ジョハリの箱庭・Ⅱ『解放』
四十五分丁度に四〇一号病室へと足を踏み入れた民尾を、彼は柔らかい笑みで迎えた。昼間は眠っていることが多い彼にしては珍しい。そんな考えをおくびにも出さず、民尾は穏やかな微笑みを作って返した。
開け放たれた窓からは新緑の匂いが風に乗って、薄いカーテンを揺らしている。目の粗い生地を突き抜けた淡い光が、ベッドの上に落ちては揺れ、かたちを変えていく。そうして砕かれた影が、壁の翡翠色を含んで少年の額にある大きな痣にかかっていた。
「あ、民尾先生。こんにちは」
「こんにちは、起きてたんだね」
「はい、最近はこの時間もあまり眠くならなくなってきて」
少年の診断名はナルコレプシーだった。
嗜眠症の一種であるそれは、一般的には日中の強い眠気や睡眠発作、脱力症状が主な症状とされている。少年はそれに加えて入眠及び覚醒時の幻覚が酷く、やっと眠りについたと思えば叫びながら起き出すのが少し前までは日常茶飯事だった。こちらに転院して間もなくは民尾を罵りながら掴みかかってきたことすらある。それを思えば、大分落ち着いたものだろう。民尾は満足げにうなずく。
「良い傾向だねぇ。もしかしたら、そろそろ退院できるかもしれない」
「そう、ですか?」
「あれぇ、あんまり嬉しくない?」
「いえ、そんなことありません。きっとみんな心配してますし、早く戻らないと……」
無理に笑顔を作ろうとする少年の顔には、明らかな陰が落ちていた。きっと、思い出してしまったのだろう。過去、病院の外で起こった出来事を。
今までの診療中に聞き取った少年の身の上を、民尾は頭の中で反芻する。父親は数年前に病死。二年程前に家族で乗っていた路線バスが大規模な玉突き事故に巻き込まれ、妹である長女の禰豆子を除くきょうだい四人と母親が死亡。彼自身も数カ所の骨折を負い、入院中に精神的なショックからかナルコレプシーを発症。当初は睡眠障害に加え、譫妄症状を起こし特定の職員に襲いかかるなどの情動発作が見られたため、この療養所へと移されることになった。そうして今に至る。
戸籍上彼は妹の禰豆子と共に遠縁の親戚である鱗滝家に引き取られており、この療養所の性格上面会は認められてはいないものの、彼らの後見人である左近次氏や従兄姉たちからの近況報告は電話や手紙などで何度か受け取っている。妹と彼との手紙のやり取りもそれなりの頻度で行われており、主治医である民尾が検閲する限りでは、仲睦まじい兄妹であることが互いを気遣う文章の端々から見て取れた。
ただ、文通から息災であることはわかったとしても、やはり既に二年近く顔を合わせていない妹が心配ではあるのだろう。
「それにしてももう問診の時間ですか。早いですね」
「一日が早いと思うなら、良いことじゃない。何かしらの変化があったってことだからね」
話題を逸らすようにぷいと横を向いた少年を、民尾は改めて観察する。ペイルブルーの地に、赤いボタン。この病院のスタンダードな入院着。耳には花札に似たピアスが、まだ幼いと言って良いほどに年若い面立ちには不釣り合いに揺れている。顔色はすこぶる良く、少年らしい頬の紅色が、窓からの照り返しで柔らかく薄められている。病室で向かい合えば、寧ろ色白の民尾の方が病人に間違われそうなほどだ。
何も、普段と変わったところはない。
彼もまた民尾と同じく、この病棟の理に飲まれて、停滞しているもののひとりだった。
「それじゃ、始めようか。竈門炭治郎くん」
「はい」
少年――炭治郎は僅かに苦笑しながら頷く。
「何かおかしい?」
「いえ、なんだか初対面みたいだなって。そんな他人行儀な呼び方」
「まあ、規則だからねぇ」
肩を竦めて笑う民尾。そのまま、顔を見合わせてしばらく無言で笑い合う。
「じゃあ炭治郎くん。お加減はいかがですか」
「大分、楽になってきました。特におかしいところとか、痛みはありません」
「薬はきちんと飲んでる?」
「ええ、緑のカプセルと、錠剤。全部決められた時間に」
「うん、えらいえらい」
両の掌を合わせて民尾が微笑むと、炭治郎は照れたように頭を掻いた。
緑のカプセルは服薬による消化器官の炎症を防ぐ胃薬。そして、錠剤の方はナルコレプシーの治療に使われるリタリンを含む向精神薬が数種。リタリンは依存性が高いため、譫妄症状が大分薄れたここ半月ほどから、本格的なナルコレプシーの治療を始めるため処方されたものだった。
向精神薬を処方された患者の中には薬を溜め込んでおいて乱用するものもいないではないが、その点、少年にはそんな心配は無いようだ。薬物の知識はおよそ皆無な様子であったし、何よりこの一年ほど医者と患者の付き合いをしているうちに、少年の頑固とまで言える正義感の強さは文字通り痛いほどにわかっている。享楽のために薬物に溺れるなど、およそ彼は良しとしないだろう。脅迫的な幻覚の中で民尾を悪役になぞらえて、肩を掴み頭突きをしてきた時の痛みが脳裏をよぎって、思わず眉間を押さえた。
ちらと見えたゴミ箱の中身にも、破られたPTP包装が過不足なく放り込まれている。視線の先を探られないよう顔を伏せてカルテに向かい合っているふりをして、ペンを走らせる。こういったものは患者に悟られないよう一般的には馴染みのない言語で記すのが常であるが、民尾は特にドイツ語を好んだ。院内ではラテン語を使ういけすかないインテリもいるようだったが、やはりこれが一番通りが良い。
「そうだ……今日も、夢は見た?」
声を潜めて、民尾は切り出す。
少年がこの療養所へと送られるきっかけになったのは、ひとつの夢だった。曰く、ヒトに似てヒトではない悪鬼と戦う夢。怪我の治療で入院した先で職員に襲いかかったのも、その夢に出てくる鬼と同じ顔をしていたからだという。そして、それは初めて出会った民尾に頭突きを喰らわせたときにも同じく、鎮静剤の注射から目覚めたあとに語られた言葉だった。
少年はしばらく言葉を選ぶように唇を擦り合せていたが、やがて観念したように頷いた。
*
夢の中で、俺は剣を携えて戦っていました。
――誰と?
誰……そう、そうですね。相手は、人間じゃありませんでした。いえ、人間、だったひとたちなんですが……
――前に言っていた、鬼、ってやつ?
ええ。民尾先生には本当にご迷惑をおかけしました。こんなに手厚く俺のことを診て頂いているのに、初対面であんな無礼なことして。
――いいよ、気にしないで。続けてくれるかな。
今日夢に見たのは、大分昔の列車の中でした。沢山の人が乗っていましたが、みんな眠っていました。鬼が眠らせたんです。
――鬼が?
はい、人間に幸せな夢を見せる。そんな鬼でした。
――良い鬼、じゃない?
いいえ……あいつ、あいつだけは……
――聞かせて
……鬼は、元々人間でした。けれど、自分の意志とは関係なく鬼にさせられて、それが苦しくて、悲しくて、ひとの心を忘れざるを得なかったひとたちなんです。他の人を苦しめようとするのも、人を食わなければ生きていけないということに耐えかねて、自分はひとを苦しめるのが好きだって思い込もうとして。それで。
でも、あの鬼は……
――あの鬼は?
あの鬼には、悲しみも、後悔もありませんでした。人間に幸せな夢を見せて、それで、自分のいいように操って。人の心を弄んで、それを心底愉しんでいたんです。まるで、人間の頃からそうだったみたいに。
――そう、そうなの。それを見て、君はどう思った?
俺は……
俺は、あの鬼を絶対に許しません。何があっても。
*
そこまで話すと、少年は大きく息を吐き出した。
民尾は走り書きで単語をカルテに写し取っていく。少年の語る夢は今までに何度も聞いたそれを大した違いはなかったが、治療経過を詳細に記録することにこそ意義がある。
半分カーテンに遮られた窓の外では、空の色が変わり始めていた。天球全体に薄く広がった光が、地平に近くなるほど暗くなり、紺色が森の向こうから湧き出してきている。そろそろ日も暮れるのだろう。少年の横顔の向こうにそれを眺めやって、魘夢は彼の言葉を待っていた。
炭治郎は一見胸の内を話しきったように見えて、それでいてどうにも打ち明け足りない様子だった。何度も瞬きをして、視線をおぼつかなくカーテンの陰や天井へと向けて。これでは、聞いてくださいと言っているようなものだ。寧ろ、実際に民尾に読みとってくれという無言の訴えなのかも知れないが。
「炭治郎くん」
「……はい」
「まだ、話していないことはないかな。もしくは、話したいことは」
鎌をかけてみると、呆れるほどわかりやすく炭治郎の背が跳ねた。きれぎれの言葉が震える唇から落ちて、シーツの上に転がる間もなく響きは消える。
「これ、言って良いのか分かりませんが」
「いいよ、話してくれればそれだけ治療までの道筋も立てやすいんだ」
勇気づけるようにいちど頷いて、民尾は炭治郎の瞳を覗き込んだ。ぱっちりと開いた瞳には不釣り合いにやや小さめな赤い光彩が、視線を逸らそうとして、すぐに留まった。
そうして意を決したように、炭治郎は口を開く。
「……夢の中に出てくる鬼は、今日も民尾先生にそっくりでした」
今日も、ともういちど繰り返して、目を伏せる。それを速記でカルテに書き留めて、民尾は何の感慨もなくそう、と相槌を打った。
少年が語る夢の、これが一番オーソドックスなかたちだった。ひとの心を弄ぶ民尾そっくりの鬼と対峙し、その首を炭治郎が刎ねる。鬼が見せる夢は自決することで覚醒することが出来て、炭治郎が度々悲鳴を上げながら飛び起きるのは、自分で自分の首を斬る恐怖のせいなのだと。
別に、幻覚の中で自分が悪役にされたからといってどうという事は無い。そんな妄想にいちいち腹を立てていたら精神科医など務まるものか。ミイラ取りがミイラにならないよう、いつでも一線は引いている。現在この階の、いや、この療養所の唯一の患者である、炭治郎に対してだって例外はない。
夜を含み始めた湿った風が窓の隙間から入り込み、民尾の肩に掛かった髪と炭治郎の耳飾りとを同時に揺らしていった。