0711『今日の夜、恋の家に行っていい?』
カフェ営業終了後、開いたスマホのロック画面には絵文字も何も無いシンプルなメッセージが一つ表示されていた。送り主は、誕生日前日ということもあり、朝から今現在も何件かの友人代行業務に借り出されている真央から。
(珍し……)
例年であれば、真央はいつも揺や明星、ミカさん辺りに捕まって、終電前まで前夜祭だのなんだの呑んだくれ達の言い訳に付き合っているはずなのに。ビジネスカップルという肩書きになってから二年。二年の間、夜という時間帯に真央が俺の部屋へ来たことはない。あまりの珍しさに無意識のうちに指先が『何かあった?』と文字を打ちかけていたものの、俺が下手なことを聞いたら、真央が気を使って『やっぱり行くのやめる』と言われる気がして、文字を消し、『OK』のスタンプを一つ送った。
「恋、何かいいことあった?」
「んー? いや特には……?」
真央のいない勤務の日、揺の機嫌はいつもよりやや下降気味になるものの、由鶴が賄いで付けてくれたデザートが揺の好みだったこともあり、営業終了には“いつも通り”まで回復したようだ。俺の横で不思議そうに首を傾げている揺に唐突に問われ、適当に返事をしたものの、内心、ちょっとくらいは浮かれているのかもしれない。だって、あの真央から切り出されたのだ。忘れ物を届けて貰ったり、好きな作品のブルーレイディスクの貸し借りで部屋を訪ねてきたことはあったけれど、今回は文面からしてそうじゃなさそうだ。
(まさか……泊まり、とか?)
別にやましいことなんて無いのだから直球で聞いてしまえばいいのに、真央からすぐに返ってきた『よろしく』という返信を見たら、今更掘り返すようなことを言えず、トーク画面を開いたまま、そっとスマホをロックする。いつの間にか着替え終わり、のんびりとしたペースで帰寮しようとする揺に「お疲れ」と声を掛け、自身の制服のタイに指をかける。元々静かな揺が居なくなっただけなのに、いつもよりも静まり返ったスタッフルームが何だか落ち着かない。
今の家に女の子を連れ込んだことは無いけれど、ホテルで一夜を明かしたことなら何度もある。その時は“厄介な事にならないように”とだけ考えていたのに、相手が真央ってだけでこんなにもそわそわとするのはなんでだろう。綺麗にラッピングされたプレゼントを解く時のような、あのわくわくした感じにも少し似ている。しゅるりと一度解いてしまったら、完璧な状態には戻せない、あの責任重大なドキドキ感が少し苦手だけれども、それでも見てみたい。着飾った真央の内側を。
日付が変わる二時間前、俺の部屋を訪ねてきた真央はずいぶんと華やかな格好をしていた。それなのに、右手にブランド物の紙袋と共に握られている、揺から貰った猫のイラストが描かれたエコバッグが、“いつもと変わらぬ日常”を演出していて、ちくはぐ感が少し面白い。
「お疲れ。……おかえり?」
「ただいま……ってなんで疑問形?」
「んー、何となく? 」
リビングへ入ってすぐ、真央の着ていたライトベージュのサマージャケットを預かり、ハンガーに通し、ポールラックに掛ける。その時にふわりと香ったのは真央の愛用の香水では無く、嗅覚に残りやすい甘ったるい女性向けの香り。それは今日一日、香りが移るほどの真央のすぐ側に女の子達がいたという証で、今に始まった事じゃないのにざわざわと心に細波が立った。
そんなことを知る由もない真央は、すぐにキッチンへ向かい、エコバッグの中からビールやハイボール缶を取り出して、勝手知ったる様で冷蔵庫の中に入れていた。
「恋が入ったらでいいんだけど、シャワー借りてもいい?」
「お、珍しいじゃん。今日泊まってく感じ?」
キッチンカウンター越しに投げた、泊まり、という言葉にドキドキしながらも、我ながら平然を装えたと思っていた。けれど、向こう側にいる真央からしばらくしても返事が無く、俺が小さく名前を呼ぶと、振り返った真央は少し顔を顰めながら薄い唇をきゅっと結んでいる。只事ではない、瞬時にそう理解出来た。
「……何かあった?」
先程よりもトーンを落とながらも、怖がらせないように優しい声色で問い掛ける。すると、真央は体ごと俺へと向き直し、結んでいた唇をゆっくりと開いた。
「なんか、朝からつけられてるっぽい」
ぽつぽつと話し始めた真央の声は冷静を装っていたけれど、男としては華奢な肩がふるりと小さく震えていて、少なからず恐怖心も抱えているようだった。
「代行業務中は気にならなかったけど、合間の一人になる時間、どこからか見られている気がして。本当は家に帰りたかったけど、何かあると困るし。泊まり……とか頼れるの、恋しかいないし」
常連に『綾戸恋と付き合っている』と知られている手前、いくら同性とはいえ他の男の家で一夜を過ごしたとなれば、ストーカーから怪しまれてしまう。真面目な真央はそう思ったようだ。俺が無理矢理結ばせた恋人代行が、こんな形で真央の首を絞めている、その現実に心が痛い。
震える肩をすぐに抱き締めてあげられたらよかったのに、カウンターを挟んだ向こう側へ行けないのは、俺が弱いからだろう。真央の顧客達はなんの躊躇いもなく香りが移る程の近距離まで近付けるのに、たかが数メートルもない距離を俺は詰められない。
「さっきお湯張ったばっかりだし、良かったら先に風呂入っちゃって」
この空気感から真央を逃がすように風呂を勧める。本当は俺が逃げたかっただけかもしれないのに。家主よりも先に、という事に抵抗があったのか、一瞬だけ真央の瞳が不安そうに揺らいだものの、小さく「わかった」と返事が聞こえた。キッチンからリビングへと移動した真央は、今やコンビニでも買えてしまうパック入りの真新しい下着をエコバッグからいくつか取り出して、一人がけの椅子の上で封を開けてゆく。真央らしくない、急いで買ったであろう拘りの無いモノクロの下着達に、どれだけ切羽詰まった状況だったのか思い知らされる。
真央よりも先にバスルームに向かい、脱衣所にスウェットとバスタオルを用意して、湯船には入浴剤を一つ入れる。乳白色に広がりながら立つ、優しいミルクの香りで真央の心が少しでも休まればいいと思いなから。
風呂に入った真央を待つ間、キッチンで軽食を用意しながら真央のストーカー紛いの件を由鶴に報告し、今夜強行部が調査に出てくれる事になった。本当に仕事が早くて助かる。出来上がった軽食をリビングのローテーブルの上に並べながら、ちらりと盗み見たラグの下に置かれたブランド物の紙袋の中には、綺麗なリボンをかけられた箱が幾つも入っていた。これを真央へ贈った相手は何も知らない。着飾った真央が内で抱えているものを。コンビニで数百円の下着やインナーを買い、今、湯船で泣いているかもしれないということを。
綺麗に飾られた真央を解くことなんて、俺には出来なかった。解いたら、元には戻せないから。結局、真央自身に解ききってもらい、くしゃくしゃになったリボンの皺を撫でてあげることしか出来ない。『餌だけ撒いて釣らない』、本当に真央の言った通りだ。甘えてほしくて両手を広げて待っているくせに、飛び込まれそうになると怖くなって手を下げて。自分勝手に“報酬”で真央を縛り付けて、こんな風に苦しめている。真央に仮でも恋人がいなければ、誕生日前日に逃げ込む先が他にもあっただろうに。
それから程なくして、バスルームからタオルで髪を拭きながら出てきた真央の姿を何故か直視出来なかった。化粧や整髪料は綺麗さっぱりと落ち、俺のサイズのシンプルなスウェットをゆるく着ている真央はあまりにも無垢で、仄かに赤らんだ頬が尚更俺の心を掻き立てる。真央の飾っていない姿がこんなに暴力的だなんて知らない。知りたくなかった。真央と入れ違いでバスルームに潜り込むと、まだむわっとした湿度と、入浴剤やソープの香りが強く残っていて、それだけで心拍数が上がる。
(童貞でもあるまいに……)
勢い良くシャワーヘッドから出てきた冷水を浴びながら、火照り始めた身体を冷ます。表面温度は簡単に冷えたけれど、心は一向に熱が冷めることはなかった。
いつもよりも長い時間をかけてからバスルームから出ると、日付が変わるまであと十分もない程だった。真央はというと、ソファーに置いてあった赤色のクッションを抱き締めながら、規則正しい寝息をたてて眠っている。今日一日、神経をすり減らしてまで仕事をしたんだから当たり前だろう。真央の飲みかけのグラスと軽食をキッチンへ下げてから、ミネラルウォーターを片手に真央の隣へ腰を掛け、目元にかかる前髪を指先で払ってやると、そこから覗いた寝顔は穏やかでほっとした。
「あと少しで誕生日だっていうのに、」
生まれてきたことを祝福される大切な日。真央は愛情を持って他人と接するから、その分、周りからもたくさんの愛を与えられる。
「そんな日に、俺と一緒で良かったの?」
誰も好きになれなかった俺。真央を縛り付けている俺。ロマンチックなこと一つ用意しないまま、カチカチと置時計の秒針が時を刻む。真央が辛い時、抱き締めてあげられなかったのに、自分が不安な時、真央に抱き締めてもらいたいだなんて図々しいけど。
「誕生日おめでとう」
日付が変わる瞬間、規則正しい寝息をたてる唇にそっと顔を寄せた。鼻先は触れたけれど、直前になって唇を合わせることが出来なくて、屈めた体を元の位置に戻そうとしたその時。
「……誕生日なんだからキスくらいしてよ」
寝息をたてていた唇がゆっくりと動き出し、閉じていた瞼が持ち上がって綺麗な双方の薄紫が俺を捉える。
「え、いつから起きて……、」
「恋がバスルームから出てきたくらい、かな。寝ちゃってたのは本当だけど。それより、」
真央は抱えていたクッションを傍らに置いて、俺と向かい合うように座り直す。
「僕のせいにしていいから、キスしてよ」
座面に置いたままになっていた右手に、真央の左手が重ねされる。細いのに節くれだっている手は男らしくて、何度も救われてきたこの手を払うことは出来ないし、じぃっと見つめられた瞳からももう逃げられない。一つ呼吸を置いてから、もう一度、恐る恐る顔を寄せ、ルージュやグロスを纏わない、まっさらな唇にキスをした。角度を変えながら味うように何度も重ね合わせると、気持ちよさそうに真央が微笑む。
「ねぇ、お願いがあるんだけど?」
「……それ、俺の給金で買えるやつ?」
キスの合間を見計らって唐突に真央が口を開いた。口が離れている間も、俺の耳介や首筋を柔く撫で上げる真央の指先を捕まえて、そのまま口に含むとびくりと真央の身体が震える。あからさまに誘ってるくせに、初心な反応に身体の芯から熱くなっていくのを感じた。その手を引いて真央の身体を俺の膝に乗せ、目の間にあった細い首筋に唇を這わせてゆけば、真央の口からは小さな喘ぎが零れ始める。首に絡められた真央の腕に力が加わり、その距離がゼロになると互いの心音さえ伝わってくる。あれほど詰めるのを恐れていた距離が、パズルのピースのようにぴったりと合わさってしまうと、今じゃ離れるのことの方が怖い。体勢を整えてからきゅうっと抱き締め直すと、呼吸を乱した真央が俺の耳元にそっと唇を寄せて、秘密を打ち明けるみたいにそっと囁いた。
「誕生日の僕は、全部恋に貰ってほしいんだけど」
やっぱり俺は自分からは解けない。真央が解きかけたものに釣られ、内側へと誘われるだけ。なら、俺に出来るのは。
「ちゃんと大切するから」
真央がいつもと変わらずに笑えるように、解いたところに出来てしまった皺さえも丁寧になぞること。
「生まれてきてくれて、俺と出会ってくれてありがと」