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    NaO40352687

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    魏无羨生日快乐

    #陳情令
    theUntamed
    #魏無羨お誕生日おめでとう
    happyBirthday,WeiMuEnvy!
    #みんな幸せであってね
    iHopeEveryoneIsHappy.

    幻影 その日、藍忘機は朝から少々機嫌が悪かった。というのも、大切な道侶に特別に与えられた僥倖とも言える機会を、その道侶本人が他人のために不意にすると言う。しかもその相手というのが、藍忘機とはまた違った意味で道侶の唯一である江晩吟だからである。
     元々、藍忘機と江晩吟の間には確執がある。藍忘機にとっての江晩吟は、道侶を恩で縛り上げ、家のためにその全てを尽くさせた元凶であり、江晩吟にとっての藍忘機は、片腕となるべき大師兄を掻っ攫っていった憎き相手だ。魏無羨が居なかった時期ですら、同席すれば冷え冷えとした空気が流れ、そのピリピリとした緊張感に周囲の師弟達は寿命が縮む思いであったのに、魏無羨が蘇って以降、影のように寄り添う藍忘機はまだしも、江晩吟の荒れようは凄まじかった。
     それでも、全ての事が白日の元に晒され、江晩吟が魏無羨から曲がりなりにも『約束を破ってごめん』と謝罪の言葉をかけられて以降、僅かずつではあるが関係は修復されつつある。事実、魏無羨が藍忘機と道侶となり結丹も果たしたと書簡を届けると、江晩吟からは祝いの品が送られてきた。届けられた生地は無垢の絹で、いざとなればそのまま白地の姑蘇風の衣装を仕立てられるよう気を遣ってあったし、共に届けられた茶器や器にも蓮紋は描かず、さりげなく器の縁取りを紫紺色に染めてある程度、唯一蓮紋が金で描かれていたのは雲深不知処では唯一魏無羨だけが使うであろう酒器だった。それ以外にも、亡き姉の形見の髪飾りを服に着ける装具に仕立て直したもの、養母であり師母でもあった虞紫鳶の形見の文鎮、養父である江楓眠の形見の筆が添えられ、いずれも細部にまで気遣いのある品々で、加えて目録の末尾には『大袈裟にならぬよう本来の江氏の支度品からすれば品数なども極力控えたものであるため返礼不要』と書き添えてあり、そのあまりの徹底ぶりに藍啓仁までが言葉を失ったほどだった。
     江晩吟からしてみれば、今があるのは魏無羨が己に与えた金丹ゆえ――という気持ちがあり、その魏無羨が今世でも結丹を果たしたというのだから、とにかく何かをせずには居られなかったのだろうが、徹底的に雲夢の影を見せぬ気遣いは、むしろ師兄の道侶の悋気の激しさを察しているからとも言える。あの自由奔放な師兄が、ただでさえ窮屈な雲深不知処でさらに窮屈に縛り上げられぬよう、気を遣ったのだろう。藍忘機とて、その気遣いは嬉しくも心苦しくもあったのだ。だが、それはそれ――魏無羨が江晩吟を気遣うとなると、また別の話になるのである。
     
     半月ほど前のことだ。突然届けられた文で雲深不知処は騒然となった。文の差出人が抱山散人であり、加えて返信を求められたからだ。
     曰く、知己である藍翼の心残りであった陰鉄の件を解決し、弟子の暁星塵の亡骸を供養してくれた事に対して深く感謝しており、ついてはその礼をしたい。魏無羨に叶えたい願いを伝えさせるように――というのである。
     これまでも抱山散人からの文はあった。文の多くは『このたび弟子が山を降りることとなった』という連絡であり、山を降りた弟子の多くは単独で人々のために遊歴を行うため、『出会った際には宜しく頼む』という意味であった。かの蔵色散人の際には、藍氏がちょうど陣術の大編纂のための人材を求めていたため、蔵色散人は山を降りるついでに雲深不知処に遣わされたのだが、文が届くより早く蔵色散人が雲深不知処の結界を突き破って訪れてしまい、蟻の巣を突くような騒ぎになった。さすがにその時は詫び状が届き、逗留中に行われる座学の末席に連なることを許してほしいと書き添えられた。つまり、常識を教えてやってくれということである。
     抱山散人の弟子の多くは孤児である。これは抱山散人が、仙師の資質に恵まれたものの境遇に恵まれず、飢えや寒さから生き残るために結丹した子供を拾い集めて回っているからだ。心構えも知識もなく大きな力だけを得た子供が悪に染まらぬよう、抱山散人は子供達を集めて回る。そのような子供達の金丹は、修練で得られた金丹に比べ歪ではあるが力は強い。それゆえ、抱山散人の弟子の多くは奇才であるのだ。
     姑蘇藍氏は藍翼の縁もあって、抱山散人から文が届けられる唯一の世家であり、その文は常に抱山散人からの返信を必要としない連絡としての文であった。返信を求められた今回は、異例中の異例なのである。
     
    「藍湛、機嫌直してくれよ」
     魏無羨は微かに悋気を滲ませて目を伏せている道侶の腕を取る。
    「これはちゃんと自分のためでもあるんだ」
     今日の魏無羨の装いは純白である。里衣までも白だ。これは、藍啓仁を介して抱山散人に正式な返事を行うためのけじめであり、同時に姑蘇藍氏の第二公子である含光君の道侶として立場での決定である事を自ら示すためでもある。美しく体に沿った細身の外衣の袂は姑蘇風の広袖で、きっちりと着崩される事なく綺麗に身体についている。だが、未だ髪が結われていない。
     藍忘機は卓の上から櫛を取り上げ、小さくため息を吐く。
    「おいで」
     藍忘機は魏無羨を椅子に座らせ、背後に立って髪を梳かしはじめた。
    「藍湛、考えてもみてくれ。普通の兄弟は、弟が腹の中で大きく育っていく時期から少しずつ兄の自覚を持つんだ。兄弟で色々なものを分け合うにしろ、それなりに覚悟を決められるだけの時間がある。でも、江澄は違ったんだ。ある日突然見知らぬ子供がやって来て、産まれが早いからこれはお前の兄だと思えと言われた。ようやく念願かなって手に入れた犬を手放す羽目にもなった。兄弟なのだから、部屋から何から半分ずつに分け合えと、ある日突然言われたんだ。今まではたった一人の男子で、家の小さな王様のようであったのに、突然全部半分こ、しかも、それに不満を言えば人として慈しみの心を持てと怒られる。優しい姉は見知らぬ子供の世話を任されて構ってくれず、子供に当たればその優しい姉が悲しそうな顔をしてやめろと諌めてくる。――なあ、幼かった江澄がどれだけ我慢をしたか、想像つくだろう?」
     藍忘機とて言葉にされれば想像はできる。だが、幼い時から厳しい家訓を守るのが当然だった藍忘機にとって、それはある意味『当然の我慢』という感覚も消せない。姑蘇藍氏では内弟子は六歳から修練の日々に入るが、直系である藍忘機は物心つく頃には既に修練を始めている。兄弟や友と衣食住を分け合い、豪奢に堕落せず勤勉に務めるのは、藍忘機にとってごく当たり前のことなのだ。
    「しかも、放浪中に結丹しかけていた俺は、師姉が美味しいご飯をたくさん作って食べさせてくれたおかげで、十分に体力がつくとすぐに結丹した。たいした修練も始めていないのに、だ。先に結丹したから、これはお前の師兄だと言われて、江澄は俺を師兄として敬えと言われた。毎日欠かさず剣を振って修練していた江澄は、きっと理不尽だと思ったと思う」
    「だが、それはそれまでの君の日々が結丹を促されるほど過酷だったからだ。大人でも辛い辟穀に近い生活だったからこそ、生きるために幼くして結丹に至るのだから」
     藍忘機は魏無羨の髪を綺麗に結い上げ、髪冠を飾る。未だ髪冠はかつての藍忘機がつけていた白金のものだけだ。だが、瞬く間に修為を上げる魏無羨はさらに髪冠を増やす必要があるため、藍忘機は左右を彩る蔓草の髪冠を誂えてさせている最中だ。蔓草の先端には、小さな青みの強い紫水晶の雫を添えさせた。
    「それはそうだけど、でも、そんなの家がある普通の子供には分からないだろう? 飢えだの凍える寒さだの、そんなこと想像できない方が幸せだ。藍湛だって、そんな結丹があるなんて知ったの、大きくなってからだろう?」
     藍忘機がそういった話を知ったのは、座学の頃である。魏無羨が座学に参加することになり、かつての蔵色散人の型破りな行動と共に聞き慣れない『野成』という言葉を聞いた。それが修練ではなく生活苦によって子供が結丹を迎える事を意味していると悟ったのは、その言葉が盛んに魏無羨の境遇と共に使われたからだ。結丹は江氏に引き取られてからだが、実際は『野成』に近いようだ、それゆえ魏無羨はおそらく奇才であろう――と。
    「俺は随分と江澄に我慢させてきたんだ。もちろん、江おじさんや虞夫人への恩は十分に果たしたと思ってる。そういう意味で江氏に何か未練を持っているということはない。でも、俺が居たことで江おじさんと虞夫人が謂れのない侮辱を受けたのも事実だ。勝手な噂が人をどれだけ追い詰めるか、藍湛ももう知ってるよな。虞夫人のような誇り高い人がその噂でどれだけ矜持を傷つけられたか分からない。それでも虞夫人はその噂を理由に俺を罰したことなどなかった」
     だから――と魏無羨は言葉を続けた。
    「だから、江澄に教えてやりたいんだ。どれだけ江澄の誕生が待ち望まれていたものだったか、そしてそれを俺の親がどういう風に支えていたか」
     ――俺はもう、これから永遠にお前の道侶で姑蘇藍氏の魏無羨になるけれど、それでも、産まれたのは雲夢で、育ったのも雲夢で、沢山のものを与えてもらって、それを江澄と分かち合ってきたことは変えられない事実なんだよ。
    「分かっている」
     藍忘機はそっと櫛を置くと、背後からそっと魏無羨を抱きしめる。
    「だが、与えられた機会は一度きりだ」
     背後から回された腕に、魏無羨は自らの指を絡め微笑む。
    「もちろん、知りたい、見たかったと思うものは色々あるさ。阿苑が大きくなっていく姿も見たかったし、師姉の嫁入りだって見たかった。でも、阿苑の事はお前に聞けるし、師姉の事だってみんなに聞ける。金家の婚礼だ、きっと豪華で多くの客が来ただろうからな。それに、話を聞く以前に、立派に育った思追を見れば想像がつくし、金氏に保管されてた師姉の身の回りの品を見ればどれだけ大切にされていたかが分かる。両親の事は、少しずつ記憶を取り戻してる。これからのことだって、お前と居れば何の心配もない。だから、俺の懸念は江澄のことだけなんだ」
     藍忘機は抱く手に力を込めた。
    「うん」
    「それに、単に江澄に見せるだけでなく、聶懐桑も呼んで、それとなく見聞きした話を広めてもらおうと思うんだ。上の世代には未だに勝手な噂を鵜呑みにしてる奴も居るし、反論する術がないからって、好き放題言う奴だって居る。過去の勝手な噂を利用して成り上がろうとするような輩だって出てくるかもしれない。そんな奴らに灸を据えておくという意味もある。過去の事実を知る術は、ないわけではないのだと」
    「うん」
     藍忘機はようやく腕を緩める。魏無羨はゆっくりと背後を振り返ると輝くような笑顔を見せた。
    「藍湛、これは昔を振り返るためじゃないんだ。これからの自分のためにやるんだ」
     
     
     藍啓仁を介したやり取りは、意外にも問霊を利用して行われた。抱山散人は既に肉体が十分に現世に留まりきれておらず、既に昇仙の域に達しているらしい。魏無羨の願いを抱山散人は快諾した。その場にあった物を介してその物が知り得た記憶を辿ってみようというのだ。
     ただし、それには条件があった。動けぬ抱山散人のために問霊を行う者と、問霊で現れた抱山散人と共情を行う者がそれぞれ必要で、さらに問題が生じた時に補佐する者をそれぞれに付けなければいけない。補佐は記憶そのものには関係しない年長者が望ましい。そして共情を同時に複数で共有するための陣を必要とした。
     記憶を取り出す物に関してはすぐに候補が絞り込まれた。藍啓仁は虞紫鳶の最初の懐妊の際に江楓眠に魔除けの風鈴を贈っており、それは江厭離、江晩吟の出産の際に魔除けとして産室の扉前を守り、江厭離はそれを嫁入りの際に持参し、金凌の出産の際にも産室の守りとした。事情を話せば金家から借り受けることはできるはずだ。借り受ける鈴を金凌が持って来れば、その記憶に関わる金凌も共に場を共有することができる。
     問霊を藍忘機が、共情は魏無羨が、そしてそれぞれの補佐を藍曦臣と藍啓仁が担い、共有するのは江晩吟と聶懐桑と金凌――すなわち大世家の宗主が揃うこととなる。対外的にも『過去の記憶を皆で辿ることができる』ことを大世家の宗主達が確かめることとなるだろう。
     共情を冥室で行えば、扉前を次期双璧が守れば良い。冥室はそもそも周囲の守りが堅固だ。
     一番の難題は共有するための陣であると思われたが、それもまた魏無羨の『たぶん、それ出来る』という呆気ない一言で解決した。
    「藍湛、昔、寒潭洞で過去の陰鉄の因縁を見たろう? あれ、たぶん、陰鉄の欠片と寒潭洞の中の封印や陣が反応した起きた共情だったんだと思うんだ。あの時、藍翼殿は霊識となって寒潭洞を覆い、藍翼殿の子孫である藍湛とその抹額で繋がれた俺は共情に入り込みやすかった。そもそも俺は共情がかなり得意な方だから、それも功を奏したんだろう。藍氏を攻撃しないように、琴には陣も敷かれていた。俺たちが過去を垣間見たのは、琴の陣に足を踏み入れてからだ。あれ以来、ずっと考えてたんだ。あの状態を再現できないだろうかって。共情は共感に変化しやすく、共情しているものは対象者の感情に引き込まれやすい。つまり客観性に乏しくなりがちだ。複数で同時に共情出来れば、その中立性はより確かになる」
    「既に陣に起こしたのか」
     藍啓仁の問いかけに、魏無羨は『うん』と頷く。
    「理論と陣に瑕疵は無いと思う。ただ、試すとなるとなかなか良い機会がなくて」
     藍啓仁は髭を撫でつける。魏無羨が瑕疵は無いと言うのなら、そこに疑う余地はない。あとは試して確認するだけだ。試すとしたらなるべく陣や共情の知識や経験ががなく、見たままを過去と比べて同じか否か判定できる者が望ましい。
    「ならば、一度試してみよう。同じく過去を共情で共有する。ただし、抱山散人のように物から記憶は取り出せぬため、既に鬼籍に入っている一族の者を呼び出す。問霊は思追にさせる。忘機と曦臣、そして椿の先達に見ていただき、過去の記憶と相違ないか確認する」
    「藍先生、その鬼籍に入っている先達は、つまりは何の未練もない方だろう? 問霊のように質問になら応えてくれるだろうが、共情となると、相手の『伝えたい』という感情の強さがないと」
    「些か難しい、か」
    「絶対に覚えている強烈な出来事について、断片的でも良いなら何とかなるかもしれないけど」
     考え込んだ魏無羨を眺めて、藍啓仁は髭を撫でつける。そして人差し指で軽く魏無羨を手招くと、するりと袂でその頭を隠すようにして素早く何かを耳打ちした。
    「どうだ、可能だと思うか」
     魏無羨は悪戯を思いついたように目を輝かせ、小さく頷く。
    「共情は断片的かもしれないが、それは確かに必ず覚えている出来事だろうし、過去そのものかどうかの判断もつきやすいかもしれない」
     藍啓仁の瞳の奥に悪戯を楽しむ子供のような光を見つけ、魏無羨は思わず吹き出す。母である蔵色散人と藍啓仁の間にはかつて様々な子供じみた諍いがあったと聞いて、どうして堅物の権化のような藍啓仁との間にそんな事が起きるのかずっとそれが不思議だったのだが、この瞳の光を見るに、おそらく藍啓仁の中には母と同じく悪戯な心が潜んでいるのだ。そうでなければそうそう何度も諍いが起きるわけがない。かつて魏無羨が藍忘機に袖にされてばかりだったように、蔵色散人の一人相撲で終わったはずだ。
     藍家にも悪戯な心はある――そう思って周囲を見渡せば、藍曦臣もまた少々悪戯心がある人物だ。
     ――まあ、廊下を走る輩が居たからそれが禁止され、食事をよそに喋りまくる輩が居たから禁止され、遠慮なくご飯をお代わりしまくる大食漢が居たから三杯までに決められたんだよな、きっと。
     かつては窮屈だとばかり感じられていた家訓が、親しげな誰かの影に重なる。廊下を走る輩は藍景儀のようだったろうか、食事をよそに喋りまくる輩の隣で、延々と飯を食べ続ける輩が周囲に呆れられていただろうか。
     かつてよそよそしく堅物だらけだと思っていた姑蘇藍氏を、かくも無邪気な親しみのあるものに感じる日が来るなど、思ってもみなかった。
    「では、日を改めて試行しよう。思追と椿の先達には儂から話を通しておく」
     言外に『忘機には話すなよ』と戒められて、魏無羨は悪戯な笑みを返す。
    「はい。後ほど陣を書き出してお届けします。瑕疵はないとは思いますが、念のため」
     魏無羨の隣に控えていた藍忘機だけが、いつも通りの生真面目な顔で、何やら妙に嬉しそうな道侶と、その道侶に常になく遠慮のない叔父の姿とを、困惑と安堵が入り混じった複雑な目をして見つめていた。
     
     
     目の前に広がった、僅かに掠れて不鮮明に見える光景に藍忘機は声を失った。隣で同じく息を呑んだ藍曦臣が思わず手を伸ばしかける。
     夢のような光景の中、きちんと正座して目を伏せた藍家の男性の顔は藍忘機に瓜二つだが、藍忘機より若く、やや繊細な面持ちだ。その正座した膝の上に抱かれているのは、綺麗に髪を肩で切り揃えた幼児――その額には既に抹額が巻かれており、大人しく閉じられた口は、僅かに微笑むように緩んでいる。声も音もないが、何かに驚いたように顔を跳ね上げた男性は、誰かに宥められたのか再び腰を落とし、落ち着かなさげに幼児の頭を撫でる。
    「忘機は青蘅君に似ておると思っていたが、かくも似ていたとは。お懐かしい」
     椿の先達の言葉に藍忘機は思わず声を上げる。
    「やはり、父上なのですか?」
    「若き日の青蘅君だ。膝の上の子は曦臣だな。僅かに笑みを含んだ口元は変わらぬ。そうか、忘機はあまり父親に会えなんだゆえ、一目で分からぬのも無理はない」
     藍忘機は共情を行なっている道侶の肩越しに見える男性へと視線を戻す。幼い記憶の中の父は背が高く、下から見上げた顔ばかりで、こうもまじまじと正面から眺めた事はなかった。
    「これは、忘機が生まれた日ですね。よく覚えています。日頃はほとんど会えない父上が一日中私を膝の上に置いていた。当時はただただ滅多にない機会が嬉しいばかりでしたが、こうして見ると、父は私を膝に抱いていたかったというより、あまりに落ち着かないので何かで自分に重石をしておきたかったのでしょう」
     藍曦臣の言葉を聞いて椿の先達が笑う。
    「あの日は一族の女手はほとんどお産の準備や手伝いに追われていて、曦臣の世話まで手が回らなんだゆえ、これ幸いと青蘅君に押しつけたのだよ。啓仁は表で気の早い他家の使いを処理しておったしな」
     青蘅君は見ている方が気の毒になるくらい、オロオロと落ち着かなげに頭を振る。はっと顔を上げて立ち上がったところを、豊かな黒髪の小柄な女性に咎められ、肩を落とす。
    「若い頃の自分をこうして見るのは、恥ずかしいものだねえ」
     椿の先達は朗らかに笑った。
    「産声を上げたのだよ。忘機の産声を聞いて飛び上がって妻の元に駆けつけようとした青蘅君を叱ったのだ。産湯を使うまで待てと。見てごらん、あのしょげようを。子が産まれても、その後には後産があるからね、すぐに会わせるというわけにはいかない。忘機の時は後産の痛みが酷くてこの後薬師を呼んだ。ほら、言った通りだろう?」
     薬師らしい人影の背中が見えたところで、すうと皆の姿が薄くなる。何度か僅かな光が明滅した後、最初に藍忘機の目に飛び込んだのは優しい母の顔だった。腕の中の小さな赤子、母のふっくらとした頬を撫でる骨張った手、赤子に伸ばされた小さな幼児の指。
    「母上」
     小さく藍忘機は呟く。記憶の中にあった母は、いつも少し寂しげに微笑んでいた。だが、この光景の中の母の、なんと晴れやかに誇らしげに笑っていることか。
    「椿の先達よ、どうだ、記憶の通りか?」
    「うん。記憶のままだ。寸分変わらぬ」
     応えを聞いた藍啓仁が藍思追に目配せすると、思追はそっと琴を奏で始める。幾度かの旋律の後、不意に夢のような光景は消えた。
     声も上げられぬまま流れた沈黙を破ったのは、魏無羨の深いため息だった。
    「魏嬰」
     共情を解き、がくりと肩を落とした背中には疲労が滲む。藍忘機が慌てて背後から支えると、魏無羨は僅かに笑ってみせた。
    「藍湛の母上は思った通り美人だったな」
     軽口はいつも通りだが、疲労の色は濃い。
    「魏嬰、大丈夫か」
     藍啓仁の心配気な声に、魏無羨が思わず笑う。
    「いつもの共情のように『聞いてくれ』と相手が迫ってくるわけじゃないから、こっちから無理に求めにいかなくてはいけないせいで疲れるな。相手によるんだろうが、声や音までは無理だった。藍先生は見えたのか?」
    「冥室は元々招魂のための部屋で、共鳴しやすく作られているからな。控えているだけで陣に足を踏み入れてなくても部屋の中にいると共情するようだ。ただ、元々藍氏は問霊があるため共情の鍛錬をせぬ。そのせいか、なんというか物語を見るようで、感情を持っていかれるという感覚はなかった」
    「共情していた俺自身も物語を見せてもらっているようだったから、相手によるのかもしれないな。声や音がないせいもあるかもしれないし、こればかりは何度か試してみないとはっきりしない」
     ともあれ陣の効果は試された。
    「忘機、魏嬰を休ませよ。曦臣は椿の先達をお送りするように。思追は扉を守っていた景儀と共に陣の後処理をした後、報告を書き起こして持ってきなさい」
     藍忘機は魏無羨を抱え起こし、腰を抱いて体を支える。簡単な礼をした魏無羨に、藍啓仁は声をかける。
    「魏嬰、陣で効果を増強させて負担を軽減しているとはいえ、共情を行うお前の負担が最も大きい。食事は景儀に運ばせるので、部屋でしっかり体を休めるように。陣の詳細と報告は儂がまとめて一旦は禁書室に入れておく。よいか」
    「藍先生にお任せします」
     こういう時の藍啓仁の采配は確かで素早い。藍啓仁が扉を開け、藍景儀を呼び込み細かく指示を出しているのを横目で見ながら、魏無羨は藍忘機に半ば抱えられて部屋を出た。
     
    「叔父上と何やらコソコソと話していたのは、こういう事だったのか」
     静室の扉を開け、牀に座らせられるや、魏無羨は藍忘機に問いかけられた。藍忘機は何度も何をするつもりなのか魏無羨に問いかけたのだが、その度に『あらかじめ知っていたら試す意味が薄れるから』と魏無羨は答えをはぐらかしてきた。
    「あらかじめ知っていたら意味が薄れるって言ったのは事実だぞ。実際、椿のお婆婆も沢蕪君も知らなかったはずだ。もちろん、問霊を行った思追は知っていたし、実は扉を守っていた景儀も知っていた。陣の暴走が起きた時など、最悪の場合、景儀が収拾の指示を出す必要があるからな。おそらく、今日のこの試行で最も緊張していたのは景儀だろう」
     大役を任されるなんて、あいつも立派になったなぁ――と笑う魏無羨に藍忘機はそっと茶を差し出す。魏無羨は嬉し気にそれを飲み干し、ため息を吐いた。
    「母上、美人だったなぁ。それに、青蘅君が藍湛にそっくりで驚いた。沢蕪君と藍湛も似ているけど、なんだろうな、醸し出す雰囲気が似てるんだろうな。思ったよりずっと詳細に共情できて、ちょっとホッとしたよ」
    「話さなかったのは、そのせいもあるのか」
     問いかける藍忘機に、魏無羨は頷く。
    「だって、期待して臨んだのにあまり詳細に分からなかったら、がっかりするだろう?」
    「そんな事は」
     魏無羨は茶器を脇に置き、膝の上に置かれていた藍忘機の手を取る。
    「藍家の一族の方と共情するなら、どうしたって一族の一大事について共情することになる。だから聞ける事はそもそも限られてた。それでも、お前が産まれた日を藍先生が選んだのは、きっと、藍先生自身がそれを知りたかったんじゃないかと思うんだ。元々お産の時は男なんてなんの役にも立たないもんだろうが、椿のお婆婆が言っていたように、藍先生は表で他家とのやりとりをしていてその場にも居られなかったしな」
     魏無羨はそのまま隣に座った藍忘機にもたれかかる。
    「役得だったなぁ。生まれたての藍湛を見れるなんて。それにお前の母上の顔も父上の顔も見ることができた」
     藍忘機は袂で魏無羨の痩躯を包むようにすると、小さくため息を吐く。
    「叔父上は、母上を嫌っておられると思っていた」
    「そんな事あるわけないさ。藍先生は不器用だからな。これだけ図々しい俺相手でさえ、ようやくちょっと打ち解けてきたくらいなんだ。万事控えめにしていただろう母上に上手く歩み寄れなくても仕方ない」
     地面からの冷えを避けるために二重にされた床板、寸分の狂いなくピタリと閉じるよう作られた引き戸、なるべく明かりを取り込めるように工夫された飾り窓、部屋の中からでも四季の移ろいを感じられるように配置された花樹――静室には細やかな配慮がなされている。静室を整備するように命じたのは青蘅君でも、実際に作業の細かな差配をしたのは、当時の青蘅君を補佐し藍家の内部を取り仕切っていた藍啓仁だ。この配慮は、嫌っている相手に出来る配慮ではない。
    「藍氏の面々は、家訓を山ほど作ってしまうほど不器用なんだよなぁ、みんな」
     まるで歌うような魏無羨の言葉に愛おしむような優しい響きを感じて、藍忘機はただそっと握っていた指に力を込めた。
     
     
     問霊で抱山散人と何度かやり取りをし、日取りは陰陽の加減も含めて最も禍のない日が選ばれた。藍啓仁は江晩吟から贈られた絹で魏無羨の衣装を仕立てさせ、冥室の周囲に念のため守護の陣を張らせた。前日までに江晩吟と聶懐桑、金凌は雲深不知処に入り、供の者は早朝に雲深不知処から一旦退出させる。表向きは潔斎のためだが、実際には藍氏の主だった者が全員冥室に籠ることになるためだ。
     問霊で抱山散人を前にするため、全員正装とし、藍氏は扉を守護する次期双璧を含めて全員、純白の衣装を纏った。
     冥室へと案内された江晩吟は、目の前に正座している白い正装の魏無羨に思わず首を傾げる。
     里衣まで白い純白の正装。髪冠は白銀で、抹額の代わりのように左右に配された蔓草の髪冠を繋ぐ中央に青にも紫にも見える水晶の雫、胸前の全面に施された雲紋、ゆったりとした姑蘇風の広袖の外衣には、姉の形見として送った装具が留め付けられ、淡い色合いの貴石が僅かに白に彩りを添えている。それは確かに姑蘇の魏無羨の姿であり、雲夢に居た黒衣の魏無羨の姿ではなかった。
     続いて入ってきた聶懐桑に背後から突かれ、江晩吟は慌てて藍啓仁から順に礼を送る。中央に座した藍忘機と魏無羨に礼を送ると、二人は同じ呼吸同じ仕草で礼を返す。礼をするために手を揃えて広がった魏無羨の袂に生地と同じ純白で刺繍された蓮花を見つけて、江晩吟は思わず唇を歪めた。雲紋の正装に蓮花を入れることを、藍家は許したのだ。
     丸い陣の中に江晩吟と聶懐桑、金凌を座らせ、その前面に向かい合うように藍忘機と魏無羨が左右に座す。藍忘機の前には細い卓の上に愛琴が置かれ、その前に金凌が携えてきた魔除けの鈴を置き、魏無羨の左右には蝋燭が灯される。部屋の左右の隅にはそれぞれを補佐するように藍啓仁と藍曦臣が座した。扉前を守る次期双璧によってゆっくりと扉が閉められると、焚かれた香の静かな香りが体を包む。
    「始めよ」
     ビンと最初の琴の音が鳴り、魏無羨の手がそっと何かを捧げるように中空に広げられると、ビシリと鳴家がして、強く恐ろし気な何かが部屋を取り巻いた気配がした。
     
     
    『三娘、三娘!』
     唐突に部屋に響いたのは、若い明るい女性の声だった。軽やかでまるで歌うような声の響きは微かに緊張を孕んでいる。藍啓仁は思わず目を閉じた。この声は蔵色だ。罵詈雑言の文句さえも歌うように言い連ねていた、蔵色の声だ。
     ゆっくりと光が明滅しながら褪せた色合いの風景が中空に広がる。部屋に駆け込んできた小柄な女性に向かって手を伸ばしたのは、柳眉を苦し気に歪めた若き日の虞紫鳶だった。
    『蔵色』
    『起きるな、寝ておけ。大丈夫だ』
     蔵色散人は急いで虞紫鳶の手を取ると、起き上がりかけたその体を再び牀に横たえてやる。
    『痛むのか? 痛みは強いか?』
     丸く膨らんだ腹を、そっと蔵色散人が撫でる。
    『ああ、ひどく固くなっている。薬湯を飲んだ方がいい。そして起き上がるな。腹を冷やすのもダメだ。大丈夫、俺がついている。しばらく俺の仕事は長沢と楓眠に押し付けてきた。傍に居る。安心しろ』
    『蔵色、蔵色。八つ月なの。まだ八つ月なのよ』
     縋り付く虞紫鳶の指は白い。
    『大丈夫だ。俺は師匠と一緒に月足らずの子を取り上げたことがある。あと十日だ。あと十日頑張れ。そうしたら俺は確実に腹の子を助けることができる。大丈夫だ、俺がついてる』
     宥めるように虞紫鳶の頬を撫でると、蔵色散人は側近が用意した薬湯を受け取った。
    『さあ、俺が飲ませてやろう。大丈夫だ、痛みはすぐに治る。三娘、お前はよく頑張っている。俺はお前に感謝しているんだ』
     蔵色散人は薬湯をひと匙そっと飲ませると、その度に虞紫鳶の口元を優しく拭いてやる。
    『俺は孤児だから母を知らない。師匠は女だが、母という感じではないしな。でも、お前が必死に腹の子を守るのを見て感じたんだ、俺が生きているのはちゃんと母が守ってくれたからなんだと。お前が俺に母というものを教えてくれたんだ』
     薬湯を飲ませ終わり、蔵色散人は虞紫鳶の指をそっと握り、もう片方の手で丸く膨らんだ腹を優しく撫でている。
    「母上」
     江晩吟は呻くような小さな声を上げた。あの母が丸く膨らんだ腹を無防備に撫でさせている。江晩吟の記憶の中の母は、側近にすら容易にその体を触らせる事はなかった。月足らずで生まれることを恐れているのならば、この母は姉である江厭離を産む前の母のはずだ。
    『俺がお前と腹の子を守ってやる。絶対だ。ゆっくり休め三娘』
     この蔵色散人の『守ってやる』という口調は、かつて師兄が何度も繰り返したそれにそっくりだ。
     ビンと、琴が誰かに爪弾かれる。応えるように藍忘機は旋律を奏で、夢のような景色はゆっくりと変容していく。
     
    『蔵色、もう床を離れていいの? 私は大丈夫よ、休んでいて』
     虞紫鳶の表情は穏やかだ。丸い腹は大きく、気怠げではあるが、先ほどまでの切迫した様子とは違う。
    『三娘、姫が俺を甲斐甲斐しく世話をしてくれてな。あまりにその世話が丁寧で優しげなので、随分と早く回復したよ』
    『厭離は迷惑をかけていない?』
    『まさかまさか』
     蔵色散人は虞紫鳶の隣にそっと座り、丸い腹を優しく撫でる。
    『今も母上のところに一緒に行くかと訊いたら、俺の代わりに赤子の世話をしてやると言って、甲斐甲斐しく布団をかけ直したりしていた。良い姉になるな、姫は』
     ふふふと虞紫鳶は顔を綻ばせ、厭離が『長沢が穴熊みたいだった』と言っていたと笑う。
    『俺が赤子を産んだ日だろう? 楓眠も長沢を穴熊のように彷徨いていたと笑っていたが、今日はその楓眠がウロウロと歩き回ってるぞ。どっちもどっちだな』
     子を産むときは男なんて何の助けにもならないからな――そう言って、蔵色散人はそっと虞紫鳶の手を握る。
    『腹が少し張ってきたな。たぶん、お産は今日の夜になるだろう。寝れるうちに寝ておけ。俺がついているから』
    『今回も私と腹の子はお前が守ってくれるのよね』
    『そうだ、三娘と腹の子は俺が守る。安心していい』
     江晩吟は、安心しきって甘えるように笑う虞紫鳶の姿を見て拳を握りしめた。こんなにも安心した母の顔を見たことがない。父と母の諍いの言葉から、勝手に、母と蔵色散人の仲は良くないと思い込んでいた。大切な雲夢の大師兄だった魏長沢を永遠に奪い去ったのが蔵色散人だと。
     だが、思い返せば、虞紫鳶は一度たりとも蔵色散人を悪く言ったことはなかった。魏長沢を悪く言ったこともなかった。虞紫鳶が江楓眠を詰るのは、江楓眠が魏無羨を甘やかした時だった。
     江晩吟は金凌を後見となって育てた。金家の内部に不穏な気配を感じた際には、周囲の反対を押し切って雲夢に連れてきたこともある。父代わりに金凌を育てた今なら分かる。
     街を彷徨っていた幼い魏無羨の姿を唯一知っている父の中では、魏無羨はずっと痩せっぽちの両親を亡くした哀れな子供のままで、せめて子供のうちは甘やかしてやりたかったのだろう。
     だが、母の中の魏無羨は違う。母が魏無羨を必死に鍛えたのは、亡き魏長沢と蔵色散人のためだったのだ。母は蔵色散人の代わりに法術と陣術を教え、魏無羨に魏長沢と同じ黒衣を着せた。魏無羨は母にとって、自分と腹の子を守り抜いた恩人の子であり、恩人から託された子だったのだ。
     母は、魏無羨が『江澄』と呼ぶのを許しても、江晩吟が『魏嬰』と呼ぶことは許さなかった。母の中で魏無羨は常に息子の世代の中で最も強く最も修為の高い弟子だった。息子を守り抜くことができる、ただ一人の弟子だった。
     母は、父が魏無羨を甘やかして宗主としての立場を踏み外すことを恐れたのだろう。そして、父の態度を見た息子と娘が同じように振る舞うことを恐れた。身分と立場で作られた世界の中で、立場を踏み外した者の末路はあまりに悲惨だ。母が過剰なほどに身分のことを言い連ねても、魏無羨は怒りを表すどころか、身を縮め申し訳なさそうにしていた。魏無羨は疾うに分かっていたのだ。母の尖って聞こえる物言いが、本当は誰のために出てきた言葉であったのか。母が守ろうとしている者の中に、魏無羨自身が含まれていることも。
     ビンと、琴が誰かに爪弾かれる。応えるように再び藍忘機は旋律を奏で、夢のような景色はまたゆっくりと変容する。
     
     豪奢な部屋だった。牀には美しい天蓋が広がり、薄い紗が覆っている。牀に横たわる女性の隣には煌びやかな衣を纏った女性が寄り添っている。
    「姉上」
     呻くような江晩吟の声に、金凌の顔が歪む。金凌にとって一度も見たことがない、母の姿だ。
    『さあ、薬湯をお飲みなさい。貴女の体の鋭気は養うけれど、腹の子には悪さをしない薬草を煎じてありますからね。仙門随一の医師の配合ですよ、安心なさい』
    『義母上、医師のお名前は――』
    『安心なさい、伏せてあります。光揺も御医の処方だと思っているわ。子軒は気にしているけど、あの子は大丈夫、貴女の事が一番大事だもの』
     江厭離は金夫人の手を握りしめる。
    『義母上、座学の頃から彼女は私の体を案じ、いつも労ってくれました。私が嫁ぐことを考えて随分前からずっと、体が弱い私が少しでも身籠りやすいようにと薬を指示してくれたのです。温姓ですが、けして悪事になど手を染めてはいません』
    『分かっている、分かっているわ、厭離。男たちは何も分かっていないのよ。貴女と腹の子を守る者は、必ず私が精一杯守りますからね』
     江厭離の肩をそっと撫でながら金夫人は宥めるように言う。
    『子軒から子の名前を聞いたわ。良い名ね』
     金夫人はそっと江厭離の体を起こし、髪を撫で付けてやる。
    『子軒を呼んでくるわね。今のうちに甘えなさい。お産が始まったら男は頼りにならないわ』
     衣擦れの音をさせて金夫人が去り、程なくしてそっと扉が滑る音がすると、江厭離は輝くような笑顔を見せた。
     金凌は息を呑んだ。絵姿でしか知らない母の姿。おそらく父が入ってきたであろう時の輝くような笑顔は父の姿が見えなくてもその睦まじさが十分に分かった。
     その時だ、ぐらりと魏無羨の体が揺らぐ。ビンと激しく琴の弦が鳴り、藍忘機は慌ただしく旋律を奏でる。ビンビンと応えるような琴が鳴り、藍忘機は琴をかき鳴らした。夢のような光景は消え去り、琴音の余韻が鳴り終わる前に藍忘機は素早く魏無羨に駆け寄りその体を抱きかかえた。途端にその痩躯はがくりと藍忘機の腕の中に崩れ落ちる。
    「魏嬰」
     藍啓仁の焦った声に藍忘機が応える。
    「気を失いました。抱山散人の気は壮大過ぎる。限界です。抱山散人は魏嬰の体をこれ以上損なわぬために既に去られました」
     江晩吟は藍忘機の腕の中に崩れ落ちた師兄の姿を声もなく見つめた。血の気を失った顔は紙のように白い。
    「忘機、魏嬰を休ませよ。曦臣、宗主たちを松風水月へお連れせよ。扉を開け、思追と景儀を呼べ」
     藍忘機は魏無羨を抱き抱えると、深く胸に抱き込む。そして周囲の全てを顧みることなく慌ただしく去った。その後姿を江晩吟はただ呆然と見送った。
     
     松風水月で、聶懐桑は今日見たことは抱山散人の持つ不思議な力を伝える体を装って物語として流布させることを提案した。物から過去を見出す能力は抱山散人の秘技であり、市井の民は驚嘆して聞くに違いない。また、語られる女仙師同士の強く優しい絆は、市井の女衆の心を打つだろう。そこから少しずつ、藍氏の秘技である問霊と共情を同時に行うと過去を垣間見られる事などを流布していく。むやみと声が大きく騒ぎ立てる旧世代の宗主には、それとなく耳打ちすればいい、藍氏の問霊と共情の秘技の陣を使うと、貴方が不夜天で行った強欲な行動が皆の前で白日の下に晒されますよ――と。
     謀を考えさせたら、やはり聶懐桑の右に出る者は居ない。
     藍啓仁によって労われた三宗主はそれぞれの寛ぐための部屋に通された。江晩吟が通された部屋を藍思追が訪れたのは、夕餉を終える刻限だった。
    「江宗主、静室で含光君がお待ちです」
     小さな灯りを手に持ち、藍思追は先導する。
    「静室は、含光君の居室ではないのか」
    「はい。今では含光君と魏先輩がお住まいです」
     一瞬息を飲み、江晩吟は小さくため息を吐く。
    「魏無羨は――」
    「まだお目覚めになりませんが、含光君が霊気を注がれましたので、今は疲れて眠っていらっしゃるだけかと」
     遠く、灯りのついた屋敷の影を指し、藍思追はそっと灯りを江晩吟に渡す。
    「あちらが静室です。私は案内のみを言付かっておりますので、こちらで失礼します」
     綺麗な一礼をして去ろうとする藍思追を思わず江晩吟は引き留めた。
    「なにか、御用でしょうか」
    「あ、いや。用ではなく。もし、時間が許すなら金凌と話してやってくれ。あれは今日、初めて母の顔を見た。それに姉の話の中に出てきた温姓の医師とは温情殿のことだろう? もし金凌がその話を聞きたいと言ったら、そしてもしもお前がそれを話しても良いと思うなら、どうか話してやってくれ」
     藍思追はもう一度綺麗な礼をする。
    「はい。藍先生より、金宗主のお世話も言付かっておりますので、この後、お相手をいたします」
    「すまない。頼む」
     江晩吟は去って行く藍思追を見送る。そして大きく息を吸うと意を決して静室へと歩き出した。
     
     軽く扉を叩くと、すぐに中から応えがあった。江晩吟がそっと扉を開くと、藍忘機は奥から立ち上がってきた。藍忘機に手で示された江晩吟が恐る恐る静室に足を踏み入れると、藍忘機は綺麗な礼をする。
    「本来ならこちらが伺うべきだが、魏嬰を一人にはできぬため、来てもらった。すまない」
    「いや、こちらこそ、私室に迎えてもらって申し訳ない。魏無羨は――」
     藍忘機は視線で続きの部屋の奥にある牀を示した。眠りを妨げぬためか、いつもはほとんど閉じない紗が今は閉じてある。その奥には確かに横たわった人影が見える。
    「既に気力は回復しているが、負荷がかかり過ぎた。疲れて眠っているだけだ」
     藍忘機は視線で座るように促すと、丁寧な仕草で茶を煎れる。江晩吟は、茶器の並べられた小さな盆の中に当たり前のように蓮花の酒器が並んでいるのを見て、小さく息を飲んだ。視線を巡らせれば、そこここに魏無羨の気配はあった。部屋奥には避塵と随便が無造作に並んで置かれ、塵ひとつなく掃き清められた室内の一画に、乱雑に積み上げられた書の山が鎮座し、考え中なのだろうか、描きかけの絵や陣の切れ端が壁に貼り付けられている。飾り窓に面して置かれた小さな卓に、亡き母の文鎮と亡き父の筆が並んでいるのを見て、江晩吟は微笑む。
    「礼がまだだったな。前江宗主と虞夫人の形見を贈っていただいて、魏嬰がとても喜んでいた。勿体無くて使えぬと、並べて置いて毎日眺めている。今日の正装は頂いた絹で叔父が作らせた。叔父の気持ちを受け取ってもらえただろうか」
     やはり、袂に蓮花を描かせたのは藍先生だったのだ。
    「正装に他家を象徴する花を入れるなど、正気の沙汰とは思えないな」
     藍忘機を前にしているとは思えぬ軽口に、己の道侶の物言いと似たものを感じて藍忘機は微かに笑った。
    「魏嬰が雲夢で生まれ雲夢で育ったのは覆せぬ事実だ――と魏嬰本人が言った」
     それに――と藍忘機は続ける。
    「叔父にとって、雲夢江氏は縁の薄い世家ではない。温若寒は道を踏み外した。金光善の行いは潔癖な叔父には許せなかっただろう。聶明玦は叔父にとっては守り導かなくてはならない若輩の宗主だった。同世代で構えず話ができたのは江楓眠殿くらいだったのだ。魔除けの鈴を虞夫人に贈ったのは、虞夫人と陣に関して交流があったからということもあるが、何より座学で共に生んだ友に子が生まれるのが嬉しかったからだろう」
     江晩吟は居住まいを正し、深く礼をする。
    「本日機会を与えられたことを感謝する。何より金凌に姉の姿を見せてやれたことは、どれだけ感謝の言葉を並べても足りない。藍家には多くの負担をかけて申し訳なかった」
    「礼は魏嬰が起きてから直接言えばいい。だが、たぶん、礼など受け取らぬだろう。『昔を振り返るためじゃない、これからの自分のためにやる』と、そう魏嬰は言った」
     ひとつだけ問いかけたい――と藍忘機は続けた。
    「魏嬰は、自分は江家に多くのものを与えられ、お前と多くを分け合い、お前から多くを奪ったと言った。お前は本当に分け与え、奪われただけだったのか?」
     江晩吟は間髪入れずに笑い飛ばした。
    「確かに、部屋は半分、食事では一番大きい肉や魚を奪われ、姉は魏無羨につきっきりだったさ。結丹の一番も、剣の一番も弓の一番も奴に取られた。しかも奴は大師兄になって、宗主の息子だろうがなんだろうが、師弟の番付では大師兄が一番なんだ。大師兄の上は女主人と宗主しか居ない。それでも、奴が指揮すれば、夜狩の成果は世家の中で評判で鼻高々さ。苦行でしかない蓮池の亀退治や水鬼狩りを、面白おかしい遊びに変えたのは魏無羨だ。祭りの日には、光蝶の符だの、炎鳥の符だのを飛ばしまくって雲夢の子供たちは興奮して叫びまくってた。奴が居なかったら、祭りと言ってもただの縁日だぞ。そもそも祭りは水路の安全と街の発展を願う、葬式みたいな儀式が本体だからな」
     江晩吟は呆れたようにため息を吐く。
    「普通、奪うだけの奴がどっかに出て行ったら残された側は万々歳だろう? 掻っ攫われたのに腹が立つのは、掻っ攫われたくなかったからだと、普通はそう考えるんじゃないのか?」
     藍忘機はその言葉の調子があまりにも道侶のそれに似ていて、思わず微かに頬を緩めた。
    「そうか」
    「そうだ」
     江晩吟は、雲萍城の開発具合や水路上のいくつかの問題点を、いかにも宗主らしく含光君と語らうと、金凌の様子を見に行きたいからと部屋を辞した。
     静かな足音が遠く聞こえなくなるまで待って、藍忘機は静かに牀に声をかける。
    「魏嬰、おいで」
     躊躇うように少し間を置いて、ようやく牀の紗が揺れる。未だ正装のまま、僅かに襟元を緩められただけの魏無羨は、小さな子供のように所在無げに牀から足を下ろし、俯く。
    「おいで」
     両手を広げられ、魏無羨はようやく重い腰を上げ、藍忘機の腕の中に大人しく座り込んだ。
    「いつから起きていた?」
    「わりと、最初の方から」
     俯いて顔を見せないのは、泣いたのを悟られたくないからだ。だが、常より紅く腫れた瞼は隠しようがない。藍忘機は袂ですっぽりと魏無羨の痩躯を覆い、腕の中の魏無羨が何度か小さなため息を吐くのを黙って聞いた。
    「藍湛、お前、江澄をわざとここに呼んだだろう」
     胸元から恨めしげな声が聞こえて、藍忘機は抱きしめる腕に力を込める。
    「うん。無理に囚われているのではなく、それなりに楽しく暮らせていると、お前の義弟に知っておいて欲しかった」
    「変だと思ったんだ。この部屋に江澄を通すなんて」
     藍忘機は魏無羨の頭に頬を擦り寄せる。
    「この部屋の敷居を跨げるのは、私が何かの理由で動けない時、私の代わりにお前を守れるものだけだ。叔父上、兄上、思追、景儀、そして江晩吟。お前のための剣になり、お前のための盾になれる者にだけ、私はこの部屋に入ることを許す」
     弾かれたように顔を上げた魏無羨と視線を合わせ、藍忘機は微笑む。
    「魏嬰、お前の義弟は強い。強くなった。お前が居なかった年月の中で培った義弟の力を、お前はもっと信じていい」
     再びしっとりと濡れ始めた魏無羨の瞳を見つめて、藍忘機は少し拗ねたように口を歪める。
    「あと、この場で言うのはそぐわないかも知れないが、どうしても言っておきたい」
     続いて出てきた言葉に、魏無羨は思わずポカンと口を開けた。
     ――私はまだ、炎鳥を見せてもらっていない。
     耳の端を紅くして拗ねている道侶を見て、魏無羨はたまらず吹き出した。
     
     
     
     数ヶ月後、雲深不知処に炎鳥や炎獣が飛び交い藍啓仁の怒りの声が響き渡ったが、雲深不知処の童や家人たちは、まるで祭りのようなその騒ぎを大いに楽しんだ。
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    NaO40352687

    DONE忘羨ワンドロワンライ
    お題: 『仙薬』
    所要時間:58分
    注意事項: 道侶後
    忘羨ワンドロワンライ【仙薬】「止血するには、まずは押さえるってことは学んだよな? 傷口が汚れているなら洗う。毒があれば搾り出して、毒の全身への侵食を進めないように必要以上に体を動かさないこと。刺し傷で絞り出すことが難しい場合は、切開して絞り出すか、吸い出す。――では、今日はその次、丹薬についてだ」
     魏無羨はポンと丸めた教本で自らの肩を叩く。
     今、魏無羨の前に並んでいるのは、これから夜狩に参加を許される予定の若い門弟たちだ。彼らは実戦の前に薬剤の講義を受ける。詳しい内容は薬師が教えるが、初歩の初歩、最初の授業を担うのは夜狩を指揮する高位の門弟と決まっている。今日は魏無羨にその役目が回って来た。
    「夜狩の際には、全員に丹薬袋と止血粉が支給される。もちろん、自前で中の薬を増やしてもいいが、丹薬袋に最初から入っているのは三種類だ。霊気が尽きかけた時のための補気丸、血を流しすぎた時の補血丸、そして霊気をうまく制御できなくなった時のための理気丸だ。理気丸を服用するときは、霊気の消耗が激しくなるので補気丸も一緒に服用することが望ましいが、混迷しているときは補気丸ではなく直接霊気を送る方が安全だ。霊気には相性があるので、日頃から気を付けておくこと。年齢、顔立ち、背格好、血統、似ているもの同士の方が相性はいい」
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    NaO40352687

    DONE忘羨ワンドロワンライ
    お題: 『神頼み』
    所要時間:1時間45分
    注意事項: 空白の16年中
    忘羨ワンドロワンライ【神頼み】 藍景儀は十一を過ぎてしばらくして結丹した。幼い頃から同室の藍思追が同期で一番早く結丹して以来、絶対に自分も結丹するのだと心に決めて、毎日苦手な早起きを頑張り、得意ではない整理整頓も礼法の授業も励んだ。その甲斐あってか思追に遅れること二か月で結丹し、同期の中では二人だけが、今日からの遠出の勤めに参加する。これは結丹した門弟が正式に夜狩に参加できるようになるまでの期間に行われる、夜狩の準備段階だ。
     幼い時から雲深不知処で寄宿生活をする門弟達は、あまり世間慣れしていない。特に藍思追と藍景儀は共に実家が雲深不知処の中にある内弟子で、雲深不知処からほど近い彩衣鎮にすら、年に数回、兄弟子に連れられて出かけたことがある程度だ。夜狩をするとなれば、街で休むなら宿を自分たちで取り、街がないなら夜営を自分たちで行わなければならない。もちろん、食事の準備も自分たちで行うことになるし、夜営に適した場所を選び、様々な采配を行うのも自分たちだ。夜狩では常に列をなして行動できるわけではない。最悪、その場で散開して帰還する羽目になったとしたら、一人で安全を確保しながら雲深不知処に向かわなくてはならない。そのためには地理に慣れ、人に慣れておかなくてはならないのだ。こうした夜狩に必要な知識を遠出の勤めを繰り返すことで習得し、剣技や邪祟の知識などを習得してはじめて、姑蘇藍氏の仙師として夜狩の列に連なることができるようになる。
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