足元に愛犬が寝転がっていることにも、俺に寄りかかるようにして猫が二匹丸まって眠っていることにも気が付かないほど、俺は読書に夢中になっていた。ずっと追いかけている作者の新作がようやく英語に翻訳され、予約していた本が今朝届いたところだった。時間も忘れてストーリーの中に入り込み現実のことなんて少しも考えられていなかった俺の感覚を呼び戻したのは、キッチンから漂ってくるほろ苦いコーヒーの香り。普段は嗅ぐことのないソレが誰の手によって生み出されているかは考えるまでもなく、俺はハッと本から顔を上げた。そして、自分の周りに集まっていた家族の存在にようやく気がつく。
「う、お……おまえたち、いつのまにここに」
「俺が起きた時にはもうみんなそこで寝てたよ」
「……おはよう、浮奇」
「ん、おはよ。お茶入れようか?」
「ありがとう」
立ち上がろうとしたけれどまだ気持ちよさそうに眠っている愛犬たちは俺の体を固定するように寄りかかっている。困ってキッチンに顔を向けると、浮奇は俺の状況を察してくすりと笑い「いいこに座ってて」と言ってくれた。
その言葉に甘えて上げかけていた重心を元に戻し、すぐそこの猫の頭をふわりと撫でる。起きている時は部屋中を走り回って俺が近づけば逃げていくけれど、眠っている間は気が緩んでいるのか素直に俺の手に撫でられてくれた。大型犬との暮らしに慣れていた俺にとっては不安になるほどに小さくやわらかい。
慎重な手つきで猫を撫でる俺のところまでコップを持ってきてくれた浮奇は、猫たちと反対側の俺の隣に腰掛け、足元で眠る大型犬を避けるようにソファーの座面に足を乗せた。コップを受け取り、体をすこし浮奇の方へ寄せる。
「新しい本?」
「ああ、今朝届いた」
「すっごい集中してたね。このまま読み終わるまで放っておかれちゃうのかと思った。好きなものに夢中になってるふーふーちゃんは可愛いけどさぁ」
両手でコップを持った浮奇はまだ熱いそれにふーふーと息を吹きかけて、唇が尖るのを誤魔化しているようだった。浮奇が起きるまでと思っていたんだなんて言っても言い訳にしかならないだろう。
俺はコップをテーブルの上に置き、浮奇の横顔を見つめた。チラッとこちらを見た後、わざとらしく唇が尖る。今度のそれは拗ねているからではなく、俺の視線を独り占めしてニヤけそうになるのを誤魔化すためだ。そう分かっていても分からないフリをしてやらないと。
「ずっと読みたかった小説だったから我慢できずに読み始めてしまったら止まらなくて……待たせて悪かった。お詫びをさせてくれ」
「……お詫びって?」
「何がいい? 浮奇の気が済むまで、なんでも付き合うよ」
「……んー」
ふわふわと軽やかな唸り声はそのまま笑い声に変わってしまいそうなほどだったけれど、どうやら俺の演技に乗っかって浮奇もまだ拗ねたフリを続けてくれるようだ。答えを焦らしてちびちびとコーヒーを飲み、浮奇は甘い声で「どうしようかなぁ」と呟く。俺は「今すぐめちゃくちゃにしてくれ」と言いたくなるのをジッと堪えて浮奇の言葉を待った。
「じゃあ、ふーふーちゃんに当ててもらおうかな」
「うん?」
「起きてすぐにおはようを言いに来たのに無視されてすっごく寂しかった俺が、ふーふーちゃんにお詫びに何をしてほしいか、考えて当ててみて?」
「……、キスか?」
「うーん?」
楽しそうに口角を上げた浮奇はコップをテーブルに置き、動けない俺の代わりに腰を上げてちゅっと唇を触れさせた。星空を詰め込んだ瞳がレンズの向こうにあることに気がついてあっと思う。メガネをかけたままだったか、どうりでよく見えると思った。
本はきっともう読まないし、キスをするのに邪魔なメガネは外してしまおうと手をかけたけれど、浮奇は俺の手を遮り指を絡めた。
「もうちょっと」
「……」
「そのままのふーふーちゃんが大好きだけど、メガネしてるのもセクシーで好きなの」
「……メガネフェチだったか?」
「残念、ふーふーちゃんフェチだよ」
恥ずかしげもなくそう言うと浮奇はもう一度俺にキスをした。無意識に唇を吸った俺からそっと遠のき、その唇に笑みを浮かべる。
……ええと、それで、答えはキスで当たりなんだろうか? キスだけで? 俺の視線に混ざった不満に気がついたのか、浮奇はキョトンとして首を傾げた。
「うん?」
「……お詫び、は」
「……ああ、うん、そうだった。他には?」
「他?」
「うん。キスは俺がしちゃったもんね。俺がふーふーちゃんにしてほしいことを当ててくれないと」
何がいいかなぁと楽しそうに囁きながら、浮奇は俺のメガネのツルを指先でなぞった。触れるだけのキスも、レンズ越しの瞳も、物足りなくてもっと欲しくなる。「浮奇」と呼んだ声で俺が欲しいものに気がついただろうに、浮奇はただ俺を見つめて微笑んだ。一見優しいその笑みは俺の反応を見て楽しんでいるいじわるなものだ。じわりと体が熱を持ち、それを滲ませた瞳で浮奇を見つめて口を開いた。
「……もっと」
「うん、もっと、なに?」
「……こんなキスじゃ、足りないから、もっと深く、息ができないくらいのを」
「……俺よりふーふーちゃんがして欲しそうな顔してるよ?」
頬を優しくつまんだ指先はすぐに俺のメガネを奪い取って、瞬きの間に唇が重なった。容易く口の中に侵入した舌が俺の思考を奪い取る。一瞬で他のことを考えられなくなり全ての感覚を浮奇に支配されるのは、小説を読むよりも刺激的だった。