ラーハルトには貞操観念というものは無かった。教える者が居なかった。
長らくは周囲も素行の荒い者ばかりで、ラーハルト自身も少年期を脱した頃からは、戦いに血が滾れば当然のように女を求めていた。女の調達方法、つまり合意を交わすか、金銭の授与をするかにもこだわってはおらず、その状況下での合理性により行為をするだけであった。世の中には慎み深い人々もいると知ったのは後々であった。一途な恋の存在もだ。
ゆえに、ヒュンケルとの旅の途中で酒を飲んで唇が合わさった際にはこう思った。
こやつも同じタイプだったか、と。ならば性欲処理の手間が省けると。
それが大間違いだったと気付いたのは、夜が明けてからだった。
古い木の匂いのする、ベッドサイドにスズラン型のランプがある小洒落た宿の寝床で目を覚ましたヒュンケルは、照れくさそうにこう告げてきたのだ。
「オレを選んでくれてありがとう」
腕の中の男を見ながらラーハルトは内心では悲鳴を上げそうなほどに驚いていたが、瞬時に自らの過ちを悟り、微笑んで誤魔化した。
ヒュンケルが、貞操観念が無いどころか十二分に有ったうえでラーハルトを選んでくれていたとは、思いも寄らなかった。
「一生大事にする」
などと、抱いた相手から誓われたのは初めてで、動揺のあまり返す言葉を持てなかった。
翌日からも二人きりの移動と寝泊まりは続く。
ラーハルトはあの日の互いの勘違いを正すべきかを懊悩した。
だが、大切な親友の、一生に一度の恋心を踏みにじるなどは出来なかった。
それに都合も良かった。これまでのヒュンケルならば、体調の悪い日は荷物を持ってやると言っているのに、そこまで世話になれないと意地を張ってきたものだが。
「ありがとう。いつもすまない」
番であれば頼る気にもなれるのだろうか、申し訳なさそうにだが素直に礼を述べてくるようになった。そんなヒュンケルが可愛かったし、またヒュンケルもラーハルトのことを可愛く思ってくれていた。ちゃんと口でそう言ってくれるのだから、ラーハルトの虚妄ではないはずだ。
大事な友の恋を、もっともっと豊かなものにしてやりたくて、ラーハルトは奔走した。好みの本に、快適な衣服の調達、定住をしてからは偶の旅行の計画などもした。
暖かい場所や綺麗な音をヒュンケルと共有することが嬉しい。
肌を合わせることも心地よい。誰よりもなじみ、誰よりも昂ぶる。
共に居る時間は以前にも増して充実した。
よって、ヒュンケルが二人の間柄をはき違えてしまっていても、ラーハルトにはなんの支障も不満もなかった。
「ありがとう」
やわらかなその礼を聞くだけで、ラーハルトの胸にはじんわりと満足が広がるのだ。それはもはや生き甲斐であった。
ありがとう、面白い、旨い、暖かい、涼しい、気持ちいい。
偽りの関係であったが。
ラーハルトは、ヒュンケルを幸せにするために全力を尽くした。それは断じて真実であった。
ただ、
「愛している」
と言われたときには後ろめたく、ただ黙って抱きしめてやるより他なかった。
親友と送る日々が楽しくて、仕方なくて、それが何年と続いて。
戦いのない平和なときを何十年と二人で過ごすことが出来た。
なんと豊かな時間だったろう。
今際の際にヒュンケルは、老いたながらも澄んだ目でラーハルトを見詰めて微笑んだ。
「とても、幸せだった……」
最期にその言葉を言わせてやれて本当に良かった。
彼が一生を掛けた恋を、守り切ってやれたことはラーハルトの喜びであり、誇りであった。
淡い青の指に顔を撫でられながら、ヒュンケルは穏やかにこの世を去った。
唯一無二の友を失う痛みに打ちひしがれながら、誠心誠意の偽りは本日、幕を閉じた。
ヒュンケルの死後も、ラーハルトの人生はあと数百年も続くと予想された。いまだラーハルトは外見も身体能力も若い生命力に溢れていた。
馴染みの人間たちがみな寿命で旅立った今も、ヒムやクロコダインといった仲間たちとは腐れ縁だった。
「ラーハルトよ。おまえもまだまだ男盛りだ。再び良い相手を見つけることをどうこう言うほどヒュンケルは狭量ではないぞ?」
生前のヒュンケルと親交の深かった獣王クロコダインは、彼から遺言のような希望を預かっていたのかも知れないが。
「急ぐことでもあるまいよ」
良い相手も何も、そもそもラーハルトにとってヒュンケルは親友であった。
しかし、突如ひとりになった生活は物足りない。
ラーハルトは二人で暮らした家を出て、再び戦いに身を置いてみた。
各地に眠る遺跡のダンジョンに挑戦したり、魔界の竜に挑む冒険へ征きもした。
そんな放浪を続ける途中で、何気なく泊まった宿の内装に足を止めて佇んだ。
スズラン型のランプだった。
旅慣れた今ならば分かる、これは地上の宿屋にはよくある種類の備品で、どこにでもあるものだ。
けれど不意に、古い木の匂いがして、古い記憶が鮮やかなまでに蘇ってきた。
初めてヒュンケルの体をもらい受けた、あの時。
彼と自分の大きな勘違いから、数十年に及ぶ関係が始まったのだ。
今はない彼の、香り、手触り、言葉、表情。
思い出して瞑目する。
いい男だった。会話は面白く、見目も芳しく、床では官能的で、戦いではゾクリとするほど鮮烈な鋭さを放つ、希有な男だった。
一緒に暮らした、楽しくて仕方なかった日々が走馬灯のように駆け巡り、唐突に目頭が熱くなった。
愕然として呆け、やがて目を閉じた。
そうか、あれこそが恋であったのか。
つまり二人の関係をはき違えていたのはラーハルトのほうだったのだ。しかし。
ラーハルトは、ヒュンケルを幸せにするために全力を尽くした。それは断じて真実であった。
最期にあの言葉を言わせてやれて本当に良かった。
正しく彼を幸せに出来た。なにも間違っていなかった。
ひとつだけ、後悔があるとすれば。
「だったら指輪のひとつもやれば良かったな」
ラーハルトは窓を開けて、真昼の光を仰ぎ呟いた。
「オレを選んでくれて、ありがとう」
とても、幸せだった。
SKR