夜が明ける前の暗く底の見えない海から、人魚を抱き上げ砂浜に足跡をつけていく。
いつも一緒の愛犬は今日は家で留守番をしてもらっていた。両手が塞がってしまうことが分かっていたし、無駄吠えはしない子だけれどもし何かの拍子に鳴いて人の注意を引いてしまうことがないようにしたかったから。
海岸から離れ波の音が遠ざかると彼は俺の首に回した腕にキュッと力を入れた。俺は振り返ることなくただ真っ直ぐに、海に背を向けて歩き続けた。日が昇る前に終わらせなければならない。立ち止まる暇はなかった。
人気のないまだ仄暗い道を行き、少し歩けば住み慣れた家が見えてくる。無事誰にも見られることなくガレージから家に入った俺は真っ直ぐバスルームに向かった。予め水を張っておいたバスタブの中に、鱗の乾き始めていた人魚をゆっくり沈める。
目を瞑って眠るように静かにしていた浮奇はそっと瞼を上げて俺を見つめた。
「……ありがとう、ふーふーちゃん」
「体調は大丈夫か? 顔色がすこし悪いな」
「ううん、だいじょうぶ。……こんなに海から離れたの、はじめてだ。まだドキドキしてる」
「そうだよな、俺も落ち着かない。何か問題があればすぐに教えてくれ」
「……ちょっとこっちに近づいてくれる?」
「うん?」
手招かれるままバスタブに近寄ると、浮奇は強くはない力で俺の肩を抱きしめた。濡れた肌が湿っていた俺の服をさらに濡らし、それがいつもの海岸でのやりとりと重なる。俺はいつのまにか潜めていた息をほっと吐いて浮奇の頭を優しく撫でた。
「リラックスするためにいつもと同じことをしよう。おまえの歌が聴きたい、聴かせてくれるか?」
「歌? いいけど……ちょっと緊張するな」
「短いやつでいい。声出し代わりに軽く」
「……それじゃあ」
すぅっと息を吸い、浮奇は美しい歌声を奏でた。小さなバスルームの中はあっという間に歌声で満たされ、体全てで彼を感じる。
最後の一音を伸ばしてそっと終わった歌に、俺は閉じていた目を開け浮奇のことを見つめた。言葉にしなくても彼を見つめる瞳で全てバレている気がしたけれど、言葉でも伝えたくて口を開く。
「ありがとう浮奇。大好きだ」
「……俺の、歌が?」
「ふ。もちろん歌も好きだけど、浮奇自身のことだよ」
「……俺もふーふーちゃんのこと大好き」
「人魚と人間の恋なんてうまくいかないと相場が決まってるのに、……俺は今おまえと一緒にいられて幸せだ。出会えてよかった」
「変な人魚と変な人間の恋は、うまくいくって決まりなんじゃない?」
「かもしれないな」
俺が笑みを浮かべると浮奇も安心したように微笑み返してくれる。頬に触れて目を細めると俺のしたいことに気がついた浮奇はパッと白い肌を染め、上目遣いで可愛らしく俺を見つめた。
「……目、つむって」
囁き声は俺たちの間だけで音になりバスルームの壁までは届かない。言われた通りに目を瞑る素直さに息を吐くような笑い声を溢して、それを咎められる前に唇を重ねた。
浮奇のやわらかい唇はいつ触れてもひやりと冷たい。人魚という種族自体が人間よりうんと体温が低いらしいというのはハグをした時に気がついていたけれど、冷たい唇にキスをするたびに水をかけられているような感覚になった。
「んっ、は……。……ふふ、ふーふーちゃん、キスうまいよね」
「……、……俺以外のキスを知ってるのか?」
「え。……あ、えっと、……練習、して」
「……誰と」
「誰っていうか、……海藻とか、サンゴとか。だって、俺、ふーふーちゃんが初めてだから、ヘタクソだって思われたくないし、キスなんてどうやって練習すればいいか分からないし」
「は、……あぁ……悪い、言い方が怖かったな。おまえが俺以外の誰かとキスしたのかと、そう思って」
「え? ……ふーふーちゃん以外の誰と?」
「……思いつきもしないって顔だな。安心した」
目の前が真っ暗になりそうな気分から浮奇はすぐに俺を浮かび上がらせてくれた。俺のヤキモチに気づくことなく首を傾げ、なんでもないよと告げると納得していないようにむっとしたけれど、キスをすればすぐに目を閉じる。練習の甲斐あってか、確かに初めてした時より浮奇はキスが上手くなっていた。
「うき」
「うん……?」
「練習なんてしなくていい」
「……でも」
「俺とたくさんして、上手くなっていけばいいだろ?」
「ふーふーちゃんに下手だって思われたくないのに」
「拙いキスでも、可愛いとしか思わないよ。練習するなら俺を使え」
「……それじゃ本番でしょ」
反論する声はうんと小さく、照れて目を逸らしながら浮奇はちょんと鼻をくっつけた。ゆらりと彷徨った視線が正面に戻ってきて、潤んだ瞳が俺だけを映す。
「練習、してもいい?」
「……もちろん、好きなだけ」
ほら、もうさっきよりうまくなってる。