Warmth.「もし良かったら、俺達の家族になってくれない?」
「は?」
今日は晴天。気温も暑過ぎず寒過ぎずの穏やかな気温の中、真央は一人公園のベンチに座り、趣味の読書を楽しんでいた。
(この本、買って正解だったな。物語の展開が好み)
仕事柄、不規則な休日はもっぱらこの公園で過ごしている。公園内にあるカフェでテイクアウトしたコーヒーを飲み、頭をしゃっきりさせてから物語の中へ飛び込んで一時間経った頃、キリのいいところで本を閉じてバッグに仕舞った。コーヒーも留まる目的も無くなり、このまま帰路に着いてもよかったけれど、公園内の程よい賑やかさが案外心地良く、真央はベンチでぼんやりとその雰囲気をもうしばらく味わうことにした。
(自分と同世代の人にはもう子供がいるのか……)
今日は平日。公園はどこを切り取っても母親らしき人が子供を遊ばせている風景ばかりだ。
真央は昔から恋愛的なものはよく分からなかった。同級生達が恋だの愛だのを語っていても、可愛いと噂の女子から告白されても、真央の心は動くことは無く、青春時代は勉強に明け暮れていた。
(恋の一つくらいしといたら、あんな風に穏やかに笑えたのかな)
決して羨ましいわけではない。ただ今まで選んでこなかった道を選んでいたとしたら、自身の中にもまだ知らない一面があったのではないか、真央はそう思っただけだ。勉強以外に好きなものといえばメイクぐらいで、同性からしたら珍しい趣味に分類されるかもしれないが、真央にとっては一日のルーチンの一つにしか過ぎないし、意外にも同じような趣味を持つ同性の先輩が職場にいるものだから、今じゃ変だなんて思うことも無い。決して何かを好きになれないわけではなく、 偶々それに満たなかったのが恋愛だっただけだ。
(恋愛一つで環境がガラリと変わる人もいるしな……)
目の前に広がる眩し過ぎる光に目を細めても何も変わらない。この場を去ろうかと、真央がゆっくりとベンチから立ち上がったその時、下の辺りから視線を感じ、伺うようにそちらに目を向ければ、二人の幼子が黙って真央を見つめていた。一人は淡い茶色の髪の男児、もう一人はふわふわとした黒髪の男児。どちらも幼稚園生か小学校低学年くらいだろうか。真央は知り合いの子供でもない彼らに声を掛けるか迷った末、怯えさせないように柔らかな声色で「こんにちは」と挨拶をする。
「こんにちはぁ」
「……こんにちは」
真央が声を掛けると淡い茶色の髪をした子はにっこりと笑い、黒髪の子はそわそわと小さな声で答えた。怖がらせてはいないようで、真央はほっと胸を撫で下ろす。
「ママかパパは近くにいる?」
「ママはおらんけど、パパならあそこにおるよぉ」
淡い茶色の髪をした子が指さした先に真央が目を向けると、女性と話し込む男性の姿があった。同い年くらいの子を持つ親同士、積もる話があるんだろうが、子供を放っておいていい理由にはならない。
「いつもな、おんなのひとにつかまるんよ。な、ゆら?」
「うん」
「とりあえずここ座って、一緒にパパ待とうか」
今さっき立ち上がったばかりだというのに、真央はまたベンチに腰を下ろし、空いているスペースに子供達を順番に座らせた。
「名前はなんていうの?」
「あけほし。こっちはゆらぎ。パパはこーくん」
「可愛い名前だね」
「おにいさんは?」
「僕は真央。よろしく」
「まおちやねぇ、よろしく」
「……よろしく」
小さいのにしっかりしてるなと真央は思う。この位の年齢の子供ならば、父親の周りを喧しく走り回っていてもおかしくはない。けれど、真央の隣でニコニコしたまま座っている明星と、明星と繋いでいない方の腕に猫のぬいぐるみを抱えている揺は、ただただ静かに父親を待っていた。
(躾をしっかりしてるのか? のわりに、自分はずっと女と話してるけど)
依然として、“こーくん”という名の父親は目の前の女性との会話を楽しんでいるようで、真央は深く溜息を吐いた。
「ごめんなぁ。こーくん、つかまるとながいねん」
「いつもそうなの?」
「うん。おんなのひとがあきらめてくれるまで」
(女の人が諦めてくれるまで?)
真央は明星の言葉に違和感を感じた。それは、真央が父親が話している女性を“ママ友”か何かだと思っていたからだ。けれど、父親と面識があるならば、きっと子供達も面識があるはずなのだ。子である明星達が“誰のママ”なのかを知らないはずはない。
「あの女の人って知ってる人?」
「ううん、しらん。さっき、『かっこいいですね〜』ってこーくんがこえかけられてん」
要はナンパである。こんな平日の真昼間の公園で、子連れの男に声を掛ける女の気が知れない。真央は呆れて、もう一度深く溜息を吐いた。
「……これ、たべる?」
すると今度は明星の隣に座っていた揺から声を掛けられた。猫のぬいぐるみを膝の上に置き、空いた手を真央の方へと向けている。真央は小さな手の中をそっと見ると、苺の柄の包み紙に包まれた飴玉が入っていた。
「お。ゆら、めずらしい。まおち、てぇだして」
「……まおはいいひとだから」
揺は小さな声でそう言うと、真央の差し出した手にそれを置いた。
「ありがとう。大切に食べるね」
真央が笑ってみせると、釣られたのか揺も柔らかく微笑んだ。揺は人見知りの気があると真央は思っていたが、常に一緒の明星が社交的であるからか、自分から声を上げなくてもいい場合が多いだけなのだろう。
それからしばらくの間、真央が公園で出来た小さな友人達と会話を楽しんでいると、じゃりっと砂を踏む音が聞こえ、真央に影が落ちる。落ちた影に気づいた真央がゆっくりと顔を上げると、そこには幼子達の父親である“こーくん”が立っていた。柔らかそうな淡いピンクの髪はきちんと整髪料でセットされ、爽やかな水色のシャツがよく似合っている若い男。真央が想像する父親像とは少し離れているが、少なからず、育児放棄や家庭内暴力を振るうような男には見えない。
「すみません。うちの子達が」
「いえ。とてもお利口さんでいい子達でした」
物腰も柔らかく、声色も優しい。女にモテるタイプであることは真央の目から見てもよく分かった。
「こーくん、きょうはながかったね」
「ごめんな。なかなか折れてくれなくてさ」
家族らしくは無い会話だったが、初対面である時分が踏み込むことじゃないだろう、と真央はベンチから立ち上がる。ようやく帰宅出来る、そう思っていたのだが。
「……まお、ちょっとまって」
揺が真央を呼び止めた。そんな揺を見た明星や父親は、珍しいものを見たように目を丸くしている。
「こう、まおにママになってもらいたい」
唐突にその場に放たれた異質な言葉を、誰が瞬時に飲み込めただろう。真央は理解出来ず、父親も困惑している。唯一明星だけが、揺の手を取りながら「ああ、あのはなしのことやね」と言っている。
「このあいだ、ゆらとはなしたんよ。こーくんとでかけても、しょっちゅうおんなのひとにつかまるからどうしよーって。そしたら、ゆらが『ママがいたらいい』っていって、それや!っておれもおもたんよ」
「だからって、今日会ったばかりの人にそういうこと言うんじゃないの。びっくりしてるじゃん」
ね?、と投げ掛けられても、幼子達の手前、どう答えていいのか分からない。強く拒否してしまったら、揺を傷付けてしまうような気もするし、かといって『やります!』とも言えない。黙ったままいる真央に、ベンチから降りた揺が近寄り、そしてそっと真央の服の裾を掴む。
「まおはいや?」
「ゆら、あのね……。僕は男だからママにはなれないんだ。ごめんね」
「ほら、真央さんも困ってるし、諦めて早く帰ろ」
「いや」
父親が強引に引き剥がそうとするも、揺は真央の足にしっかりとしがみついて、真央のボトムに顔を埋める。親子の攻防を見ながら、少し面倒なことに巻き込まれそうな予感が真央の心の中に生まれた。
「なら、でかけるときだけ、まおちにママをおねがいするのはどうやろ?」
それまで黙っていた明星が徐に口を開く。
「まいにちどこかにでかけるわけとちゃうし、ママかっこかり、みたいなかんじでおやすみのひだけとか」
「うん。それでいい」
「いや、ちょっと待っ……」
「あ〜、なるほど。なら有りかも」
明星の提案に父親までもが賛同し始め、真央の周りにはもう味方はいない。
「いやいや、無しだから。父親なんだから、もっと子供達にちゃんと言ってよ」
「気分屋で人をあんまり寄せ付けない揺が、こんなに諦めないの珍しくてさ」
「女から声掛けられたら断ればいいだけだろ」
「せいろんやねぇ」
「でも、確かにママがいてくれたら俺は助かる。代理でも、仮初でもいいから」
とうとう真央は呆れて言葉を返せなくなった。『この親あってこの子有り』とはよく言ったものだ。黙って不機嫌を滲ませた真央を父親はふふっと笑ってから。改めてきちんと真央と向き合う形を取る。
「俺は恋。えーと、真央だっけ? もし良かったら、俺達の家族(仮)になってくれない?」
「は?」
「最近、出向く先々で声掛けられて、家族サービスもままならないし。その時だけでも妻っぽく、時にはママっぽくしてくれたらいいから。ね、お願い」
「まお、おねがい」
「おねがいします。こーくんをたすけたって」
父親の恋だけではなく、足元の揺や明星にまで頭を下げられると絶対に断ろうと思っていた真央の強い気持ちが揺らぎ始める。
子供がいる人生。先程、歩むことはないと思っていた道に今踏み入れようとしている。
「……わかった。条件付きで引き受けてあげる」
「ほんと……?」
「ほんと」
「わあい! こーくんよかったやん!」
「助かる〜。引き受けてくれてありがとう。これからよろしくね、真央」
恋から差し出された右手に、真央も自分のものを添えると強く握りこまれる。まるで逃がさないとでもいうように。
やっぱり面倒事に巻き込まれてしまった。けれど、たまには巻き込まれたまま、身を任せているのもいいかもしれない。真央が初めて自分で選ばなかった人生。それはどんなものなのだろうかと、見えない未来に少しだけわくわくする。
「まお、ありがと」
未だ足元にぎゅうっとしがみ付いたまま、初めて子供らしく笑う揺の頭を、真央はそっと撫でた。