ふたりの庭で 外はまだほんの少し暗く、夜とも朝とも呼べない時間。何か物音を聞いたわけでもなく、ただ自然と目が覚めた。昨夜は恋人と向かい合って眠りについたはずが、今は反対方向を向いている。そっと隣を振り返ると、恋人は本を読んでいた。ベッドサイドランプの柔らかな光が恋人とその手元を優しく照らす。
「マーヴ…起きてたの」
「ん?ああ、なんだか急に目が覚めてしまって。すまない、起こしちゃったかな」
「ううん、俺もなんか勝手に目が覚めちゃった」
答えるとマーヴは小さく笑った。読んでいたのは俺が勧めた小説。結構気に入ってくれているみたいだ。マーヴは本を閉じて話し始めた。
「考えたんだけど…」
「なに?」
「このまままた寝るのもなぁって」
「…もったいないって?」
「そう」
「俺も思った」
俺とマーヴは顔を見合わせた。お互い同じ表情をしているはずだ。"どうする?"と。しばらく唸った後、先に何か思いついたのはマーヴだった。
「せっかくだから日の出まで庭で過ごさないか?」
マーヴは言いながら指で窓の外を差し示した。雨も風もなく、朝の空気が心地良い時期だ。
「…マーヴって天才?」
再び見つめ合う二人はまた同じ表情をしていただろう。"それだ!"と。
俺もマーヴも、決めてからが速かった。ベッドから下りた二人はパジャマ姿のまま、さっそく庭でゆったりと過ごすための準備をした。外はぼんやりとした薄暗さで、紺色の空の東端は太陽の気配に反応し白みがかっている。空気は澄んでいて、まだ誰にも汚されていないような真新しさを感じる。マーヴはコーヒーを淹れ、俺はデッキチェアとテーブルをセットしブランケットとLEDランタンを持って出た。マーヴから湯気を立てるマグカップを二つ受け取りテーブルに置いた。マーヴは本は持って来なかった。
「気持ちがいい気温だね」
「やっぱマーヴって天才…最高だよ、この時間」
マーヴに最大限の賛辞を送り、コーヒーを啜った。いつもより美味しく感じるのは、いつもと違う環境の特別感からか、マーヴが淹れたからか。俺はどちらでもあると思う。コーヒー美味しいよと伝えると、マーヴは得意げに笑った。俺の一番のバリスタ。
「せっかくだから良い豆を使ったんだ」
「なるほど、それもあるかも」
「それも?」
マーヴがマグカップを持ち上げる手を止めて尋ねた。俺が考えていた事をそのまま説明すると、案の定マーヴは否定した。誰が淹れても美味しくなるものだよと彼は言うが、他人が淹れるより恋人が淹れたものの方が美味しく感じると俺は思う。人間の味覚はそういう意識ひとつで変わるものだろうし、個人的にはそんな錯覚すら愛おしい。だってマーヴに対してしか経験し得ない感覚だから。決してロマンチストというわけではない。隣にマーヴのような人間がいれば自然とこんな考えに至るというだけのことだ。
「つまりコーヒーが美味しいのはマーヴのおかげってわけ」
「大袈裟だなぁ」
そう言ってマーヴはマグカップに口をつけた。コーヒーはまだマーヴの舌には熱かったようで、驚いて身体が少し跳ねた。この人は小動物のように驚く。
「あちっ」
「気をつけて、少しずつ冷まして飲んでみて」
マーヴは素直に息を吹きかけ、慎重にコーヒーを啜った。
空から徐々に朝の到来を感じ始めた。空を透かす薄い雲が所々に広がる。会話が途切れた後は、空を眺めたりマーヴを見つめたり、時折鳥の鳴き真似をしたりして静かに過ごしていた。マーヴは庭の植え込みを見回り空を眺め、俺の鳥の鳴き真似を審査した。
「…今日晴れるかな」
「さあ…」
「空とか雲を読んで予想できないの、マーヴ?」
「この先丸一日の天気まではわからないよ」
上向くまつ毛と朝空のように透き通る目。その目は空を横切る鳥を追った後、俺に留まった。そして小さく咳払いをして呼びかけた。
「じゃあ、天気予報士のブラッドショーさん、今日の天気は?」
俺が天気予報士役なの?
「うーん、そうですね…晴れます」
「なるほど、それは良かったです」
…なに、この会話。マーヴが可愛いから許されるものの、ここまで進展のない会話なんてマーヴ以外とは絶対に出来ない。
「ではミスターミッチェル、あなたはどう思います?あなたはアメリカいちの天気予報士だとか」
マーヴはぶふっと吹き出した。小刻みに肩を揺らしている。そんなに面白いかな。マーヴは息を整え、デッキチェアにもたれる口髭の男を視聴者に見立て、ゆっくりと答えた。
「そうだなぁ…今日はよく晴れて、気持ちの良い一日になるでしょう」
そしてニコッと笑った。朝のニュース番組に相応しい朗らかなその笑顔は、この後昇る太陽を先取りしたような輝きを放っている。
「晴れの日が嬉しいのはマーヴのおかげだね」
「また…大袈裟だよ」
言いながらマーヴは空を見上げた。俺の一番の天気予報士。その横顔は嬉しそうに綻んでいる。大袈裟なんかじゃない。わかってくれたらどんなに幸せだろう。
朝はもうすぐ近くまでやって来ていた。紺色の空は隅の方にあるだけで、朝日が淡いグラデーションを作り白やオレンジが溶けるように広がって新しい空を作り上げている。陽の光を受けた雲もオレンジに色づき、景色に彩りを加えた。
マーヴも俺も空の同じ方角を見つめ、変化する景色に言葉もなく見惚れていた。周辺の家はどこもまだ夢の中で、世界には人間がたった二人しかいないかのように感じられた。
すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干しかけた頃、マーヴが立ち上がりおかわりを勧めた。俺が淹れてくるよと提案すると、マーヴは家の中に用があるからと断ったため、お言葉に甘えてマーヴにマグカップを渡した。
「待っててね」
そう言ってマーヴは微笑み家の中へ入っていった。昔からマーヴに"待ってて"と言われると胸の辺りがむずむずする。子どもの頃からずっと、マーヴがどんな楽しいものや話を持って戻って来てくれるのだろうという期待と、マーヴの身を心配する気持ちとで落ち着かない胸を抑え、マーヴが待っててと言った場所で動かず待ち続けることをやめられない。自分の元へ戻って来るマーヴを見て自分は愛されているのだと感じる、そんな生き方をしてきてしまったのだ。
…まあ、今マーヴはたった数歩先の家の中で何か用事を済ませているだけなのだけど。マーヴ、何してるのかな。遅いな。もう明るくなっちゃったよ。ここで待ってていいんだよね?
ランタンを消し、朝早くから照りつける太陽から逃れるためデッキチェアとテーブルを影へ移動させた。家の方へ振り返ると、マーヴがトレーを持ってこちらへ出てくるところだった。庭と家を隔てるガラスのドアを開けると、マーヴは小さく礼を言ってトレーを置いた。そこには二人分のコーヒーとホットサンドが載っている。
「朝ご飯を作ってきたんだ。ここで食べようと思って」
「マーヴ…もう一度言うけど、天才だね」
「それはこれを味わってから言ってほしいな、我ながらうまく作れたんだよ」
言いながらマーヴは俺を座らせ皿を差し出し、ホットサンドを口に入れるまでの俺の全ての動作を熟視した。朝の色が光るその目は、見たいものを取りこぼすことなく見つめ続ける。俺の一番のシェフ。期待に満ちた表情を浮かべるマーヴに見守られながら、隙間からチーズが溢れるホットサンドにかぶりついた。
「どう?」
「…マーヴ、どうしたのこれ」
「えっと、レシピを見つけて…口に合わなかったかな?」
俺は言葉が口を衝く前に席を立ち、一瞬で不安そうな表情に変わった恋人を力一杯抱きしめた。
「マーヴ、最後まで言わせてよ。最高に美味しいって言おうとしたのに」
彼の表情がどう変化したか、抱きしめているため確認は出来ないが、それでも彼が喜んでいることはわかった。彼は腕を俺の身体に回し、ぎゅっと音が聞こえそうなほどきつく抱きしめ返してくれた。その手の温度は高く、背中にじんわりと熱が広がる。喜びでもぞもぞと踊る指先はくすぐったい。
「…考えたんだけど…」
マーヴは俺を抱きしめたまま、今朝と同じ言葉で前置きした。
「なに?」
「笑わないで聞いてくれ」
「うん、わかった」
返事を聞いたマーヴは俺を解放して座らせ、またホットサンドを勧めた。きちんと真正面から話を聞いていたいが、俺が再び食べ始めるまでマーヴは口を開こうとしなかった。
「それで、何を考えてたの?」
マーヴはようやく遠慮がちに話し始めた。
「…世界をこんなにも美しいと思えるのはブラッドリーのおかげだな、って」
はにかむ彼はめまいがするほど綺麗だ。
「…大袈裟だね」
「僕の本当の気持ちだよ」
「知ってる」
するとマーヴはふっと笑って、こちらに手を伸ばし俺の口の端を拭った。
「あともうひとつ、」
すっかり夜が明け暖かい光に満ちた二人の庭で、マーヴはトーストの隙間からこぼれるチーズのようにとろける表情で言葉を続けた。
「そうやって大きな口で躊躇いなく頬張る君も、欲張って口の端にパン屑をつける君も、この美しい世界の一部なんだ」
…こんなことを言ったら笑われると、マーヴは本気で思ったのだろうか。もちろんマーヴの言う意味では笑わない。笑うとすれば、それはこの人を恋人と呼べるのが嬉しくて、あまりにも恋人が愛おしくて、恋人の世界に存在できることが何よりも幸せだからだ。
「…いや待って、世界の"一部"?それだけ?」
「へ?」
「俺、マーヴの全てになりたいんだけど」
「あぁ…えっと…」
「これでもまだ十分じゃないって言いたいんだよね?」
「いや、そんなことは、」
「大丈夫、俺はまだまだやる気だよ」
マーヴはホットサンドを頬張った口で、焦って何やらモゴモゴと説明し始めたが、何を言っているのかはわからない。でも心配しないで、食べてからゆっくり話そう。俺の一番の、世界でたった一人の愛しい人。
また新しい一日が始まる。天気は気持ちの良い晴れ。だってマーヴがそう言っていたから。