後ろを振り返り追っ手がないことを確認して顔を前に向けた途端、角から出てきた男が俺を見つけて口を開く。そいつが声を出す前に、俺は持っていたバッグを勢いよく振り上げその角を頭にガツッとぶつけてやった。うめき声を上げて倒れたそいつを飛び越えて走り続ける。
裏道を左右に曲がって追跡を交わし、辿り着いた建物の非常階段をカンカンと音を立てて駆け上った。勢いよく扉を開けて「ただいま!」と言えば優雅に振り返った男が息荒く肩を上下させる俺を見て眉を上げた。
「おかえり。……何かあったか?」
「ヤードが来やがった! 危険な調査じゃなかったはずなのに!」
「追われたのか? どうしておまえが?」
「現場にいたからだよ。すぐに逃げたけど見つかって追っかけられた。犯人扱いすんなっつーの」
ヒラヒラと手を振ってため息を吐き、脱いだ上着をソファーの背もたれに適当に引っ掛ける。バッグも放ってソファーに腰掛ければ、近づいてきたヴォックスが「踏むな」と言って俺が寄りかかる前に上着を取り上げた。
「シワになったらかっこつかないぞ、名探偵」
「名探偵には着るものなんて関係ねーの」
「ボロボロの布切れを纏ったヤツがどれだけ真実を見抜いても、誰にも信じてもらえなければ意味がない。そのままそこに寝転がるならシャツも着替えろ」
「えっち」
「ご希望なら脱がせてやるぞ」
ベッと舌を出せばヴォックスは俺に覆い被さるようにソファーに手を付いて身を屈めた。影の中でヴォックスを見上げ、「疲れてんだけど」と言うと唇を塞がれる。人の話聞けよ。
「今日の仕事は終わったんだろう?」
「依頼人に報告」
「後で?」
「いーま。電話で済ますから待ってろ」
「すぐに終わるなら」
「おまえが邪魔しなければな」
俺は言いながら仕事用のスマホを取り出して依頼人の番号を呼び出した。ヴォックスはすぐ横に座って俺の肩を抱き、長い指で髪や耳をくすぐってくる。口パクで「こら」と言い空いていた片手でその手を掴んでやれば満足げに笑んだヴォックスは指を絡めてぎゅっと握った。オーケー、そのままいい子にしてろ。
「もしもし、依頼の件だけど……はぁ? もういいって、……ああ、……。……チッ。はいはい、じゃあそれでいい。……ああ、オーケー。……は? いや、それは……ん、……ああ」
今日までの調査結果を報告してさっさと終わらせてしまおうと思った電話は、依頼人がうだうだと話をし続けてなかなか終わらず、もうコイツはどうでもいいから早く電話切ってキスしてぇな、と思った俺の心を読んだかのようなタイミングでヴォックスが俺の唇の端にキスを落とした。いつも大袈裟なくらいに鳴らすリップ音は電話中の俺を気遣ってか少しも鳴らさず、押し付けて離れていくだけ。それを物足りないなんて思ってしまい、俺は顔を顰めた。
「ストップ、これ以上何かあるなら書面で送れ。もうおまえの話は十分だ。……はいはい、じゃあな」
電話を切ってすぐにスマホを床に落とし、ヴォックスの顔を引き寄せて唇を重ねた。下手くそなリップ音を鳴らして睨むように見つめれば、ヴォックスは目をギラつかせて俺の唇に噛み付いた。ちげーよバカ。伸びてきた舌を噛んで唇を尖らせる。ビクッと体を震わせたヴォックスは目つきを鋭くした。
「っ、……クソガキ」
「キスして」
「してるだろう」
「ちゅって音鳴るやつ」
「……電話中だった」
「だから今言ってんの」
「……」
何か言いたげな目で、しかし何も言わずに目を伏せて、ヴォックスは俺の唇にリップ音を落とした。キュンと心臓が高鳴り、俺もそっと瞼を閉じる。ちゅっ、ちゅ、と音を鳴らして何度も重なる唇に体から力を抜きヴォックスの手に身を任せた。服の隙間を探る指先のくすぐったさに吐息を溢して「えっち」と呟くと、ヴォックスは「その通り」と自信満々に言って俺の素肌をなぞった。