忘羨ワンドロワンライ【隠し味】 魏無羨は赤い飯が好きだ。何をどう間違ったのか、考えられない唐辛子の量を最適だと思い込んでおり、大抵の鍋を真っ赤にする。しかし、けして味音痴というわけではない。むしろ酒の肴の味にはうるさい方だ。絶品と言われた江厭離の汁物は、魏無羨の口に合うように配合を変えていった結果であるし、細やかな隠し味までピタリと当てて見せる。だがなぜか自ら杓子を握ると、鍋が真っ赤になるのである。
ゆえに、藍家の弟子たちは魏無羨が杓子を握ろうものなら、それを急いで取り上げ、何か手伝うことはないかと釜戸のそばをウロウロするのを慇懃に断る。夜狩で野宿ともなれば、なんとか周辺の地酒を見繕ってきて手渡し、『あちらに綺麗な花が咲いていましたよ』とか『あの木は枝振りが良いので、座ると月が見えるんじゃないですか』とか、極め付けは『含光君とお二人で少し広いところで食事の準備が整うまでゆったりとお休みください』とか、とにかくなんとか理由をつけて追い払い、その隙に薪に鍋を掛け、真っ当な色の粥を炊くのだ。
大抵の鍋を真っ赤にする魏無羨だが、弟子たちには到底真似できない得意料理がひとつだけある。焼き魚が絶品なのである。
数日かけて夜狩をすれば、そのうちの数日は野宿となる。そういった時には早めに何人かが川で魚を獲っておき、それを汁物にしたり蒸したりするのだが、魏無羨はたいてい腑を掻き出して塩をかけて焼く。焼くだけでなく、ある時は道端で見つけたという、そのまま食べるのは酸っぱい野生の橙を魚の腑に詰めて風味を豊かにし、あるときは香りの良い大きな葉に包んで火に焚べる。どうしてそうしたのかと問えば、単に美味しそうな気がしたからと、そんな適当な答えが返ってくる。それがどうにも本当に、絶品としか言いようがないほどに美味いのだ。
そんな魏無羨の前には、今日の戦果である少々大きめのぬらりとした魚が一匹横たわっていた。弟子たちが汁物にしようと皮まで剥ぐには剥いだのだが、清流で獲ったわけではないのでどうにも生臭く、このままではせっかくの戦果が無駄になると、魏無羨のところに持ち込んだのだ。
「魏先輩、なんとかならないでしょうか。汁物にしても生臭くて食べられませんよね?」
「これは――」
雲夢でもこの手の魚は食べていた。雲夢は川というより湖に近いので、少々生臭い魚も食卓にあがる。大抵は皮を剥いで骨を外し、一口大に切って粉をまぶし油で揚げる。それでも匂いが気になるようなら香りが強い葉を魚醤に入れてそれを付けて食べる。だが今は夜狩中だ、揚げるための油もなければ魚醤もない。とは言え、この戦果を食卓に上げなければ、今日の食事はわずかな日干しの野菜と木の子が入った粥だけだ。育ち盛りの弟子たちの気持ちを考えれば、諦めきれないのも道理だろう。
「とりあえず皮は剥いであるようだから、腑を出してぶつ切りにして、これを絞って酒と一緒にかけておいてくれ」
魏無羨は懐からコロコロと小さな青い橙を幾つか取り出し、弟子に手渡す。大きさがまちまちなそれは、形は歪ながらどっしりと重く、汁気が多そうだ。
「こんなものいつ採ったんですか?」
「うん、昼前の藪のそばに野生の橙が生えてたからな。少しは甘いかと思ったら酸っぱくて食えなかったんだ」
酸っぱくて死ぬかと思った――思い出したのか、魏無羨はべえと舌を出して眉を顰める。
汁気はありそうだから、絞れば臭み消しには使えるだろう――そう言うと、ひっそりと傍で成り行きを見守っていた藍忘機に声をかける。
「藍湛、他に使えそうなものがないか、ちょっとあっちの藪を見てくる」
「私も行こう。皆は火を焚き、野営の準備をしておくように。周囲には念のため陣を敷いておきなさい。炊事のものは粥も炊いておくように」
弟子に指示を出すと、藍忘機は待ちきれぬようにぴょんぴょんと楽しげに飛び跳ねて待っている魏無羨の黒衣の背中を追った。
「藍湛、見ろ。蜂の巣だ」
さほど歩かぬうちに魏無羨が声をあげる。大きな葉に隠れるようにして重たげな巣が木の幹に下がっていた。
「俺が呪符を貼り付けたら、避塵で幹から切り離してくれ」
言うや否や魏無羨は懐の符に指を走らせ巣へと投げる。巣を包むように丸くなった符を目掛けて避塵を走らせると、想像よりずっと重い音を立てて巣が落ちてきた。刺激で怒ったらしい蜂が、袋のように膨らんだ符の中でブンブンと羽音を立て、時折ぷすりと符から小さな針を突き出して巣を守ろうと熱り立っている。
魏無羨はゴソゴソと懐を弄り、小さな丸薬のような艾葉を取り出し、種火を器用に移すと符の隙間からねじ込んで傍に置いた。
「さて、煙で蜂が大人しくなるのをしばらく待たなくちゃいけないんだけど」
藍忘機を振り返り、魏無羨は悪戯な笑みを浮かべる。
「待ってる間、藍二哥哥は何をしたい?」
踊るような足取りで近付き、目尻に微かに笑みを浮かべている白い顔を両手で包む。
「たくさんは楽しめないぞ? そうだな、ちょっとくらいの時間なら楽しめるかな」
宿を取れた夜はまだしも、野宿が続くと夫夫らしい時間は持てない。藍忘機は揶揄うような笑顔を見せている魏無羨の体を自らの袖に隠すように抱きしめると、なおも『ちょっとだけだからな』と言い連ねている唇に躊躇うことなく口付けた。
「どうだ、粥は炊けたか」
ぐるぐると粥の鍋を杓子でかき回していた藍景儀は、ぱっと背後を振り向く。
「魏先輩、何か見つかりましたか?」
期待を込めた瞳に、魏無羨は小ぶりの瓢箪を振って見せる。どっしりと重たげな瓢箪は、くびれの手前で切られて器にされ、切り口には油紙が挟んである。
「蜂蜜を採ってきた。味噌を乾かした板味噌があったろう? あれを蜂蜜に混ぜて魚に塗って焼いてみよう。残った蜂蜜は食後の甘味だ。ちゃんと年少のものに多めに分けてやるんだぞ」
雲深不知処ではなかなか甘いものが食べられないからな――魏無羨の言葉が終わる前に藍景儀は飛び上がって喜ぶと、大きな声で思追を呼ぶ。
「思追、来てくれ。魚を焼こう。早く!」
何事かと集まってきた弟子たちが、景儀から蜂蜜を見せられ小さく歓声をあげる。声こそ抑えているが、かつての雲夢の騒がしい弟子たちと全く変わらないその様子に、魏無羨は笑った。
「俺はあっちで藍湛を肴に酒を飲んでいるからな。出来たら呼んでくれ」
弟子たちに羽を伸ばさせようと離れた切り株に座った藍忘機の元に、魏無羨は跳ねるように戻る。そして躊躇いもなくその脚の間に腰を下ろすと、逞しい夫の太腿に背中を預けた。手渡された酒の瓶の蓋を機嫌良く跳ね飛ばし、さっそく口に含む。地酒らしい少し癖のある香りが鼻に抜け、残り香は花の香のようだ。
「なんだ、蜂蜜が合いそうな酒だな」
藍忘機は懐から油紙の包みを出すと、中の巣蜜を摘み上げ、酒に濡れた唇に当てがう。赤い舌が巣蜜へと伸び、そのまま白い指先を思わせぶりに舐った。
「お前の指は甘いな」
蜜で濡れて光る唇は、天頂で光りはじめた月の光で誘うように光っている。赤い舌がぺろりと伸びて、藍忘機に見せつけるように唇の上の蜜を舐め取る。
「変だな。お前の指の方が甘いぞ?」
思わず喉を鳴らした藍忘機に、魏無羨は笑いながら囁いた。
「藍湛、さっきも言ったろう? 今日は月が綺麗だから沈むまではお預けだって」
藍忘機は恨めしげに月を見上げる。
魏無羨は笑いながら巣蜜を摘み上げ、口に含む。まだ蜜の残る指を藍忘機の口元に伸ばすと、藍忘機は上品に袖で口元を隠しながら、その細い指を舐った。
「君の指も甘い」
魏無羨は舐られた指で絡みつく舌を摘んで遊ぶ。
「月が沈んだ後のために、残りの巣蜜は取って置いてくれ」
俺と蜂蜜、どちらが甘いのか比べてくれーーとろりと溶けそうな笑顔でそう囁かれ、藍忘機はたまりかねたように舌を弄ぶ指を噛んだ。