I’m home, baby ドタバタと響き渡る足音。音が聞こえるのは玄関からで、足音の主は体格が良いようだ。そして、かなり急いでいる。
マーヴェリックはキッチンカウンターに座って近づく足音を聞きながら、頬杖をついて笑い目を閉じた。足音にも勝る大きな声は、その主がマーヴェリックの元へ辿り着くか、マーヴェリックが返事をするまで彼を呼び続けた。
「マーヴ、マーヴ!」
キッチンへと飛び込んだ足音の主・ルースターは、荷物も下ろさずマーヴェリックの向かいでカウンターに身を乗り出した。その肩を上下させながら。
「…息があがってるけど、ちゃんと車を運転して帰ってきたんだよね?」
「え? うん、そうだけど」
はあ、と最後の大きな一息をついて、ルースターはようやく荷物を下ろした。
「走って帰ってきたみたいに見えるよ」
マーヴェリックは笑いながらもわずかに身を引き、目を見開き瞬きすらしない恋人から距離をとった。
「急いでたんだよ」
「どうして?」
「どうしてって、」
ルースターはマーヴェリックに向かって更に顔を寄せ、"本日の最重要事項"を発表した。
「俺たち大事なこと忘れてたんだ!!今日キスの日だったんだって!!」
沈黙が二人の間を漂い、行き場もなく周回を続ける。これに触れずに日付など越えられるか、と意気込むルースターの向かいで、カウンターチェアの座面を握るマーヴェリックの手からは力が抜けた。
「…それ、昨日も言ってたよね」
昨日も彼は急いでいた。
「うん、言ったね」
そしていつも開き直るのが早い。
「キスの日って数日続いたりするものなの?」
「うん」
いや、そんなはずはない。知らない人間が適当に決めた記念日が三日三晩も続くわけがない。その日にかこつけて好きな相手にキスをしたいなら、一日限定の方が価値はあるだろう。マーヴェリックは初日こそルースターに気圧され、"キスの日"という存在そのものに素直に驚いてはいたが、二日目にして彼の意図が読めてしまった。しかしどうだろう、目の前で悪意のない嘘をつくルースターにわざわざそれを言う必要があるだろうか。マーヴェリックは本人が思うよりルースターの"おふざけ"を気に入っている。
「…それで、昨日の君はここで『今日の分のキスを取り返そう』と言ってたよね」
「先に言わないでよ」
不貞腐れた態度を見せるルースターだが、その目は微かに笑っている。ここでいじければ、マーヴェリックはより素直になってくれそうだ。ルースターはマーヴェリックにとって何十人目かの恋人だが、彼が成長した愛し子の手放しの甘えに弱いと知っている。
「よしマーヴ、もう夜だし、そろそろ今日の分のキスを取り返すよ」
「取り返すもなにも、今朝いってらっしゃいのキスをしただろう?」
「…それも昨日聞いた」
ルースターは苦々しく呟いた。この人はわかってやっている。
「マーヴはそれで足りるの?」
「足りる足りないの問題じゃないよ」
マーヴェリックは腕を組んだ。ルースターは彼の交差する前腕に目をやり、不服そうに口元を歪ませる。
「俺は足りない」
「そう」
ふふん、と笑うマーヴェリックに言葉が詰まる。さっきの態度ではマーヴェリックの牙城は崩せなかったのだろうか。
「…マーヴ、こうなったら今日は趣向を変えていくよ」
「何をする気だ?」
マーヴェリックは組んだ腕をカウンターに乗せ身を乗り出した。ルースターがマーヴェリックの隣までカウンターを回り込んで来る。彼はまだ今朝家を出た時の格好のまま、波が崩れた髪を揺らして座った。そして彼を伺うように見つめるマーヴェリックを見据え、小さく咳払いをして答えた。
「マーヴはどんなキスが好きか、俺に教えて」
「好きなキス?」
「そう」
マーヴェリックの頭がすっぽり収まる大きな手は、期待に満ちた様子でカウンターを撫でたり太ももを擦ったりしている。自分に身体を向けたマーヴェリックが腕を解き考えるのを待っているのだが、彼の頭上には疑問符が浮かんでいる。
「うーん…僕にとってはおかえりのキスが特別かなあ…」
「俺が言いたいのはそういう意味ではないんだけど…ほら、どこにキスされると気持ちいい、とかさ…」
まあいいか、と言いかけたところで、マーヴェリックが蕩けるように笑って続けた。
「君が今日も無事に帰って来てくれた、しかも他の誰でもない僕の元に。それを実感する時、僕は嬉しくて仕方ないんだ」
そう言ってマーヴェリックは眉を下げ、愛し子の頬に触れた。彼の指の動きははまるで綿雲が頬を掠めるようだった。
ルースターは再び言葉に詰まった。柔らかな笑顔を向ける恋人には、笑うたびに少しずつ刻まれてきた皺が見える。それはもはや表情を変えても消えることはなく、ルースターより多くの月日を生きてきた証となっている。
「俺、マーヴ以外の人のとこには帰らないからね」
その皺が刻まれるまで、ルースターはマーヴェリックの心を去っていた。マーヴェリックは、いつか彼が帰って来ることを期待して過ごしていただろうか、それともとうの昔に諦めていただろうか。ただいまとおかえりのキスなど、同じ屋根の下で暮らす恋人同士であれば珍しいことではない。今までもこれからも、一日も欠かすことはないだろう。しかしマーヴェリックにとって何がそのキスを特別なものにしているか、ルースターは理解しつつあるのだ。
「マーヴは俺からのただいまのキスだけを待っててね」
「うん、僕はいつまでも、ここで君を待ってる。…頬を差し出してね」
マーヴェリックは冗談めかして付け加え、ふふっと笑った。
「唇じゃなくて?」
「うーん…どこでもいいよ」
「お、言ったな?」
「あー…っと…」
「マーヴ、俺まだただいまのキスしてなかったや。どこでも、していいんだよね?」
ルースターはマーヴェリックの手を優しく握った。今まで交際した誰よりも歳の離れた恋人を迎え入れようと、年嵩の男は静かに頷き相手の唇を目で追った。
「ただいま、マーヴ」
ルースターがキスをしたのは頬だった。首を傾げマーヴェリックの顔を覗き込むと、彼は小さく息を吐き優しく呟いた。
「…おかえり、ブラッドリー」
頬の次はどこがいいだろうか。マーヴェリックの唇はルースターのそれを捉えた。握っていた手はルースターの首筋に添えられている。挨拶に相応しい軽いキスの後、マーヴェリックは口髭の感覚が残る唇を舐め、ルースターの耳元で囁いた。
「君の望み通り、今日の分を取り返そうか」
少なくとも、マーヴェリックはもう一度ルースターに"ただいま"と声をかけられることを望んでいたはずだ。彼がそれをいつか叶うと期待していたにせよ、叶わぬ夢と結論づけていたにせよ。ルースターはそう信じている。だって、この人はこんなにも嬉しそうじゃないか。
ただいまのキスは、まだまだ終わらない。唇の次はどこだろう。二人の視線が身体中を飛び回る。