知らない顔 嫌われるより、無関心でいられる方が余程つらい。
千寿郎は兄の背が見えなくなるとはぁ、と重たい溜息を吐いた。冬の気配が色濃くなった駒澤は吐き出した二酸化炭素を白に染める。今年の年末には会えるだろうかと、瞼を閉じ兄の笑顔を思い出していた。
千寿郎は兄である杏寿郎が好きだった。兄弟愛であった筈のそれはいつしか恋慕となり、同時に決して明かしてはならない絶対の秘密となった。吐露できぬ苦しさはゆっくりと、しかし確実に千寿郎を蝕み、諦観を与えていた。
兄に好かれているという自覚はあった。猫可愛がりされ、一等大事だと、そう語る双眸に嘘はない。しかし、それはあくまで己が『弟』であるからと理解していた。
弟でなければ見向きもされない。与えられるものが兄弟愛を超えることはない。いっそ嫌われてしまえばと、そう思うが兄の性格を思うと他者を嫌うことはないだろう。ならば無関心か。いや、それの方が余程つらい。兄弟愛だとしても、微笑みを向けていてくれていた方がいいのだろうか。
「……兄上、お慕い、しているんです」
ぽつり、ぽつりと。漏らした二酸化炭素はゆらゆらと立ち昇り、消える。冬の寒さに熱が絡め取られていく。己のこの思いも、同じように絡め取ってくれればいいのにと、千寿郎は溜息の代わりに目を閉じる。
「……あ」
突如聞こえた声にがばと勢いよく顔を上げる。そうすれば、眼前には先程発った筈の杏寿郎が立っており、漏れてしまった声に対してばつが悪そうな顔をしていた。
「いや、そうだな……すまない。聞くつもりはなかったんだが」
土産は何がいいか聞くのを忘れてしまったからと、ぽつぽつと呟く姿は普段の快活な面からは程遠かった。時折視線を逸らし、考え、ゆるく染まる頬は何もかも初めてのものだった。
「あにうえ……」
「千寿郎」
遅れて、聞かれてしまった事実に気付く。杏寿郎の比にならないほどぼっと頬を紅に染めた千寿郎は、咄嗟に逃げようと兄に背を向ける。しかし、杏寿郎がそれを許す筈もなくあっさりと手首を掴まれその場に留められた。
「違う、違うんです」
「千寿郎」
「兄上、違うから、だから」
千寿郎と、もう一度呼ばれた。兄の声だった。どろどろに甘やかす時の、何もかもを許すあの声。千寿郎は導かれるようにゆるゆると顔を持ち上げる。
「千寿郎、すまない。ちゃんと聞こえていたんだがもう一度言ってくれないか?」
嬉しかったんだ。だからもう一度。どろどろの、まるで蜂蜜のような声で杏寿郎はそう言った。ふにゃと崩れた表情は、見たことがあるようなないような、そんな不思議な表情だった。
「……あに、」
「そうしたら、俺からも言わせてくれないか」
手首を掴んでいた硬い掌が千寿郎の手を取る。すり、と指を撫でられるとそこへ火傷しそうな程熱が集まる。
千寿郎の視界が揺れる。羞恥と、戸惑いと。混乱する頭では嬉しさを理解するのはまだ先になりそうだった。
杏寿郎はもう一度強請る。いいだろう、聞きたいんだと。甘えるそれは千寿郎の知らない顔だった。