Caustics (前編) 地上の楽園。月並みな表現だが、この島以上に美しい場所を見たことがない。エメラルドの海では眩い集光模様が揺れ、ゼニスブルーの空では小さな雲が漂い去っていく。
飛行機を二本乗り継ぎスピードボートで数十分。無数の島が集まる赤道直下の国で、マーヴと二人だけの休暇を楽しんでいる。10分あれば一周できるほどの小さな島が2つ橋で繋がっていて、その先には水上ヴィラが並んでいる。島そのものがひとつのリゾートホテルになっているというわけだ。
ようやくお互いのタイミングを合わせ一週間の休暇をぶん取ったからには、めいいっぱい堪能して帰りたい。気合は十分だ。
水上ヴィラは文字通り海の上に建っている。入ってすぐがベッドルームで、バスタブと大きなクローゼットがある部屋を通り抜けるとバスルームが並ぶ、横長の部屋だ。バルコニーからは直接海へ飛び込めるほか、大人が泳げるサイズのプライベートプールがあり、床の一部は眼下の海が覗ける大きなハンモックになっている。水上ヴィラは南の島の定番だが、定番こそマーヴと体験しておきたい。冒険するのはその後でいい。それにしても、こんなに美しい景色の中、マーヴと好きなことをして過ごすことが出来るなんて。夢でなくて心底良かった。
部屋に到着した日はすでに外は真っ暗だった。しかし俺もマーヴも待ちに待った休暇に子どものように興奮し、かなりの移動時間にも関わらず眠れる気がしなかった。結局二人とも目が冴え、カップルがキングサイズベッドで行うであろうことを早速やってしまった。外の景色がどれほど美しく鮮やかであるか、それがわかる日の出の時間にはまだ余裕がありそうだったから。
到着後二度の夜を過ごした今、俺とマーヴは朝食を摂ったレストランから部屋へ戻る道を歩いている。マーヴは日が照り始める前にジムへ赴きワークアウトとシャワーとビーチの散歩を済ませていた。この人は海にぽつんと浮かび自分たち以外の知り合いは誰も存在しない、つまり何をしたって誰も見ていない状況にあっても朝の運動は欠かさない。ちなみに俺はマーヴが部屋に戻って来た時の物音で起きた。
「う〜…もう暑い…」
「まだ朝なのにね」
午前中から容赦のない暑さで二人の足どりは重い。
「ここまで暑いと頭が働かない…」
「ブラッドリー、この後はどうしようか?」
「マーヴ、俺は今物事を考えられる状態じゃないの。とりあえず部屋に戻ろう」
「わかったわかった」
ははっと笑うマーヴはどうやら俺に歩くペースを合わせているみたいだ。俺の歩みは普段の二人の歩幅の違いが意味を成さないほど遅々としている。マーヴは一体何日目で暑さに音を上げるのだろう…。俺はもうすでにギブ。
時間にして2〜3分の、部屋へと伸びる水上の橋を倍以上の体感時間で歩き、ようやく部屋に辿り着いた。マーヴがカードキーを取り出す数秒すら待ち遠しかった。部屋の中は冷房がよく効いていて、天井のファンも高速で回っている。気持ちの良い空気に安堵し息を吐くと、全身から力が抜けていくのを感じた。その姿を見たマーヴは笑って俺の背中をポンと叩き、横を通り過ぎていった。
「ブラッドリー、そんなに暑い?」
「暑すぎて火がつきそう」
項垂れてベッドに腰掛ける俺に、隣の部屋で服や水着を漁りながらマーヴが声をかけた。
「水分補給は忘れるなよ。火を消すには水が必要だからね」
半分笑いながら言われた。"火がつきそう"って、我ながらわかりやすい例えだと思ったんだけどな…。
「わかってるよ。マーヴもちゃんと水飲んでね」
「心配ないよ」
こちらからは姿は見えないが、きっと手をひらひらさせて"心配無用"のジェスチャーをしているはずだ。身体に関しては自己管理ができる人なのでさほど心配する必要はないのかもしれないが、ちゃんと一言声はかけておきたい。それが恋人心というものだ。
暑さと満腹感でベッドから動けずにいると、マーヴがこちらに来てテレビをつけた。地元のニュース番組が天気予報を伝えている。現地語はわからないが、今日も晴れて暑くなることはよくわかった。ベストシーズンに来たのだから当然か。この地域のこの時期は一ヶ月の降水量がゼロに近い。マーヴは隣に腰掛け俺の顔を覗き込んだ。
「ブラッド、今日も天気が良いみたいだし、向こうのプールへ行こうか。海は影がないし」
「…それともベッドでダラダラする?」
俺はベッドに倒れ込み、マーヴのTシャツの裾を引っ張った。
「もう…しないよ」
「なんで」
すると今度はマーヴが寝そべる俺のシャツを引っ張った。
「僕は外に出たいな、だめ?」
その効果は絶大、ベッドの底まで沈みかけていた身体が跳ね上がった。
「よし、行くか」
隣でマーヴが吹き出した。あっさり態度を変えた俺が面白いみたいだ。自分の魅力を自覚していてもいなくても、お願い事をするピート・ミッチェルは強い。そしてブラッドリー・ブラッドショーはそのお願い事に弱い。彼にダメかと聞かれたら、ダメじゃない以外の答えは無い。単純だけど、変わることのない事実。
出ると決まれば行動は早い方がいい。外はこれでもまだ最高気温には達していない。2人でクローゼットの前に立ちあれやこれやと準備した。日焼け止め、飲料水、カメラ、本、あとスマホとイヤホン。帽子はキャップしか持っていないのでそれを被ることにした。日差しの厳しい地域だからか、部屋にはつばの広い麦わら帽子が自由に使えるようあらかじめ置いてあるのだが、俺が被るとマーヴが農家か牧場主みたいだと言って笑うので被るのをやめた。可愛いって意味だよと付け加える彼に被せてみると、特別似合っているわけではないがなんとなく可愛く被りこなしていて妙に悔しかった。
2人で水着に着替え、タンクトップ姿の俺は上から薄手のワッフル地のパーカーを、いつもの白Tシャツを着たマーヴはさらにリネンの長袖シャツを羽織り荷物を持って外へ出た。灼熱の日差しを少しでも和らげるため、長袖の服は日中こそ必須だ。羽織ものは二人の共用のためマーヴにはサイズが大きく、肩周りは少し落ち、袖は手を半分ほど隠している。淡いパープルはマーヴによく似合っていて、この島の自然のように生命力に溢れている。俺はといえば、白いパーカーが光を反射していてただただ眩しい。もちろん目元にはサングラス。マーヴはいつもの愛用品だが、俺は行きの空港でウェリントン型のちょっとお高いものを買った。旅の思い出になるし、帰っても使える。そして足元は色違いのビーチサンダルで、歩くたび2人でペタペタと音を鳴らしている。
「なんか俺らの足音ペンギンみたい」
「ペンギンって本当にペタペタ足音が鳴るのかな?」
「さあ…?」
「知らないのか」
「ペンギンの足音は知らないけど、ペタペタ歩くマーヴが可愛いことは知ってる」
前を歩いていたマーヴはこちらを振り返りながら呆れたように首を振った。
「からかうんじゃない」
「俺はある人に関しては物知りなんだ」
マーヴは呆れたまま前方へ向き直るだけで返事はしなかった。ちらと見える彼の口元は微笑んでいるように見える。それが彼の返答だ。
ホテルのインフィニティプールはビーチ沿いにふたつあり、間に開放的なバーとラウンジが入った小さな建物を挟んでいる。プールサイドのタイルの陸地にはカバナが、砂浜にはビーチベッドがいくつか並んでいて、他の客たちが寝そべったり酒を飲んだりして自由に過ごしている。フレンチドアを開け放ったバーからはうっすらと音楽が聴こえ、数人の客が小さなカウンターでカクテルの出来上がりを待ちながら談笑している。空いたカバナを見つけてマーヴを呼んだ。暑さは堪えるが風通しがよく、パラソルよりも広い範囲で日差しを避けられるので居心地は良い。カバナのベッドに荷物を置いて、キャップとサングラスを外しさっそく寝転がった。マーヴは足元で腰掛け、俺の足首に手を置きくすくす笑っている。
「これじゃあ部屋にいるのと変わらないな」
「でもここの方がいいよ。周りに人がいると旅って感じ」
「だから言ったろ?外は気持ちがいいよって」
「そうは言ってなかったじゃん」
マーヴは帽子を脱ぎこちらに放った。胸の上に落ちた彼の帽子を掴んで顔の上に乗せた。編まれた麦わらの隙間からは外の光が差し込み、暗くなった視界に細かな柄を作る。ぼんやりと聞こえる音楽と様々な言語の話し声が眠気を誘う。このまま眠ってしまおうか。遠のく意識に身を委ねかけた瞬間、突然視界が明るくなった。マーヴがカバナに上がり込み帽子を取り上げたのだ。そして彼は半目の俺に顔を近づた。
「寝てるのか?」
「ううん…寝てない」
「寝てたろ、わかってるんだぞ」
「顔見えてなかったじゃん」
「見えてないからこそだよ」
俺は上体を起こしマーヴに手を伸ばした。
「マーヴもゆっくりしようよ」
マーヴは差し出した俺の手の指先をそっと撫でるだけ。そのため行くあてをなくした手を今度は彼の腰に回し、頬に一回キスをした。この人の背中をベッドにつけられるのは夜だけなのかな、なんて考えながら彼を抱き寄せた。陽に晒された彼の肌は熱く、シャツの首元から覗く素肌はいつもより赤みが増している。鼻を近づけ息を吸うと、日焼け止めの匂いがする。
「ブラッドリー、匂いは嗅がないでくれ」
「なんで?」
「恥ずかしいだろ、汗かくし」
「予想通りの答えだね」
「予想するなよ」
そんなこと言われても、頭が勝手にマーヴが言いそうなことを考えてしまうのだから止めようがない。それに、俺の予想は大抵当たる。
俺の鼻から少しずつ遠ざかろうとするマーヴとマーヴを腕の中に収めていたい俺がジリジリと無言の格闘を繰り広げていると、ホテルスタッフがこちらに近寄り声をかけた。
「お食事やお飲み物など、何かお持ちしましょうか?」
「どうするマーヴ、俺は今はいいかな」
「そうだなぁ…。僕も今は大丈夫です、後でそこのバーに行ってみます」
返事をしながらマーヴはサングラスを外し目を細めた。その瞬間、スタッフがほんの一瞬だけ言葉を詰まらせた気がしたが、持ち直して軽くバーの説明をしてくれた。彼は我々が今日初めてこのプールに来たことを把握していたようだった。ただ、サングラスで隠されていたマーヴの瞳の美しさは把握していなかったらしい。説明を終えたスタッフがごゆっくり、と一言添えて去っていったが、彼のぎこちなさに気づいたのは同じくマーヴの視線に陶酔している俺だけだった。
「ちゃんと聞いてた?ブラッドリー?」
「聞いたよ。今日のおすすめはモヒートだって」
「それだけ?」
「ああ、あとあの人会っていきなりマーヴに目を奪われてたね」
「そんなわけないだろ」
「あの人はプロだから仕事に徹してたけど、俺だったら声かけちゃうかも」
またそんなこと言って、と短く笑い、いつの間にか俺の固い腕を解いていたマーヴは今度こそゆったりと寝そべった。白いベッド、白いクッションに白い天蓋。真っ白な空間で横たわり周囲を眺めるマーヴは、ありきたりな例えだがまるで天使のようだ。すぐさまその隣に寝転ぶと、マーヴは俺と自身の肌をじっと見比べた。
「君も僕も、来たばかりなのにずいぶん日焼けしたなぁ」
驚いたように言いながらマーヴは俺の腕を持ち上げそっと撫でた。腕をふわりと往復する彼の指先の動きを目で追いながら、その優しい感覚につい笑みが溢れる。
「こんがり焼けて帰ろうよ、会う人みんながいい休暇を過ごしたんだなって思うくらいに」
「いい大人が羽目を外したんだなと思われるだけだよ」
「いい大人は羽目外しちゃダメなの?」
マーヴは答えに窮した。羽目を外した我が身を振り返り何も言えないマーヴの口元は波打つばかりで言葉が出てくる気配はない。
「…ほどほどにね」
ようやく発した言葉には力がなく、"ほどほどに"という表現がどれだけ血気盛んな自分にとって無意味であったか、今になって実感しているようだ。そういう動揺を隠しきれないマーヴが俺は好きだ。わざわざ失敗した過去を思い出し自分の言えたことじゃないと気づく程度の思慮深さがあって、変なところで素直な人。マーヴは俺の腕を離し、取り繕うように自らの手首に目をやった。そこに腕時計はない。時間なんて気にする必要ない、と俺が彼の手首から外したのだ。マーヴは何もない手首に指を巻きつけ、くるくると動かしながら尋ねた。
「今何時?」
「んー、何時でしょう?」
「僕が聞いてるんだけど」
「何時でもいいじゃん」
言いながらマーヴに身体ごと向き直ると、マーヴは困った顔でこちらを見ていた。その視線からはほんの少しの呆れと、2人で時間を忘れることの解放感とが見てとれる。どうしても時間を教えない俺にマーヴはまあいいさ、と小さく呟き頭上に置かれた荷物を寝転んだままノールックで漁った。マーヴはスマホを掴んで取り出すと電源を入れた。あっ、スマホで時間見ちゃったら意味ないじゃん。
「マァヴ」
腕を伸ばし彼のスマホを奪い取った。
「時計じゃなくて、写真を撮りたかったんだ」
マーヴもスマホを取り返すため腕を伸ばしたが、起き上がってまで遠ざけられたスマホを追うことはなかった。
カメラを持っては来たものの、写真を見返す機会は圧倒的にスマホでの方が多い。今時現像だってスマホから出来てしまう。そのため、現実逃避の旅で一番の邪魔者たるスマホを置いておくことは出来なかったのだ。写真と動画が詰まったマーヴのスマホをふと見ると、待ち受け画面には部屋のバルコニーでボーッと景色を眺める俺が写っていた。この島に着いて撮った写真をさっそく待ち受けに設定したようだ。美しい景色と俺の頼もしい背中のおかげで、撮影下手なマーヴが撮ってもなかなか様になっている。
「この写真いいね、俺にも送ってよ」
「ああ見たんだね、その写真」
待ち受けに設定しておいて見られずにはいられないだろう。
「わかった、後で送るよ」
マーヴは俺の手からスマホを取り返し、一瞬待ち受け画面を確認した。その時彼の目がほんの少し垂れるのを俺は見逃さなかった。その笑い皺に、穏やかな時間の積み重ねを感じる。確実にその一部は、俺と2人で作り上げたものだ。誇らしさすら感じる。やったぞブラッドリー、今日は思いっきり浮かれよう。
何かを思いついたように起き上がったマーヴはライラックのリネンシャツと中に着ていたTシャツを脱ぎ、裸の上半身にシャツだけを羽織り再び寝転んだ。彼の汗ばむ素肌に張り付かんとするシャツは、それでも風を受ければ小さくはためく。今朝も快調に鍛えられたであろう彼の身体はいつも通りの美しい起伏を作り、シャツの隙間からこちらの視線を惹きつける。どんな姿であろうとマーヴを想う気持ちに変化はないと断言できるが、やはり年齢を感じさせない彼の身体は俺の心を掴んで離さない。
「うん、マーヴは今日も最高」
「じっとりした目でそんなこと言うんじゃない」
どうやら全てお見通しのようで、マーヴは俺の脳内で再生されているいかがわしい映像を停止させようと嗜めた。
「だってさぁ」
「だってじゃないよ…この変態」
挑発的な目と微笑みは脳内の映像をより鮮明にさせるばかりだ。もはや意地悪。ほんと、ずるい人だ。
「妄想くらいマーヴもするでしょ」
「変態じゃないなら酔っ払いか?」
「俺まだ飲んでないし」
マーヴはふぅん、と曖昧に返事をしてこちらに背を向けた。マーヴだって妄想するよね、俺のこと。
「マーヴ、何かお酒でも飲む?」
「うーん、そうだね、そろそろ何か飲もうかな」
背中越しにマーヴが答えた。
「何飲みたい?」
「今日のおすすめがいいかな。モヒートだっけ?」
「…マーヴ、ちゃんとこっち見て言ってよ」
汗ばむマーヴの背に指を滑らせると、渋々身体の向きを変えた彼はいつもよりほんの少し強気な視線を向けて繰り返した。
「モヒートにする」
「オッケー、じゃあ俺貰ってくる」
するとマーヴは直前の拗ねた会話など全て忘れてしまったかのように、立ち上がりかけた俺を静止し座らせた。
「僕が行くよ、ブラッドリーは休んでて」
立ち上がりかけたマーヴを今度は俺が静止した。
「大丈夫、俺もう年齢確認されないから」
モヒートを2杯注文したって拒否されないほどの貫禄はあると思う。
「確かに、僕よりしっかりして見えるかもね」
「そういう問題じゃないけど…まあでも実際俺の方がしっかり者でしょ」
そう言うとマーヴはクスッと小さく笑い、隣に座る俺を見上げた。彼の感慨深げな視線は髪をかき上げる俺の手を追う。するとこちらに手を伸ばし、たった今整えたばかりの髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「ちょ、マーヴ?なにすんの」
「…君は坊やだよ、いつまで経ってもね」
「坊やじゃないって」
マーヴは立ち上がった俺の腰をポンと押した。
「いいから早く行っておいで、坊や」
坊やじゃないってば…。しかし言い返す気力は太陽の熱気に奪われ、返してはもらえなかった。髪はマーヴに乱されたまま、パーカーのポケットに手を突っ込みバーへ向かった。
──後編へ続く