俺のかわいい宇宙人 恋なんて、碌なもんじゃない。好きになった方が負けって言葉もあるように、好きになったら、自分でもどうしようもないほど相手に甘くなってしまう。そっけない態度とか浮気の噂とか、不安なことはちょっと優しくされただけで簡単に吹き飛んでしまう。だから相手に直接傷付けられるまで、心の底から諦められるまで、待つしかない。
初恋だった高校の先輩に振られて学んだ教訓。傷付くくらいなら、恋はしない方がいいってこと。
「ミスタ、ちょっとこっちも手伝ってくれ」
「オーケー」
仲のいい友人の一人、ヴォックスに学生会の手伝いを頼まれた。新入生の案内をするらしい。同じく友人で学生会のアイクは学校の入り口の方で声を上げて生徒たちを誘導している。この時期はいつも人手が足りないのだという。
桜の花びらの下でわくわくとどきどきの表情を滲ませる新入生たちが微笑ましい。この春、ミスタは三年生になる。自分の入学式の記憶はもう随分と昔のことのように思えてくる。
ヴォックスに任された資料を抱えて歩く。一部、昨年のものが混じっていた為資料室に行って取り替えてきてほしいとのことだった。
「結構重…」
もう一人いるか、と聞かれて咄嗟に断ったが、何千枚のチラシが詰まった段ボール箱の重量は、歩くたびに腕にのし掛かる。
桜の残像に紛れてひとり、吐くため息。
その時、腕を掴まれて歩行が止まった。
「あの!」
心地よく響いた声の主は、背の高い男子生徒。真新しいスーツに胸元のブローチ、新入生だと一目で分かる。黒髪なのに地味にならないのは耳のピアスのせいだろうか、瞳の翡翠のせいだろうか。どこか潤みを持った目がきらきらと輝いていて眩しい。
「えっと、なにか…?」
「道を教えてください!」
「道…?ああ、それならあっちに学生会の人たちが校内のマップ配ってるからそこに行くといいよ」
「先輩がいいです。その荷物運ぶんですよね?その後で大丈夫ですから」
「え?」
何で俺?混乱をそのまま顔に出すと、新入生の彼は歯を見せてはにかんだ。覗いた犬歯が鋭く光って、えくぼが浮かぶ。人懐っこい犬みたいだ。
「俺、レン ゾットって言います。ミスタ先輩に会いにこの大学に来ました」
「は??」
何も答えになってない。どころか、謎が深まった。まだ名乗ってないのに俺の名前を知ってるし。会いに来たって何だ。深まる謎と目の前でキラキラと星を飛ばし続ける笑顔の男。はぁとかへぇとか、何かしらの音を発して辛うじて反応した。
「これどこまで運ぶんですか?」
「資料室」
「ああ、あそこか」
ミスタの荷物を軽々と持ち、一緒に歩き始める。おい新入生、道分からないんじゃないのか。
はてなを飛ばし続けるミスタとにこにこしながら歩幅を合わせる隣の男。謎だ。
「先輩」
「んえ?」
「ははは、可愛い」
「はぁ??」
意味の分からない言葉を発して高らかに笑う、謎が謎を呼ぶこの男。何を考えているのか全く見当がつかない。
春、出会いと別れの季節。
ミスタは宇宙人に出会った。
*
「先輩!おはようございます」
「おはよう。朝から元気だな」
「先輩に会えたので」
「はは、そう」
レンと出会ってから1ヶ月。最初はレンの言っていることの大半が理解できなかったが、今では難なく挨拶を交わせるくらいには進歩した。同じ言語を喋っているが、レンは思考が飛躍しがちでそのプロセスをこちらに説明せずに急に話し始める為、この間までは心の中で名前ではなく勝手に宇宙人と呼んでいた。
レンがミスタのことを何故か知っているということ、何かとよいしょしてくること、週一の午前講義の日はなぜか電車が被ること。まだ謎も多いが、少しずつレンのことを知り、楽しく会話ができている。このままいけば、仲のいい先輩後輩という関係性が築けるかもしれない。今まで、近しい後輩がいなかったミスタはそわそわと擽ったい気持ちを浮かべていた。
「それで、今週の土曜日なんですけど。先輩もどうですか?」
「ごめん、何だっけ」
「ライブです。俺の友達のバンドが出演するんですけど、一緒に観に行きませんか?」
「あー、ライブハウスとかはちょっと…」
暗いところ、大きな音が長時間響く場所、人が沢山いるところなどが苦手。それが原因で、昔から広い交友関係を持つことが難しい。近しい後輩が居なかったこともそのせいだ。シャイな性格に加えて、大人数でのコミュニケーションに参加することができないミスタは自分の性質を呪った。
「あーそっか」
呑気にも思い描いてしまった近しい先輩後輩像のイメージがぼろぼろと崩れ落ちる。付き合いの悪い先輩なんかに懐く後輩がどこにいるんだ。甘い幻想に浮かれてしまった自分が恥ずかしい。
「うん、ごめん。それは他の友達とでも楽しんできて」
「家なら大丈夫ですか?」
「え?」
「そのライブ、ネット配信もするって言ってたので俺の家で一緒に見ませんか?家なら明るいし俺と二人だけなら大丈夫ですよね」
「それなら、大丈夫だけど」
「やった!じゃあそうしましょう」
「うん」
気がついたら頷いていた。今まで、相手の誘いをこちらが断ったらそれで終わりだったから。食い下がられたのは初めてだった。
「……楽しみ」
「うん。俺も楽しみです」
自然と出た言葉が頬を緩ませる。ミスタの顔を覗き込んだレンは、いつものように歯を見せて微笑んだ。
「ごめん、ちょっと遅れた」
「大丈夫ですよ。まだライブまで時間ありますから」
「これ、ご家族とでも食べて」
「え、いいのに」
「お邪魔するんだから当然だろ。甘いもの、嫌いじゃないといいけど」
「甘いもの嬉しいです!でも俺一人暮らしなんで全部俺が貰っちゃいますね」
「え、そうなの」
「はい」
家、広くね?都心から近いマンションの角部屋。自分が貧しい環境で育ってきたから広く感じるのだろうか、それとも本当にお坊ちゃんなのか。レンの謎がまた増えた。分からないことは多いけれど、自分の手土産に心底喜んでくれる笑顔の真実みに安心する。見返りのない好意は心地よい、自分から求めさえしなければ傷付くことはないから。
「スピーカーとヘッドフォン、どっちがいいですか?」
「ヘッドフォンだと二人で聞けなくない?」
「二つ持ってるんで繋げば大丈夫ですよ」
「じゃあそれで」
「はーい」
「ん。これ向き合ってる?」
「合ってますよ。あは、先輩トリケラトプスみたい」
「はぁ?どこがだよ」
「外ハネの髪の毛が内耳から生えるフリルみたいな感じ」
専門用語を出してくるな、分からん。
「馬鹿にしてるだろ」
「してません。すごい可愛いですねって言ってます」
「ほら馬鹿にしてる!」
「してないって」
レンの腕をポカポカと殴る。ミスタの攻撃を軽々と受けながら何が楽しいのかレンはケタケタと笑い続けた。部屋に響くレンの笑い声はどこか心地が良かった。
「凄かった」
「格好良かったですね。先輩も楽しんでくれたみたいで嬉しいです」
「うん。すごく良かった」
「先輩って集中すると口が開くタイプ?」
「え、開いてた?」
「ちょっとだけ。口開いて画面に見入ってましたね。真剣な顔も可愛かったですけど」
「その可愛いっていうのやめろよ」
「馬鹿にはしてません。本気で言ってます」
「なら尚更やめろ」
「なんでですか?男からこういうこと言われるの嫌ですか?」
「男だからとかそういうんじゃなくて。俺に可愛いとかほんと、無いし」
「え?先輩、鏡見たことあります?」
「おい喧嘩売ってる?」
慣れてなくて反応に困る、恥ずかしくて居た堪れなくなるからやめてほしいのに、気付けばレンのペースに持ち込まれてる。そんな会話のプロレスも楽しんでしまっている自分がいる。
可愛いなんて、前に付き合っていた人にも言われたことは無かった。経験から得た自分への評価とレンの言葉がちぐはぐで。やはりこの男はどこか違う星から来たのではないだろうかと疑ってしまう。自分を可愛いと思うだなんて、普通の基準が地球人と違うに違いない。
*
「先輩!トリケラトプス見に行きましょう!」
恐竜博物館2名様ご招待券を手にきらきらとした表情。またもや気が付いたら頷いていた。トリケラトプスに似てるとかなんとか、揶揄ってるのかと思ったけれど、レンは本当に恐竜が好きらしい。博物館で嬉しそうに恐竜を愛でる目をきゅるりと光らせた。「先輩!あれ見て!次こっち行こう!」手を引くレンは珍しく年下らしくてちょっと面白かった。お土産にと大きめのぬいぐるみを貰った。その恐竜のぬいぐるみはミスタのベッドに置かれている。丁度抱き枕を新調しようとしていたから、最近はその恐竜のぬいぐるみを抱いて寝ている。サイズもいいし触り心地もいいから、ただそれだけ。
「レンもさ、楽器弾いたりすんの?」
その一言で県境の楽器屋さんまで連れて行かれたこともある。ギターやベース、ピアノと幅広く演奏できるレンの試し弾きに耳を傾けた。対してミスタは楽器に触るのは小学校のリコーダー以来。レンに勧められるがまま、アコギを触った。後ろから指を重ねて教えてくれるレンの声がいつもより低くかったこととか、触れた指先が熱を持ったこととか。きっと気のせいだから絶対本人には言わない。
「先輩って料理とかするんですか?」
そりゃあ料理の一つや二つ、と見栄を張ったら食べたいと強請られた。一度は断ったものの、1日に何度も可愛い子ぶった声と顔をされて折れた。あのわんちゃんのような顔はずるい。俺より背がでかくて、俺と同じ男なはずなのに、目を潤ませて乞う表情がなぜか愛らしく見える。最近は「可愛い」と言われるたびに「どっちがだよ」と心の中で抗議してしまうくらいには絆されている気がする。
2人でスーパーに寄ってから、レンの家の台所を借りて料理をした。肉料理は食べないらしいので、魚料理と検索して出てきたアクアパッツァとやらを作った。
一番簡単そうなレシピを調べてきたが、美味しいはお世辞にも言えないものが出来上がった。見た目はまぁまぁだった。匂いもいい感じだったので調理中に一度も味見をしなかった。自信満々に大きくフォークに刺した一口、口の中に広がる無味。こんなに美味しそうに見えて味が薄いものがこの世にあるのかというくらい薄かった。「ごめん、塩とか適当に足して」と投げ掛けてから、揶揄われるのを覚悟したのに、あらゆる角度から料理の写真を撮りまくって、いつものきらきらの眼差しを曇らせないまま「先輩の手料理嬉しいです。美味しい」と言って完食した。
「無理しなくていいのに」
「無理なんかしてないですよ。先輩が俺だけのために作ってくれただけでもう十分嬉しいし美味しいです」
いや、味は変わらないだろ。相変わらず崩壊した論理だが、屈託のない笑顔に肯定されて安心した。レンが喜ぶその顔に、とびきり高い音を立てて胸が鳴ったのは多分気のせい。そのレンに対する胸の高鳴りが、その時だけじゃないというのもきっと気のせいだ。
*
「最近何かいいことあった?」
「え?」
「ミスタ、なんだか嬉しそうだから。よく鼻歌も歌ってるし」
「それ俺も思った!ミスタ楽しそうだよね」
食堂で向かいに座るのはルカとシュウ。大学で仲良くなったこのグループでよく食堂に集まっては昼食を共にしたり、課題をしたりする。
「そう?特に大きなニュースとかはないけど」
鼻歌なんていつ歌ってただろう。俺の無意識な行動まで捉えるなんて、さすがシュウの観察眼は侮れない。
「よく一緒にいる後輩くんが関係しているのかと思ったけど」
隣に座るアイクが口を開いた。
「ああ、あのハンサムボーイだな。確かにミスタと話しているのを見かける。よく懐いているみたいじゃないか」
その横から口を挟むのはヴォックス。
この2人に指摘されるまで、これといって意識したことはなかったが、確かに最近はレンとばかり話している気がする。
正直ここまで仲良くなれるとは思っていなかった。レンは相変わらずマイペースに言葉を発するし可愛いと言うのをやめてくれないけれど、そんなレンの独特の雰囲気とコミュニケーションに慣れつつあった。ミスタと違って外交的で友達も多いレンだが、一緒にいて気を張らずにいられる。
「お、噂をすればじゃない」
食堂の列を出たレンがこちらを見つけて手を大きく振っている。
「あの子か」
「背高いね、身長俺とヴォックスよりありそう」
「先輩!」
「おー」
「はじめまして。君も良かったら一緒にどう?」
「いいんですか!じゃあ遠慮なく」
人懐っこい笑顔を浮かべて席に着いた。レンに興味津々の皆んなは代わる代わる自己紹介をして、そこから質問を投げかける。
「へぇ。特待生なのか」
「上京ってことは一人暮らし?偉いね」
「バイト先スタジオなんだ。どこらへん?…え!俺ん家からめっちゃ近いじゃん。今度おすすめのライブとかあったら教えてよ」
「そのアーティスト僕もよく聞くよ。ベースラインがどこを切り取ってもいいんだよね」
先輩の友人に囲まれて質問攻めをされても嫌な顔ひとつせずに答えるレン。よく出来た後輩だとなんだか自分まで誇らしい気分だ。
「ヴォックス先輩って学生会会長なんですよね。友達がカッコいいって大騒ぎしてて、俺直接喋ったなんて言ったら妬まれちゃうな」
……。
「シュウ先輩も特待生入学だったって聞きました。歴代でも成績上位だって。え?数学だけとか関係ないですよ、頑張ってる人は無条件に尊敬の対象です」
ちくり。
なんだろう。ご飯はとうに食べ終わったのに、喉になにかがつっかえたみたいにもやもやする。
「実は俺先輩のこと高校の陸上大会の時に見たことあって。はい、テレビで放映されてたやつです、代表選ばれてましたよね」
きりきり。
いつも穏やかに響くはずのレンの言葉が心地良くない。大好きな友人と仲の良い後輩、この場には好きな人しか居ないはずなのに居心地が悪い。
「先輩自身は音楽とかやらないんですか?声が素敵だから歌声も聞いてみたいなぁなんて」
「あはは、そうかな」
アイクの笑い声に乗せてどうにか広角を引き上げる。ぎこちない笑みのまま、レンと目が合った。すぐに逸らして話に相槌を打つ。魚の小骨でも喉に突っ掛かってるんだろう、ごくりと水を飲み込んで、靄る気持ちに蓋をーー
「あ!俺この後教授に呼ばれてるの忘れてました」
突然立ち上がったレンはいそいそと荷物を片付け始めた。
「参加させてもらって楽しかったです!一人だと迷っちゃいそうなのでミスタ先輩借りてもいいですか?それじゃあまた!」
誰も何も言えぬまま、嵐のように食堂を後にする。腕を引っ張られて連れられるがまま、中庭まで来て手が離された。
「急にすみません」
「え?ああ。急だったのはこっちもだし、それより呼ばれてるんだろ」
「あれは嘘です」
「嘘?」
「先輩がなんか違って見えたから」
「??」
「俺の勘違いかもしれないけど、無理矢理笑ってた気がして。一番手っ取り早い方法であの場から離れることにしたんですけど、ちょっと不自然でしたよね」
「…ちょっと喉に小骨が引っかかって」
「そうですか」
「うん。気にさせてごめんな、話し足りなければ今から戻っても」
「じゃあその小骨が取れるまで一緒にいます」
また宇宙に飛ばされる。なにそれ?と聞いても答えず、自販で水を買ってきて、中庭に腰掛けて、話し始めた。
いつものように他愛もないこと。最近授業であったこととか家の周りで見かけた野良猫とか、そんな話をするうちにいつの間にか突っ掛かっていた喉のイガイガは消えていた。
「…取れたかも」
「小骨?」
「ん」
「良かった」
「もう帰る?」
「あーちょっと寄るとこあって」
「帰り道?」
「教授のとこ。やっぱり呼ばれてたの思い出しました」
「なんだそれ」
やっぱり何を考えているのか、読めない。読めないけれど、レンは自分を傷付けたりはしないとどこかで思ってしまうのは先輩と後輩という関係だからだろうか。この安心感の理由がそれだけだとしたら、絶対に距離感を間違えてはいけない。
*
「メッセージの相手はレンくん?」
「!?」
ミスタの分のドリンクも机に置いたアイクが隣に腰掛ける。確かにテキストの宛先はレンだったけれど、驚きすぎて言葉にならない声が出た。
「今日も会うから、ちょっと連絡とってて」
「へぇ。本当に懐かれてるね」
「まぁ、うん」
なんか気恥ずかしい。仲のいい後輩がいるのってこんな感じか。
「レンがアイクとまた音楽の話したいって言ってたよ」
「僕からもぜひって伝えておいて」
「うん。そういえばこの間レンがさ、」
教授が話し始めるまで、レンと遊んだ時の話をした。図書館で課題をして、気晴らしに近くの公園で休憩していた時に丁度散歩をしていた犬がいたこと。そのわんちゃんはミスタには人懐っこいのに、レンには警戒心丸出しで吠えまくっていて面白かったこと。
「ミスタがレンくんの話をする時、彼と一緒にいる時の表情、すごく素敵だよね。友人として彼に嫉妬しちゃうくらい」
そうかな。という返事は教授の言葉に掻き消された。
「先輩?俺の顔に何かついてますか?」
「え?」
「さっきから見つめたまま何も言わないから」
「ごめん、ちょっと考え事」
「俺のこと?」
「うーん。半分くらい?」
「へぇ〜、嬉しい」
「にやにやするな」
帰り道、新しく出来たジェラートの店に寄りピスタチオとチョコのカップを持って歩く。なんとなく気になった緑のアイスはミスタの手に、「チョコは好きだけど沢山は食べられない」ミスタ分のスプーンも刺さったココア色のアイスはレンの手に収まった。
「俺ってお前といるとなんか、変」
「それって質問?」
「半分…?」
「ふは、また半分だ」
「今日アイクに言われて。なんか変かなって」
「変じゃないですよ」
「だよな。最近ずっと一緒にいるから表情がリラックスしてるって意味だよな、うん」
「ドキドキもしてくれたら嬉しいけど」
「え?」
「ううん、先輩のこと好きだなぁって」
「へ?」
どかーん。心の真ん中にいきなり爆弾を投げ込まれた。待て待て、落ち着け。爆発寸前の頭に待てをかける。
人としてって意味だ。後輩として尊敬してます、先輩みたいになりたいですとかそういうやつ。うん、そうそう。
帰宅してからもレンの言葉が頭から離れなくて、ベッドに倒れ込む。言葉にならない奇声をあげて枕に沈み込んだ。
顔を上げると、レンに貰った恐竜のぬいぐるみが笑っていた。熱もないのに赤く染まった自分の顔を見たら、またレンはまた笑って可愛いだのなんだのふざけたことを言うだろうか。
「………好き」
言葉が出て、歯痒い気持ちが擽ったい気持ちに変わった。自覚してしまったら、後はもう転がり落ちるだけ。深い意識の波に自然と意識を手放した。
緑色の小さな恐竜を追いかけて、迷い込んだ気持ちの行方は先の見えない真っ暗な穴の中。どれだけ深いのかその先に何があるのか分からない。不思議と恐怖を感じないのは、その先に恐竜がいるという確信があるからか誰かの優しい笑い声が頭の中で響いているからか。
*
目覚めは良かった。何か優しい夢を見た気がする。いつものように電車に乗って、車両でレンと会って話をする。いつもと変わらないはずなのに、キラキラが増して見えるのはこの気持ちを自覚してしまったからだ。笑いかけてくれる度に胸がぱたぱたと踊ってしまうのはこの感情の高鳴りに名前を付けてしまったから。
ふわふわした気持ちのまま講義を終えた。届いたメッセージはレンから。この間話していたゲームを家で一緒にやろうと言う誘いだった。OKと親指を立てる狐のスタンプを送って軽い足取りで待ち合わせの駅まで歩く。
「ミスタ?ミスタだよな」
振り向くと、あの人がいた。高校の先輩で元恋人、初恋の相手。
「久しぶりじゃん、元気だった?」
「はぁ」
なぜかテンションが高い。この人こんな感じだったっけ。ペラペラと言葉を並べて何かを発する目の前の男。
「なぁ今特定の相手とかいないの?」
「え」
「恋人だよ、彼女とか彼氏とかさ」
「…いないけど」
「じゃあお互いフリーじゃん。また遊ぼうよ」
何を言っているんだろう。自分がしたことを忘れたのか。
この男の浮気が原因で別れた。正確には、浮気を咎めたミスタに「ごめん、そんなに本気だった?」とヘラヘラ笑いながら重いやつは無理だわと言って自ら別れを切り出したのだ。
遊ぼうと言ってるのもきっとただどこかに出かけようって意味じゃないことくらい馬鹿な俺でも分かる。付き合ってた時だってデートに行ったのは片手で数えられるくらい。あとは家かホテルで性欲を満たすだけだった。その行為だって初めはちゃんと嬉しかった。好きな人に愛されてると実感できる。そんな自信も、相手が淡白なおかげで長くは続かなかったけれど。事前準備を一人でして健気に待って、終わったらさっさと支度をして出て行く相手を見送る。少しずつすり減って行く自分の気持ちを見ないふりしてやり過ごした。
相変わらず悪ぶれる素振りもない男に、瘡蓋の表面がヒリヒリと痛む。この痛みを無視して、なんとか場をやり過ごした。
「せんぱい、先輩」
「んえ?」
「スタートボタン、押して」
「ああ、ごめん」
慌てて手元のコントローラーの丸を押し込む。始まったモノローグにぼんやりとまた意識が飛んでいく。
主人公の名前を聞かれたところで画面がポーズした。ミスタからコントローラーをいつのまにか奪っていレンがホームボタンを押した。
「先輩、何かありました?」
「あーごめん」
「それって俺が聞いてもいいこと?」
蘇るフラッシュバック。楽しかったとはお世辞にも言えないくらい乱れた日々。心も廃れていて、その分自分のこともどうでも良くなった。
レンに肯定される度、自分が大切な何かのように思えて、レンの瞳に映る自分がまるで箱に仕舞われた宝物のようで、勘違いしていた。自分はそんな人間じゃないのに。
ほらやっぱり、恋なんて碌なもんじゃない。悲しい勘違いをして高いところから落とされる。
「ごめん、今日はもう帰る」
ごめんな、と最後にもう一度繰り返して家を出る。「先輩」と背中に投げられた声色が心配の色を含んでいて嬉しいなんて自分勝手な上に現金だなと自分をまた少し嫌いになった。
*
『今日話したいことがあるので、家に来てもらえませんか?』
話ってなんだろう。変な態度をとったから、暫く連絡は来ないと踏んでいた。が相手はさすがレン。ミスタの予想なんて軽く飛び超えて心に素手で触れてくる。
レンのペースに巻き込まれて、気が付いたらいつも隣に居て笑っている。そんな日々に終止符が打たれるのは、嫌だな。
拒絶されると決まった訳ではないのに想像は悪い方向へ転がって行く。咄嗟に最悪を考えてしまうのは、自分の悪い癖だ。
重いため息を吐き出してインターホンを鳴らす。
ピンポーン
「はーい」
間伸びした声はミスタの緊張とは裏腹にのんびりしていて、レンらしいなと少し和んだ。
ミスタの好きなアップルジュースを机の上に用意して早々、レンは本題に入った。
「先輩」
「……はい」
「俺のこと好きですか?」
「……は?」
突拍子もない発言で宇宙に飛ばされるのは何回目だろう。いつも急なレンの発言には間抜けな声ではてなを返すほかない。
「俺は先輩のことが好きです」
「ありがとう…?」
「大好きです」
「う、うん」
「だから俺と恋人になってください」
「え??」
「え?」
「なんでそうなる」
「先輩のことが好きだからです」
以下ループ。
「だってレンの好きって先輩としてとか人としてって意味だろ」
「それももちろんありますけど、俺は先輩の彼氏になりたいです。そういう好きです」
「お前男と付き合ったことあるの」
「ないです。というか人を好きになること自体先輩が初めてです」
「……へぇ」
潔くまっすぐな告白に他人事のように感嘆詞を発することしかできない。だってこんなの誰も予想してない。
「でも、なんで突然」
「突然…割と小出しにしてたつもりだったんですけど」
「??」
「昨日先輩が何か考え込んでたの見て、理由が無くても傍に居たいと思ったからです」
「俺はそんな風に思ってもらえるようなやつじゃ」
「先輩はそういうやつなんです。俺がこれから先輩自身に先輩の凄さを認めさせるので、隣に居させてもらえませんか?」
なんで、とか、いつから、とか。あらゆる限りの疑問をぶつけるミスタにレンは一つ一つ丁寧に答えた。
手を握って、頭を撫でて、お互いの呼吸が分かるくらい近い距離で、心の内を明かし合う。飄々として見えるレンの鼓動が自分と同じくらいかそれより早くて、可愛く思えた。
「先輩。返事聞いてもいいですか?」
「もう分かってるだろ」
「ちゃんと先輩の口から聞きたいです」
「〜っ……耳、貸して」
にっこり上がった口角、薄くて綺麗な唇から覗いた犬歯。瞳の翡翠は蜜を溶かしたように甘く緩む。
さっきまでレンの話を聞くのが怖かったのが嘘のように思えた。2人で居ると、自分を存在ごと掬い上げられて撫でられる。レンの言葉は心の底まで入ってきて、体全体をじんわり温める。
レンの耳元に口を寄せて、覚悟を決めた。
ーあのね、俺も大好きだよ。
自分でもびっくりするくらい甘い声。でもいいか、2人だけだし。諦めがついたのはレンが祈るように目を細めたのが、愛くるしくて仕方がなかったから。
恋なんて、碌なもんじゃないと思ってた。でもそれは、相手と自分の心がちゃんと向き合えば、綺麗な色を咲かせて実ることもあるのかもしれない。
これから俺たちはどこへ向かって行くのだろう。レンとだったら、きっと宇宙でだって楽しめる。そんなちっぽけだけど揺るがない自信だけが2人の存在を明るく照らした。