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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ第三章。兄上と江澄がキスしそこなった話。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #藍曦臣
    lanXichen
    #江澄
    lakeshore
    #曦澄
    #オリキャラ
    original characters

    明知不可而為之(一) いちばんになりたかった。
     あいつに勝ちたかった。
     誰よりも強く秀でていたかった。
     ちがう、ちがう。
     いちばんになって俺は褒められたかった。
     さすが次期宗主だ、自慢の息子だって。
     愛されたかった、父さんと母さんに。

     庭に侵入者がいると思えば、それは江澄が幼い頃から気にかけている少女だった。彼女は向前看(シャンティエンカン。前を向いていこうという意味)という明るい名前のーー前(ティエン)を銭(ティエン)、尚銭看(お金に目をむけていこう)と実はかけているのではないかと江澄が疑っているーー霊剣へ今にも飛び乗ろうとしていた。
    「小蓮!」
     少女を見つけるなり呼び止めた。
    「雲夢へ帰ったんじゃなかったのか。なぜこんな夜更けにまた金麟台にいる?」
    「師父こそどうしてこちらまで?」
     驚愕の表情で、若い弟子は柱に寄りかかって腕を組んでいる江澄を見上げてくる。
     下半身にまだしびれは残っているが、今日藍渙が部屋に帰った後ためしに自力で寝台から下りてみた。寝台に手をつきながらゆっくりではあったが、久しぶりに彼は地面に足をつけ立ち上がることができた。
    そこから江澄は思い切って部屋の中の家具や柱によりかかりながら部屋をでて、紫電を廊下の欄干や柱にまきつけながら歩く練習をしていたのである。
     そこで昼間に蓮花塢へ帰ったはずの弟子が金麟台の庭から飛び立とうとしている姿を目撃したのだ。
    「弟子ならばまず俺の質問に先に答えろ」
    「その……実はですね、うっかり落とし物をしてしまったのでそれを探しに戻っておりました」
    「落とし物だって? 明日も来るのだから明日でもいいのになぜわざわざ戻る必要がある?」
     容赦なく切り捨てると、少女は気まずそうに視線をそらした。
    この庭の近くには藍渙の部屋がある。もし彼に何か頼まれごとでもしたなら素直に打ち明ければいいのだが、なぜかいつも元気がよくて口もよく回る娘にしては珍しく言いよどんでいる。あの藍渙が江澄にも言えないようなことを蓮蓮に頼むとも思えず、江澄は弟子のいつもとは違う様子をいぶかしんだ。
    今宵は星のおかげでいつになく明るい。そのため、弟子の腰紐にまだ年若い彼女が持つには不相応なやけに重そうな財嚢が吊るされていることにも江澄は気付いた。
    「その腰にぶら下げているのはなんだ? お前のミミズ売りの小遣い稼ぎだけで得られる代物じゃないだろう」
     入門前から蓮花湖のそばで釣り餌用のミミズを売っている。もっと夏場だと母親に造ってもらった甘酒や切った西瓜などもそこで売っている。人の観察や情報収集になるのでとがめてはいないがそれにしては明らかに多いし、最近は蓮花塢と金麟台の往復でそんな商いをやっていられる余裕はないはずだ。
    「これは先日夜狩りに行ったとき、邪祟に困っていたお金持ちの方からお礼でもらったものなのです。あんまり多いのでこんなにいらないと言ってもぜひにと寄進くださいまして。まことにありがたいことです」
     いたってごく自然な調子で出所をのたまう弟子に、師匠は眉間に皺をよせ皮肉気に唇の片端をあげた。
    「ほう、では今度その夜狩りの記録を読ませてもらおうか。そんな大金を弟子によこしてくれる富豪には江家宗主として一度挨拶もせねばならんな。ちゃんとどこの金持ちかわかっているな?」
     白蓮蓮はふたたび沈黙した。きまりが悪そうに俯いた。
     師をたばかるとは何ごとかと江澄は怒声を浴びせたいが、そこをこらえてまず事情を聞くこととする。金儲けと言ってもこのような大金を稼ぐには、母親の店の修繕費が必要になった、姉の結婚が決まった、などそれなりに理由があるだろうからだ。
    「だてにお前の師をやっているつもりはない。おい、まだ尻の青い小娘が何の目的でどうやってそんな大金を稼いだ? さっさと話せ。でなければ紫電の餌食にするまでだ」
     弟子の足元へ雷そのものである長い鞭を放った。蛇のような稲妻が落ちて少女は悲鳴をあげながら後ろへ大きく飛びすさった。
     江澄としては本気で少女を紫電で叩くつもりはなく、妙な商売に手を染めているんじゃあるまいなと師として案じていた。
     ほんの少しばかり自分の霊力を込めたツボを雲夢江氏の霊力が入った金運が上がるツボとして人に売りつけるとか、夷陵老祖秘伝の発明品などと称して自分で作った護符や呪符などを売りさばくとか、などとにかく彼女のやる商売について江澄は悪い予感が尽きることはない。
     魏無羨は蓮花塢のあちこちで遊び倒し、いたずらし放題だったが自ら商売はしなかった。雲深不知処での座学では姑蘇藍氏の家規を破りまくっていたが、彼は江楓眠の用意した柵を決して越えることはなかった。
     今また雲深不知処に大人しくいるところをみると、自由奔放のようで柵の中にいるのが存外好きなのかもしれない。
     白蓮蓮は江澄のツケで、屋台で買い食いや店で食事こそしないが、その分腹を空かせたら江澄の用意した柵からこっそり抜け出して周りを大騒ぎさせるところがあるのだ。
     六芸の大会で江澄や主管の目を盗んで、母から子へ受け継がれてきた伝統の味といううたい文句で――実際は蓮蓮の母親から蓮蓮までだ――甘酒を売り歩き、あげくに馬術部門への出場を忘れるというのはその最たるもので、おかげで大会が終わった後の清談会で、江澄は『出場者による会場内での物販を禁止する』という規則を急きょ作らざるをえなかった。
     甘酒美味しかったのに、と残念がる金凌や懐桑はじめ他の宗主たちには紫電をちらつかせて黙らせた。あの甘酒の値段が相場の三倍だったことを彼らは知らないし知らなくていいことだ。
     雲夢の湖と川を船で行き来する交易の民を体現したかのような商売っ気のある弟子に比べると、同じ年頃の魏無羨を弟子にするほうが師としてははるかに気楽だっただろう。あの元義兄は父親の手を煩わせてはいても、決してやきもきはさせていなかったと江澄は昔を忌々しく思い出した。すべて江楓眠の目の届くところでしか彼は悪さをしでかしていなかった。あの奔放な男は気の赴くまま好き勝手やっていたようで実のところ父親に遠慮していたのかもしれない。
     白蓮蓮は江澄を心から慕ってくれてはいるが元義兄のように遠慮することはなく、入門する前のように柵の外で自由に過ごしている。しかしそれでは彼女が危険なところへ近づいていても江澄はすぐには助けられないし引き留めることもできない。彼女は金光瑶のように大きく道に外れたことはしないだろうが、師として日頃から不審な行動に目を光らせておくのに越したことはない。
     いっそ白蓮蓮の商売を禁止すればいいと主管に進言されたこともある。だが、そうすれば自分の食い扶持はなるべく自分で稼ぎたいという自立心旺盛な彼女の個性を、そして江家に長く尽くしてくれた彼女の父親の血を否定することになりかねない。それは彼女の師としても彼女の父親をよく知っている身としてもできないことだった。
     白銭銭はあまり目立たない男だったが、剣と弓の腕は門弟の中では誰よりもすぐれていて身のこなしは猿のように軽く倹約家で小銭を甕に貯めるのが好きだった。まさに蓮蓮は彼の娘にちがいなかった。父親が存命であれば対処をまかせただろうが、今のところ深刻な苦情を雲夢の民から寄せられていないので江澄は蓮蓮に商売を続けさせていた。
     だがもし白蓮蓮が江澄の実の娘で彼女が江澄の用意した柵から飛び越えてしまうことがあれば、きっと江澄は冷静ではいられずに一発や二発げんこつでしたたかに殴って数か月ぐらい外に出ないよう部屋に閉じ込めたかもしれない。
     父親が魏無羨をひどく甘やかしていたようにみえた背景を、江澄は縁のある子供を弟子に取ることでようやく垣間見ることができた。そして母親ほど叱責してきたわけではないが、父親が江澄の努力をなかなか認めてくれなかった理由もまたうっすらではあるがみえてきた。父親は死んでしまってその胸のうちはもうわからないが、おそらくは赤の他人には自然と心の距離をおけても、血がつながっている息子にはどうしても冷静ではいられなかったのだろう。
     実は……と俯いたまま、雲夢江氏一問題児な弟子は大金の出所と今なぜ金麟台にいるのかをぼそぼそ話し始めた。
     話し終えるか終わらないとき、江澄はこめかみに青筋を何本もたててもう一度彼女の足許へ雷を落とした。今度は当たれば一瞬で人を感電死させかねない強さで。たちまち焼け焦げた地面から白い煙がたちのぼった。
     蓮蓮は顔を青ざめさせ震えあがった。
    「小蓮! このバカ娘! 藍渙まで巻き込んでお前はいったい何をやっているんだ?」
    「すみません、でもでも師父への世間の誤解を解きたかったんです。心優しい沢蕪君は蓮蓮の想いを汲み取って手伝ってくださったのです」
    「人の噂も七十五日、いいやもっと短いかもしれんな。世間なんざ目新しいおもちゃが手に入ったと思いきや、すぐにまた別のおもちゃへ手を伸ばす。あいつらはお前が思う以上に移り気だ。小蓮、お前がやったことは糸の切れた凧を追いかけて新たに糸を結ぼうとするほど無謀なことだ。そんなことをしていったい何になる? それに俺は俺の家族や友でもない輩に俺のことを知ってもらいたいとは露ほども思わん」
    「でも師父のご家族は金凌さまお一人で、親しい方は沢蕪君しかいらっしゃらないではありませんか?」
     白蓮蓮は彼女たち家族のことを親しい間柄としなかった。それはひとえに江澄は江家の宗主で、白家はその門弟という目下の立場だからだろう。
    「それの何が悪いんだ?」
     江澄は苛立ちを隠さずに言った。魏無羨が雲深不知処へ去ってから対等な理解者など彼はもう求めないことにした。
    「悪くはありません。でも蓮蓮はもっともっと多くの人に師父のすばらしさを知ってもらいたいのです。そうすれば……そうすればきっと、師父に会ったこともないのに師父のことを悪く言う人を一人でも減らせますから!」
     白蓮蓮は言いながら感情がこみ上げてきたのか、言葉の途中から肩を震わせた。
     年端もいかない少女のまっすぐな瞳に浮かんだ小さな涙は、江澄の頭の芯までのぼった怒りを鎮めさせるのには十分だった。
     若かりし頃、世界から愛されたい誰よりも称賛を浴びたいと思ったこともあった。まさか年を重ねて世間からの評判などほとんど気にも留めなくなった今になって、こんな風に我が子ほどの年齢の娘に慕われ、あまつさえその娘が世間の心ない言葉から江澄を守るため一人立ち回ろうとするとは彼は思ってもいなかった。いつも快活に笑っていた義兄の影が真剣な面持ちの少女に重なる。彼は一度死んで生まれ変わってそして永遠に江澄のそばから離れたーー彼が命を落としたのも鬼道へ手を染めたのも江澄が原因だった。
     だからこそ、江澄はひときわ厳しい表情を浮かべ、一人勝手に動こうとする弟子をいさめることにした。
    「分をわきまえろ、白蓮蓮。俺のすばらしさを広めたい? お前は入門してまだ二年だというのにずいぶんと大きな口を叩くじゃないか。弟子の言動は宗主である俺の責任だが、宗主の言動は宗主である俺の責任だ。民からの敬意も容赦のない非難も根も葉もない噂話さえも、江家にまつわるものすべて宗主である俺一人が背負わねばならないものだ。断じてお前のような小娘ではない。それを俺が命じてもいないのにお前が担おうとするなど思い上がりも甚だしい」
     あの厚顔無恥な魏無羨でさえ前宗主にそんな不遜な真似はしなかった、とあざけるように冷ややかに言った。
    「でも……」
    「お前は雲夢江氏の門弟だ。門弟は宗主である俺の言うことに従え。従わぬなら破門だ」
     なおも食い下がろうとする弟子を師は厳しく突き放した。そうでもしなければ、この娘も江澄のために危険な賭けにでることをいとわなくなる、自身の金丹を江澄に譲った義兄のように。
     蓮蓮はまだ何か言いたそうだったが、渋々と拱手して頭を深く下げた。
    「申し訳ありませんでした、師父。ですぎた真似をしました。弟子が愚かでした」
     すでに市場へ出回ってしまった姿絵を回収するのは困難なので、せめて印刷所から原版を引き上げると江澄は白蓮蓮に約束させた。
     これで一件落着かと思いきや、弟子はふたたび師を見据えるなりこんなことを問うてきた。
    「ところで、師父は沢蕪君のことをどう思っていらっしゃるのですか」
    「お前はまた何を突拍子もないことを言い出すんだ?」
    「蓮蓮は、師父に金麟台へ行けと命じられてからお二人はどういうご関係なのか気になっていたのです」
    「座学時代に教えを受けて射日の征戦で共に戦った。今は知己だ。それがどうした?」
     まさかあの沢蕪君とこんなに親密な関係性を築けるとは江澄とて思ってもいなかった。金麟台での滞在に影からあれこれと手を回したのは彼の人生を救ってくれた藍渙への恩返しのつもりだった。けれどいつのまにか彼がそばにいることが江澄にとってごく当たり前のようになった。
    「本当に単なる知己ですか?」
     弟子は探るように尋ねてきた。
    「どういう意味だ。つべこべ言わずガキはさっさと帰れ。蓮花塢へ着くのが遅くなるだろう」
     今宵は星が出ているので御剣に大きな支障はないが、それでもまだ大人とは言えない娘を、一人夜分に出歩かせるのは江澄としては気が引けるのである。夜狩りは必ず複数で行くように固く言い含めている。
     だが少女は師匠の心弟子知らずというか、そこで帰らなかった。
    「蓮蓮の知っている知己は蓮の花托を渡してあげても、蓮の実をわざわざ剥いて食べさせてあげません。そんなの親子か夫婦のすることです」
     夫婦という言葉に江澄はぴくりと眉を動かした。
    「相手が病人だったらやるさ」
    「え、今は師父が沢蕪君に看病されていますよね? なのに一昨日も昨日も今日も師父が沢蕪君のために花托から蓮の実を取り出して薄皮もしっかり剥いて差し上げていましたよね。今日なんて鳥のヒナに餌をあげるように手ずから食べさせておられましたよね」
    「お前見ていたのか」
     江澄は小さく舌打ちした。江澄が蓮の実の薄皮をむくさまをにこにこしながら見つめていた藍渙がまるで大きな犬が尻尾をふっているかのように思えて、つい彼の口元へ蓮の実を近づけたのだ。
     はっと我に返ったときはとてつもなく恥ずかしかったが、藍渙は嫌な顔せずむしろ心から嬉しそうな顔をして口を開け江澄が蓮の実を放り込むのを待った。それから可愛いなと思って江澄の手から蓮の実を藍渙に食べさせたのだ。
    「小さい頃、夜中に雪隠へ行こうとしたとき、蓮の実を父さんが母さんの口へ手ずから食べさせているのを見たことがあります。蓮蓮はその場にいてはいけない気がして雪隠へ行かずすぐ部屋に戻りました」
    「お前、何が言いたい?」
    「蓮蓮は師父に幸せになっていただきたいだけです。ではさっさと帰れと命じられたので、不肖の弟子は帰ります!」
    「おい、まだ帰るな! 俺の質問に答えろ!」
     江澄の怒声をものともせず不肖の弟子は宙に浮かせていた霊剣へ軽々と乗り上げると、一陣の風のように金麟台から飛び去った。
    「くっそ、あのお転婆め。俺が全快したら鞭で躾け直してやるからな!」
     あっという間に遠ざかる影に大声で吐き捨てると、視界の端にちらりと人影が動いた。
     振り返ると廊下の奥で藍渙が立っていた。どうしてそこにいると江澄が問う前に彼は答えた。
    「星を眺めていたら、二人の声がしたから来たんだ」
    「どっから聞いていた?」
    「君が白蓮蓮に『その腰にぶらさげているのはなんだ?』と問いただしたところからだね」
     藍渙は苦笑いを浮かべながらこちらへ近づいてくる。今宵は星明りで何もかもよく見える。
    「ほぼ全部だな」
     蓮の実を手ずから藍渙の口へ入れて食べさせていたのは犬みたいで可愛いかったからなどと馬鹿正直に言わなくてよかったと江澄は心底胸をなでおろした。
     寛容な沢蕪君とはいえ、さすがに犬扱いされるのは気分悪いだろう。
    「どうやってここまで来られたんだい?」
    「紫電をあちこちへまきつけながらきた。そろそろ歩く練習をしたいと思ってな。だが部屋からここまでくるのに大層時間がかかった。そんなに離れていないのにな」
     江澄は肩をすくめて言った。蓮花塢へ戻るのはまだ時間がかかりそうだ。
    「努力家の君らしいな。帰りは私が杖になって送るよ。夜風に長くあたって体を冷やしてもよろしくないからね」
    「奇遇だな。ちょうど俺も沢蕪君というこれ以上ない杖を頼もうと思っていたんだ」
     肩を貸してもらうと、ふわりと木蓮の花の匂いに包まれる。
     ここ最近藍渙から放たれている香りだ。座学時代に雲深不知処で嗅いだ木蓮の匂いは春先の爽やかさをはらんだ甘い香りだった。それをもっと濃厚にしたものだ。
     香油を変えたのかと先日尋ねたらここしばらくは何もつけていないと言った。つまりこの甘い匂いは彼の体臭である。以前衣に焚き染めていた白檀の香りはいかにも寺臭く辛気臭いと江澄は失礼ながら思っていた。今江澄を包んでいる早春の花の香りは実に藍渙らしく、江澄は心地よく感じもし一抹の寂しさも覚えていた。
     ずっとこの香りに抱かれていたいと思っても二人の別れは近づいていた。江澄が回復すればこのように身を寄せ合うことなどはなくなるだろう。
     ませたクソガキの言いたいことも、江澄は薄々わかっていた。「師父は沢蕪君に惚れていらっしゃるんでしょう?」とあのクソガキは言いたいのだ。
    ――ああ、惚れているとも。
     子供のような弟子にわざわざ指摘されずとも江澄は認めざるを得なかった。藍渙に抱いている想いが単なる友情なら彼の体に触れてその甘やかな匂いを嗅いで今のように胸が高鳴るなんてことはないだろう。
     俺は清楚で慎み深い仙子が好きだったはずなんだが。
     横顔を盗み見れば、星明かりに照らされた藍渙は繊細に彫られた白玉の仏像のように光り輝いていた。夜着に珍しく漆黒の上衣を羽織った今の彼はまるで夜を統べる星神のようだった。かつてミイラのようにやせ細っていた男は一歩歩くごとに辺りへ光を放っていた閉関前の沢蕪君に戻りつつあった。
     絶世の美男子で教養に優れ琴棋書画をたしなみ修為も修真界一、だがそれらを鼻にかけることはなく柔らかな物腰で誰にでも公平に接する。こんなに魅力的な人に心惹かれない人間などはたしているだろうか。沢蕪君は男性であるという点を除けば江澄の理想の結婚相手を体現したような人だ。
     おそらくあの娘は廊下に藍渙がいるのに気付いてわざと会話を聞かせていたのだろう。余計なことを、と江澄は知らず眉間に皺を寄せてしまう。
     同性同士でお互い生まれた家と領地を背負っている身で、何のためらいもなく江澄が彼に手を伸ばせるはずもないし、伸ばしたからといってその手を彼が握り返してくれるはずがない。
     時折胸元に視線を感じるが、それも温狗によってつけられたひどい傷があるからだろう。藍渙がこんなにも尽くしてくれるのは彼の親切心と江澄への友情ゆえだ。勘違いするな、期待するな江晩吟。
     それに藍渙は万に一つ愛されても応えてはいけない相手だ。江澄がどれほど彼のことを愛おしく感じていても彼の手を取ってはいけない。
     彼の弟が魏無羨と道侶になった今、藍渙だけが姑蘇藍氏直系の血を残せる。修為の高さや仙師としての能力は親から子へ受け継がれることが多々ある。あの特別秀でた血を藍渙は藍家と領民を守るために後世に残していくべきだと江澄は思った。
     江澄は幸いなことにお前は理解していないと父を呆れさせた家訓のおかげでそう血を残すことに今はこだわっていない。そもそも見合いを連敗したせいでなんらかの悪評が広まったのか新たな見合いの話もぱたりとこないので血を残しようがないのだが、明知不可而為之(不可能だとわかっていてもなす)ーーこの家訓のおかげで雲夢江氏を赤の他人に継がせるというのも選択肢たりえた。
     そうすれば藍渙への想いを一人胸に抱えて生きていけるだろう。もちろんそれもいつかいい思い出になって江澄も藍渙とは別の誰かを愛して運よく家庭を持つかもしれない。時のうつろいとともに蓮の花が咲いては散るように人の心も変わるから。
    「悪かったな、うちの弟子があなたに迷惑をかけたようで」
     江澄が謝罪すると、心優しい藍宗主は首を振った。
    「いいや、迷惑だなんて。とても師匠思いの子だと感心したよ。私こそ君に内緒で君の絵を描いて世に広めていたのだからさぞ不快にさせただろう」
     江澄の表情をうかがうように覗き込んできた。今の彼はとても気まずそうだった。あの沢蕪君が江澄の反応になぜか怯えているようだ。
     この人が江澄に何をしても目の前で首を掻き切られること以外本気で怒ることはないのだが。
     今の藍渙が描いた今の江澄の姿絵を見てみたいような気もするが、そこは白蓮蓮をひどく叱った手前その望みを素直に口にできなかった。
    「驚きはしたが別に不快じゃない。二人とも俺のために動いてくれたんだろう。だがあいつの商売に手を貸すのは金輪際やめてくれ。万一あなたや藍家に害が及んでもまずい」
     あのバカ娘は、単なるヘチマの美容液をそのうち藍渙に少し使わせただけで姑蘇藍氏秘伝の美容液!などとでも言って蓮花湖のそばで売り出しかねないところがある。
     不快じゃないと言うと、藍渙はほっとした表情を浮かべた。
    「害など何もないよ。蓮蓮が教えてくれたけれど、私が描いた江澄の姿絵を拝む人まで現れてくれたそうだ。私は私がきれいだと思ったものをそのままきれいにしか描けない、その裏側は知ろうともせずにね。そんな私の愚かな部分でも人を幸せにできるのだなと励みになったよ。もちろん君に内緒にしたのはよくなかったけれど」
     あなたのその愚かな部分に人生を救われた人間もいるかもしれない、と江澄は告げようとして飲み込んだ。
    『もしよかったらこの絵をもらってくれないだろうか?』『剣術の練習に励んでいる君があまりにも凛々しくて、思わず筆を取ったんだ』
     もう何年も前のことで、相手が描いたことすら忘れていそうなのにわざわざ言わなくてもいい話だ。黙って受けた恩を返す。
    「今度俺の絵を描くなら莫大な写生料をとるぞ。俺の姿絵を拝むだなんて、まったくあなたは俺のことをどれだけ美化したんだ?」
    「美化だなんてとんでもない。江澄、身を挺して姑蘇の門弟を救ってくれた君の心映えがとても素晴らしいと、如来のようだと思ってそれが民に伝わるように描いた。でも残念なことに私の今の腕ではまだまだ君の心根の美しさを描き切れていないようにも思っているんだ」
     この男は前を向きながら至極真面目な調子でそんなことを言うのだから、江澄は心臓が早鐘を打つどころか止まりそうになった。この人は俺を言葉で殺す気なのだろうか。唖然としそうになるところを江澄はわざと冷ややかに鼻で笑った。
    「はっ。今宵のあなたはまるで酒を飲んで酔っぱらっているようだな。家規に『心にもないことを言わない』とはなかったのか」
    「本気で言ったんだけれどね」
     藍渙の横顔は苦笑いを浮かべた。どこか寂しそうだった。ここはありがとうと言うべきだったのだろうか。
     何に? 俺が如来のようだなんてこの人は何を勘違いしているのだろう。聖人君子なあなたに比べたら俺は恐ろしく醜い人間なのに。
     江澄は寝台から降りるときはうまくいったもののなかなか思うように寝台へあがれず、みかねた藍渙に公主抱っこしてもらって寝台へ移った。やはり濃厚な花の匂いがして江澄はずるいと思った。
     寝台におろされたはずみで、江澄はついうっかり藍渙の頭の脇から流れ落ちていた白い紐を引っ張ってしまった。 
     彼の動きが暗がりでもみるからに固まった。
    「あ、すまない」
     慌てて手を離した。姑蘇藍氏の抹額はたしか持ち主とその両親と伴侶しか触ってはいけない代物だ。かつて何も知らない魏無羨が触れて藍忘機に激怒されていた。だが二人は道侶になった。あれは彼らの運命の前触れだったのかもしれない。
     煌々とした星明りが窓からさしている。ろうそくの消えた部屋はうす暗くて、藍渙の表情ははっきりわからないが、まとっていた空気が急に切り替わったようだった。端然として落ち着いたものから、息するのも重苦しく感じるぐらい張りつめ切羽詰まったものへ。
     藍渙はかつての藍忘機のように激昂はせず、なぜか無言で江澄が横たわる寝台にあがった。
    「藍渙、どうした?」
     答えずに無言で江澄にのしかかってきた。こちらを見下ろしてきた藍渙の瞳は怒気をはらんでいなかった。だが別の火が灯っているようだった。
     噓だろう。
     余裕のない表情の藍渙にみつめられて、江澄は息を飲んだ。
     この熱をはらんで濡れたような瞳を彼は知っている。色彩は違っても蓮花塢で木から飛び降りた魏無羨を受け止めていた藍忘機の瞳にそっくりだった。
     江澄自身は生まれて初めてこうも真正面から人から劣情を向けられ動揺していた。それも男に。
     抹額はまいているが、常とは違い漆黒の上衣をきて切なそうに江澄を見つめてくる藍渙はまったく知らない男のようだった。
     彼はまちがいなく江澄を組み敷きたがっていた。それを屈辱だとか侮辱だと思うことはなく怒りもわかなかった。
     江澄の胸に去来したのはいまだかつて感じたことのない大きな感情の波だった。藍渙に求められたことへの戸惑いと驚きに心は激しく揺れ動くとそこから長いこと忘れ去られていた愛される喜びが勢いよく湧き上がった。けれどそれらはすぐ悲しみといううつろな穴によってまたたく間に吸い込まれていった。
     そんな切なそうな瞳で俺を見ないでくれ。藍家宗主ともあろう人が、男の俺を求めないでくれ。あなたは最愛の義弟を失くしてしまって人恋しいだけだ。こんな醜い皮肉屋の俺のことを如来だの美しいだのあなたはひどい勘違いをしているんだ、昔から。
     今すぐにでも目を覚まさせるために罵倒して彼の横っ面を張り倒したいのに、藍渙はどんどん顔を近づけてきてその吐息がかかるせいで、江澄の思うように唇も体も動こうとしてはくれない。
     さらに彼は手と手を重ねてきた。思わず握り返しそうになるのを生来気の短い江澄はこれ以上ない忍耐を駆使してどうにか踏みとどまった。
    「……江澄」
     重ねてない方の手が江澄の頬を撫でた。闇のように深い色の瞳は江澄のことを愛しくてたまらないのだ、と伝えてきた。
     江澄はかつて愛されたかった。両親に。世界に。そのための努力を惜しまなかったが、両親は温狗に無惨に殺され江澄は二人を守れなかった。血を吐くような思いで蓮花塢を一人再建させ未知の疫病からの被害も最小限に抑えたつもりだが、それでも世間が江澄のことをどう思っているかも知っている。
     両親と同じぐらい江澄が愛されたかった人は、あまりにも重い愛を江澄に渡してくれた。ずいぶん前に命にも等しい愛を捧げてくれていたのに、江澄が彼のことを殺してしまいたいぐらい深く憎みはしてもずっと気付かなかったから彼は雲夢から去ってしまった。
     誰かに愛を乞うてこれほどの苦しみと孤独を味わうならば、もう誰にも愛を求めないと江澄は思っていたのに、皮肉なことに誰にも愛を求めなくなったら、蓮蓮といい、この人といい惜しみなく江澄へ愛を捧げようとしてくれている。
     けれど、藍渙は江澄がもっとも愛されてはいけない相手だ。弟のみならず、宗主である兄までもが断袖となるならとんだ醜聞だ。江家はともかくとしても、藍家への領民や世間からの信用は地に墜ちかねない。おそらくあの堅苦しい姑蘇藍氏の人々は信頼を裏切った宗主を許さないだろうし、そうなれば魏無羨と藍忘機の二人にも害が及びかねない。
     そんなことぐらいわかっているだろうに、沢蕪君ともあろう人がどうして俺に手を伸ばすのだろう。
     もし今江澄を求めている男が一介の絵師であったなら今ここで彼を受け入れて雲夢に連れ帰って江澄のそばに住まわせた。そして蓮花湖へ二人で船で漕ぎ出して、辺り一面に咲き誇る蓮を写生している彼に江澄が泳いでとってきた茎のついた蓮の花托を差し出した。
     だが彼は流浪の絵師ではない。江澄と同じ大世家の宗主だ。幾千の門弟を従え、幾万の領民の命を背負っている重い責任ある立場の人間だ。
     藍渙の黒髪が幾筋か江澄の顔にかかって長い指がゆっくりはらう。ひどく優しい手つきで江澄の輪郭を何度も撫でやがてその唇に触れる。
     いけない。こんなことはだめだ。だめなんだ。
     唇が重なろうとした瞬間、江澄はたまらず叫んだ。
    「藍渙!」
     たちまち弾かれたように藍渙は江澄から体を離した。起き上がった彼の顔色は、劣情はすっかり吹き飛んでいて蒼白になっていた。
     そうだ、取り返しのつかない間違いを犯そうとしていたんだ、あなたは。
     まるで彼の方が純潔を汚されそうになったみたいに、寝台から飛び降りて逃げるように慌ただしく走って部屋から出て行こうとする。
    「藍渙」
     優美な姑蘇藍氏らしからぬ振る舞いに、江澄は鋭い声で呼び止めた。今にも戸を開ける彼の動きが縫い留められたように止まった。
    「俺たちは知己だ。これからもずっと」
     江澄がそう言うなり、藍渙は江澄の部屋から走り去った。
     これはとてもずるいことをしたと江澄は思った。藍渙を誤った道へ進ませたくなかった。でも離れずにそばにいてほしかった。
     身勝手で醜い、愚かな願い。

     翌朝、旅支度をした藍渙が江澄の寝台の前に立った。ここに絵師に身をやつして来た当初とは見違えるぐらい端然とした佇まいだ。
     蓮の花が散り始めたから姑蘇へ帰ると彼は江澄に告げた。
    「江澄も無事に回復してくれたからね」
    「ああ、世話になったな」
     昨夜は何ごともなかったかのように江澄は彼に礼を述べた。
     実のところ、どうやって藍渙と顔を合わせようかと思って一晩中悶々としていたが、口づけようとしてきた彼の方こそ何ごともなかったかのように現れ、江澄に帰郷を告げたのだ。江澄は一晩中悩んでいた自分が馬鹿らしく思えるぐらい拍子抜けしてしまった。
     そうだ、血迷って大の男に口づけようだなんて、悪い夢でも見たと思ってくれたらいい。
    「来年の蓮の季節には蓮花湖へ招待しよう。俺が船をこいで連れて行ってやる」
    「あの約束は本気だったのかい」
     意外そうに言う藍渙に、江澄は眉間に皺を寄せた。
    「ああ当たり前だ。俺は守れない口約束なんてしない。蓮の季節に正式に雲深不知処へ招待状を送ろう。だからあなたはそれまでには閉関を解いておくように」
     あえて居気高に言えば、藍宗主はふわりと春風のように温かな笑みを浮かべた。その微笑みをみてきっと知己としてこれからうまくやっていけると思い江澄は心から安堵した。
     藍宗主が金凌へ挨拶し正式に金麟台を去ってから少しして、白蓮蓮が雲夢の酒瓶を手にして江澄の元へやってきた。
     彼女は藍渙が雲深不知処へ帰ったことを知るなり、血相を変え床に膝まずいて額づいた。
    「師父、お怒りはどうかこの弟子一人に落としてください。弟子が頼み込んで絵を描いてくださっただけで沢蕪君は印刷所に持ち込んで世に広めたわけではありません!」
    「何を勘違いしている、小蓮。俺は藍渙には怒ってない。あの人は蓮の時期が過ぎたから帰っただけだ」
     そう説明しても、若い弟子はどうも腑に落ちていないようだった。
     お前がたきつけたせいなのかどうかわからないが、昨夜のあの人はとち狂って俺なんかを求めてきて、でも俺が拒んだせいで気まずくなって帰ったんだ、など口が裂けても言えるはずがない。

     江澄の体調が回復してとうとう蓮花塢へ帰還したとき、姑蘇藍氏の宗主が二年以上に及ぶ閉関を解いたという知らせが届いた。


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    takami180

    PROGRESS続長編曦澄6
    思いがけない出来事
     午後は二人で楽を合わせて楽しんだ。裂氷の奏でる音は軽やかで、江澄の慣れない古琴もそれなりに聞こえた。
     夕刻からは碁を打ち、勝負がつかないまま夕食を取った。
     夜になるとさすがに冷え込む。今夜の月はわずかに欠けた十四夜である。
    「今年の清談会は姑蘇だったな」
     江澄は盃を傾けた。酒精が喉を焼く。
    「あなたはこれからますます忙しくなるな」
    「そうですね、この時期に来られてよかった」
     隣に座る藍曦臣は雪菊茶を含む。
     江澄は月から視線を外し、隣の男を見た。
     月光に照らされた姑蘇の仙師は月神の化身のような美しさをまとう。
     黒い瞳に映る輝きが、真実をとらえるのはいつになるか。
    「江澄」
     江澄に気づいた藍曦臣が手を伸ばして頬をなでる。江澄はうっとりとまぶたを落とし、口付けを受けた。
     二度、三度と触れ合った唇が突然角度を変えて強く押し付けられた。
     びっくりして目を開けると、やけに真剣なまなざしとぶつかった。
    「江澄」
     低い声に呼ばれて肩が震えた。
     なに、と問う間もなく腰を引き寄せられて、再び口を合わせられる。ぬるりと口の中に入ってくるものがあった。思わず頭を引こうとすると、ぐらり 1582