これがギャップ萌えか　デートをしている最中、「ちょっとトイレ」と言って三ツ谷が離れて十分が経った。一人で大水槽を眺めているオレに視線が刺さるのはいいが、ここまで帰って来ないとやや心配になってくるのは過保護だろうか。そんなことを考えながら、少し順路を戻った場所にあるトイレに向かって歩を進める。
　人混みを嫌うオレを三ツ谷が気遣ったこともあり、今日は比較的空いている穴場の水族館に来ていた。近くにより大きな水族館があること、そっちの方が最寄り駅からのアクセスが良いこともあって、家族連れなんかの客層はそちらに流れているらしい。そのおかげで、こうしてゆっくりと見て回れるのだが。
　それにしてもどこに行ったのか。のんびりと考えながら周囲を見回し探している最中、突然嘲るような男の「座れ」と怒鳴る声が遠くから聞こえてきた。
「えっ、何？」
「サブが生意気だって怒鳴ってたよ」
「うわっ…逃げよ」
　すれ違う人間たちがある箇所を気にし、顔をしかめて遠巻きにしながら先を急いで行く。その話し声を聞いた途端、ざわりと胸が騒ぎ始めるのを感じながらオレは人の流れに逆らった。自分と反対の方向へ行く人混みを掻き分けて角を曲がり、休憩スペースとして開放されている広い空間に出た瞬間「座れって言ってんだよ」と嘲る男の姿が目に入る。その目の前には、こちらに背を向けて立っている三ツ谷の姿があった。
　世間的にはまだぎこちない扱いではあるが、この世にはドムとサブという力量関係を持つ人間がマイノリティとはいえ存在することが認知されていた。ドムはサブにコントロール権を与えられる代わりに、ドムはサブを守り、時には躾ける。だが大半の人間はノーマルと呼ばれる、力量関係に囚われない性質だ。三ツ谷にコマンドを出そうとしている男からも、ドム特有の威圧感は感じられない。
「サブなんてただのマゾだろ、黙ってケツ振ってろよ」
　差別的な感情を隠しもしない言葉に、自然と眉が寄る。自分のサブを、恋人を侮辱されて良い気分になるはずもないが。不快な気持ちのまま仲裁に入ろうと口を開きかけた、その時だった。
　それまで黙って大人しくしていた三ツ谷の身体が僅かに傾いたかと思えば、大きく一歩で距離を詰めて踏み込み、男の腹部に拳がめり込む。仮にもトーマンで弐番隊の隊長をやっていた三ツ谷の拳をまともに受けたせいで、余裕の笑みを浮かべていた男の身体がぐしゃりと崩れ落ち、見ていた周囲の野次馬たちに動揺が走った。多少は手加減してあるだろうが、構えていないところに良い拳を喰らったせいか腹を押さえて崩れ落ちた男の顔は情けなく歪んでいる。
　そんなことは知らないとばかりに、明らかに余裕を失った男の胸ぐらを掴んで無理やり引き起こした三ツ谷が低く怒りに満ちた声をあげる。
「……ふざけんな。オレのドムは大寿だけだ、あんたはオレのドムじゃない」
「っぐ、あ、」
「そもそもノーマルだってのを差し引いても、なんだあのお粗末なコマンド。サブの気持ちがわかってないにも程がある」
「んだと、」
「仮にあんたがドムだったとしても、あんなの従う気にもならねぇよ」
　怒鳴っているわけではない、静かな声。だがシンと静まり返った空間にはその声はよく通った。覇気に圧されたのか、唇を震わせるだけで黙り込んだ男を投げるようにして解放した三ツ谷が溜め息をついてくるりと振り返った瞬間、オレと視線がかちあう。その途端、絹を裂くような悲鳴が辺りに響き渡った。
「ウソ、うわ、大寿見てた⁉ どこから⁉」
「……その男がお前にコマンドを出そうとしていたところから」
「最初からじゃん！ 言えよ！」
　頭を抱えて大袈裟に嘆き始めた三ツ谷にそっと歩み寄って、ひとまず宥めようと頭を撫でる。オレに見られていたのがよほど恥ずかしかったんだろう。耳まで真っ赤に染めながら「違う、大寿、オレはそんな」なんて言い訳をしている三ツ谷は、先ほどまで男に凄んでいたとは思えない可愛らしさがある。
　何はともあれ、だ。
「三ツ谷」
「な、なに」
「……デートの続き、行くぞ」