愛犬と散歩をした帰り、ふと思いついた俺は玄関から上がらずに家の裏に回り庭に面する大きな窓からリビングを覗き込んだ。この時間ならもう起きてきているはず、という予想通り、家の中にはマグカップ片手にソファーでくつろぐ浮奇がいる。まだぼんやりしているからきっと起きたばかりなのだろう。
驚かせて目を覚まさせてやろうと、浮奇に怒られることは覚悟の上でむくむくと湧いたイタズラ心に笑みを浮かべた。おすわりをしていい子に待っている相棒にシィーっと指を立て、音を立てないようにそっと窓を開ける。と、窓から入り込んだ風がふわっとレースのカーテンを揺らしてしまった。
「……ふーふーちゃん?」
寝起きの声で小さく問いかけられ、身を固まらせていた俺はイタズラ失敗にため息を吐いてカーテンをめくった。少し驚いたふうな浮奇に曖昧な笑みを浮かべて見せる。
「あー……ただいま」
「……おかえり? なんでそっちから?」
浮奇はくすりと笑って俺を手招く。「ちょっとな」と適当に返事をして家の中に入った俺は、浮奇に近付きただいまとおはようを一緒くたにしたキスをして浮奇の瞳を覗き込んだ。
「うん?」
「……本当は驚かせようと思ったんだ」
「ふ、そんなことかなって思ったよ。作戦失敗だね?」
「風がなぁ」
「残念でした。……あぁ、もう」
「うん?」
「ふーふーちゃん、なんでこんなに可愛いの?」
「……リバースウノカード」
「だめ。今日はふーふーちゃんを可愛がる日に決めちゃった。……あの子を洗ってあげなくちゃだよね? そのあと手は空いてる?」
俺の首に回した腕を離さないまま、浮奇は唇が当たる距離でそう聞いた。可愛がる、とは。頭をよぎった想像に気が付かれないように目を伏せて、チュッと甘く音を立て唇に触れる。
「あいてる」
「……ん、じゃあ待ってるね」
「コーヒー以外なにか食べたか?」
「ううん」
「何か食べて待ってろ。腹が鳴ったら笑うぞ」
「……笑う余裕があるといいね?」
つんと俺の頬を指先でつついた浮奇はもう一度深いキスをして俺から手を離した。足りない分は、後でのお楽しみにしよう。窓を全開にして広がるカーテンを端で留め、庭でのんびり待っていてくれた愛犬の前にしゃがみ込む。
「グッボーイ、待っていてくれてありがとう。いい天気だし今日はここで水浴びをしよう。ホースを準備するから遊んでていいぞ」
お気に入りのボールを転がせばすぐにそれに飛びつき、ごろごろと地面を転がりじゃれる無邪気な大型犬に表情が緩んだ。本当はしばらく遊ばせてやりたいが、俺もこのあと楽しみなことがあるんだ。手早くホースを用意して水を出し愛犬の名前を呼ぶ。ワフッと笑うような鳴き声で返事をして駆け寄ってきた愛犬に俺も笑いながら水をかけた。
「ふーふーちゃんはもう朝ごはん食べちゃったの?」
「ああ。だけど何か作るなら俺も食べたい」
家の中から聞こえた浮奇の声にそう答える。散歩の前に軽く食べたけれどきっと昼食は飛ばすことになるだろうしもう少し食べておいてもいい。浮奇の作るものなら、なおさら。
びしょびしょになった毛をブルブルと吹き飛ばす愛犬によって俺も水浸しになり、濡れた髪をかき上げひとつに縛ってしまう。首筋を風がなぞる心地よさに目を細めた。過ごしやすい良い天気だ。窓を開けておけば部屋の中にも風が入って気持ちがいいだろう、けれど、窓は開けておけないよな。
おいでと抱き寄せて大きなタオルで愛犬を包む。わしわしと拭いてやり、足も綺麗に拭いて家の中に上げた。片付けをして俺も家の中に戻ると、俺より先にキッチンにいる浮奇のところに行ってごはんをねだってる。優しい目を向ける浮奇の横顔を見て思わず「浮奇」と名前を呼んでしまった。
「うん? あ、ふーふーちゃんびちょびちょじゃん。この子だけじゃなくて自分のこともちゃんと拭かなきゃダメでしょ?」
「……自分の分のタオルを忘れた」
「仕方ないなぁ。すぐ持ってくるからいい子に待ってて」
こどもに言うような口調でそう言った浮奇はキッチンを出て行き、俺はその場にしゃがみ愛犬と目を合わせた。
「あまり浮奇に甘えるなよ」
フンッと鼻息を返され眉間に皺を寄せる。こいつは浮奇がいると俺ではなく浮奇にばかり甘えるんだ。そりゃ俺が犬でも俺と浮奇の二人がいたら浮奇の方に行くに決まってる。それに大型犬を抱きしめたり一緒に眠ったりする浮奇は可愛い。だからと言って恋人が誰かを(それが自分の愛犬だとしても)甘やかしているところを見たいとは思わない。
「今日はもういっぱい遊んできたんだから昼間はいい子にしててくれ。わかったか?」
キョトンと首を傾げているけれど本当は全部分かっているんじゃないのか? まだすこし湿っている毛を撫でて「頼むぞ?」と念押ししていると、ふわりと頭の上にタオルが被せられた。顔を上げるより先に頭を押さえつけられ優しいけれどしっかりした力で髪を拭かれる。
「何のお話?」
「……今日の夜の散歩コースについて相談を」
「ふぅん? 夜は俺が行こうかな? あとで俺も相談させてね」
浮奇はぽんぽんと愛犬の頭を撫で、次に俺の肩を叩いた。顔を上げて振り返ると額に唇が押し付けられる。満足げに微笑む浮奇に手を引かれ、俺は無言のまま彼についていきリビングのソファーに座った。俺の後ろに立った浮奇はぴょこんと髪を結んでいたゴムをすぐに解いてしまう。
「髪結んでるのもセクシーで好きだけど、濡れたまんまじゃ風邪引いちゃうからね」
「ありがとう」
「それで、本当は何のお話?」
「……何のことだ?」
「昼間はいい子にしててくれってあの子にお願いしてたでしょう」
「……聞いてたのか」
「聞こえちゃったの。いつもいい子にしてくれてるじゃん、わざわざお願いしなくても大丈夫でしょ?」
後ろに立っている浮奇の顔は見えないが、にこにこと機嫌良く笑っているんだろうということは声色で予想がついた。俺のばつが悪い時を見逃してくれず、しっかり詰めてくる意地の悪い男だ。そんなところも好きなのだから敵わなかった。
「ああそうだよ。本当はあいつが浮奇に構われたがりだから、今日は大人しくしててくれと言いつけていたんだ」
「……ふふ、そうだねぇ。飼い主に似てとってもいい子だから、可愛くて俺もつい構っちゃうんだ」
「……」
「なぁに?」
「……くそ、俺もか」
「ふ。……そう、ふーふーちゃんも、俺に構われたがり」
わんちゃんって飼い主に似るよねと言って、浮奇は身を乗り出し俺の頬にキスをした。振り向けばすぐに唇が重なる。
「オムレツ作ったけど、どうしよっか?」
「……わん」
「……、ちゃんとおねだりしてごらん?」
「……いますぐ構ってくれ」
「グッボーイ。もちろん、たっぷり構ってあげる」
いい子、と褒めるような優しいキスのあと、浮奇は俺たち以外の誰にも聞こえるように「寝室に行こう?」と囁いた。ああ、そうだな、構われたがりの大型犬には見つからないように。
「お腹が鳴っちゃったら笑ってくれる?」
「そんな余裕、なくしてくれるだろ?」
「うわあ、可愛くない」
浮奇は嬉しそうに笑ってそう言い俺の手を引いた。