運命さえも道連れにprologue
「あれ、矢後さん……?」
呼びかけられてから咀嚼するまで数秒。その声を聞いたのがあまりにも久々で、反応が遅れた。自分を呼び止めた相手の顔を間近で見て、一気に全身の細胞が活性化していくような、妙な騒めきが体内で起こっているのを感じる。
数年前まで、この男に名前を呼ばれた瞬間反応しなければおそらく死んでいた――そんな一瞬の油断が死を招くような戦場を、二人で幾度もくぐり抜けてきた。
遠い昔のことのようにも昨日のことのようにも思えるが、しかし間違いなく過去に置いてきた人間だった――そのはずだったのだが、今、何故かこいつは目の前にいる。
「……よお、久森」
矢後がそう言うと、目の前にいる黒髪の男、久森晃人は「なかなか返事がないから、人違いしたかと思いましたよ……」と呆れ顔で呟いた。
meat/meet again
網の上で肉の焼ける音が響く。
熱で溶けた油が店内の照明に反射してきらめく様を矢後がぼんやりと眺めていると、テーブルの向かいでせわしなく動いていた手がようやく引っ込んだ。それに伴って、矢後も野菜やら肉やらが乗った網から目線を上方向に移動させる。
「土曜の夜なのに意外と空いてますね」
店内を一通り見渡した後、久森は一言そう零した。一番奥の席に陣取っているため、久森の透き通った声が聞き取りやすい。
「本当にお久しぶりですね、矢後さん」
四年ぶりかな、お互い年をとりましたねえ。
経過した年数を指折り数え、小指だけ立っている不格好な左手をそのままに、久森は話し続ける。
「最後に会ったのは矢後さんの卒業式でしたよね?」
「覚えてねー」
「まあ、矢後さんが覚えてるわけないか」
「お前……」
相変わらずだ。矢後はそう思った。久森は大人しそうな見た目のわりに、大概遠慮のない奴だった。
「それにしても、矢後さん全然変わってませんね」
「……お前もそんな変わってねーだろ」
「え、そうですか?」
きっと、今の久森が制服を着て高校に忍び込んでもばれることはないだろう。見た目に関する変化が全く見られないのだから。髪の毛だって染められることもなく黒いままだ。性格が変わった可能性は残るものの、話をしていても内面的な変化は感じ取れない。
久森だけでなく、それは矢後も同様だった。見た目も中身も、何にも変わっていない。つまり、拍子抜けするほど互いに変わっていないのだ。高校時代と違っているのは年齢と社会的な肩書だけかもしれない。
たかが四年、されど四年。しかしまるで高校時代と変わらないこの空間は、少し奇妙で、それでいてどこか落ち着くものだった。
「お前、ここらでなにしてたんだよ?」
野菜を箸でつつきながら、矢後は久森に問いかけた。
そもそも現在二人で食事しているのは、偶然町中で再会したからだ。とはいえ、一言二言交わせば解散するものだと思っていたが、珍しく久森に夕飯に誘われ、腹が減っていた矢後はその誘いを承諾した。
実家暮らしの矢後は一応母に外で食べる旨を連絡して、その間にネットで店を検索していたらしい久森が全国展開する有名焼肉チェーン店にアタリをつけて、この店に入った。
小ぶりな口をもぐもぐと動かして、キャベツを咀嚼し終えた久森は口を開く。
「んっと、本屋に用があったんです。僕の好きな漫画の新刊が今日発売だったので」
「へえ、すぐ読まねーでいいわけ?」
記憶にある久森はヒーロー任務の次に自分の趣味を優先する人間だったので、買ったばかりの漫画よりもこうして矢後との夕飯をとったのは意外に思えた。
「ええ? いや、まあ、流石に僕だって数年ぶりに再会する先輩を優先しますよ」
それに矢後さんだし、特に気を使う必要もないから楽ですしね。
充満する熱気で掻き消えてしまいそうなその囁きを耳にした矢後は「あ、そ」とだけ返事をして、あめ色に変化した玉ねぎに箸をつけた。
「矢後さんこそ何してたんですか?」
玉ねぎの仄かな甘みを飲み下して、口を開く。
「あー……病院行ってた」
医者に拠れば、相変わらず病魔に蝕まれ続ける矢後の身体はいつ動きを止めてもおかしくないという。変わらず余命を更新し続けている事実を周りは奇跡と呼ぶが、矢後にとっては病院から見える桜の木が散るのを眺める数が年数の更新分増えただけだ。
まだ生きているということは「運命を変える力」であるらしい血性がまだ少なからずあるということだろうが、それもいつまで持つかわからない。
実際、毎年行われる検査の結果を見ればかつてヒーローだった者の血性値は例外なく全員下がっていることがわかる。その中でも特に低下が著しかったのはラ・クロワの元ヒーローだ。ミュータント化手術をしてヒーローになった彼らの血性は、手術の反動によるものなのか、成人時にはほとんどなくなっていたという。
矢後自身の血性は他の元ヒーロー達に比べるとゆるやかな減少を続けているが、いずれは必ず数値は常人並みになるのだろう。そして、その瞬間に矢後は死ぬ可能性が高いらしい。幼い頃から矢後を診てきた医者がそう言うのだ。なら、きっとそうなるのだろう。矢後は他人事のように、その見立てを受け止めていた。
死期は常時この身にまとわりついていた。今更新たに死の実感が得られるなんてことはない。ついこの間、二十二歳を迎えても、矢後は自分の死について特に何も思わなかった。
しかし、周りは――特に矢後の家族は、その事実を、運命を、必死に遠ざけようとしていた。
看護学校を卒業し、看護師になった姉・愛莉沙の小言は日に日に多くなっている。矢後の体調管理の杜撰さを嘆くような苦言にも、いつからか懇願にも近い色が混ざるようになった。
今日、病院に向かうはめになったのもそんな姉に送り出されたせいだった。検査に時間がかかり、開放された頃には陽が沈んでいた。おかげでかなり空腹だ。
「ああ……。そういえば確かに、八草中央病院はここから近かったなあ」
それだけ言って、久森はしいたけを口に放り込んだ。
「病院」という言葉や矢後の身体にまつわることを聞くと、大抵の人間は身構えて、腫れ物に触るような気遣わしげな表情をする。だが、久森の表情はまったく変わらない。この頃、周りの反応が煩わしくて仕方なかった矢後には、あっさりとした久森の反応が心地良く、それ以上追求してこないのも楽だった。
矢後は、久森のそんなところを気に入っていた。
無料サービスのお冷を飲み干した矢後が、わずかに身を乗り出して網を覗くと、肉はすっかり褐色に染まっていた。
「もう食べて良さそうですね」
久森がそう言ったのを合図にして、早速、矢後は箸を伸ばした。
網から一枚取って辛目のタレに浸す。次にそれを白米の上に乗せ、タレが纏わりつく量が丁度良い塩梅になったところで口に入れた。そして、白米をかき込む。柔らかい肉は噛む度に油がジュワッと染み出てどんどん喉を通過していった。
腹が減っていたのもあり箸をせわしなく動かして食に集中していると、いつの間にやら矢後の皿には三切れほど肉が追加されていた。目だけ動かして久森を見ると、追加の肉を焼いている。
「……お前も肉食えば?」
矢後の視線が自分の手元に注がれていることに気づいた久森は、得心がいったようで、笑みをこぼした。
「矢後さんがやるより僕がやるほうが効率が良いので気にしなくていいですよ。矢後さんはごはんをおいしく食べる係に専念してくれればそれでいいです」
久森は、適材適所だ、と言った。
そういや、高校のときもそんなことを言っていた気がする。矢後が喧嘩担当で、久森が謝罪担当だとかなんとか。詳しくは覚えていないが。
「お前、やっぱり便利なヤツだな」
「はぁ……あまり褒められてる気はしませんが、一応褒め言葉として受け取っておきます」
そう言いながら久森は再び矢後にほどよく焼けた肉を供給し、矢後はその肉を体内に消費した。
しばらく無言で食事に集中していると、成人した大の男二人で肉を取っていったために、網の上はあっという間に空になった。脂っこくなった口内におかわりしたお冷を流し込む。腹は十分満たされた。
周りを見渡すと、先程より店内が賑わっていることに気づく。土曜出勤のサラリーマン達だろうか、スーツ姿の男達が、ビール片手に肉にありついていた。顔立ちを見て、二十代半ばだろう、と見当をつける。年齢は矢後や久森とそう変わらないはずだ。
矢後も、彼らと同じようにアルコールを摂取しても罰せられない年になったが、酒は嗜まない。アルコールの匂いは、どうしても病院で使われる消毒液を思い出す。それに、あまり気に留めてはいないものの、ドクターストップがかかっている。
そういえば、久森の手元にあるのも、酒ではなく烏龍茶だ。
「お前、酒飲まねえの?」
「うーん、飲めなくはないんですけど、」
「……?」
「えー?矢後さんには言いづらいなあ……」
「は?なんだよ」
矢後が眉を寄せると、久森は観念したのか、あー、だとかうー、だとか呻いた後、目線を彷徨わせて気恥ずかしそうに口を開いた。
「ええっ……と、実は、ヒーローをやって身に付いてしまった癖、といいますかなんといいますか……困ってる人を見るとつい反射的に体が動くようになってしまったんです。そういう場面に遭遇したときを考えると、僕が酔うわけにはいかないよなぁ、とか考えてお酒を遠ざけてしまって……。えーと、そういうわけで、自主的には飲まないようにしてます……」
「………へぇ、」
「へぇ……って、矢後さんが尋ねたんじゃないですか!もうちょっと良いリアクションしてくださいよ……!?」
そう言う久森の耳は少しだけ赤い。矢後に今の話を聞かせてしまったからには、酒を飲んでるから、なんて定石の言い訳は使えないだろう。その不恰好さが無性に可笑しかった。
しかしひとつ、矢後は腑に落ちない部分がある。
「つーか、なんでそれを俺には言いづらいわけ?」
「え?なんでって、」
矢後さんが僕をヒーローにしたからでしょう?
そんなこと改めて聞くまでもないだろう、とでも言いたげに久森はそう言い放った。
だが実際のところ久森の認識とは裏腹に、矢後にとっては寝耳に水だ。想定もしていなかった返答に面食らう。
確かに、未来視という便利な能力を持つ久森を見つけて、多少強引にヒーロー登録させたのは矢後だ。それがヒーローになったきっかけなのだと申告されたら、それは認めざるを得ないだろう。
だが、以降継続してヒーローを続けたのは久森の選択であってそこに矢後は関与していない――そのはずだ。辞めようと思えば、矢後が無理に引き留めるなんてしないことは、久森も分かっていただろう。
だから、久森は自らヒーローになったと、矢後はそう認識していた。
しかし、久森は違ったらしい。自分をヒーローにさせたのは矢後で、自分が酒を飲まない原因をつくりだしたのも矢後だという。そんなもの、久森がそう思い込みたいだけだ。実際は全部お前が選んだ道だろ。そう言ってやりたいけれど、どうせ聞き入れはしないだろう。
ただ、矢後が何気なく落とした一滴が波紋となり、久森の人生のなかでわずかに波打っているという事実――存外それが、悪い気分ではなかった。
「ヒーローにしたから、ね」
矢後はなんだか愉快な気分になってきて、はは、と小さく笑った。
笑わないでくださいよ、と言いながら、わずかに朱に染まった頬を冷やすように勢いよく烏龍茶をあおる久森を、矢後は目を細めて眺めていた。
◇
「すげー食った……」
会計を済ませて店の外に出ると、辺りは暗くなっていた。この通りは飲食店が立ち並び、看板や店内から漏れ出る灯りで足元がよく見える。前後不覚な酔っ払いでもない限り、視覚的に問題はないだろう。
「いっぱい注文しちゃいましたもんね」
「今腹パンされたら吐くかもしんねーな」
「ちょっとやめてくださいよ、矢後さんが言うと全く洒落にならないです」
液晶画面の割れたスマホを見ると、時刻は二十二時をまわっていた。矢後が自宅までの帰宅ルートをぼんやり思い浮かべていると、隣に立つ久森が声を掛けてきた。
「矢後さん、これから僕の家に来ませんか?」
唐突な誘いに矢後がやや面食らっていると、間髪入れずに「時間があったらでいいですよ」と付け足される。「お前んちこっから近いの?」とだけ訊くと、「うーん、徒歩二十分くらいです」と返された。徒歩二十分は短くも長くもない微妙な距離だが、自分の家に帰るよりは近い。矢後には特に断る理由がなかった。
「行く」
店の灯りが逆光となってよく見えなかったが、一瞬久森がほっと肩の力を抜いたように見えた。
「じゃあ、一緒に帰りましょう」
久森が誘導するようにゆっくりと歩きだす。矢後は黙ってそれに続いた。
歩幅が大きくてもスローペースで歩く矢後と若干早足になりがちな久森では、歩くたびに間隔が広がっていく。少し後ろから見る久森の黒髪は、立ち並ぶ店の灯りに照らされてうすい橙色の光で染まっていた。それは、まるで薄暗がりから朝陽が浮かび上がる明け方の空のようだった。しかし、その空はどんどん遠ざかっていく。
小さくなっていくまるい頭にじっと目を向けていると、やがてそれはその視線に縫い止められたかのように動くのをやめた。久森が足を止めて後ろを振り向く。暫くして、のそのそと足を進めていた矢後が横に追いつくと、久森は再び動き出した。先程より歩くペースが落とされている。
そういえばあの頃の久森も、ペースを崩さず悠々と歩く矢後の方を振り返っては結局急かすことを諦めて、歩調を合わせていた。
ばらばらに鳴っていた地面を叩く靴音が、段々とユニゾンするようにゆったりと重なっていく。下手な旋律にも満たないその音を聴きながら、二人はしばらく無言で歩いた。
「矢後さんって、」
不意に久森が静寂を破った。
「今でも連絡を取り合ってるヒーロー、います?」
尋ねられた瞬間、即座にある人物が頭に思い浮かんで、矢後は顔を顰めた。その反応だけで久森はなんとなく察しがついたらしい。「相変わらずだなぁ…」とでも言いたげな顔で矢後を見てきた。
「頼城さんですね?」
「……シゴトで顔合わせんだよ。アイツ、相変わらずうるっせーし……」
「あれ? でも確か矢後さんのお仕事ってヒーロー候補生たちのトレーナーでしたよね?」
矢後が無言で頷くと、「あっ、そっか」と久森は呟いた。
「頼城さんは事業関係で今でもALIVEに出入りしてるでしょうし、そりゃ会いますよね」
「おー。……つーか、」
俺、お前にシゴトのこと言ったっけ?
矢後がそう尋ねた途端、久森が口をぽかんと開けて此方を凝視してきた。信じられない、と顔に書いてある。
「……えっ、冗談ですよね? 矢後さんが神ヶ原さんと進路の話をしてたとき、僕も大体そこにいたじゃないですか!」
「………?」
「や、矢後さんが取りに行くの忘れてた書類とか、代わりに受け取ったり確認したりしてたの僕なんですけど!!?」
そう言われても、矢後は全く思い当たる節がない。その様子を見た久森は大きなため息を吐き、がっくりと項垂れた。ちょうど矢後の目線の先にはつむじが見える。久森のつむじはちょうど頭のてっぺんにあるらしい。
じっと眺めていると、久森が下を向いたまま話し始めた。
「……一応、就職を手伝っていた身として、あと後輩として言いますけど……。僕、矢後さんがトレーナーって、結構合うと思ってましたよ」
「……なんで?」
「だって、矢後さんって人に慕われるじゃないですか。それに、意外と怒らないし。面倒見も……たぶん、悪くないし。戦闘中に『あ、今カバーしてもらっちゃったなあ』って思ったこと何回もありましたよ」
「……ふーん。あ、そ」
――久森にヒーロー登録させた当初は、ただ未来視が便利なヤツ、とだけ認識していた。特に強そうにも見えない、大人しそうな男。
一度引き入れたものの、実のところ長続きするとは思えなかったし、辞めるも辞めないも自由にさせていた。予想に反してヒーローは続けていたけれど、優柔不断が災いして現状維持を選んだのだろう、と大して気にしていなかった。
共にヒーロー任務をこなす日々が数ヶ月ほど過ぎた頃には、地味で大人しい優等生ヅラをしているこの男の中身が全然ヤワじゃないことはわかってきていた。しかし相変わらず活動には消極的だったし、生死にかかわるような大きな戦いなどからは真っ先に逃げそうだという印象は変わらなかった。
防衛本能は高いし、死ぬこともないだろう。なら、矢後が自由意志に基づいて好き勝手しているように、久森も久森の好きなようにやればいい。矢後はそう思っていた。
だが、白星の一年だった透野が愛教の北村と共に認可代表校のヒーローを崖縁に招集した日、その考えは変わらざるを得なくなる。
その日、透野は集められたヒーロー達の前で、夢物語としか思えないことを、まるで経験してきた事実のように語り始めた。
今自分達が生きているこの世界の前にはVer2.1という世界が存在し、そこでヒーローはUNKNOWNSという敵と激しい死闘を繰り広げていたこと。その戦いでは多くの犠牲者がうまれたこと。
敬さん、一孝さん、頼城さん、斎木さん、久森さん。そう順に名指しで呼ばれた者達は、「みんなは仮死状態になってしまったんだ」と透野から告げられた。浅桐に至っては命を落としたらしい。あの、悪魔と呼ばれ、何百回地獄に行っても平然と戻ってきそうな男が。
最初は話半分に聞いていた面々も、話が進むにつれ透野が冗談で言っているとは考えられなくなっていた。眠りこけていた矢後が途中から黙って耳を傾けてしまうほど、透野の話は真実味を帯びていた。あまりに突拍子もないが、しかし納得せざるを得ない部分も多くある語りだった。
だからこそ、その真贋を見極めるため、浅桐発案の《運命の出会いの、検証実験》とやら行われることとなったのだ。
……そして、ヒーロー達が協力した検証の結果、「前世界との差分」であり「忘れられた英雄」であったらしい『三津木慎』という名の崖縁の一年が新しくヒーロー登録されることとなる。
つまり、透野の話していた通り、久森は本当に一度、別の――前に存在したという世界で死にかけたことが、検証により証明されたのだ。
透野の話を聞いているとき、矢後は横目で久森を見ていた。やはり終始驚いていたが、それは「自分が戦闘に参戦していたこと」よりも「その世界で起こったこと」や「ヒーローが危機に陥ったこと」について驚いていたように思う。その姿が、矢後の脳裏に焼き付いていた。
面倒ごとや派手なことが見るからに苦手で、戦闘に消極的で、自分の身を守ることが得意そうな久森は、実際には土壇場で逃げないタチの人間だった。
そのことを知ってしまった以上、久森のことをこれまでと同じようにさせておくわけにはいかなくなった。勿論、久森は好き勝手に生きればいい。そう、生きていれば何を自由にしてもいい。しかし久森の本望でない限り、「死ぬ自由」までは許すことができない。
久森をヒーローに引き込んで、危険な状況に置いたのは矢後だ。そんな人間を、自分より先に死なせるわけにはいかなかった。だから矢後は、久森のことを気にかけるようになった。ある日、突然死ぬようなことがないように――。
「それにしても、矢後さんがきちんと仕事を続けててびっくりしましたよ。意外と向いてるかも、とは思ってましたけど、向き不向きで物事を継続するような人じゃないし。正直、高校を卒業したあとどうなるかまったく予想つかなかったですよ。ちょっと心配してました」
「………あ、そ」
まあ確かにな、と思う。矢後自身すら未来の自分なんて考えたこともなかったのだから、周りの人間にはもっとわからなかっただろう。
幼少期から「将来の夢」なんて呑気に考えられるような身体ではなかったせいで、未来に想いを馳せることも、まして高校卒業後の道なんて何も考えていなかった。
幼い頃は格闘家になりたいと願った時期もあったが、もうそれは完全に過去のことだ。明日には死んでもおかしくない身体で未来を志向しても、そんなのはほとんど無駄になることはわかりきっている。崖の上で綱渡りをするような人生を生きている身で、今以外を考えるなんて御免だった。
そんな矢後に、周りは、家族は仕事に就いても良い、フリーターでもニートになっても良いと言った。好きに生きれば良いと。やりたいことをやれと。
誰一人として矢後に未来の選択を強制したりしなかった。選択肢を提示しなかった。
そんな折だ。神ヶ原から声を掛けられたのは。
「矢後くん、卒業した後何もやることがないならALIVEで働かない?」
最初、そう提案してきた神ヶ原の正気を疑った。ALIVEの職員というのは皆優秀な頭を持った人間ばかりのはずだ。何故自分を誘ったのか、まったくわからなかった。
「……ここのヤツらって、頼城とか志藤みてーな、バカみてぇに真面目で、ベンキョーできるヤツしかいないんだろ」
「あはは……まあ、それはそうなんだけど。矢後くんにやってほしいのは研究や開発じゃなくて、ヒーロー候補生の育成なんだ」
「いくせー?」
「君はヒーロー経験者だろう? より実践的なノウハウを未来の卵に教えることができる。しかも実力も折り紙付きだ。僕としては良い人選だと思ってるんだけど、どうかな?」
矢後がヒーローをやっていたのは、生きるか死ぬかギリギリの戦いを愉しみたかったからだ。イーターのような、普通の人間には到底太刀打ちできない強い相手と戦うのは、矢後にとって至上の娯楽だった。
誰かを救いたいとか未来を繋げるためだとか、そんな大層な目的は持ち合わせておらず、ただ今を好きなように生きること――それだけが矢後がすべきことであり、矢後ができることだった。
しかし卒業後、その日その日をふらふらと生きることは、死ぬことと何が違うのか、わからなくなった。
ヒーローを辞めればリンクユニットは返却することになる。イーターと戦うこともなくなり、矢後が最も「生きている」ことを実感する瞬間、死と隣り合わせのギリギリの戦いをすることはもうできなくなるだろう。
気づいたら、矢後は神ヶ原の提案に頷いていた。
もし、矢後が教えることになる候補生のなかでいずれ張り合いのある奴がうまれたなら、ヒーローでなくなってもまたスリルのある面白い戦いができるかもしれない。
楽しいケンカが出来るならば、と思った故の決断ではあったが、それでもその選択は、矢後の「好きにする」の範囲内に思えて、これからの「今」にするにも悪くないように感じた。
……そうして現在につながり、矢後は今、ヒーロー候補生の戦闘訓練を生業としていた。
当たり前だが「教える」行為には、金銭が発生する。トレーナーとして子ども達を受け持った以上、生きてこの職に従事している限りは最低限のスジを通さなければならない。
だから、矢後は一応、そこそこちゃんと働いていた。ちなみに神ヶ原には「矢後くんが思ってたよりもちゃんと働いてくれて、感動してちょっと泣きそう」と言われた。
矢後が担当している子ども達――「ヒーローとなるべく育成されている候補生達」はまだ中学生で、成長途中の身体をうまく使いこなせていない。なにより、精神面での課題が山積みな者ばかりだ。
身体の限界とは違い、精神の限界は目測ができないぶんトレーナーがしつこく観察しなければならない。だからこそ教える側は、些細な違いから不調や不安を判断することに長けている必要があった。
その点、矢後は周囲のよりも鋭敏だったらしい。なんとなくの感覚で生徒の差異に気づくことが可能だった。久森が言った「向いている」とはこのことだったのだろうか。
それにしても、子ども達と接していると如何に自分の周りがタフな奴ばかりだったかを実感した。
戸上も、志藤も、伊勢崎も、頼城も、矢後とは中学からの付き合いだが、出会ったころから一度たりともイーター相手に怯えを見せたことがなかった。そういえば初陣こそひどく戸惑っていた久森も、その後はもう無理だなんだとぐだぐだ言いながらも大型イーター相手にも糸を巻き付け拘束することに躊躇いがなかった。どうやら、矢後の周りは頑丈で変な人間ばかりだったらしい。
コイツは本当によくわからない変なヤツだったな、と矢後は隣にいる久森を眺めた。視線に気づいた久森が、気まずそうに顔を上げる。
「ええっと、なんですか……?」
「……べつに」
「えー……。というか矢後さん、大丈夫ですか? ちゃんと生徒さんとコミュニケーションとれてます?
子ども達とたわむれる矢後さんの姿をいまいち想像できないんですけど……」
「たわむれ? はしねーけど。なんか、まとわりつかれるし、たまに食いモン渡される」
度々、訓練後に熱心な生徒が矢後に質問をしにくることがあるが、大抵は次から別のトレーナーの元に向かう。しかし、それでも何故か矢後のもとには子ども達が集まった。訓練施設の近くで昼寝をしていたら、矢後の寝姿を象るように周りに食べ物が供えられていたこともある。
「へぇー、人気ですねぇ。風雲児のみなさんも矢後さんのことを慕ってましたし、やっぱりそういう慕われる素質があるんでしょうね」
「そんなん言われても全っ然わかんねーよ」
「あー、まあ、本人にとってはそうかもしれませんけど」
でも、みんな矢後さんのことを慕うのは、矢後さんが基本的にいい人だからだと思いますよ。
そう言って、久森は目の前に見えた大きな看板を指差した。
「あ、あの看板が見えたので、もうすぐ僕のうちに着きます」
「………お前ってやっぱりすげー変なヤツだな」
「ええ?! 褒めたんですけど?!?」
◇
看板の並び立つ通りを抜けた途端、道を照らす灯りの数がグッと減った。どうやらこの道は人通りが少ないらしい。コンクリートの壁に防犯ポスターが数枚貼り付けられているのも納得してしまうほど、防犯の観点で問題がありそうな細い通りだ。前にも後ろにも人が歩いている気配はなかった。月明かりと街灯のささやかな光だけを頼りに暗がりを進む。すると、突然「ここです」と久森が目の前に見える建物を指差した。どうやら、現在久森が住んでいるのはマンションらしい。
マンションのエントランスには、ドアを開けてすぐ傍にエレベーターがあった。乗り込み、久森が『3』のボタンを押す。一から六までの数字が板チョコレートのように並んでいることから、このマンションは六階建てらしいとわかった。
三階の細長い廊下を進み、『308』と刻まれたドアの鍵を開錠した久森は、先に矢後が入るよう促した。靴を脱ぎ、適当に揃える。部屋に続く廊下には、キッチンが備え付けてあった。
「うお、」
久森の部屋には、アニメやゲームなどのグッズが至る所に置かれていた。高校時代に合宿施設で見ていた久森の部屋と比べると、この部屋の方が遥かに趣味に拍車がかかっている。
「あっ、矢後さん気をつけてくださいね!! 大切なものがたくさん飾ってあるので……!!」
久森の注意は鬼気迫るものがあったので、よくわからないがとりあえず頷く。
「……そーいえば、なんつったっけ、あのつえー奴。アイツはいねーの?」
「えっ? 僕、好きなキャラクターを紹介したことなんてありましたっけ?」
「んー……あ、あれだ。ダークなんとかアザ…ラシ?っていう。お前が描いた絵のやつ」
瞬間、久森は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「や、矢後さん。その人のことは、どうか今すぐ忘れてください………。でも彼はアザラシじゃありません……」
それだけ言って苦悶の表情で呻きはじめた久森は放っておき、矢後は綺麗に整列されているフィギュアを眺めた。
すると、知らないキャラクターばかりではなく「ニンジャ英雄伝」のニンジャ・フォレストやエレクトロなど、矢後が子どもの頃に見ていた日曜朝の戦隊ヒーローのフィギュアもあることに気づく。これらは一番見やすい位置にある棚に飾られているので一等気に入っているものなのだろう。確かに、装飾の細かいものが並んでいる。
その並びに目を走らせていると、矢後の目は一番端のあるフィギュアで留まった。
周りのものと同じくヒーローを象ったそれは、値段がそこそこしそうな他のものに比べるとあまりパッとしない。しかし、この棚に飾られているということはこのフィギュアは久森にとって大事なものなのだろう。矢後はそれをどこかで見た気がしたが、その既視感の正体を思い出せない。
記憶の糸を辿ろうとして手を伸ばしかけたところで、上着をハンガーにかけていた久森から「適当に座ってください」と声がかけられた。伸ばしていた手を引っ込め、勧められるがままに腰を落ち着ける。
部屋の真ん中に置いてあるミニテーブルの傍に胡坐をかいて座り、低い位置からぐるりと部屋を眺めると、久森らしい、住みやすくするため工夫がいくつか見てとれた。
例えば、テーブルタップがベッドの横に無造作に置かれ、すぐコンセントに接続できるようになっているとか。天井の照明から垂らされている紐にはさらに長い紐が括り付けられており、床に座っていてもベッドで寝転んでいても身体を起こすことなく点けたり消したりできるようになっているとか。かなりの省エネ思考が見て取れる、久森らしい部屋だ。
お茶を二人分淹れてきた久森は、手元にある紐をじっと眺めている矢後を見て「それ、便利なんですよ……」と言うと、心底恥ずかしそうに俯いた。
ベッドを背もたれにして座り、丸いミニテーブルと挟まれる形でお茶を飲んでいると、久森がハッと何かに気づいた様子で矢後の方に向き直った。
「僕達、今かなり油臭いですよね!?」
「あー……? そうか? よくわかんねえ」
「絶対臭いですよ!! 油をたくさん含んだ煙のなかに数時間いたんですから!」
そう断言されて、矢後は服の袖部分を嗅いだが、すっかり鼻が慣れてしまったせいか何も違和感を感じない。しかし隣で同じように自分の服を嗅いでいた久森は違ったらしい。
「ああ〜〜!! はやくシャワー浴びて服も洗濯しなきゃ……!!」
あたふたする久森を眺めながら、矢後はあることに気がついた。
「俺、なんも着替え持ってねーんだけど?」
シャワーを浴びようと思ったところで、一枚も着替えを持ち合わせていない。現在所持しているのは、病院でもらった錠剤の束とあまり中身の入っていない財布だけだ。
再びハッとした久森は頭を抱えて項垂れた。
「コンビニ寄るの、忘れてた………」
そう言って少しばかり逡巡した後、久森は意を決したように顔を上げた。
「矢後さんって、他人の衣服を身につけるのをイヤがる人じゃないですよね?」
「……気にしたことねー」
「ですよね! よかったー!」
久森はホッとしたように胸を撫で下ろすと「制服に勝手に刺繡されても全然気にしてなかったですもんねぇ、懐かしい」と呟いた。そういえば高校時代、矢後の背中には、知らないうちに学ランに背中に大きな鳥が縫い付けてあったことを思い出した。
「あ、お風呂じゃなくてシャワーで良かったですか?
今からお湯沸かしてもいいですけど」
「どっちでもいーけど」
「じゃあシャワーにしちゃいますね。着替えは用意しておくので矢後さんが先に浴びちゃってください。まだおろしてない下着があったはずですし、パジャマは裾が足りないかもしれないですけど……サイズが全然合わなかったらコンビニいきましょう」
「………わかった」
思わず了承してしまったが、どうやら久森のなかでは矢後が泊まるのが決定事項になっているようだった。特に何のやり取りもした覚えはなかったのだが、まあいい。矢後の方も明日は予定がないため、別に問題はない。
ただ、無断で外泊して家族に騒がれるのは面倒なので、バキバキに割れたスマホ画面をタップして「矢後家」と名付けられたグループチャットに「ひさもりんちに泊まる」と一言メッセージを送った。これは、姉に勝手にスマホを操作されて入れられたグループだ。送信してすぐ「既読1」と表示されたのを確認して画面をオフにする。ブーッ、ブーッとバイブ音が鳴り響いているがおそらく久森の名前に姉が反応しているだけなので無視した。
久森と姉は矢後の入院中に病院でよく顔を合わせていたせいか、矢後の知らぬ間に軽い雑談を交わす仲になっており、姉は久森のことを気に入っているようだった。数年ぶりに久森の名を目にして、今頃家で騒いでることだろう。
ひっきりなしにバイブ音が鳴り響くうるさいスマホを電源ごとオフにして、矢後は風呂場に向かった。
◇
「久森。風呂おわった」
「お、早いですね〜……って、ちゃんと髪拭いてくださいよ! タオル用意しておいたじゃないですか!?」
「あ……? 頭にのせてるけど」
「…………、ハァ〜〜〜」
座ってスマホゲームをやっていた久森が、立ち上がって矢後に近づいた。床を見て「ああもう、水が垂れてる!」と、隣の部屋に聞こえかねない声量で嘆く。
「もーー……しょうがない。ほら、タオル貸して! さっさとそこに座ってください!」
矢後は素直にタオルを手渡し、久森が指差した場所、ベッドとミニテーブルの間に座った。それを見届けた久森は、近くに置いてあった消臭剤を自分に念入りに噴きかけると、ドライヤーを手にして、矢後の身体を足で挟む形でベッドの縁に腰掛けた。
そして、手渡されたタオルを矢後の頭に被せると、水分を多量に含んだ髪をわしゃわしゃとつよめに拭き始めた。
それから数分経ち、初めは頭がガクガク揺れるほど乱雑だった拭き方が次第に優しいものに変わった頃、頭上から声が聞こえてきた。
「……僕、今でもたまに御鷹くんや斎樹くんとメッセージのやり取りするんですよ。二人とも忙しいのでなかなか会えないんですけど、この間やっとカフェ巡りに行けて」
「……へー」
「あの二人、会うたび輝きが増してるんですよね……キラキラエフェクト標準装備な上、清らかなオーラみたいなのも出てるし。直視してたらもたないっていうか」
「人間は光らねーけど、お前バカか?」
矢後からのバカ呼ばわりを完全に無視した久森は、再び髪を拭く手に力を込めながら「二人共、僕とは違って華やかなキャンパスライフを送ってるんだろうなぁ……」と感嘆の溜息を吐いた。
そのまま久森が少し早口になりながら御鷹と斎樹を褒め続けるのを、頭を揺らしながらボーッと耳に入れていると、ふと髪を拭く手が止まった。
「矢後さん。僕、自分の能力を隠さないで付き合える友達ができて、すごく嬉しいです」
矢後が顔を上げて背後を見ると、久森の瞳が部屋の灯りを目一杯吸収したかのように一瞬煌めいた。それだけ見届けて、また前を向く。
「まあ……良かったんじゃねーの?」
矢後は他人の人間関係について興味を持つような性格でもないので、出会う前のことについては勝手に聞こえてきた断片的な情報しか知らない。ただ、合宿施設ができて他校との交流が増える前、必要最低限しか他人に関わろうとせず、未来視についてもごく一部の関係者にしか明かそうとしなかった久森の姿を矢後は誰より近くで見てきた。だからだろうか、こうして嬉しそうにしている久森を見るのは、まあまあ気分が良かった。
「あはは、照れますね……」
久森は喜びを声に含ませて、「よくよく考えれば、」と続けた。
「こういう話を気負わずできるのって矢後さんくらいなんですよねぇ」
「…………」
「なんたって明日には忘れてそうですし」
「………お前、俺のことなんだと思ってんの?」
タオルがドライヤーに入れ替わり、あたたかい風と髪を柔らかく撫でる手を気持ちよく受け入れていると、次第に眠気が襲ってきた。
「矢後さーん、ここで寝ないでくださいねー」
「ん〜〜……超ねみぃ………」
「ねみぃ、じゃないですよ。いくら矢後さんだからって一応客人である以上床に寝かせるわけにはいかないんですから。寝るのはもうちょっと我慢してくださいね?」
そうは言っても、ふわふわのタオルで柔らかく髪を撫ぜる感触と語りかけるように話す久森の声は眠気を誘う一方だ。
「ほら、もう拭き終わりますよー……」
久森が仕上げとしてタオルで頂から首筋にいたるまで頭全体をポンポンと包み込むように叩く。
それが眠りへと誘うトリガーとなり、矢後はとうとう瞼を閉じた。
Grab the figure/fingers
「……さん、矢後さん!!」
すぐそばから久森の声が聞こえてくる。
地面を踏んでいる感触はあるのに、何故か視界は真っ黒だ。どうやら目を瞑っているらしい。薄く目を開けるとその隙間から光が入り込んで一気に視界を白く染め上げた。
ようやく明るさに慣れてきた頃、目の前にいる久森に気づく。
「あ、ようやく覚醒した……! まったく、立ったまま寝てるのかと思いましたよ!?」
「……あー、寝てたかもしんねー」
「ええ……どうすればそんな技が身につくんですか……?」
信じられない、とでも言いたげに矢後を見つめてくる久森は、風雲児の戦闘服を身に纏っている。目線を下げると、矢後も同様に戦闘服を着ており、手には自分の武器である大鎌を握っていた。辺りを見渡すと、今いる場所が風雲児高校の近くにある橋の上であることを理解する。
「まあともかく、予定通りイーターは倒せましたし今日の任務は終了ですね」
「……は? 何?………イーター?」
「何って、矢後さんが倒したんじゃないですか。僕ほとんどやることなかったですよ、まあその方がありがたいんですけど。あ、指揮官さんへの報告は済ませておいたのでもう帰って大丈夫だそうです」
久森はそう言うと、すぐさまリンクを解除して制服姿になった。学ランの背中には立派な金の亀の刺繡が施されている。
久森の話を聞くに、つい先程ALIVEから風雲児に任されたイーター討伐が終わったようだった。だが、それを成し遂げたらしい矢後はなにも覚えていない。しかし、スーツに汚れが付着しているところを見ると矢後はイーターと戦っていたのは本当らしい。
……どうやら、矢後はここ数時間の記憶がぽっかりと抜け落ちているようだった。
確か、今日は快晴で、日差しも強すぎず気温もちょうど良い絶好の昼寝日和だったため、昼休みからずっと校舎の屋上で寝ていたはずだ。しかし、そこからの記憶はない。
「……ま、生きてるしどーでもいいな」
首、手首、足首と順に回し、全身がいつも通りに動くことを確認する。身体には何の問題もない。なら大丈夫だろう、と矢後は穴の空いた記憶について考えることを止めた。今日あったことについてなど、どうせ数日後には忘れている。ただ、どうせなら戦う前に目覚めたかった。そう残念に思いつつ、リンクを解除する。
「じゃあ帰りましょうか」
久森が先に歩き出すと、矢後も続いて足を踏み出した。沈みかけている夕日が橋の上からはよく見える。足元からは墨のように濃い影が伸び、二人分が重なったそれは、一体の生き物のようにゆらゆらと動いていた。
「あのー。僕あそこのコンビニ寄りますけど、矢後さんも行きます?」
橋を通り過ぎたあたりで、隣から声がかけられた。
「今あのコンビニでゲームとのコラボキャンペーンがやってるんですよ。対象商品を五百円分買うと一回くじが引けて、商品が貰えるんです」
久森は好きなキャラクターのフィギュアが目当てで、ここ最近毎日くじ引きにチャレンジしているという。
「引ける確率は低いのでダメ元ではあるんですけど……。それでも挑戦したくて」
D賞のクリアファイルがどんどん重なっていきますよ、と溜息を吐く久森を見るに、どうやらフィギュアはなかなか当たらないもののようだ。
ちなみにこのキャンペーン、肉まんとかカレーまんとかも対象なんですよ、と久森が横目でこちらを伺いながら告げてきた。
「カレーまん?」
「そうです、カレーまん」
「行く」
「わっ、やった! 他に欲しいものあったらおごらせてください! 物欲センサーに引っかからない矢後さんなら引けるかもしれないので!!」
久森のテンションが一気に高くなった。「ぶつよくセンサー」はよくわからないが、こうしてよく久森が矢後にゲーム画面のボタンをタップさせてくることがあるので、今回も矢後の運を頼りにしていることが丸わかりだ。
「最初からそのつもりで誘っただろ、お前。つーか金は自分で出すからいい」
「いやいやっ、僕が出すからいいですよ! 流石に申し訳ないですし!」
「食いてえもんは自分で金出して食う」
「あ、そこもスジを通すんですか? でも五百円も買うものあります?」
「カレーまん四つ」
「ええ……晩ご飯前ですよ? 僕からお願いしておいてなんですけど、せめて三つにしてください」
軽く言い合いながら歩いてる間にコンビニに到着する。自動ドアを通り過ぎると、軽快なメロディーとともに店内に充満する冷気が肌を撫でた。
さっさと向かえばいいのに、何故か久森は他の商品を物色するふりをしながら目当ての棚へと歩いて行く。矢後は早速飲み物コーナーに行き、久森の言っていたキャンペーンラベルつきのお茶を手に取って、レジに向かった。その後ろに商品を選び終わったらしい久森が並ぶ。レジでカレーまんを三つ頼むと、「会計が五百円を超えましたのでくじがお引きできますがチャレンジ致しますか?」と店員に尋ねられた。
矢後が頷くと、店員がくじの入っている箱を出す。その隙に背後を見ると何故か久森が必死の顔で祈っていた。矢後に向かってスマホの画面を翳してくるときの表情と同じだ。
箱の中に手を突っ込んで真っ先に触れた紙切れを掴み引き抜く。折りたたまれていた紙を開いて店員に見せると「おめでとうございます、A賞ですね」と祝われた。
その瞬間、「えっ!?!?」と後ろで久森が大声を出した。店内にいた客が一気に久森の方を向く。それに気づいて恥ずかしくなったのか久森はすぐ手で口を覆ったが、目はキラキラと輝いておりそれはそれはものすごく喜んでいることがわかった。
「ほんっっとーーーにありがとうございます!!」
コンビニを出てすぐ、久森は矢後に向かって深く深く頭を下げて、次に何故か拝んだ。カレーまんを食べながら「おー」と適当に返事をすると、久森が自分で引いたクリアファイルとA賞のフィギュアを抱きしめて「すごい、すごいことですよ……!」と繰り返した。あまりの喜びように矢後が若干引いてしまうほどだ。
「……お前それ、そんな欲しかった?」
「そりゃ勿論ですよ!! それにめちゃくちゃレアじゃないですか!!」
「へー。そんなめずらしーモンなのな、それ」
「違いますよ!! いや、違わないけど……! 僕が言った『レア』っていうのは、矢後さんがこのフィギュアを引き当ててくれたことに対してです」
「………俺、結構お前のゲームの画面押してやってるよなぁ?」
「あ、いや、そうなんですけど、気持ちの問題っていうか……。ガチャで矢後さんにレアカード引いてもらっても正直『あ、これ矢後さんに引いてもらったカードだ……ありがたく使おう』みたいなことは一日経てば忘れちゃうんですけど、」
「………お前」
別に指くらい久森のゲームのために使われようと構わないのだが、この遠慮のなさはなんなんだ。まあ、とにかく、と久森が続きを紡ぐ。
「たぶんカードと違って、このフィギュアは見るたびに矢後さんを思い出すと思うんですよね」
そう言うと、久森はフィギュアを矢後の目の前に掲げた。
「ほんもののヒーローが引き当ててくれた、推しヒーローのフィギュアですよ。忘れられるわけないです」
矢後は掲げられたそれを真正面から見つめた。そのヒーローは、黄色いマフラーを巻いて、ヘアバンドを巻いて、黒いコスチュームを纏っている。到底ヒーローには見えない目つきの凶悪さを見ると、どうにも人気のあるキャラクターには見えない。
コイツのどこがいいんだ?と久森を見ると、ただただ笑っていた。その光景に違和感を覚える。だって、このキャラクターのことを、久森は別に好きではないはずだ。矢後はそれを知っている。確信している。
それは、何故だ?
そのとき、矢後は目の前のフィギュアをみて《たった今、初めてその造形を認識した》ことに気がついた。
不思議なことにこれまでも視界に入っていたにもかかわらず、その色や形をまったく覚えていなかった。ぼやけていたわけでも、見えていなかったわけでもない。そこに確かにあったのに、矢後の意識はそのヒーローの造形を認識するのを阻んでいた。
「久森。お前が持ってるそれ、何だ?」
矢後がそう告げると、久森の手に包まれていたヒーローのマフラーが溶け始めた。次第に顔が黒く塗りつぶされていき、数秒後には身体が崩れて砂のように消え去った。久森は笑っているだけだ。
――あ、これ夢だな。
矢後はそう直感した。
死にかけて走馬灯を見ているときと同じような感覚。これは夢の中だ。他より死の間際の場数を踏んでいる者の経験則、とでも言えばいいのか。矢後はこういうとき自分がどう動けば良いのかをよく知っていた。夢だと気づいてしまったら、あとは意識の覚醒を待つだけだ。
奇妙な気配を感じて足下を見ると、矢後と久森から伸びている二つの黒い影が動き出していた。それは一つになって浮かび上がり、生き物のような俊敏さで矢後に襲い掛かってくる。条件反射的に予備のリンクユニットを割るが、砕けた欠片が光を反射して橙に輝いただけで何の変化も起こらない。矢後は抵抗を諦めて、自分に向かってくる影を眺めながら、おそらくもうすぐ眠りから醒めるだろうな、と思った。
走馬灯を見るときも、深い眠りに没入しているときも、ここが現実ではないと気づいてしまえば案外あっけなく夢は終わるものだ。
予想通り、世界がぼろぼろと崩れていく。
目の前にいた久森が、ゆっくりと影に呑み込まれていく。矢後はじっとその光景を眺めていた。
現実の久森は、ヒーローだった久森は、そんな間抜けな顔をしたまま、間抜けな死に方はしないだろう。何をやらせても想定以上にこなす器用なヤツだ。きっとやるべきと思ったことは、ちゃんとやって死ぬ。久森は、そういうタイプの人間だ。
ふと、久森がヒーローとして殉職するようなことが起きなくて安堵した過去を思い出した。あれは確か、風雲児の卒業式だ。久森が壇上で何か『そーじ』……掃除?とかなんとかを読んでいて、そのときそう思った。一応ヒーローに引っ張り込んだ自分のスジは通せただろう、と。
久森は完全に呑み込まれ、次に矢後の腕がその影に覆われていく。あたたかく、妙な心地良さがあった。
ゆったりと目を閉じ、柔らかな暗闇に沈んでいく感覚に身を任せる。
案外、本当に死ぬときはこんな感じなのかもしれねーな、と思った。
◇
「……さん、矢後さーん」
すぐそばから久森の声が聞こえる。
意識が覚醒した瞬間、ついに自分は死んだかと錯覚したが、寝起き特有の気だるさといつもと変わらない身体の重みが、まだ生きていることを実感させた。
軽く伸びをして、薄く目を開ける。電球の明かりが一気に飛び込んできて、視界を白く染め上げた。
「あ、起きた! 良かった……」
光に目が慣れると、真上からこちらを覗き込んでくる久森が目に映った。
「まったく、床で寝たままだったらどうしようかと思いましたよ」
丸まって寝るなんて猫みたいですね、と久森は苦笑した。
「楽しい夢でも見てたんですか?」
「あー……。なんか見てた気がするけど、全然覚えてねえ」
矢後がゆっくり起き上がると、はらりと毛布が床に落ちた。どうやら寝てる間に久森がかけていたらしい。毛布を掴むと、そのふわふわとした感触が不思議と知っているもののように思えた。
夢のなかでこれと同じような柔らかくて心地良いものに包まれたような気がするが、その正体を思い出そうとしてもひとかけらも覚えていない。矢後としては珍しく思い出す努力をしたのだが、数秒後どうでもよくなったのでやめた。
矢後が寝ている間、久森は漫画を読んでいたらしい。矢後が無事起きたとわかると読むのを再開し始めた。内容が気になって久森の手元を覗くと、近づいた瞬間シャンプーの匂いがした。矢後も身に纏っている匂いだ。
「……それ、おもしれーやつ?」
矢後が訊ねると、久森は間髪置かずに返答した。
「めっっっちゃくちゃ面白いです!」
「……ふーん」
「あっ、矢後さんも読みます?僕が読んでるのは今日買った最新刊なんですけど、既刊も全巻持ってるので!」
「……まあ、読む」
「わあ、ぜひ読んでください!ほんとに面白いですから!」
「おー」
よほど好きなのだろうか、誰かに勧めたくて仕方ないというような勢いだ。
早速立ち上がった久森は、部屋にある本棚から迷うことなくその漫画の一巻を手に取り矢後に渡した。折り目を付けないでくださいね、という注意とともに受けとったそれは、どうやらバトルもののようだ。
入院生活の暇つぶしにと漫画を買い与えられる機会が多かった矢後は、人気漫画雑誌のジャンクを購読していたため、漫画を読むこと自体は嫌いではない。よくわからない恋愛ものやミステリーものよりも、断然生死をかけるような戦いが満載のバトルものが好きだった。
「僕、この作品が大好きで、推しキャラのフィギュアも持ってるんですよ。ええっと……これです」
久森がそう言って本棚の隣にある棚から丁寧な手つきで持ち上げたのは、この部屋に入ったときに矢後が何故だか既視感を覚えたあのヒーローのフィギュアだった。
それは今矢後が読んでいるページに出てきた顔と同じものだ。矢後は、この漫画もここに出てくるキャラクターにも見覚えがあった。最近は漫画を読むこともないため、きっと矢後達が高校生のときから長く連載を続けている作品なのだろう。
「僕、このフィギュアには懐かしい思い出があるんですけど、矢後さんは覚えてませんか?」
「……さあな」
「うーん、やっぱりそうですよねぇ」
少し間を置いて、ちょっと気持ち悪いこと言いますけど、と前置きをし、久森は言葉を続けた。
「僕、実はこのヒーローと矢後さんだと思ってたんです」
思わず口から「ハァ?」と声が出た。
久森は、何を言ってるんだ?
矢後が考えていることをわかっているのか、久森はバツが悪そうに「そりゃそういう反応ですよね」と呟いた。
「えっと説明すると……このフィギュア、あまり自立性が良くなくてすぐ倒れちゃうんです。最初は足元を固定しておくことで転倒防止してたんですけど、年数が経過したからか最近また倒れることがあって……」
久森がそっとフィギュアを元の位置に戻す。棚の端の、やや奥に。そして、また矢後の方に向き直った。
「倒れるところを見る度、矢後さんを思い出してました。矢後さんは覚えてないみたいですけど、このフィギュアって矢後さんがくじ引きで当ててくれた景品なんですよ。レアなんです」
「……なんでレア?」
「このフィギュアそのものもですけど、矢後さんが引き当ててくれた推しヒーローのフィギュアですよ?レアじゃないですか」
何故か矢後はこれに似た会話をどこかでしたような気がした。しかし何も思い出せない。
ただ、久森が矢後の前に掲げたそのフィギュアの容貌は、志藤や佐海の纏う雰囲気に似た、いかにも王道といった風貌のヒーローだった。赤のマフラーを首に巻いて白いヒーロースーツを着ているそのヒーローは、顔に満面の笑みを浮かべて意志の強そうな目をしている。矢後とは正反対の、まさに万人が思い描くヒーロー像をそのまま反映したようなキャラクターだった。どこにも矢後と重なる部分はない。
「それに……これは僕がお願いして矢後さんの運を使って引き当てたものだから、このフィギュアが倒れるってことはもしかして矢後さんの身に何かあったんじゃ……なんて、たまにちょっと考えちゃったんです。馬鹿げてる思考だとは思うんですけど、でも、僕達ここ数年のお互いのこと、全然知らないじゃないですか」
そう言うと、久森は眉を下げて笑った。
矢後は理解できなかった。どうして自分の運が関係あるというのか。久森の考え方は、矢後にはわからなかった。
だが、矢後は知っていた。久森晃人は、未来視で知ってしまった不幸な出来事を、自分が視てしまったせいだと責めるような奴だということを。自分で自分に呪いをかけてしまうような、自罰的なヤツ。だから久森の言うことを理解できなくても、そう考えてしまうような人間だということはわかっていた。
「………お前の言ってること、ぜんっぜん、わかんねー。だいたい、俺とか、他の奴らに訊こうとは思わなかったのかよ。志藤とか戸上とか、あと……頼城とか。俺が生きてることなんて、あいつらは知ってる」
この四年、矢後も久森も互いに連絡をとったことは一度もなかった。矢後のスマホは画面が割れていたために、高校卒業時に姉からの卒業祝いという名目で買い替えられていたのだが、久森の連絡先は引き継がれたまま残っていたはずだ。矢後に繋がらなくたって、御鷹や斎木と今でも交流があると言っていたのだから、いくらでも知る機会はあるはずだった。
「あはは、ほんとそうですよねえ……。でも連絡してまで確認することではないと思ってました。不吉な被害妄想だって」
そう言ってから、何か納得いかなかったのか、「いや、すみません。やっぱり違います」と、久森はかぶりを振った。
「本当は……。万が一何かが起きてたらって考えて、怖くて連絡できなかったんだと思います」
さすがにその場合は頼城さんや戸上さんが僕に伝えてくれると思ってはいたんですが、と久森は自嘲した。
「だから今日矢後さんを見つけたとき、気づいたら声を掛けてました。本物の矢後さんだと分かって、ああ生きてたんだ、良かったって……本当にホッとしました」
……久森の話を聞きながら矢後は考えていた。
自分に《万が一》があるなら「生きる」方だと。
むしろ、「一」以外の全てが命の灯火が吹き消される道へと繋がっている。今もこうして余命を更新しながら生きてるのだって、医者に言わせれば「奇跡」だ。
何より、そんなことは久森もよくわかってるはずだった。隣で、未来視で、数え切れないほど矢後の死を視てきたはずなのだ。高校時代、毎回矢後が持病の発作を起こすたびに常備薬を飲ませ、救急車を呼び出していたのも久森だった。
それなのに、久森は《万が一》を矢後が死ぬ未来だと考えていたという。それは、まったく不可解で、でもきっと祈りにも似た思いなのだろうと矢後は思った。
そのような思いは、これまで何度も何度も、先に死んでいった者達、その家族、矢後の近しい者達など、数多の者が矢後のもとに勝手に残していったものと同じだ。久森までそこに加わるとは考えていなかった。
矢後は、心のどこかで、久森だけは、「そこ」には入らないと思っていた。
しかし、どう言葉にしようとも矢後と久森の関係はヒーローを共にやっていただけの同校の先輩後輩でしかない。矢後は久森のことをそこそこ気に入っていたが、それでも高校を卒業してしまえば風雲児高校にも久森にも用事はなくなった。舎弟を名乗る奴らは卒業後も結構な頻度で矢後のいるALIVEに押しかけてきたが、当たり前にその中に久森がいたことはなかった。
時間が経てば切れてしまうほどの、ただそれだけの縁で結ばれた、なんでもない存在。
だが、若干の落胆が矢後にはあった。
久森だけは、矢後に対して希望とか、信仰とか、想いとか、そういった類の妙なものを自分に背負わせることはないと。心のどこかで期待していた。
棚に飾られたあのヒーローのフィギュアを眺める。おそらく久森はあのヒーローを見るたび、いつからか高校時代に何度も視た、死にかけの矢後の姿を思い出していたのだろう。
――不幸だな、と思った。
視たくもない人間の死に様を、顔見知りの死に顔を何度も何度も視させられた、というのは。きっと、おおよその人間には想像もつかない体験だ。矢後が教えている子ども達がもし見てしまえば病院に通わせる必要性があるほどの、それくらい凄まじい体験。
そりゃあ、本当に矢後が死んだことを想像するのも、知るのも恐ろしくなる。
矢後は口元を歪めた。この久森に対する身勝手な落胆は、矢後が多くの者に背負わされた想いと一緒だ。自分に苛立って仕方ない。久森に何かを勝手に期待して、勝手に失望しそうな自分に怒りが沸いた。
「矢後さん」
久森が矢後をただ見つめている。今は、久森の瞳に矢後を入れてほしくなかった。矢後も久森を見たくなかった。しかし、久森は矢後を視界に捉えたまま話し出す。
「僕が、僕の未来視が矢後さんに見つかったのは、本当に不幸な事故でした。今でもそう思います」
わざわざ家から遠い風雲児に入学して、そしたらとんでもない不良高校で。びっくりしたけど、順調に「普通」をやれてたのに。まさか早々に未来視がバレて、挙句の果てにヒーローになるなんてまったく予想できませんでした。
そう語る久森の話を、矢後は天井の照明から垂らされるヒモを見ながら聞いていた。
「……そうだな」
矢後が、あのとき久森を見つけて、便利な能力だと思ったから、久森の不幸がはじまった。
「あの日、矢後さんが鉄骨に圧し潰されて死ぬ未来を視てしまって、思わず、死ぬ思いで飛び込んだのに……矢後さんは僕の目の前で死の運命を覆しちゃいましたよね。運命は定められたものであるはずなのに、矢後さんは簡単にそれを変えちゃって……。信じられなかったけど、実際に矢後さんは生きてたから。……ああ、本当にこんな人がいるんだって」
「僕はあのとき、死の運命を変えていく矢後さんの姿を見て、」
まるで、と続けて久森はそこで言葉を止めた。そして、しばらく間を置いて、呆れたような笑みを浮かべた。それは矢後に向けて、というよりは自分に向けた笑みのようだった。
「……いや。あ、そういえばあのとき僕、矢後さんがめちゃくちゃ怖くて、失神しそうになったんですよ」
どうやら久森は先程の言葉を続けるつもりはないらしい。矢後も特に追及するつもりはなかった。
「そのあと無理矢理ヒーローにさせられて、矢後さんが死ぬところを数えきれないほど視ました。イーターに身体を貫かれてる姿や落下した鉄骨や電柱に潰されてる姿……。死に方のバリエーションの多さには驚かされましたよ」
「………ああ」
でも、と久森が続ける。
「今、僕は傍にいないから、矢後さんが死ぬ未来を視ることができません。……矢後さん前に言ってましたよね?僕がいると寿命が延びるって」
何故か、無表情の矢後とは反対に久森は顔に笑みを浮かべていた。その表情の意味がまったくわからない。
「……言った。久森がいると、俺の寿命が延びる」
「あはは、まあ、そう言って結局僕と四年会わなくても生きてましたけどね。矢後さんだって気づいてるでしょう?あの頃と同じように、僕がいなくても矢後さんはきっと死なないです」
でも、それでも。そう言う久森の目を、ようやく矢後は見返した。互いの視線がやっと交わる。
「矢後さんは今でも僕がいると寿命が延びると思ってくれていますか?」
渇いた喉を潤すため、唾を呑み込んでから矢後は告げた。
「……俺は、くだらねーウソはつかねーよ。久森がいると俺の寿命は延びる。お前は便利なヤツだし、それに……それだけのヤツじゃねーだろ」
そう言うと、とうとう久森は口を開けて笑った。
「矢後さん。僕は、誰よりも先に矢後さんが死ぬところを視たいんです」
「あ? ……俺を殺したいってことかよ。別にいーけど、まぁ、できるもんなら」
「全然違います! しかも別にいいって……良くないですよ!! 第一、僕が矢後さんを殺せるわけないじゃないですか」
「じゃあなんだよ?」
矢後はますます久森の考えがわからなくなった。矢後でなくとも、久森の思考回路がどうなっているかは誰にもわからないのではないだろうか。
「これは、僕なりにスジを通すってことなんです」
「あのさぁ……。さっきからずーっと、お前の言ってることがわかんねーんだけど」
しかし、もしですよ、と久森は戸惑う矢後を置いてけぼりにして話を進めようとする。
「もし、矢後さんが僕がヒーロー時代に視ていたような、グロテスクで凄惨な死に方をしたとします。それを偶然その場に居合わせた人が目撃してしまったら?おそらくその方はトラウマを抱えてしまいます。この世界で唯一矢後さんが死ぬ瞬間を目撃している僕だから断言しますよ。絶対にトラウマものです」
「はは、そんなやべー死に方すんだ」
ウケるな、と他人事のように呟く矢後を、久森は見つめた。
「僕的には全くウケないんですけどね……。まぁいいです。あー、えっと再確認ですけど、僕の未来視は運命を変えられるものではありません。だから、自分の余命を運命を変えることによって更新し続けている矢後さんには、実際は僕の存在は必要ないはずなんです」
「……お前。さっき俺が言ったこと忘れたのか?」
矢後は久森の未来視が自分の寿命を延ばすと思っているか、という問いに肯定を返したばかりだ。
「忘れてませんよ。僕のことを寿命を延ばすために必要な存在だって考えてくれてるんですよね?」
寿命を延ばすために必要な存在。久森が、矢後にとって。
「………そーなんのか?」
「……たぶん、そうなります。僕がそう解釈したので」
つまり、と久森が人差し指を立てた。
「僕がすることはひとつです。僕が誰よりもいちばん先に矢後さんが死ぬところを視ます。他の誰かが先に見るのは……嫌です。僕はもうヒーローじゃありませんし、今は日常で未来視をほぼ使ってないです。でも、矢後さんの未来をヒーローとして視ていきます。せめて、身体が八つ裂きにされたり、潰されたりする死に方からあなたを守ります。そして、それを見てトラウマを抱えてしまう誰かを守ります」
じわじわと、久森の語りが矢後の脳内に浸透していく。その代わり、久森に感じていた落胆が、自分に対しての怒りが、排水口に吸い込まれるようにどんどん消失していく感覚があった。
「お前が? ヒーローとして……?」
「そうです。今度は、僕が自分で望んでヒーローになります。ただ矢後さん。矢後さんにも協力してもらいますからね」
「…………は?」
「良くも悪くも矢後さんのヒーローとしてのあり方は僕のなかにも影響を与えてるんです。よくわからないけど、たぶん、スジの通し方も。だから僕にしかできない任務ならやり通すまでです。だけど、矢後さんが僕を無理矢理ヒーローにしたんですよ? 僕の新しいヒーロー任務にだって付き合うのが、通すべきスジってものじゃないですか?」
言い切った久森は、矢継ぎ早に言葉を紡いだためか、それとも緊張のためか、まるで走り終わったときのように肩で息をしている。
それに、酸素を巡らせるために血流量が増加しているからか、それとも別の理由か、ほんの僅かに頰に赤みが差していた。
そんな久森を見ながら、矢後は考えていた。
矢後と久森の関係は誰も名付けようのない、ただの同校で、ヒーローをしばらく一緒にやっていただけの関係だ。それに、先輩後輩というには、それらしい上下関係を築いていたことすらあまりない。用事がなければ連絡も取り合わないし、相手の込み入った事情に踏み込むこともしない。理解し合えたと感じた経験だってない。
ただ、それでも。
互いの事情に踏み込むことはなくても、互いに遠慮しあうような関係ではなかった。性格も趣味嗜好もどこまでも違って平行線のまま交わることがなかったが、隣にいて居心地は悪くなかった。
矢後はずっと、それで十分だと思っていた。
ヒーローじゃなくなった今、また久森がヒーローを始めるという。それに矢後も付き合えと。同校の先輩後輩でもなくなり、リンクユニットさえ持っていないのに。
スケールの小さい、世界のほんの片隅の誰かを救うためだけのヒーロー活動。
「……はは、なかなか言うな、お前」
それはなんとも馬鹿馬鹿しくて、でもそれはそれで面白そうだと矢後は笑った。
……いつ死ぬかもわからない人生。次の瞬間呼吸が止まっていてもおかしくない身体。
そんな人間が、他人の人生に責任を取れるわけがないことを矢後はよく知っている。
全員、自分に構わず好き勝手生きていればいいと心底思う。選択肢のない矢後にできることは、自分の好きなように生きて、死んでいくことくらいなのだから。
しかし、たった今、目の前にいる男は、「自分で望んでヒーローになる」と告げた。
だから、矢後は選ぶ。
今日も明日も、命ある限りは自分の好きに生きるために、目の前に現れた愉快な選択肢に手を伸ばす。
「今度は僕が、矢後さんを巻き込みますよ」
「ハッ、上等だよ。久森」
そうして、矢後は久森の手を取り、久森は矢後の手を取った。
epilogue
「あれ、矢後さん……?」
声が震えていることに、言い終わった後に気がついた。
喉がカラカラだったせいで最後の「ん」は確実にかすれている。微妙に恥ずかしいが、細かいことなんていちいち気にしない人だし大丈夫だろう、と考えたところで、はたと声を掛けた人物が自分の存在を忘れているかもしれない可能性に思い当たった。今更、衝動的に動いてしまったことを後悔する。
自分にとっては濃すぎるほど濃かった日々を共に過ごした相手だが、簡潔に言ってしまえば、二年ほど同じ高校に通って、その間一緒に行動することが多かっただけの、本当にそれだけの関係だった。ましてやこの人のことだ、自分のことなど忘れていても不思議ではない。
しかし後悔もすでに遅く、目の前にある大きな背中が動きゆっくりと此方に振り返る。内心冷や汗をかきながら相手の顔を見つめた。昔と変わらず感情を読み取りづらいその眼と視線がぶつかったそのとき、相手はいつもの無表情にわずかに驚きを浮かべて、ほんの少し口角を上げた。
「………よお、久森」
名前を呼ばれた瞬間、なんだか泣きそうになった。ヒーローなんて大層なものをやっていた高校時代の思い出が一気に駆け巡る。
何より――矢後勇成という人が生きていた事実に安堵した。
運命が彼を手放そうとするときが来てしまったら、自分がその手を取って未来へと道連れにしよう。
――なんて、自分らしくないことを考えてしまったほどに。
運命さえも道連れに