愛し子を待つ間は「ふんふんふ~ん、てんてんてん!」
調子外れながらも愉しげな鼻歌が、聴こえてくる。
愛らしいことこの上ないと緩む口元に手を当て、表情を作り直した。
「あ、おかえりなさい!」
玄関からリビングへと進めば、可愛い妻が重たげな腹をさすりながら振り返る。
柔らかな笑みを浮かべつつ彼女に近寄り、その肩を抱いた。
「ただいま、立香……ところで、どうして動いているのです?」
「え? ……あっ! えーと、うーんと……」
一切警戒をせず捕らえられた少女は、逃げられなくなってからようやく慌て始める。
その手から雑巾を奪い取れば、ぷくりと丸い頬が膨らんだ。
「安定期なのにぃ」
「だからとて、無理をしていいわけではありません」
「無理ってほどじゃ……」
床拭きはさすがに控えるものの、平気で身長より高い棚の上を拭こうとする。
心配だ。動けるようになったらすぐに動いて、手の届かないところで無理をしそうで……居ても立っても居られなくなる。
「私を安心させるために、ね?」
「う……わかった」
懇願するような眼差しを送れば、立香は唇を尖らせた。
拗ねた子供に似た面持ちに、つい笑ってしまいそうになる。
「さて、お腹の子にもただいまを言いますか」
彼女をソファに座らせ、話を逸らすことに尽力する。
横着して、洗面所より手前のキッチンで手を洗った。
「パパのこと待ってるよ~」
悪戯っぽく少女が笑う。
それだけで足早になってしまうのだから、私も大概操りやすいのかもしれない。
そっと布越しの膨らんだ腹に触れる。
「……ただいま、良い子にしていましたか?」
「元気に暴れてたんだよ?」
「はは、それはそれは……あまりお母さんを困らせないように」
とは言え、健康でさえあればいい。
元気に生まれてくれたなら、あとは存分に愛するだけだ。
堪らなく愛おしい子が眠る腹に、軽く口付けを落とす。
「ふふっ、くすぐったい」
「あぁ、こちらの可愛い子にキスをしていませんでした」
「ぁ、んん……」
少女の唇を塞げば、蜂蜜色はとろりと蕩けた。
膨らんだお腹に気を遣いつつ、口付けを深くする。
「ふ……ぁ、んっ」
小さな舌を絡め取り、存分に味わった。
愛しい立香。名残惜しく思いつつも唇を離す。
蜂蜜色の瞳がとろりと蕩けていた。
「はっ、はっ……」
「ふむ、夕飯をつまみ食いしましたね」
「やだっ、そういうこと言わないで!」
「ははははっ」
頬を真っ赤に染めた彼女が、愛おしくて堪らない。
今日の夕飯はお惣菜のエビチリか。
昨夜それとなく話題に出しておいたから、まんまと食べたくなってくれたのだろう。
手軽であり、かつ散歩ができればと思った。本当は自分がいないときに出かけて欲しくはないのだが、そういうわけにもいかない。
「あっ……動いた」
「すこぶる元気な様子で、何より」
どんっ、とお腹を蹴られたらしく、彼女の表情が歪む。
毎回ゾッとするほど心配になるけれど、一瞬の後の嬉しそうな微笑みに安心させられるのだ。
「愛しいね、すっごく……」
「ええ……貴女は私に、底なしの愛おしさを教えてくれる」
温かな感情は、彼女がくれたもの。
そして彼女とお腹の子に注ぐもの。
膨らんだお腹に手を当て、そっと優しく撫でた。
まだ性別もわからない、単なる生命がこんなにも愛おしい。
「ご飯の用意、しよ?」
「ええ、ですが……もう少しだけ」
「ふふっ、しょうがないなぁ」
妻の腰に手を回し、その腹に頬を寄せる。
甘えたような仕草にも彼女は呆れることなく、優しく髪を撫でてくれた。
もう母性があるのだろうか。紛れもない愛情のこもった手が、心地よくて堪らなかった。