千景さんへの気持ちを消すために寮を出た至さんの話 ㊤「いろいろ考えたんだけどさ……俺、寮を出るよ」
とは言え、察しが良くて、頭の切れる、家族に激甘なおじいちゃんに本心を隠し通せる気がしないからさ……協力してくれないかな、監督さん。
心残りが無いわけではなかったが、後悔もなかった。そうしなければ、大切なものを壊してしまうから。この場所が大切で、この家族が大好きだから。それらを守りたいと思うから。
至は、寮を出ることを、決意した。
「よし、これで荷物は全部か?」
「あーうん、めっちゃ運ばせてごめん。助かったよ、ありがとう」
「別にそれくらい気にするな。それにしてもまさか──────ゲーム配信にもっと力を入れたいから一人暮らしするなんて言うなんて驚いたぞ」
「そ? 俺はいつだってゲーム最優先だけど」
「……そういえばそうだったな」
引っ越しの日を平日の昼間に設定した至の荷物の運び込みを特に用事はないからと丞が手伝ってくれた。ゲーミングPCや据え置きやソフトが詰め込まれたダンボールを至の代わりに次々と運び込んでくれたおかげで、昼から活動しだしたにも関わらず夕方には全てが終わった。
新居だから何も饗せなくてごめん、と謝罪を述べる至に訝しげな視線を向けていた丞は、至の本当の意図に気づいているのだろうか。それでも何も聞かず、頑張れよという言葉だけを残して帰ってしまった。
一人になった新居、新しく買った白いソファに座って至はため息を吐いた。
「……新品すぎて、まだ硬いな」
慣れた心地ではないそれに思わず漏れた声に、舌打ちをした。
千景のことを好きだと自覚したのはいつだったか、至はもう記憶にもなかった。劇団員として、同室者として、そして会社の同僚として。誰よりも多く密な関わりの中で見つけてしまった千景の一面。弱さや脆さ、愛情深さ、そして時折見せる可愛らしさ。
(いや、年上の先輩にかわいいってなんだよ……って感じだけど、でも、なぁ)
例えば年下の子たちが楽しそうにしているのを見つめている表情。幸せに浸っています、と言わんばかりの表情を見てしまった時にぶわりと体温が上昇した。
(もっとああいう顔をしてほしい、でも俺以外には見せてほしくない、なんて……)
ある日突然至の中に生まれた独占欲。千景が幸せならそれでいいと思えていたのは最初だけで、ある日突然生まれたその感情に、ぞわりと背筋が震えた。
仲間、家族以上の感情を千景に抱いてしまった。仲間と、家族と、幸せに過ごしている千景の日常を壊してしまうことが恐ろしくて、早くそんな感情が消えてしまえばいいのにと何度も願った。しかし大きくなるばかりのそれに、もう我慢が限界だった。千景に伝えてしまいそうだった、平和を壊してしまいそうだった。そんな自分を想像して、許せなくなった。
だから至は、寮を出ていく決心をした。
劇団員、会社員ともう一つ。至を構成する上で最も大切な要素。それを盾に言い訳を並べ、ようやく今日から一人暮らしの生活が始まる。
(会社でも多少会うだろうし、稽古でだって会う。でも頻度はぐっと減るし、何より二人きりはほぼなくなる。これで、大丈夫だろ……大丈夫に、なってほしい)
「至さん、晩御飯はどうしますか?」
「あー、大丈夫。家で食べるよ。ありがとう」
本当は食べてから帰りたかった至だが、残念だという表情を貼り付けて断り、帰る準備を進めた。一人暮らしを始めたことによって家賃光熱費諸々加わり趣味に割く金額を減らしたわけでもないので早くも家計は火の車になりかけていた。なるべく削れるところは削ろうと食事を疎かにしがちだった。
しかし既に空いているのは千景の隣の席のみ、かつては至の定位置であった場所だけであった。気持ちの整理が着くまではもう少し距離を置きたい、けれど本人にはバレてほしくない。
ごめんね、じゃあまた。とそれだけ言い残して至は一人、玄関へと向かう。久しぶりに歩くその道は、まだたった数日であるのに懐かしく感じた。
真っ暗な玄関から外に出て、少しだけ冷たい風が吹く夜道を歩く。もうすぐ夏がやってくる。その頃には、この気持ちを捨てられるのだろうか。
(捨てられたら……あの場所に、戻れるのかな)
雲におおわれた真っ暗な空を見上げ、至はため息を吐いた。
「茅ヶ崎、今から昼? よかったら一緒にどうかな」
「……先輩」
昼休み。オフィスを出て直ぐに千景と出会った。どうやら出先から帰ってきたところらしい。運悪く捕まってしまった、と内心舌打ちをした。元より千景と昼を行くことは珍しくはなかったのだが、至が寮を出てからは一度もなかった。千景が至を誘いに来なかったから、なかった。
ちょうど昼時で、周りの社員の目がある。二人が同じ劇団に所属していて親しいことなど有名で、食事の誘いを断るなんてできるはずもなかった。
「一緒に昼なんて久しぶりですね。どこに行きますか?」
「俺のおすすめの店でもいいかな」
どうせカレー屋だろう、と思いながら至は笑顔で頷いた。じゃあ行こう、と先導する千景の半歩後ろを歩く。隣を歩いたら顔が見たくなってしまうと思った。どうせ後で向かい合わせにでも座っていやでも見るのだから、道中くらいは抑えておきたかった。
一体どんな激辛カレーのある店なのだろうかとぼんやり考えていた至の予想に反して千景が連れてきたのは、一般的な定食屋であった。隠れた激辛の名店なのだろうかと思いはしたが、メニューを見てもその気配はない。一体どういう風の吹き回しだろうかと、目の前に座る千景をちらりと見やると目が合った。じっと至を見つめていたらしい。
「……なにか?」
「お前、少し痩せた?」
「え、そうですかね、わかんないです」
だって体重計なんてわざわざ買ってないですし、と誤魔化すしかなかった。これが食べたいと明確に決まらないときは買いに行くのも面倒で、勿論作るのは面倒で、スナック菓子を少々口に入れながらゲームをして時間が過ぎていくことが多かった。
だから痩せたと言われたらそうなのかもしれない。至自身に自覚はないものの、そうなってもおかしくない生活を送っていたことは間違いなかった。
「どうせゲームにばかり注ぎ込んで金欠、ってとこかな。……今日は奢ってやるから、好きなだけ食べろ」
「え、でも」
「いいから、ほら。注文決まった? もう呼ぶよ」
心配してくれたのだろうか。そう考えるだけで胸が苦しくて、優しく微笑む顔が眩しくて、またひとつ千景の好きなところが増えた、とつらくなる。
もし今日この店に来たのが、至のことを心配していたから、という理由であれば。しっかり食べれるものがあるような店にしようと思ったのであれば。そんな自分勝手な想像ばかり膨らんでしまう。これではいけない、と思考と断ち切ろうと試みる。
きっとこの人は懐に入れた相手にならば誰にでも同じことをするのだろうと考えて気持ちを落ち着けようとするものの、そんなところは見たくない自分だけにやってほしいなんて醜い独占欲が頭を出してきてまた違う気持ちで苦しくなった。
じゃあお言葉に甘えて、と至が注文をすると千景は嬉しそうに微笑んだ。だからそういうところなんだって、と口にしかけた言葉は飲み込んだ。そんなふうに優しくしないでほしいなんて、言えない。
「新居はどう? もう足の踏み場はなくなったころかな」
「失礼ですね。立派な一本道が整備されてますよ」
「一体それはどのくらい頼りない一本道なんだろうな……」
「そこはご想像にお任せしますよ。……先輩の部屋は、さぞ綺麗に整っているんでしょうね」
わざと皮肉らしさを込めた言い方をする。そうでないと寂しさが漏れてしまいそうだったからだ。
本当は今も千景と同じ部屋で暮らしたい、毎日おはようからおやすみまで挨拶をしたい。その隣に、至がいることを許してほしい。そんな気持ちが決してバレてしまわないように分厚い仮面を幾重にも被らなければいけない。
「まあ、誰かさんが綺麗さっぱり散乱していた荷物を持って行ってしまったからね。もう他に散らかすものもないだろう」
千景の荷物は少ない。それは彼が入寮してきた時から知っていたし、毎日同じ部屋で過ごしていたのだから誰よりも至がよく知っている。あの荷物の量では至のように部屋を散らかすことなんてできない。きっと足りない。そういう意味だとは、それが真実だとはわかっていても。かつて至がいた場所に代わるものはないのだと言われているのだと勘違いしてしまう。至がいた場所は空いていて、いくら千景であってもそれを覆うことは出来ないのだと、都合のいい解釈をしてしまう。
こんなバカみたいな妄想をしているだなんて知られたくもない。早く返さないとと乾いた喉から出てきた言葉はいつも通りに言えていただろうか。
「……はは、辛辣で草」
千景と話すということはつらくて、苦しくて、逃げ出したくなった。