羽化 雨の日は嫌いだった。
「こんな日こそ元気でいなくちゃね」なんて言うママの嘘くさい笑顔、Singin' in the Rainの鼻歌、「ホットケーキ作ろっか」なんてカラ元気。それでも学校へ行く日ならいいけれど、パパの居る休日だったらサイアクだった。「ママはいつだって周りを元気にする天才だね」なんてやっぱり嘘くさい笑顔、「三人で遊ぼうか」って出してくる人生ゲームだのトランプだの、本気でいくぞなんてワザらしい子供っぽさ。
パパの単身赴任だの、浮気だの離婚だの、それはもう酷い嵐があったのに、その一度きりでぱたりと止んだ。二人して、そんなこと無かったでしょう、変な夢を見たんだねって顔してる。
無かったことにしてお互い見て見ぬふりをするなら純粋な子供らしく付き合ってあげるけど、破綻してる夫婦の上っ面に付き合わされるのは結構しんどい。お互い、自分が一番しんどい、子供は分かってくれるって考えているんだろうけれど。親になるのむいてなかったねと思いながらニコニコしてホットケーキ食べてゲームをする。
雨の日が、とっても嫌いだった。
「だーいちゃん。」
数寄屋門をくぐり抜け、昨夜から続く雨に尖った葉を重たく澱ませる松の木々を横目に庭を駆ける。閉まっているのを見たことがない玄関は今日も開け放たれていて、織部は中を覗いて声をかけた。奥から大人の足音が近づいてくる。不破大黒そっくりの顔をしたこの家の主は訪れた織部に優しく微笑みかけた。
「おはよう織部くん。大黒、今来るから少し待っててね。」
「……はい。」
その男は鷹揚に上がり框へ腰を下ろすけれど、織部は離れた隅っこへちょこんと座った。
この男が苦手だった。人当たりの良い笑顔に落ち着いた声、理知的な話しぶり。同年代の子供はおろか遥かに年上の大人よりも他人の心の機微を読むのが得意な織部だけれど、この男は底が知れなくて、何を考えているのか、それは本当の言葉なのか、なんにも判断出来なくて心底不気味だった。村で唯一苦手な大人と言っても過言ではない。「雨、昨日よりは収まったかな?」「……たぶん。」いつもならころころ転がる小さな唇も、この男とする世間話には動きが鈍い。
ぱた、ぱた、ぱた、と軽くて速い足音がする。
「だいちゃん。」
会いたかった不破の姿が見えたのと、この男と二人っきりでなくなったことが嬉しくて織部は微笑むが、不破はそれに一切応えない。ただ二人の間に行って無言で靴を履き、傘を取る。
「気を付けて。あちこち濡れているから、滑らないようにね。」
見送りをされても振り向く気配すらなく行ってしまう。織部は一応の愛想で軽く頭を下げ、すぐ身を翻し小走りで不破を追いかけた。
不破大黒は、アルビノだ。
その響きを聞いても最初はピンと来なかった。日中は極力外出を控える、出なければいけない時は長袖や帽子で紫外線を避ける。それ以外は君の同じ普通の子だよ、と言われたが、これもピンと来なかった。
普通、なんて、最も不破に相応しくない言葉だ。
織部の知らないことをたくさん知っていて。知らない、と言うと冷めた顔をして、
「知りたいと思わないからだろう」
教える価値も無い、そんな声で言う。
『知らない』ことを知りたかった。不破はそれを許してくれた、織部が知らないことでも滔々と話し、それ知らない、と言うのを叱らなかった。
学校より家より不破の隣にいる方がずっとずっと楽しかった。何より誰より刺激的で、この子とずっと話していたい、話せるようになりたい、この子に失望されたくない、誰より一番側に居たいと思った。
だから、学校帰りに、休日に、織部は間を開けず不破の家を訪れた。雨の日は、不破が外に出れるから、いい日だと思う。織部は不破の側にいられるなら晴れでも雨でも構わなかったけれど。
「今日は何処行くの、だいちゃん。」
織部の問いかけにも不破は一瞥もしない。この道を進んだらあるのは駄菓子屋と公園、あとは延々と田んぼ、横道一つ曲がれば山の上の神社だ。お菓子を買って神社かな、と予想して織部は後ろをついていく。反対方面は学校、バス停、駅があって、ちゃんと時間に合わせれば、本屋の入っている大きな商業施設のある街へ四十分くらいで行けた。いつもは家族で行くそこへ、不破と並んで座り、濡れる窓から景色を眺めるのは心が弾んだ。何処へ行ったって良かった。不破となら。
蛙の鳴き声も、随分静かになった。畦道には彼岸花が咲いている。アメフラシバナ、と親戚の誰かが呼んでいたのを織部は不意に思い出した。いい名前だと思う。
駄菓子屋が見えてきた。古い店内にはちょっとした学用品と駄菓子が詰め込まれている。先客は上級生の女子たちで、遠巻きにひそひそされるばかりで直接話しかけられはしない。
不破はソース味のスナックを一つ手にとり、四つ入りのミニドーナッツの前で止まる。
「半分こしよっか。」
誘う織部を一瞥する。やっとちゃんと目があったことに綻びながら、「二個ずつ、ね?」半額分の硬貨を差し出すと、不破は黙って掌を上向きにして受け取った。残りのお小遣いで、織部はコーンポタージュ味のスナックを二つ買う。二人の買ったものは纏めて袋へいれてもらい、不破が傘の柄へひっかけて揺らす。店を出て田んぼを歩いているうちに雨は勢いを増してきた。
「東京にはね、ドーナッツ専門のお店があるんだって。チョコレート味とか、お砂糖がかかったやつとか、種類がたくさんあるんだって。大きくなったら二人で行ってみようね。」
不破は特別頷かないが、嫌なことは嫌だとすぐ言う性分なので、嫌と言わない以上多少気になってはいるのだろう。いつか二人で行く日を思って織部はにっこりする。
神社は小高い山の中腹より下にあり、境内も広く、子供たちにとっては格好の遊び場だった。拝殿の裏を更に上ると山頂の本殿へ至るが、そこまで行かずともほんの二、三分行けば見晴台があって、ベンチやら、古い東屋が設えられている。祭りの日でもなければこんなところへ訪れる人は少ない。だから不破は、静かなこの場所を好んでいた。
その上り坂に入ったところで、不破は不意に足を止めた。横の植え込みへ向けられた眼差しを追えば、織部は低木の枝に緑色の蛹を見つける。
「蛹だ!葉っぱかと思った、だいちゃんよく見つけたね。」
「……秋型のアゲハだ。夏の終わりに生まれた幼虫は、蛹のまま越冬し春に羽化する。」
「じゃあこの子はあと半年此処に居るの?」
「生きていられたらな。鳥には見つからなくても俺に見つかるのだから、年末年始の人混みで子供に掴まれ潰れる可能性が高い――――蛹を割ったことはあるか。」
織部は首を横に振る。「ママが虫嫌いだし、俺もあんまり好きじゃない。」そう言ってから『割る』という言葉を反芻して首を傾げた。
「だいちゃんは割ったことあるの?蛹って割ったら死んじゃうんじゃないの?」
「死ぬ。」
短い回答に、ええー、と苦く言って顔を顰める。不破は鼻を鳴らして顎をしゃくった。
「俺に見つかった時点でそいつは生き残るには浅はかだっただけだ。そんな遺伝子を残しても次世代に意味はない。俺が割った経験があるからお前の『割ったら死ぬのか』という問いに正解が返せた。それについてはどう考える?」
「……自分が割るのヤダからだいちゃんが割ってくれて良かったかも。」
不破は目を伏せ、さっきより低く、満足げに鼻を鳴らす。
「幼虫から蛹を経て成虫になる虫は完全変態に分類される。蛹の中では不要な組織を細胞死させ、成虫になる為の栄養にする。若い蛹を割ると細胞死した組織と体液の混ざったクリーム状の液体が漏れる。」
「クリーム?中身、虫が入ってるんじゃないの?」
「羽化の近いものなら成虫に近い形のものが出る。幼虫の体にも羽になるべき器官は既に備わっている。それを、例えば蝶には不要な脚を溶かして細胞をつくる栄養にし、成虫の為の器官を育て、幼虫とは全く異なる姿へ変わる。」
ふぅん、と言いながら織部は蛹へ目を向けた。「じゃあこの子も今は中身がクリームかもしれないんだ。」想像するとかなり不気味だ、自分でやらなくても良かったと改めて思う。「成虫には不必要な部位を成長の為の栄養にしているのだから合理的だ。捕食側からすれば柔らかく啜り易い利点もある。」どろどろの中身を啜っている姿を想像すると、益々気持ちが悪い。
怖気こそ覚えるが、織部は蛹から目を逸らさず、不破の言葉を噛み砕いた。要らないものを、自分で壊して、大人になる為の栄養にする。
「溶かして無くしちゃうの、人間にもあったらいいのにね。」
「――――何が不要だ?」
「んー、自分の体じゃなくて、自分の外側かなあ。家とか……学校とか、そしたら村全部かなあ?なんでこんなことやるんだろうとか、だいちゃんだったらどうするかな、こうするかなって考えるけどその通りに出来ない感じとか、嫌だなあって。」
織部は自分を茶化すように笑って不破を見た。
「大ちゃんと会ってから、外側がすっごく窮屈な感じ。」
不破が真っすぐ、こっちを見たと思う間に、自分の傘を傾け織部の傘の内へ入ってきた。
雨の日。ころころ弾んで嘘と愛想笑いばっかりしなくちゃいけなかった唇に、血のつながらない誰かの唇が初めて触れた。うんと近くで見ると不破の睫毛が真っ白で、空みたいに青い目を覆い隠す雲みたいだと思った。
「――――そうだ。世界は決まった通りに動いている。窮屈で、退屈で、無価値だ。つくられた外枠が溶けて無くなってしまえばいい。」
「……だいちゃんも、窮屈?」
「織部。お前に壊してしまいたい外側があるならついてこい。枠が必要になったなら、溶かせる確信が消えたなら、その時に足を止めろ。俺は行く。必ず。」
不破はそう言うと自分の傘へ戻って、坂を上り始めた。「待って」織部が呼んでも振り返らない。置いていかれたくなかった。同じように窮屈だと分かってこんなに嬉しいのに。織部は小走りに追いかけ、伸ばした手で不破と手を繋いだ。
「ついてくよ、ずっと。」