そこがいい こんこん、と戸口を叩く音が聞こえた。
時刻は子の刻。すでに就寝用の浴衣に着替え、書物を読んでいたところだったが、行灯の油がそろそろ切れる頃合いであるし、明日に備えてそろそろ寝ようかと思っていた時のことだった。
こんな夜半に自宅を訪れる人間など相場が決まっている。
一瞬、応じるか応じないかを考えたが、応じなかった際の眉を下げてしょぼくれる姿を想像したら、非常に心が痛んだので結局重い腰を上げる事にした。どちらにしても、窓にかかる御簾から明かりは漏れていたであろうから、居留守をするのも決まりが悪い。
「はーい」
と、一応声だけかけて、草履を履いて土間に降りる。
ざり、ざりと土を踏みしめ、ぴた、ぴたと岩床の上を歩き、この後の展開を想像して少しだけげんなりしてから、狩人の乙女は、がらりと引き戸を開けた。
「こんばんは、来ちゃった!」
「……おやすみなさい」
「ま、待ってよ愛弟子!」
そこに立っていたのは、予想通りウツシだった。ニコリと笑って晩の挨拶をするウツシに、悪びれた様子はない。
せめてもう少しだけでも、申し訳なさそうな素振りを見せてほしかったので、容赦なく別れの挨拶のつもりで言葉を投げて、戸を閉めにかかった。すると、途端に戸の縁を渾身の力で掴まれ、阻止される。数秒本気でこのまま戸を閉めてやろうか、と奮戦したものの、ウツシはウツシで戸を閉められないように必死で抵抗をしてきている。力比べでは最終的にウツシには勝てないので、今回もまた仕方なく譲ってあげることとした。
「教官、今何時か御存知ですか?」
「子の刻だね」
「えぇ、はい、そうですね……いや、欲しいのはそういう真面目な返答ではなく……」
はぁ、と脱力をして渋々と戸から手を離すと、どうやら締め出しはされないと安心したのかウツシもまた力を緩めて、玄関先の攻防はあっけなく終了した。今日もまた、狩人の乙女の敗北である。
「いやぁ、遅い時間に本当に申し訳ないとは思ってるんだけど、俺ももう限界で……」
中に入ってもいい? と家内を指さしてくるウツシに不承不承ながら狩人の乙女は、どうぞ、と一言だけ告げ、玄関先から身を翻し、屋内へと戻る。ウツシもそれに続いて敷居を跨ぐと、後ろ手に戸口を締めて狩人の乙女の後を追ってきた。狩人の乙女は式台に履き潰した草履を脱ぎ捨てて、渋々と納戸を開けて用意を始める事にした。
「何日ぶりでしたっけ?」
「えーと、三日とかかな?」
寝床に鎮座する行灯を囲炉裏の側まで移動させ、仕舞われている客用の布団をずるずると引きずり出す。ウツシはどうやら自宅に帰ることなく、所用を終えてそのまま狩人の乙女の家まで直接やってきたようで、常から見る狩猟用の装束姿のままだった。框に腰かけたウツシは背にしていた武器を下ろして、装備を解きにかかっている。かちゃかちゃ、と音を立てながら手甲、足甲、肩当て、腰当、胸当て、襟巻とほとんどの装備を外し終えると床の間の端に集めて寄せ置き、ウツシは草鞋を脱いで寝床の畳の上に上がってきた。
「湯は冷めちゃってるので、もう湯浴みはできそうにないんですが……」
「あぁ、うん大丈夫。そこまでお願いするのは悪いから」
納戸から寝具を引っ張り出している狩人の乙女の傍らに立ち、敷布団と掛布団をそれぞれ二人で持ち、二人分畳の上に広げていく。二畳しかない畳の上の占有率はもう限界である。
「じゃあ明かり消しますね」
「うん」
とす、と軽い音を立てて布団の上に胡坐をかいて座ったウツシは、ニコニコと微笑みながら行灯へ向かう狩人の乙女を見つめている。視線に気付いた狩人の乙女が振り返って視線を合わせてもウツシは笑顔を向けたままである。
「……なんですか?」
「なんか昔を思い出すなぁって思って」
「……私も、もう子供じゃないんですけどね」
「それもそうだね」
カラカラと笑うウツシが恨めしく思えて、狩人の乙女は腰をかがめ、顔に掛かる髪を耳に掛けながら、行灯皿の火を、ふぅと吹き消した。窓を遮る御簾から零れる月明かりだけが頼りなく室内を照らしているが、ハンターともなれば夜目は効くのでこの程度はどうということもない。すたすたと二つ並べられた布団のうち、ウツシが占拠している布団の隣、ぴたりと寄せ合うように並ぶ布団の中に狩人の乙女は体を滑り込ませた。むしゃくしゃする気持ちを抑える為に、ウツシには背を向けて布団をきっちりと肩までかける。
背後でごそごそと何やら布の擦れるような音がしたので、おそらくウツシも布団にくるまったのだろう。
「ねぇ、愛弟子」
「なんですか。早く寝た方がい……」
「ありがとうね」
ぐぅ、と狩人の乙女は口ごもる。あまりにも優しく礼を述べられてしまい、些細なことに苛立っている自分がバカらしくなってしまった。しゅる、しゅる、と音を立てながら寝返りをうって、ウツシのいる布団側へ顔を向けると、ウツシはまだ目を開けて、じっと狩人の乙女を見つめている。
「寝ましょうよ」
「キミが寝たらね」
「……別に、私は教官が私のところに来るのが嫌なわけじゃないですから」
「ん? うん、ありがたいと思ってるよ」
ほら、早く寝なさい、という優しい声を聞いて、狩人の乙女はゆっくりと瞼を閉じた。
ウツシはこうして数日に一度、夜半に狩人の乙女の家を尋ねてくる。勿論、色事めいた理由などではなく、本当に単純に睡眠を得る為にだ。
ある日、随分と疲労を溜めた様子のウツシにそれとなくきちんと睡眠がとれているかと聞いた事が始まりだった。陽の下で見たウツシの目の下には隈があり、随分と顔色が悪いように見えたので心配して尋ねたのだが、ウツシ曰く熟睡ができないのだという。
「俺、元々眠りが浅いんだよ。気配に敏感だから、ちょっとした物音で起きちゃうし。ここ最近は熟睡できた記憶がないかな」
などと困ったように笑っていたのだ。見かねた狩人の乙女は、先日ロンディーネが王国から輸入した交易品だというアロマオイルなるものを手に入れていたことを思い出し、良かったら試してみませんかと自宅へウツシを強引に連れて行った。ウツシはアロマオイルなるものに対し半信半疑だったようなのだが、いざ試しに狩人の乙女の家でアロマオイルを使い、座布団を何枚か重ねて枕代わりとし、軽い昼寝を試させてみたところ、これが驚くほどに熟睡できていた。ものの数分で、すぅすぅと寝息を立てるウツシの姿を見て、狩人の乙女は感動を覚えた程である。こんなに効果があるものなのか、流石は王国製……と感心せずにはいられなかった。
時間にすると半刻ほどではあったが、目を覚ましたウツシはすっきりとした様子で、顔色も幾分良くなっており、これならば今後も困ることはないだろう、と思い狩人の乙女は手持ちのアロマオイルをウツシにと手渡したのだ。
ところが、それから数日。再びウツシの姿を目にした時、またしても目の下に隈を作っていたので狩人の乙女はがっくりと肩を落とした。何故アロマオイルを使わないのだ、とウツシに尋ねてみたのだが、ウツシはウツシで歯切れの悪そうな様子で返答に困っている。
「もう効かなくなっちゃったんですか? 教官、薬への耐性高いから……」
「いやぁ、そういうのじゃないと思うんだよね……」
はい、とあまり目減りした様子のないアロマオイルがウツシの手から狩人の乙女へと返される。手渡された容器内の残量を見るに、あれからほとんど使ってはいないようだった。
「香りに慣れてしまったわけではないと?」
「うーん……一応俺の推測があるんだけど、聞いてもらってもいい?」
「? どうぞ」
なぜか推測を述べるのにウツシは狩人の乙女の許可を得ようとしてきた。推測などいくらでも遠慮なく言えばいいではないか、と、特段何も考えずに返事をしたのだが、これが失敗だった。
「俺が思うに安眠できたのはそのオイルじゃなくて、愛弟子がいたからじゃないかって思うんだ」
「……はい?」
ウツシの回答が狩人の乙女の予想から大きく外れていたせいで、思わず気の抜けた声が出てしまった。ウツシはそんな狩人の乙女の様子に構わず言葉を続けていく。
「言ったでしょ? 俺、気配に敏感だからすぐに起きちゃうって」
「……言ってましたね」
「つまり寝ている間も気が抜けないってことなんだけど……愛弟子が側にいると、そういうのも気にしなくていいでしょ?」
「はぁ、成程。つまり野宿の火番の時みたいな話ですか」
つまり、ウツシが言いたいのはこうだ。一人で眠るのであれば、寝ている間も方々を気にして警戒しながらの睡眠をしなくてはならず、どうしても眠りが浅くなりがちになる。だが、側に狩人の乙女、つまり腕の立つ者がいるのであれば、そういった懸念も必要なく、安心ができるのだという。
「まぁ理屈はわかりますが」
「ということで、提案なんだけど、夜に愛弟子の家に泊まりに行ってもいいかな?」
「……え!?」
「……やっぱりだめだよねぇ」
そりゃそうか、とウツシは狩人の乙女の反応を見て苦笑いをしている。う、と狩人の乙女は呻いて思案した。
これは本当に複雑である。頼りにされているというのは大変ありがたいことなのだが、如何せん狩人の乙女は憎からずこの男、ウツシを思っている。勿論本人には伝えていない。本気で相手にされないだろう予感しかないからだ。好いた男に安眠を与えてやりたいのは山々だが、しかし恋仲というわけでもないのに、師とは言え男を夜に自宅に呼び込んで泊めるのはどうなんだろう、というすさまじい葛藤が、この瞬間狩人の乙女の中で発生した。
「大丈夫大丈夫! これまでもこんな眠りの浅さでもどうにかなってたわけだし」
即断できない狩人の乙女を責めるでもなく、むしろ悩ませていることに申し訳なさを覚えているのか、ウツシは気にしなくていいと言わんばかりに話を終えようとしてくる。多分、ここで黙ったままでいればウツシは二度と自身の眠りについて狩人の乙女には相談しないだろうし、今後は上手く隠されてしまうような気がした。
ふと、先日狩人の乙女の自宅で穏やかに眠るウツシの顔を思い出した。目元が緩んで気持ちよさそうに眠る姿に微笑ましい気持ちになった。と、同時にこの穏やかな時間が愛おしいとも。
「い、いですよ……」
「え?」
「いいですよ! 教官の安眠の為ですし、協力します!」
結局狩人の乙女は己の欲に負けた。すぐ近くで好いた男の寝顔を見れる機会など、これを逃せば二度とないかもしれないと思うと、そう答えるしかなかった。ウツシは狩人の乙女の返答に大喜びで、それがまた狩人の乙女を複雑な心地にさせた。愛弟子兼安眠装置。奇妙な肩書を手に入れてしまったものである。
それからというもの、ウツシは二日あるいは三日おきに狩人の乙女の家に夜半訪れるようになった。最初こそ、秘密の時間を共有するようでドキドキとしていたものだが、何度も続くと次第に心が萎びていった。そういうことに対し、過度に期待をしていたわけではないが、それにしたって驚くほどに何も起こらない。
ウツシはただ、夜半に狩人の乙女の自宅を訪ね、狩人の乙女と共に布団を並べ、共に朝まで眠る。至って健全なお泊り会といった体である。若い男女が一つ屋根の下で枕を並べて眠る、というのにこんなに色が絡まないことがあるのか、と流石の狩人の乙女も落ち込んだ。これは脈がない、と判断せざるを得なかった。
そうなると今度はウツシの来訪が辛くなった。人間とは欲深いもので、好いた男の安眠の為、穏やかな時間を享受する為、と思っていただけだったのが、いつしかこれを機に何かしら意識してもらえないものか、少しでも好きになってもらえたりしないだろうか、なんて愚かにも考えてしまう。浅ましい浅ましい。
やがて狩人の乙女は、夜半に戸口を叩く音が聞こえると大きな溜息を吐くようになった。苦しいけど、この時間を手放したくもない。手詰まりだ。安請け合いなどするのではなかった、とウツシと共に眠るたびに毎度考えてしまう。そんな自分が本当に嫌だった。
うつらうつら、と意識が遠のいて夢の世界に誘われる感覚。明日はウツシより早めに目覚めて、少しでも寝顔を見れたらいいな、それぐらいで満足しておこう。そうするべきだ、とふわふわした頭が結論をはじき出す。
ゆらゆらと揺れる意識の奥の方。ぼんやりとウツシの声が聞こえたような気がした。
「子供だなんて思ってないよ」
熱く柔らかい感触が瞼に触れた気がする。経験したことはないけれど、話には聞いた事がある口づけのよう。なんだか今日はいい夢が見れそうな気がした。