ブレイキング・ダーンその9 ヒート中にも波がある、というのは聞いたことがあるがこういうことか、と薄くなった匂いに納得する。
「とりま、今のうちに洗濯しようか?」
疲れた様子ではあるが、ゲンの声ははっきりしている。
気だるい身体を起こして汚れた服を渡すと、こざっぱりとした部屋着を渡された。体型に大差はないのでゲンのものだろう。新品というわけでもなさそうだ。
「ご飯食べるでしょ?」
「作るのか?」
「簡単なものだけどねー。好き嫌いってある?」
「特にねえな」
「スープパスタだけど良い?」
「あぁ」
「作ってる間、シャワーでも浴びてくる?」
洗濯物をドラム式の洗濯機の中に放り込むと、ゲンは慣れた様子で狭いキッチンに立った。小さな冷凍庫から食材を出して、タッパーに詰めてから今度はそれをレンジに入れている。その様子を見ながらシャワーより先にやることがあったな、とスマホの電源を入れた。フェロモンの呪縛が解けて、頭が回転し始めたのを感じた。
「体調はどんな感じだ?」
「悪くないけど?」
何を聞かれているのか、というようにゲンが飲み残しのコーヒーが入ったマグカップを片付け、皿をテーブルに起きながら首を傾げる。
「治療後初のヒート時の様子だ。今までとなんか違う点は?」
「あぁ。なる。俺、研究対象だもんね」
そうね、と少し考える素振りを見せる。顔色も悪くないし、気分も良さそうだ。少なくても昨日、抑制剤の副作用を抑え込んでいたような堅さは表情には無い。
「そうね~、薬飲んでる時と同じ感じかな。お腹の奥の方がむずむずするけど、全然我慢できる範囲内」
「発情時の波が来ていない状態と同様か。きっちり番状態が機能してんな。上々じゃねえか」
個人差はあるが概ね聞いた話と一致する。オメガの発情は自分で体験できるものでもないから、そういうものだと思うしか無い。セックスをすれば発情状態が一時的に収まるが、しばらくすればまた発情状態が来る。番がいると精神的に落ち着くのか、性交数回程度で収まるそうだが、そうでなければ平均して一週間、その状態が続く。
ゲンの様子をスマホに入力し終える頃には、調理を終えたゲンが料理を盛り付け終えていた。
「飯食ったら、体温と脈も頼むわ」
「OK~。んじゃ、ご飯にしよっ」
深い皿の中に、トマトベースのスープに沈められたパスタから良い香りが漂ってくる。小さな鉢のようなものにサラダが入ったものまで付いて、なかなかに彩りが良い。
いただきます、と二人で両手を合わせてからフォークに絡めて口に入れると思ったより優しい味がした。
「研究室でカップ麺喰うよりよっぽど健康的だな」
「男の簡単飯だけどね~。ヒート前にはストック作っておくから、タッパー入れてレンチンするだけ」
「充分だろ」
「公務員の安月給だからね。食費抑えるためには自炊しないとさ~」
「次の飯は俺が作るか?」
「ジーマーで?」
ゲンが食べる手を止めたので顔を上げると、驚いたような顔をしてこちらを見ている。いや、変な期待をされても困る。
「袋麺くらいしか作れねーぞ?」
「充分でしょ」
んふふ、と笑って、ゲンがまたくるくると楽しげにフォークにパスタを巻き付け初めたのを見て、皿に視線を戻す。
数時間ほどで強い波が来てさっきまでのような理性がすっ飛ぶ状態になる。それまでに袋麺を買っておかないといけない。シャワーを浴びた後に研究室に行ってデータを渡してから、その帰りにスーパーに寄れば良いだろう。
発情状態の時は、頭のネジが外れた状態ではあったが、一応記憶はある。思い出して、少し頭を抱えたくなった。
「毎回あんな状態になってると遅かれ早かれガキができるぞ」
「んー」
もぐもぐとパスタを食べながら、ゲンも困った様な顔をする。
「今んとこ、百パーセントの避妊法っつーのはねえからな」
避妊薬なら九十九パーセント防げるが、それでも一パーセントは着床する。コンドームもちゃんと使えば九十七パーセントの避妊率だが、なにせフェロモンに充てられたら、どこまで真面目に理性が働いてくれるかわからない。付け忘れない自信はない。そのくらい頭が働かなくなる。
「そうなっちゃったら堕ろ……」
「公務員なら、産休育休の福利厚生利用できんだろ」
ゲンの言葉を遮って最後の一口を口に含んで、そう言うと、まだフォークを皿の中で回転させているゲンがうーん、と唸った。
「そりゃ、お国の組織なわけだし、その辺り大義名分もあるから仕組みはあるけどさ。俺より千空ちゃんの方が問題でしょ。学生の身分でデキちゃいました~とか、親御さん泣いちゃうよ?」
心配そうにこちらを覗き込む。
「そこは心配すんな。うちは親父一人っきゃいねえが、んな狭量な人間じゃねえ」
もちろん驚きはするだろうが、悲しんだり怒ったりするところは想像できない。むしろ喜びそうな気さえする。
「そこで千空ちゃん、こんな話してるのに笑顔になっちゃう辺り、アレね」
「?」
「千空ちゃん、パパに愛されてる感じする」
「何だそりゃ」
「あと、千空ちゃんがパパさんのこと信頼してんのがよ~くわかっちゃった」
「…………」
何を気持ちの悪いことを言っているのかと思うが、ゲンの表情が穏やかになったので言葉を飲み込む。
「後付けの番でも子どもができたってなりゃ、この研究のでかい成果になるしな」
「研究成果……まぁ、そうかな……?」
ゲン曰く、時限爆弾付きの関係だ。何かのきっかけで突然番ではなくなる可能性が無いとは言えない。そのための実験だ。そんなエセ番でも子どもができるとなれば話は変わってくる。遺伝子単位の関係はなくなってもお互いの血を引く子どもが存在すれば、爆弾が爆発しても関係が切れることはない。
「つっても、俺ができるサポートには限界があるから一方的にテメーに負担がかかることになる。できる限りのミスらねえようにもするし、テメーの希望にはできる限り沿うようにはする」
「千空ちゃん、言い方がアレだから、マッドサイエンティストなんだか優しい人なんだかわかんないよ」
「どっちでもねーわ」
「俺もいろいろ、佳境だしね~。今、お休みするわけにもいかないから、子ども出来たらジーマーで困っちゃうんだけど」
食事を終えて、皿を片付けるとゲンがコーヒーを煎れ始める。
最初に淹れて貰ったコーヒーと違い、今度は良い香りをきちんと感じた。
二人分のカップをテーブルに置くと、ゲンがぽつりと呟いた。
「科捜研に居ると、胎児の死体とかまぁ、ちょいちょい見るからね。アレ、ぶっちゃけ、けっこうキツいのよ」
遺体が持ち込まれるということはDNAを検査するということか。父親、もしくは両親が分からない、小さな小さな遺体を想像する。意思はないかもしれないが何らかの事件に巻き込まれた被害者だ。
例えば、暴行事件に巻き込まれた人間が中絶した子や、殺人事件の被害者の体内に居た子どもの父親探し……。
「別に決断するのに躊躇はしないけど、できたらやりたくないっていうのも本音ではあるのよね」
現状として、ゲンは職場を離れるわけにはいかないが、万が一のことがあった時にも、できれば堕ろしたくない、らしい。だが、そんな余裕はない。
オーバーサイズのTシャツを着ている、そのぺたんこの腹を見る。波が去った後とはいえ、まだヒートは続いている。フェロモンの匂いに狂わされているとしか思えないが、そこが気になって仕方が無い。面倒くさいが、アルファは産ませたいという本能が強くて思考の邪魔になりがちだ。
「そういや、さっきいろいろ佳境っつったな?」
「仕事が仕事だから、いつでも佳境だけど……まあ、追ってる一件の糸口が掴めそうな気がするところまではきているのよ」
「ほーん? それがさっき言ってた頼み事か。仕事が、じゃなくていろいろっつーことは訳ありな依頼なんだな。良い子ちゃんには頼めない程度には」
「察しがいいねぇ~」
ゲンがニヤニヤ笑いを浮かべて、机の引き出しを開けると一冊のファイルを持ってきてテーブルの上に置いた。開くと中には何枚かの書類が丁寧にファイリングされていて、所々に手書きの文字が添えられている。
「持ち出し禁止の部類じゃねーのかよ」
「固いこと言わない」
署外にあってはいけない、バリバリの捜査資料のコピーだ。
若い男女の写真。写した生々しい血の跡がはっきり残った事故現場の写真もある。年齢は十代後半から二十代前半。
「全員自殺者で、オメガか。首筋に噛み跡が有り。テメーが言っていた被害者達だな」
「そゆことー」
ゆっくりとマグカップを手に取って喉を潤してから、ゲンが口元に立てた人差し指を添えて声を潜める。二人しか居ないし、誰も聞いてやしないのに。
「オメガ狙いの事件やたまたまフェロモンにあてられたアルファやベータがオメガを襲う暴行なんかはいろいろある。でも、その子達は発情前に噛まれていることが、そもそもおかしいのよ。第二の性がわかるのって十代前半で受ける検査でしょ? 発情するまで言わなきゃわからないくない? そんなこと言いまわる子がそんなにいるとははちょっと思えないし」
パラパラと資料をめくる。
「全国で同じような事件があるかどうか調べたんだけど、たまたまの事故の例っていうのはあることあるけど、この所轄内で起こっているような連続事件ってどこにも存在してなかった。一般的には起こりえない」
噛まれた時期はわからないが、傷跡は古いものばかりだ。写真の肌色はどれも悪く、死後撮られているものが並んでいた。撮ったのはこの男だろうか。
自殺時期は被害者自身が発情を自覚した時からほどなくして起きていることが、どの被害者の資料にも手書きで記されていた。
「ABOD扱ってる病院、片っ端から調べたから時期は間違いないよ」
「つまりテメーはこの一件、同一犯だと思ってるわけだ」
ゲンが頷く。
「自殺はどうこうできないけどさ。加害者とっ捕まえて吐かせれば暴行の方は立件できるんじゃないかなって思うわけ。そんなわけで、この被害者達の口腔内細胞をこっそり保存してあったりして~」
「なんで捜査権限のない科捜研の心理担当が、んなもん保存できんだよ」
科捜研は研究施設でもあるから、設備は整っている。しかし、自殺で処理された一件の証拠を保存しておくようなことはあるはずもない。保存されるものは未解決事件や公判で争われる可能性があるものの証拠だけだ。
「科捜研は、表向き書面がなければ証拠の鑑定はできない。県警からの嘱託書が必要なわけ。でもさ、見たら分かるじゃない。この子がなんで自殺したのかなんて。だから、もしかしたらの未来に賭けて保存を依頼したの。もちろん、俺の権限でそんなの無理だし、一人じゃ不可能だけど警察組織よ? 正義感強い子はいっぱいいる。科学班で協力してくれてる子は正義の味方になりたくて科捜研に入って、あの噛み跡を見て心を痛めてる優しい子ってこと」
「まぁ、気持ちはわかるけどな……」
口腔内細胞があれば、自分なら、おそらく噛んだ犯人が同一かどうかはわかる。
ただし、それは世界の常識ではない。一部の研究者が知っているだけのものだ。
「証拠にはなんねえぞ。まだアルファの型で人物特定ができるっつーのは研究段階だ」
当然、そんなことは承知しているだろうゲンが微笑む。
「嘘発見器だって証拠能力は無いよ。だけど、どこの県警本部だって使ってる。あれって被疑者と対峙する俺より犯人の方が上手だったり、ガチのサイコパスだったら正確性もないんだけどさ、大抵の犯人に揺さぶりを掛けるに便利だから」
「物的証拠にならなくても、自供に持ち込める材料にはなるってことか」
日本では自供に持ち込むことができれば、警察側の勝ちという側面もある。
「ご明察~。ついでに言っとくけど嘘発見器、今のところ、負けなしだからね、俺」
んふふ、と笑うゲンに笑みを返す。
「みんながみんな自殺するわけじゃねえだろうし、まだ発情してねえ被害者や耐えてるヤツもいるんだろうな」
「だろうね~。さっさと捕まえて吐かせないと」
ファイルにもう一度目を落とす。
事件として立件されているわけでもないから、特権を使っても空いた時間に調べることができるくらいで、なかなか捜査は進まなかったろうし、それで悔しい思いもしてきたのだろう。ファイリングされている書類は何度も何度も見返した跡があって少し、傷んでいる。
「ヒートが起きた時に、吐き気がするくらい恨んでる相手に抱かれたくてのたうち回の、心と身体が真逆で、もうメチャクチャでさー。辛いとかなんかそんな言葉じゃ生ぬるい言えないくらい。自分が嫌で嫌でしょうがなくなって、死んじゃいたくなる気持ちがわかんないでもないかな~って。俺、そんなに繊細じゃないから死ぬ気無かったけどね? それにさ、相思相愛の相手とか居たらそれこそ、地獄だと思うのよ。なーんにも悪くないのに恋人裏切ってるような気持ちになっちゃうだろうしさ」
ファイルを覗き込みながら、そういうゲンの瞳は少し揺れている。辛いヒートを思い出して、被害者に共感してのことだろう。
自分と出会う前、こいつも中学時代に無理矢理うなじを噛んだ男をずっと恨んでそいつに欲情していたのかと思うとじりっとなんか焼けるように胸が痛んだ。
「じゃあ、良いこと教えてやるわ。弔い合戦だけじゃねえ。犯人とっ捕まえれば、そいつの血液が採れる。それを使えば完璧に型がわかる。被害者まとめて全員、呪いから解放できんぞ」
はっとしたように、顔を上げてゲンの瞳が千空を見つめた。
「ただ、吐かせんのは警察の仕事だ」
「うん」
こくりと頷いた丸い頭に手を置く。
「龍水ちゃんと羽京ちゃん、あとコハクちゃん達にも協力して貰ってだいぶ絞れてきれるの」
「おぉ。ヒートが終わったら研究室にでも献体持ってこい」
「……うん。ありがと」
ファイルを返すとそれを大切そうにそれを撫でて、またゲンは机の引き出しへと戻す。
「でも、すぐどうこうできるわけでもないから千空ちゃんはシャワーでも……」
部屋の奥の扉を指さしてそう言いながら、ゲンが目元をそっと拭った時、携帯電話が着信音が鳴った。軽やかな音楽は初期設定のままの千空のものではない。ヒート中なんだけどどうしたんだろ、と首を傾げながらそれにゲンが出る。
真剣な顔をして話し始めたのを見て、とりあえず言われたとおりシャワーを借りようと持ってきた荷物の中から肌着を出して、先ほど指さされた扉に向かうと、ゲンが唐突に、「ジーマーで」と突飛な声をあげた。
振り返ると、電話をベッドの上に放り投げてバタバタとこちらに駆けてくる。それを受け止めるとぎゅっとゲンが抱きついてきた。
「千空ちゃん、ごめん! 俺が先にシャワーいい?」
「あ?」
「生きてたって!」
「何が?」
「被害者……自殺失敗して……生きてたって! 俺、行かなきゃ」
ぱっと離れると、千空ちゃん、メンゴねと言いながら今度はキッチンに駆けていき戸棚から薬を取り出す。飲むな、と言った薬。抑制剤だ。
確かに飲んで辛い思いをするものを飲んで欲しくはないが。
「しゃーねえ。正念場だろ」
「ん」
抑制剤を水で飲み干してから、浴場に向かったと思うと烏の行水でももう少しマシなのではと思うようなスピードで出てきたかと思うと、怒濤の勢いでタオルを被ったまま歯を磨いて着替えを済ませていく。
ダークスーツに袖を通した瞬間、ゲンの顔つきが変わる。疲れていたような様子はどこにもない、出会った時のようなどこか胡散臭いような雰囲気を纏う軽そうで、それでいて頭の切れそうな男が目の前にいた。
「千空ちゃん、目の下のクマとかゴイスーだからちょっと寝て行きなよ。ABOD対策室に来た時にでも返してくれたら良いから」
ぽんと放り投げられたものを受け取ると、鍵だった。
「いきなり合鍵とは、随分と不用心だな」
「信用してるんだよ。千空ちゃん♪ じゃ、行ってきます」
ひらりと手を振って部屋を出て行く背中を見送る。
客人に行ってきますはねえだろ。
渡された合鍵をテーブルに置いて、ベッドを見る。
「寝てけっつってもなぁ……」
ぐしゃぐしゃに乱れたベッドを眺めて苦笑を漏らす。
ゲンが千空の服を放り込んだのはドラム式洗濯機だし、生活様式を考えれば乾燥まで機会にお任せコースのはずだ。言われた通り少し仮眠をとるとしても起きた時に服は乾いていない。
「てきとうに借りるか……」
ゲンがいつ帰ってくるかわからないが、ラーメンをつくってやる約束もある。外には出ないといけないから、鍵は使わせて貰うとして今日も泊まるならシーツも直しておいて損はない。
まだ部屋の中に漂っているゲンのフェロモンの香りを感じて、この香りがまだ色濃く残るベッドで仮眠ができるかどうか少し悩んでとりあえず千空はシャワー室へと向かった。