熾火ギルドメイン山脈の麓、奥深い森の中にロン・ベルクとノヴァの住まう工房がひっそりと佇んでいる。
辺りは初夏の清々しい空気に満ち溢れ、朝もやの中、木々の隙間を縫って清らかな光が幾筋も降り注いでいる。
新しく増築した工房に、朝早くから鉈の音が響いている。ロンに教えを受けたノヴァが炭を切る練習をしているのだった。
ノヴァにはさすがに自分で炭を焼く技術は無かったので、ランカークスの村外れに住まう老人から炭を買い求めていた。松を材料とした黒炭を大量に買い付け、文字通り朝から晩まで炭を切って修行している。
師曰く、炭の大きさで炉の温度を調節するため、炭を的確な大きさで均等に切る技術は、まともな剣を打つ為にどうしても必要不可欠な技なのだという。
「オレもベルク流に師事したばかりの頃は炭ばかり切っていたな。最初の頃はいつまでこんな事をさせるんだと思っていたが、適当に切った炭では温度の管理ができなくてな。ナマクラにもなれん鉄の塊ばかり打っていた」
少し苦笑するように過去を振り返って教えてくれる師を、ノヴァはかけがえの無いものを見る思いで仰ぐ。ロンが師事したばかりの頃だ。ノヴァからしたら遥かいにしえの事だろう。人間では決して己で語ることのできぬ時の永さに、ノヴァは時折嫉妬に似た思いに駆られる。
ノヴァは師から炭の切り方について教わる。指の先ほどの大きさから、小指の爪の大きさまで、繊細なほどの差をつけて炭を切っていく。
ノヴァは剣を使い慣れてはいるが、鉈で炭を切るなどしたことがない。おぼつかない所作で炭を切ると、ノヴァの戸惑いそのままに形が崩れていく。
「どうせ失敗するんだ。思い切ってやってみろ。切り始めた頃の炭など使い物にならん。失敗したものを炉で燃やして炎の色を見る訓練に使うといい」
「もったいない・・・」
「だったら早く炭切りを覚えるんだな」
ロンがフッと笑ってノヴァを見つめた。工房の外から啄木鳥が木の幹に穴を開ける音が響いてきた。
結局朝から夕方まで炭を切って、大樽いっぱいの炭を生産した。ノヴァはもう右腕が上がらぬほどに疲れきっていた。
きちんとした大きさに切れたものが半分、残りの三割が形が不揃いで、二割が粉になっていた。ノヴァはため息をついて己が生産したものを見つめた。
鉈の音が途絶えたのに気づいたか、居住区から師がやってきて、ノヴァの成果を黙って検分する
この炭切りの修行を始めてから師に検分してもらう工程が始まったが、ノヴァにとってこの時が一番いたたまれず、緊張するひとときだった。ロンは言葉少なに感想を漏らし、改善点や工程のヒントを垂れてくれる。
材料を無駄にしている事を叱られるかとも思ったが、ロンはそういう人ではなかった。不思議に思って口の端にのぼらせてみると、師は片眉を上げてノヴァを見つめた。
「怒ってどうなるんだ。できないから教わっているんだろう? 下手で当然。不思議なことを言うんだな」
ノヴァは目から下を覆う布を取り去ると新鮮な空気を求めた。炭切りの作業は細かな炭の粉が飛ぶので、きちんと防護しておかなければ吸い込んで気道が真っ黒になってしまう。現に布が黒く汚れ、軍手も炭で染まり、中の爪まで黒く染まっていた。髪と同じ白藍の睫毛も、心なしか黒くくすんで見える。
「もっとちゃんと上手くやれって、叱られるのかと思ってました」
「上手くできるようになってから手を抜いたら許さんが、今はどうとも思わない。できなくて当然だ。明日また頑張ればいい」
冷静で丁寧な返しにノヴァが黙る。人間の短気な職人だったら道具のひとつも飛んできそうなものだと思ったからだ。静かな感動がノヴァの胸に降りてくる。怒らせたら怖い人だが、真剣に取り組む以上は落ち着いて学べる環境だとノヴァは感じていた。
夕餉を作ることを告げ、検分に対する礼を述べると、ノヴァは師に居住区へ戻るようお願いした。後片付けをするという理由で師に背中を向けた。頬が緩んでしまっているのを、見られたくないと思った。
ロンは魔界にいた頃、大魔王から館を下賜され、なに不自由なく生きていた。住処にも武具を創る金や材料にも、食うものにも酒にも女にも困ることなく、やりたいことだけをやって生きていた。
炭を切るのなどという雑用は工房の下っ端の仕事となり、思い通りのものが出てこないと不機嫌になる事もあった。今思えば度し難くて尊大な奴だったと、ロンは己を振り返る。
鋼を沸かすのに一番大切な基礎を思い出したのは人界に下ってからだった。当時は全て人任せで行っていた雑務の作業工程をすべて一人で行わなければならなくなり、己の怠慢を愚かだったと内省するのと同時に、ベルク流の門をくぐったばかりの頃を思い出して胸踊るものも感じていた。やっと自分の創りたい剣を追求できると思った。
あの館にいた頃は、生きながら腐っていくのを感じていた。すべてが思い通りになる環境にいたというのに、永い年月を占めたのは創作意欲よりも己の才能が枯渇していく焦燥感だった。懐かしい師に再び教えを賜りたいという甘えた考えが胸をよぎる時もあったが、それは叶わぬ望みだった。ロンがひとり立ちをしてからしばらく後に師は既に帰らぬ人となっていた。
師の墓に参るなどという、およそ魔族の感性からかけ離れた事をして大魔王の宴に乗り込んだ。そう、同席でも列席でもなく、乗り込んだ。美しい女たちも極上の酒も晩餐も、こうなってはロンの気持ちを浮き立たせる要素は何一つ残っていなかった。
大魔王の側近と争い、消せぬ十字の傷を負ってからすぐに館を出奔した。あてどなく魔界をさすらい、捨て去ろうと決めた魔界に居続けなければならない苦しみがロンの精神を蝕む頃、秘匿とされている人界への通り道を発見して光溢れる地上へと導かれた。
遠雷ではなく木々のざわめきが、唸る風ではなく鳥の声が、滾る強酸のマグマではなく清みきった清流が彼を出迎えた。
余りの清浄さに、ロンは生まれて始めて激しい心の情動というものを知った。ふと気づくと暖かい何かが両の眼から溢れていた。優しい風に頬を撫でられ、この世界に骨を埋めようと、そう決心した。
己を呼ぶ声がして、ロンははたと我に返った。気がつくと食卓に温かい夕餉が乗せられ、弟子が心配そうな面持ちで己の手を握っていた。腕が痛むのか問われ、そうではないと首を横に振った。
ノヴァはロンの瞳を探るように見つめて一瞬首を傾げると、そっとロンの手から己の指をほどいた。キャビネットに近づくと、少し背伸びをして中を改め、グラスと酒瓶を取り出した。コルクを抜き、グラスにワインを注ぐ。
「珍しいな」
「傷に障るといけないので、二杯までですよ」
馥郁たるワインの香りがロンの鼻腔をくすぐる。湯浴みでもしたのか、横に立つノヴァから石鹸のいい香りがする。その二つが相まって、目の前の鴨肉のローストに食欲をそそられる。
「美味そうだな」
「良い鴨肉が手に入ったので」
未だ細かい動作ができない師に代わって鴨肉のローストを小さく切る。ロンはそれを見ながら自分の口ではその切れ端は小さすぎると心の中で苦笑した。
ワインを嗜みながらフォークで肉を口に持っていく。大魔王の晩餐に何度か招かれた事があるが、そこで出されたどの食事よりも舌に柔らかく香り高かった。
ノヴァも正面で美味そうに食事をしている。果実を絞ったジュースを口にしながら今日学んだこと、感じたことを楽しそうに師に伝える。ロンもそれを聴いてうんとか、ああとか、静かに相づちを入れて彼の話を聴く。
ロンは未だかつて感じたことの無い穏やかなひとときを、その胸にそっと抱いた。
「湯浴みをしてびっくりしました。髪も肌も洗えば洗うほど真っ黒な炭が落ちるんですよ。ボク、来年の今頃は先生みたいな黒髪になっているんじゃないかと思うんです」
それを聴いてロンが愉快そうに笑う。ロンはこの若木の白藍の髪をこよなく愛していたので、それは困ると笑って応えた。食後のワインと歓談を楽しみながら、ロンは年若い弟子のまっすぐな瞳を見つめていた。
「おいで、炭かぶり」
ロンが軽く手招きをする。自分の横に椅子を持って来て酌をしろという事らしい。
「またそうやって、変なあだ名でボクを呼ぶ」
人間用にしつらえた椅子を運びロンの横に席を作ると、ちょっと苦笑したような面持ちで首を傾げる。肩をすくめると寒さが降りて来る前に暖炉に火を入れた。ロンは軽快に笑っている。
ノヴァが見るとロンのグラスの中身はほとんど減っていない。
「二杯までなら良いんだろう? なら酌は一回だけだ。大した役じゃないだろう。オレが飲みきるまで横にいろ」
片眉をあげて唇の端を持ち上げるロンを見て、機嫌が良いんだな、とノヴァは見抜く。自分もジュースを注いでロンの横に落ち着くと、彼がそっと語りかけてきた。
「基礎の修行は楽しいか」
「はい! それはもう! 先生から新しい知恵や技術を教えてもらうって……なんかこう、上手く言葉にできないですけど……凄く、嬉しい」
頬を赤らめてとぎれとぎれに言葉を紡ぐノヴァを見て、そうか、と相槌を打つ。
「先生の技術も先生の先生の、そのまた先生から脈々と受け継がれてきたものでしょう?そういった方々の知恵を授けてもらうって、なんだか感動しちゃいます。ボクたち人間では到達できないほどの技術をひとりの鍛冶師が、永い時をかけて切り拓いていって、そのエッセンスがお弟子さんに伝えられていって、そしてそのまたお弟子さんに……ボクもベルク流の名を汚さないように精一杯頑張りたいんです」
何気なく聴いた質問の応えに、想像を越える熱量でもって応えが打ち返される。ロンはある種の感動をもってノヴァの言葉に耳を傾けた。
「フ……人界に来て良かったって事かな……魔界を出奔しなければお前に出逢えなかったからな……」
それを聴いてノヴァはほころぶような微笑みをロンに向けた。
「先生、それは違います。ボク、どんなに時間がかかったとしても、きっと貴男に逢いに行ったと思います。ボクと貴男は出逢うようにできていますから!」
妙な自信でノヴァがそう断言する。おかしな理論に、ロンから思わずクスリと微笑みがこぼれる。
「そうだな、北の勇者よ。お前の北極星を探して、オレもお前に逢いに行ったと思うよ」
「ボクは十字星を探して世界中を旅します。見つからなければ地の底までも探しに行きます」
なかなかに重い言葉を難なく言ってのける。それは二人の間に築かれた信頼の証だ。
「地下世界と地上世界。南の星と北の星。プラスとマイナス。ボクたちは惹かれあう二つの星なんです」
ノヴァが空になったグラスにワインを注ぐと、暖炉の炎がぱちっとはぜた。まるで祝福するような音と火花に、二人は顔を見合わせ、どちらからともなく柔らかに笑いあった。
ロンの胸の炎は昔一旦消された。けれど再び炎は燃え盛り、今は以前にも増して明々と燃えている。炎の無い熾火のように。
これから先の将来、この愛しい翡翠と共に夢に向かい、情熱を燃やしつくし、生き抜いて、そして共に灰になりたいと、ロンはそう魂に刻み込んだ。
(そのとき、お前はそれを赦してくれるだろうか? 愛しい翡翠よ)
夜の帳は降りたばかりだ。ロンはノヴァの柔らかな白藍の髪にそっと触れ、苦しいほどに燃え盛る胸にその香りを吸い込んだ。
―おわり―