捨て猫の一生「賛同し兼ねます。あれを庇う理由がありません。」
上官に意見する憚りこそ纏っていたが、内に包まれた怒りは余りにも強く、本音を覆う意味を成していない。月島は吐き出すべき激昂を全て注いだ眼差しで鯉登を見据えた。
「……この争いの生き残りだ。見殺しには出来ない。それにあいつは杉元だけではなく土方歳三とも通じていたらしい。情報源としての価値はあるはずだ。」
「それを御存知ならあれが下種な蝙蝠だと分かるでしょう。貴方は気付いていらっしゃらなかったでしょうが、あれは第七師団の人間でもありません。中央のスパイです。もともとそういう輩です。匿う利点など一つもない。」
「中央とも通じていたならそちらの動向も仕入れられるじゃないか。」
「仏心を出したとして改心するどころか貴方の首を手土産にいずれかへ自分を売りに行く男だ、と、はっきり言わねば分かりませんか。今すぐに捨てなさい。」
鯉登は僅かな逡巡の後、「出来ない」と首を横に振った。
「何故です。」
「惚れてる。」
想像しうる限りで最低最悪の理由に、月島は匙いっぱいの苦虫を噛み潰したような顔をした。
教えられた家は、函館での鯉登の仮住まいからそう遠くない場所だった。古びた引き戸はすんなりと開かない。狭く薄暗い室内に居た尾形は、訪れたのが月島だと分かると片目を意外そうに見開き、それを至極愉快そうに細めた。
「お久しぶりです、月島軍曹。」
月島は黙したまま預かってきた荷物を置く。数日分の米やその他の食べ物だ。
「先ごろ、月島が戻ったと随分喜んでいらっしゃったので、いずれお会いすることもあるかと思っていましたが……こんなに早いとは。」
「一度顔を見てきたらどうかと命じられたから来ただけだ。二度目は無い。」
「そうですか。まあ、あんたとしては納得がいかんでしょう。あの人は何と言っていました、あんたの説得にも耳を貸さず、私は騙されていないなんて怒っていましたか。」
月島はやはり答えず、尾形はハッと笑った。
「あんたの居ぬ間をいいことに、清廉潔白の少尉殿を、薄汚い山猫の――母親譲りの手練手管に絡めとられて。さぞかしお悔しいことでしょうなあ。」
月島は無言のまま尾形に近付く。畳に置かれた尾形の右手を取ると、人差し指を万力のような力で握り、ゆっくりと後ろへ曲げた。ごぎ、と重たい音と同時に、指の関節に激しい痛みが走る。
「あの人を裏切ったら散弾銃で顔を吹っ飛ばして殺す。」
指を締め上げる力を緩めずに淡々と言う。
「あの人がお前のことを思い出す度に真っ先に思い浮かぶようなこの世で一番醜い死体にする。あの人の心にあるお前の姿を、思い出したくも無い惨い死体で上書きする。」
「……いいお考えだ。」
尾形は唇の片側を上げ、「しかし軍曹殿」と鷹揚に言う。
「軍曹殿の、最も幸福であった瞬間を思い浮かべてください。その次に、最も不幸であった瞬間を。」
「どちらの方が強くお心に残りましたか?」
ほんの一瞬、月島の怒りが揺らいだ。「不幸の方ではありませんか?」勝ち誇った奇術師のような笑みが尾形の顔に浮かぶ。
「私もそうです。思うに人は、遥かな幸福よりも些細な不幸の方を重んじます。体の末端の切り傷一つに死ぬこともありますから、生き物の性として、痛みには敏感に出来ているのでしょう。」
ですから、と、囁いて。
「酷い有様であればあるほどあの人の心の深い傷に、なれる。あんたの手で、俺をその高みに昇らせてくださるので?」
尾形は骨の外れた痛みなどおくびにも出さず愉悦に笑う。月島は手を解くや右中指を、人差し指と同じように押し曲げた。
肺の全てを出すような深い溜息の後、
「あの人に何かしたら、俺の手で必ず、殺す。」
低く言い、この後尾形の姿を欠けらなりとも視界に入れてなるものかとばかりに顔を背け出ていった。
尾形は落ちた手へ視線を落とす。身体中の怪我もようやく治ったところだというのにまたしばらく銃を握れそうにないが、この暮らしの代償が指二本なら破格の安さだ。
左手を添え息を止めて外れた関節を戻した。呻いた後にはしばらく声も出せぬ程痛かった。
夜、人目を忍んでの訪いは、引き戸の癖も心得済みで、内に居る尾形にだけ聞こえる程度に静かに開く。
いじらしい微笑みへかける正しい言葉が尾形には分からない。おかえりなさいも、微笑み返して名を呼ぶことも相応しくない気がして、口を閉ざして目だけ合わせる。それでも鯉登は嬉しそうにして、そろりと尾形の向かいへ腰を下ろしたその時に、右手指を不器用に覆う包帯を見とめた。
「それ、どうした。火傷でもしたか?」
「いえ、今日昼に月島軍曹を御やりになったでしょう。」
「うん。お前が居るのを話したんだ。会うのに乗り気ではない様子だったが、それでも互いに話もあるだろうし顔を見てくるように言って……」
「その時に折られました。」
「は」鯉登は目を丸くし、その顔色は徐々に青ざめる。「……折られた?」「はい」尾形は右手を持ち上げ二人の目線の間にやる。
「ああ、折られたと言っても骨は無事です。ただ逆へへし曲げられましたので人差し指と中指の関節が外れました。今はもう嵌めてこの通り添木をしています。」
「……月島はそんなこと一言も言ってなかった。」
「なんと言っていました。」
「……預けた荷物を置いてきて、特に話はしていない、と……」
「間違いではありませんな。これは『報告するまでもなかった』というだけでしょう――――と、言いますか、軍曹殿の性格を考えれば『こう』なると予想出来たのでは?それを分かって御寄越しになられたものかと思っていましたが。」
「違う!」
鯉登は強く否定し、「私は、ただ、」「我々が腹を割って話し合い和解するものと思っていた、ですか?」尾形が揶揄すれば反論せず唇を噛んだ。それを期待するのは鯉登らしいが、腹を割るまでにお互いの骨をあと二十か三十折りあわねばならないだろうし、そこまでしても月島が許すとは思えない。尾形は冷笑して右手をぷらぷら揺すった。
「ご心配なく。治るのにひと月もかからんでしょう。あんたと一緒に居ることが軍曹殿にバレてこの程度で済んだのですから、罰としては軽過ぎるくらいです。俺は残った目を潰される覚悟でしたよ。」
その軽口を窘めず、鯉登は泣くのを堪えるようにひとつ瞬きをして俯いた。
「……痛むだろう。モルヒネは余っていたか。」
「この程度、打たずとも耐えられます。」
「なら氷嚢を作ろう。冷やした方が痛みも和らぐ。」
「腫れておりませんから冷やす必要はありません。お気遣いなく。」
「――――包帯だけでも、巻き直させてくれるか。」
「……どうぞ。」
差し出された尾形の手を受けて、歪な包帯をひと撫でしてからそうっと外す。二指は第二関節の辺りが薄く紫色にうっ血していた。鯉登の指はまた、柔らかに撫でる。静かに瞬く睫毛の先に灯りが滲んだ。
「……あんたが気に病むことじゃない。」
子の怪我を悔やむ母の面影が過り、尾形はつい、そんな言葉を零した。
「月島だって何も俺を苛めるつもりでこんなことしたんじゃない。さっきも言ったが骨は無事なんだ、月島だって相当堪えた方じゃねぇか。責めてやるなよ。」
「――――此処に居ることに、罰や対価が必要なのか。」
包帯を巻きながら、鯉登は静かに紡ぐ。
「もし、そうなら……指が治ったら、此処を出ろ。居る為にこんな痛みを払わなければいけないなんておかしい。私はそんなつもりで此処へ居て欲しかったんじゃない。」
「そんなつもり……ね。ではどんなおつもりで?」
「惚れてる。」
少し困ったように笑い、ひとつ、ふたつ、瞬きをして、包帯を結んだ。
「……此処に居ることが罪だとか、感謝をしろとか、そんなつもりじゃない。私が居て欲しいからなのにお前が代償を払うなんて、そんなのはおかしい。」
尾形は頬を引き攣らせるように口角を上げ、親指と掌で歪に鯉登の手を掴んだ。
「惚れてるならあんたは一生を俺にくれるのか。」
「惚れてるからと俺を拾って匿って、惚れてるからと罰も代償も断って、じゃあこの先一生傍へ置いてくれるのか。あんたが死ぬまで、俺だけを愛してくれるのか。」
「――――出来ない。」
考え込むこともなく鯉登は否定した。「……だろうな」尾形は手を離して、表情を隠すように額から左目にかけてを覆い、撫で摩る。
「ならあんたのこれは愛じゃない。一時の気まぐれな憐れみか、誰でもいい寂しさの埋め合わせが偶々俺だっただけだ。」
「……そうかもな。」
「かも、じゃなくて、そうだって言ってるんだ。」
尾形は額を握るように指先を強張らせた。
「結局捨てるならなんで拾った。与えられた側が、捨てられたらどうなるか分かってんのか?」
気が狂っても自分には殺してくれる息子も居ない。寒い庭に常春の夢を見続けて生きるのは惨めだ。狂うのも嫌だ、狂わずに一人で居るのも嫌だ。
一人になるのは嫌だ。
「――ずっと一緒に居られないのは初めから分かっていた。それでもあの時お前を捨て置くなんて出来なかった。罰も対価も要らない。ただ、傍に居て欲しかった。」
「お前はそれでいいよな。俺はどうなる。傍に居てくれ、惚れてる、そんな言葉を注がれて、飼いならされた頃に捨てられる俺は、どうなるんだよ。」
「……それでも私は、お前に一生はやれない。」
「じゃあどうして愛した!!」
怒声は喉を裂き、尾形は左手で鯉登の首を掴んだ。
「お前らはいつだってそうだ、俺たちなんて人に非ず、時期が来たら捨てればいいと思ってやがる!人ではないものが幸せになろうだなんてとんだ思い上がりだと馬鹿にして、お前らだけで幸せを貪ってる!俺たちだってお前らさえ居なきゃゴミ同士で幸せだった!愛してるだの惚れてるだの、俺たちを人扱いしたのはお前らだろうが!!」
片手でも喉笛を潰すくらいは出来る。このまま殺して、夜が明けたら月島に散弾銃で頭を吹っ飛ばされればいい。「昨日俺を殺しておけばよかったんだ、ざまあみろ!」と笑ってやったらきっとせいせいする。もうこんなに悲しまなくて済む。
このまま殺せば捨てられない。このまま殺せば一人にはならない。このまま。
力を込めた時、それまで抵抗をしなかった鯉登の手が動いた。
震えながら、尾形の右手の包帯を撫でた。
痛みを慰めるように。
苦しそうに歪んだ顔が少しだけ笑った。
締める手が緩む。力なく零れ、辛うじて縋るように鯉登の胸元を掴む。このまま幸せでいられるなら指も目も差し出せるのに受け取ってくれないのは、結局俺は幸せになれないと決まっているからか。
二、三度咳き込み、鯉登は尾形の背に腕を回した。
「お前は私の傍へ居てくれたのに、私は私の一生も、命も、お前の欲しいものは何も、あげられない。ごめんな。」
すすり泣く尾形の顔を見ぬように項垂れる頭へ頬を付けた。
「私を一生恨んでくれるか。」
「――――俺に……何も寄越さないで、俺の一生は欲しがるのかよ。」
「心底惚れた男と一生愛し合えないなら一生残る傷になりたい。」
「お前らはそうやって、俺たちから根こそぎ奪っていく。」
「私を忘れないで。」