく名前を呼んできた。
「このまま少し寝たらどうだ」
ふわふわとした触り心地の頭が横に動いて浮奇が両手で目を覆う。
「だめ……」
「何かすることでもあるのか?」
「ない……でも、おきてないと」
「どうして」
「ふぅふぅちゃん、」
見上げてくる浮奇の顔は、どうしてだか泣きそうだった。
「だいじょう、ぶ?」
「え?」
「へいき?」
「なにがだ?」
心配そうに手が伸びてくるので、握り返すと、ようやく浮奇はほっとしたような顔をして、細く息を吐いて目を閉じた。
どうも、様子がおかしい。違うと言われるけど、やっぱりまだ俺のことを気にかけているのか。それとも、眠くて混乱しているのか。
「浮奇、大丈夫か?」
「……つかれ、た……」
「そうみたいだな」
「すごく、ねむい」
「……」
呟く声を聞きながら、次々に浮かんでくる言葉を打ち消す。
無理をしすぎなんじゃないか、何か困ってることでもあるのか、話したいことはあるか。
俺に出来ることはないのか。
言葉を全て撃ち落としてから、浮奇の首の後ろに腕を滑り込ませる。
おいで、と声をかけると浮奇はもう一度、ねむい、と低い声で呟きながらぴったりと上半身をくっつけてきた。
肘掛けの側で丸まっている厚手のブランケットを引き寄せていると、浮奇が低く唸るような声を漏らした。
「ふぅふぅちゃん……」
「どうした?」
「――、」
「はは……おやすみ、浮奇」
呟かれた言葉は、睡魔が溶け込みすぎていて、なんと言われたのかよくわからなかった。
―●日目―
ふと目を開けると、一瞬自分がどこに居るのかわからなかった。リビングだ。首が、痛い。窓に目を向けると、陽が暮れ始めていた。
――寝てたんだ、と気付いて、ぎゅっと胃の辺りが痛くなった。
「……っ、」
急いで身体を起こすと、軽くめまいがして身体がふらつく。気持ち悪くなりそうなくらい心臓がばくばくとしているのを聞きながら隣を見ると、ふぅふぅちゃんが目を閉じて座っていた。
ソファーで力なく上を向いて開いている手が視界に入って、身体が寒くなる。
「ぁ……!」
乾いた喉に息が引っかかって、痛い。急いで彼の首に指を押しつけて脈を確認する。少し体温は低かったけど、ゆっくりとした脈が伝わってきて、息を吐く。同時に、目頭が痛くなってくる。
呼吸を落ち着けてから、指先に祈りを込めて彼の名前を呼ぶ。
「ふぅふぅちゃん」
押しつけている指先がぼんやりと光ってくる。
「ふぅふぅちゃん、起きて」
瞼が震えて、ふぅふぅちゃんの口が薄く開いた。
「……あぁ、」
ゆっくりと瞼が開いて、鏡色の目が俺の方を向く。
「……はは、また一緒に寝てたな」
「……っ」
抑えきれなくて、涙が零れるのと同時に俯く。どうした、とふぅふぅちゃんが身体を起こして抱き寄せてくれて、身体が震えそうになる。
何週間か前、ふぅふぅちゃんは歩道に突っ込んできた車にはねられた。義肢の部分に当たっていれば、まだよかったのに、車体ともろにぶつかったのは生身の部分で、側にいた俺は咄嗟にそれを治した。治す、という意識はなくて、激情に飲み込まれたことだけ覚えている。
気絶しそうなくらいがむしゃらに力を使って、医者が保証するくらいに治したはずなのに、何日経ってもふぅふぅちゃんは目を覚まさなかった。呼吸はしてる。心拍もある。でも意識がない。
待つしか無いと言われて、訳がわからなかった。
それしかないなら、と、最初は待つつもりだった。
でも、彼に触れたときに、また自分の力を注いでしまって、その結果、彼は目を覚ました。
検査は全部クリアした。脳波だけは普通と違うと首を捻られたけど、要観察で退院した。
でも、俺の意識が離れると、ふぅふぅちゃんはまた眠ってしまう。揺すっても起きない眠りについてしまう。
「浮奇……どうしたんだ」
「う……うぁ、」
「最近変だぞ……休暇を延長した方がいいじゃないか?」
「っ……うん……」
「また俺のことを心配してるんじゃないだろうな?」
「ち、がうよ……」
「ならいいけど……そんなに思い詰めないでくれ。前にも言っただろ?」
「……うん」
息をしているだけで、ここに居るだけでいいんだと、彼は俺に言う。
でもふぅふぅちゃんは、俺が気を抜くと意識を失うし、俺が深く眠ってしまうと、鼓動がゆっくりになる。
そもそも彼が生きているのが俺の無意識の産物なんだとしたら?
俺が熟睡してしまったら?
次に起きたときにふぅふぅちゃんはどうなってる?
そう思うと、ベッドやソファーに身体を預けるのが怖かった。力を抜くのが、怖い。でも、このままじゃ、きっと保たない。
俺、どうしたらいい?
ひとしきり声をあげて泣いた後、ふぅふぅちゃんの腕の中で、どうして動いてくれているのかわからない心臓の音を聞きながら、ずっと考えた。
答えは出なかった。
―●●日目―
春らしくて、良い天気だった。
買い集めた本は、紙袋にひとまとめにして捨てた。今更人体の仕組みなんて頭に入れたところで、どうにもならない。
枕カバーとシーツを替えて、毛布を外ではたいて埃を落とす。ついでに大好きなブランケットをリビングから持ってきた。
日が傾くまで家の中をうろうろ歩いて、目についたところを掃除した。
鼻歌を歌っていると、すれ違ったふぅふぅちゃんに「今日は機嫌が良いな」とからかわれる。
薄暗くなってくると、少し肌寒いので、部屋を暖かくしてから彼を寝室に誘った。
「随分と……心地よさそうだ」
「でしょう?」
いつもの毛布の他に、気に入っている膝掛けだのブランケットだのをマットレスにかき集めてできた寝床に、ふぅふぅちゃんは少し笑った。ブラウンやパステルカラーのふわふわの海に手をついて彼を誘う。
寝るにはだいぶ早いんじゃないか、と問う彼に、いいんだと返す。
もう十分だからいいんだ。
「そうなのか」
浮奇がそう言うなら、とふぅふぅちゃんは柔らかく微笑んでくれる。
「浮奇が寝つくまで付き合うよ」
「ありがとう」
肌触りのいい枕に頭を置くと、同じように隣にふぅふぅちゃんが頭を下ろす。さらりと癖の少ない髪が流れて、額が見える。手を伸ばして、シルバーの髪を避けると、大好きな色の目が細く笑った。左目の赤いラインを親指でなぞる。
「浮奇、くすぐったい」
「なんだか……よく眠れそう」
「そりゃ良かったな」
「うん……」
ふぅふぅちゃんの手が頭に置かれて、優しい手つきで頭を撫でてくれる。
「もう一回、」
「んー?」
「名前、呼んで」
「いくらでも。好きなだけ呼んでやる。嫌になるくらい呼んでやる」
「ふふ……」
まだ彼を見ていたいのに、浮奇、と彼の声で呼ばれると心地が良くて、すぐ目を閉じてしまいそうだ。
できないことはたくさんあるけど、自分を長く眠らせることは簡単にできそうだった。
「おやすみ、ふぅふぅちゃん」