好きに営業できるとはいえお客がいれば店は遅くまで開けていて、閉店作業を終えて家に帰る頃にはとっくに日付が変わっていた。いつもなら適当にシャワーを浴びて一杯飲んでだらしなく眠るだけだけれど、今日はそうはいかない。
「お邪魔しまぁす」
「いらっしゃい。すぐに風呂に入るか?」
「一緒に?」
「……」
可愛らしく笑みを浮かべる恋人は俺が無言で見つめれば嬉しそうに表情を緩めた。年上を揶揄って翻弄するのが好きなイタズラ好きの男にデコピンを喰らわすと、彼はくすくすと笑い声を溢す。
「へへ。ふーふーちゃん眠くない? 先に入っていいけど」
「……いや、大丈夫だよ。部屋を片付けておきたいから浮奇が先の方がありがたい」
「え、俺、掃除得意だよ」
「ゲストに掃除させるわけにはいかないだろ。それにそんな本格的なものじゃなくて、散らかってる物をまとめるだけだから」
「……そう? じゃあ、先に入っちゃおうかな」
何度か泊まりに来ているからバスルームの場所は案内するまでもなく、俺は荷物と上着を預かって「着替えは後で持っていく」と伝えて彼を見送った。寝室に行き上着をハンガーに掛け、クローゼットから以前彼が泊まりに来た時に置いていった下着と着替え、それと使い古していないふわふわのバスタオルを取り出す。
まだ化粧を落としているところなのだろう。水音のしない静かなバスルームの扉をコンコンと叩くと、手を洗うような短い水音がしてから扉が薄く開き浮奇の腕が伸びてきた。
「ごゆっくり」
「ん、ありがと」
実際、浮奇の入浴時間は俺に比べるとうんと長い。化粧落としや化粧水、他にも俺にはよく分からないけれど何かのクリームとかジェルとか、浮奇に必要なものは好きに置いていっていいと伝えたら、浮奇は本当にいいの?と遠慮しつつ次に泊まりに来る時にはしっかりとそれらをバスルームの棚に置いていった。見慣れない可愛らしいパッケージに浮奇の存在を感じて、一人の時にも彼のことを思い出してしまう。
宣言通り浮奇が風呂に入っている間に俺はリビングや寝室に乱雑に置かれた本やグラス、酒のボトルを綺麗に片付けて、寝室のベランダの秘密基地にブランケットと浮奇の好きな赤ワインを持って行った
秘密基地とは言っても、元々はただイスと小さなテーブルと観葉植物があるだけの簡素なベランダだった。そこに浮奇がキャンドルを持ってきて、俺が緑だけじゃ寂しいかと可愛らしい小さな花を咲かせる鉢植えを増やし、一人がけ一つきりだったイスを二人で座れる大きめのものに変えた。そうして夜にキャンドルを灯して二人で過ごせば、俺たちにとっては最高の秘密基地になる。都会とは言えない緑の多い地域は隣家との距離がほどよく離れていて、夜にベランダで話をしたところで近所迷惑にならないのが良いところだった。
浮奇が風呂を出るまでまだ時間がかかるだろう。俺は先に一人で赤ワインをグラスに注いだ。口の中に広がる深く濃い葡萄の味にほうっと息を吐き、背もたれに体を預ける。今日は店で一口も飲んでいなかったから、アルコールが体に染み渡る感覚にゆったりと目を細めた。ほぼ満月に見える月は明るく秘密基地を照らしている。本を持ってくれば良かったなと後悔しつつ、すでにここから立ち上がる気は少しもなかった。
浮奇は風呂から出たらまずリビングに行って、俺を探して寝室まで来るだろう。ベランダの窓は半分開けてあるしキャンドルの火は室内からも見えるはずだ。先に飲んじゃってるの?と拗ねたように唇を尖らせる様を想像し頬を緩めた。……どうやら、すでに少し酔いが回っているらしい。ウイスキーやウォッカではそう簡単に酔わないのに、どうもワインには弱い。浮奇が好きだと言うから店だけでなく家にもいくつか置いているというのに。
風呂上がりの浮奇の肌のなめらかさや温かさ、柔らかい髪の甘い香りを思い出しながら空になったグラスに再度赤ワインを注ぐ。これを飲み終わる頃には浮奇が俺を見つけてくれるかな。待ってた、と、今なら素直に甘えられる気がした。
予想より早く、グラスの底が見える前にカラカラと窓の開く音が聞こえて俺は後ろを振り返った。目が合った浮奇はふわりと柔らかく微笑み、俺のグラスにすでに赤ワインが入っているのを見ると想像していたよりもうんと可愛く唇を尖らせてみせた。いつだって俺の想像なんか飛び越えてくる、愛おしい人。
「先に飲んじゃってるの?」
「待ってたよ、浮奇」
「……ねえ、もう酔ってる?」
「おいで」
「……お風呂はどうするの」
そう言いながらも浮奇は俺に近づいて、手を伸ばせば迷いなくその手を掴んでくれた。イスの真ん中に陣取っている俺の左右をチラッと見て困ったような笑みで首を傾げる。言いたいことを察して、俺は繋がった手をグッと引いた。
「え?」
「ここ」
「……よっぱらい」
「そうだよ」
ぽんぽんと太腿を叩くと浮奇はわずかに視線を彷徨わせ、はぁっとため息を吐いてからそっとそこに座った。腰を抱き寄せて距離を詰め浮奇の頬に口付ける。
「っ、ねえ、本当に、後で後悔しても知らないけど」
「恋人にキスをしてどうして後悔するんだ」
「……やっぱり、お家のふーふーちゃん、甘すぎる……」
「浮奇は甘いものが好きだろう」
「好きだよ。大好きだけど、……ドキドキして困る」
風呂上がりだからだろうか、まだ酔っていないはずの浮奇の頬が赤く染まっていく。髪を耳にかけてやると柔らかそうな耳たぶまでほんのりと色づいていた。
「寒くないか? ブランケットも持ってきたから掛けるといい」
「いや、お風呂上がりだし、ふーふーちゃんのせいでむしろ暑い……」
「明日の朝ごはんは何を食べたい? もう遅いし今から寝たら起きるのは昼近くかもしれないな。どこかにブランチを食べに行くか」
「……そうだね。起きてから二人で考えよう? それよりも今なにをするか相談しようよ」
「いま?」
「うん、いま」
浮奇はそう言いながら俺の頬を両手で挟み、ちゅっと唇に吸い付いた。角度を変えて何度もくっついては離れ、物足りなくなった俺が先に舌を伸ばす。鼻先がぶつかり潰れるのすら気持ちよかった。
「ふーふーちゃん、お風呂は明日でもいいよね?」
「ん、ん……?」
「二人で飲んでゆっくり話したかったけど、もうベッドに行きたい……。だめ……?」
「……だめじゃない」
ありがとうと囁いて唇を離し、浮奇は立ち上がり俺の手を引いた。俺がぼんやりしている間にグラスに残っていたワインを一口で飲み干してキャンドルをふっと吹き消してしまう。月明かりはまだ俺たちを優しく照らしていて、浮奇の興奮した瞳が煌めいて見える。
「明日はお休みでしょう? お昼過ぎまで二人で寝坊しようよ」
浮奇はいつも通りの柔らかい口調でそう誘い、寝室の中へと俺を引き込んだ。