寒室の夜 寒室へ入ると、それまで誰もいなかったそこは外よりも冷たかった。
藍渙は江澄を抱きしめてきた。彼の体臭である花のように甘い香りが鼻をくすぐる。
このまま情事にもつれこむのだろうかと半ば覚悟するかのように江澄は瞳を閉じていたが一向に唇は合わされなかった。
「君は私に体を委ねても心は見せてくれない」
目を開ければ藍渙はみるからに悲しそうな表情を浮かべていた。顔の造りは違うのに、その表情はさきほど見かけた藍啓仁とよく似ている。
彼は江澄をまたしても詰ってきたわけではない。夜空のように深い色の瞳には手で雪をすくって溶けてしまうのを止めたくても止められないかのようなあきらめが浮かんでいた。
かつて父にお前は家訓をわかっていないと首を振られたときのように、江澄は胸が千々に乱れる思いがした。
「俺の心は、いつも俺の言葉通りだ」
平然とした振りをして答えたが、江澄の情人はゆるく首を振った。あのときの父のように。
当たり前だ、優しい彼は素直ではない江澄にこれまで何度もはぐらかされ、ごまかされてきてくれたのだから。
「今の私には、君の心に触れるのは初雪をかき分けて草の芽を探すかのごとく難しい」
藍渙は江澄の体からそっと離れた。
その秀麗な顔には泣いた痕が色濃く残っているものの、常のように背筋をすっと伸ばし粛然とした様子で立った。
江澄が少年時代に雲深不知処の窓から眺めた細雪のように、彼の佇まいはほんのり明るく儚くそして冷ややかだった。
江澄がどんなに取り繕っても今の彼をごまかすことはできそうにない。あえてごまかされてもくれないような峻厳さもたたえていた。
さきほどまで江澄の腕の中で泣きじゃくったわがままな年上の幼子はもういなかった。
「さっきは君を困らせてすまなかった。江澄、私はもう大丈夫だから無理にここへ泊まってくれなくてかまわない」
「そうか。沢蕪君ともあろう人があんな子供のような駄々をこねるとはな。驚いたぞ。金凌が五歳の頃を思い出した」
離れていった彼にはからずも後ろから頭を殴られたような衝撃を受けた。お前は家訓を理解していないと少年だった江澄を見放した父がどうしても重なってしまう。
この人もとうとう俺に愛想を尽かしたのではないか。そんな子供のとき父に対していだいた怯えやみじめな気分を押し殺して、江澄はハンと鼻を鳴らした。
主管に任せてもかまわないが明日人と会う約束があるから今日は帰ると告げる――そんなものはない。
ここで江澄が泊まって体を重ねても、今は交わる喜びよりもむなしさのほうが上回るとお互いわかっていた。
「それがいい。明日も雪が降らないとは限らないから」
もしこれから雪が降り続けば蓮花塢へ帰る機会を逃してしまうだろう。
藍渙は穏やかな口調で言った。今目の前に立つ男は昔からよく知っている沢蕪君だった。
春に降り注ぐ慈雨のように慈悲深く他者を思いやることを忘れない男。
蓮花塢へいっしょに連れ帰ってほしいと彼はもう江澄を困らせるようなことを言わなかった。それなのに、どうして引き留めないんだ、と藍渙を心の中で責めているひどくわがままな自分がいる。さきほどまで蓮花塢へ押しかけようとしていた彼を拒んでいたのは当の江澄だというのに。
今なら、大世家の宗主同士という藍啓仁はじめ世間から望まれている形に戻れそうな気がした。けれど戻りたくないのだ、まだ――いいや本当はずっと。
「江澄、そんな顔をされたら帰したくなくなってしまうよ」
扉に手をかけようとしたら、手首を強く掴まれた。沢蕪君に戻った男の穏やかな表情に焦りとも迷いともつかない歪みが浮かぶ。
「俺がどんな顔をしているというんだ?」
「今にも泣きそうだ」
強気な口調とは裏腹に、江澄はすっかり顔色を失っていた。外へ一歩出せば今にも青ざめて震えそうだった。元来感情豊かな彼は胸の内を言葉でさらすことはなくとも表情に滲み出ることはよくある。
江澄が藍曦臣のことをこれから置いて帰るというのに、まるで彼の方が置きざりにされてしまうかのようだ。
俺から離れないで。
薄布の奥からそんな声なき声を震わせているようだった。今ならば頭からかぶっている玻璃のごとき薄布越しに抱きしめても許してくれそうだ。
今日あまりにも迷惑をかけてしまったから、今夜は彼を逃がそうと思っていたのに。
藍曦臣はたまらなくなって細い手首を引っ張ると、白い袖でもう一度江澄の体を覆い隠すように抱きしめた。
まだ血色の戻らない彼を熱のこもった眼差しでみつめて藍曦臣は懇願する。
「江澄、心は見せなくてかまわない。でも今日はどうか君の声を聞かせて」
了承するかのように、江澄もまた恐る恐る彼の広い背中に腕を回した。
この後、誰も立ち入らせないように寒室は主によって完全に閉ざされた。まるで冬ごもりする獣の巣のように。