忘羨ワンドロワンライ【溺れる】「なんだなんだ、藍湛、拗ねてるのか?」
魏無羨は静室に上がり込むなり藍忘機の袖を引いた。藍忘機は俯いたまま、小さく首を振る。
辺境からの旅を終え、魏無羨は雲深不知処へと事の顛末を報告に来た。崖の上で笛を吹いていたところに藍忘機が迎えに来た時は、いつもの無表情ながらそれなりに機嫌は良さそうだったのだが、魏無羨が藍啓仁に挨拶し、旅のついでに手ずから作ったという茉莉花の茶を土産として手渡した辺りからしだいに雲行きが怪しくなった。
せっかくだから煎れてみよと藍啓仁に請われ、魏無羨は『これは煮出さないのだ』と言って、火から茶瓶を外すと、そこに茶を加えた。途端に華やかな若葉と花の香が部屋に満ちる。無類の茶好きの藍啓仁は、たまにはこのような雅趣も良かろうと大いに喜び、閉関中の藍曦臣に分けてやろうと茶筒を取り出そうとした。すると、魏無羨は懐から小さな瓢箪を出し、こっちが藍宗主の分だと言って藍啓仁に渡したのだ。傷みやすいため瓢箪には術を施してあると言う。
藍家の宗主が自ら閉関を課したとなれば、その修行は厳しく、五穀を絶ち自らを戒めるものだろう。そこまで藍曦臣を追い詰めた責任の一端は自分にもあるのではないかという負い目が魏無羨にはある。辺境の村でひっそりと作られていたこの茉莉花茶を知った時、花の香りを運ぶこの茶を手ずから作って、深く傷ついているであろう藍曦臣と、再び甥の苦しみに直面することになった藍啓仁に渡してやりたいと思ったのは、そういった贖罪の意味も持っていた。
卓の上に並ぶ大小の瓢箪。丸い膨らみの上で断ち切り、上部が蓋になるように木材で加工されたそれもまた、魏無羨が自ら作った。幼い頃から法具の開発や呪符の作成に夢中になっていた腕は、細工物の技術者としても一流だ。その二つの瓢箪を眺めながら、藍忘機の機嫌は地を這った。
――つまるところ、器から全て手作りの土産を渡された叔父と兄への嫉妬である。
羨むという感情は藍忘機の中にはない。再び魏無羨が笑顔で、元気に、しかも自らの意思で真っ先に雲深不知処の自分の元へとやってきた――それだけで十分に満たされるものがあった。それでも、十数年もの間、気まぐれに渡されたたった数枚の符だけを後生大事に懐に入れて持ち続けていた自分が、叔父や兄と比べてほんの少しだけ哀れであるように思えたのだ。
藍忘機は小さくため息を吐いた。そしてようやく背後の魏無羨を振り返ろうとしたその時、先刻の茶より鮮明で華やかな香りが藍忘機を包んだ。
藍忘機の髪に肩に、白い仙督の衣装に、真っ白い柔らかな花弁が降り注いでいた。
「魏嬰――?」
「ああ、待て待て、動くな、花を踏むぞ。今、拾うからな」
黒衣の裾を持ち上げ籠代わりにして、魏無羨は花を拾い集める。床に落ちた分を拾い終えると、今度は藍忘機の衣や肩、髪に留まっている花を集める。
「よし、拾い終わったぞ」
「魏嬰、これは――?」
振り返った藍忘機に山盛りになった白い花を見せながら、魏無羨は輝くような笑顔を見せた。
「これが茉莉花だ。どうだ、真っ白でお前みたいだろう? 花は一日で萎んでしまうから、苦心して萎まないようにする符を編んだんだ。いい匂いだろう?」
雲夢よりさらに南、辺境の村に咲く茉莉花は、つるに群れるように真っ白な花が咲く。魏無羨はその白い塊りに友の姿を思い出し、風に乗ってくる甘い香りにふとした時に友が見せる微かな笑みを思い出した。
村の特産は茶だったが、売り物にはならない小さな葉や傷ついた葉は自分達で簡単に飲めるように工夫して作っていた。葉を蒸して揉んで干しただけの、若葉のような香りのお茶だ。煮出さずお湯に浸しておくだけの茶は、仕事の合間に飲むには手軽で、まだ仕事を任されない小さな少女たちが親から仕分けした葉を貰っては手を緑に染めて揉んでいた。聞けば、その茶に茉莉花を加えて楽しんだりもすると言う。
しばらくその村に留まることになり、魏無羨はせっかくなら村で作られる茉莉花茶を自分も作ろうと思いたった。村の娘に習いながら作った茶は藍啓仁と藍曦臣への土産に、そして藍忘機にはこの花を見せてやりたいと思い、苦心して花を保つための符を編んだのだ。
藍忘機はひとつだけポツリと魏無羨の頭に乗って取り残された花へと手を伸ばした。白い花は、しっとりと柔らかく藍忘機の指に沿う。
「茉莉花はな、日が暮れてから夜明けまでの間に花が開くんだ。月の下で開く花は美しいぞ。開き切る前の花を摘んで何日もかけて茶を作るから、作っている間中ずうっと甘い匂いがする。匂いに溺れそうなくらいなんだ。だから、お前の分はここで作ってやりたくて、花をそのまま持ってきた」
混ぜるための茶もちゃんと揉んで作ってきたからな――魏無羨はそう言うと、照れ臭そうに頭を掻いた。
「何日もかかる?」
藍忘機は聞いた言葉を思い出しながら確かめるように尋ねた。
「うん。最初の花で少なくとも三日か四日、花を取り替えて七日くらいだな」
「では――」
藍忘機は小さく息を呑み、そっと窺うように魏無羨を見つめた。
「では、その間はずっと、君はここに居る?」
「おう。花と茶を保存する符の効果も、なんとかその辺りまでは保つんだ。一緒にとびきりの茶を作ろう」
楽しげにそう言った後、魏無羨は慌てたように言葉を足した。
「藍先生と藍宗主の土産の茶が、実は試作品だってことは内緒だからな。いいか、絶対バラすなよ?」
藍忘機はクスリと笑い、手に持っていた花をそっと花の群れの中に落とした。
「では、何を準備すればいい?」
「そうだな、しっかりした湿気を通さない箱か瓶をくれ。茶と花を混ぜて置いておくんだ」
朱塗りの小箱に紙を敷き、緑茶を入れる。魏無羨は丁寧に花から苞を取り除きながら、一輪一輪箱へと入れていく。入れ終わってそっと竹箸で混ぜ合わせると、爽やかな茶と花の甘い香りが静室を満たした。
藍忘機は湿気を通さぬようにぴったりと作られた蓋を閉じ、それを大切に卓の中央に置いた。
「あとは、毎日優しく混ぜて、茶に花の香りを移すんだ」
「毎日?」
幸せそうに問いかける藍忘機に魏無羨は微笑んだ。
「そう、毎日!」