山茶花「胡蝶。聞いてもいいだろうか」
「はい、なんですか煉獄さん」
「音信不通とはどのくらいの期間でいうものだ?」
「……はい?」
定期診察を終えて隊服を整えながら真顔で尋ねる俺に、胡蝶しのぶは不思議そうに目を瞬かせて小首を傾げた。
ここ二ヶ月半、まったく連絡を取れなくなったのは風柱の不死川実弥である。平素から多忙な我々ではあるが、これまでは鎹鴉を通してのやり取りはできていたし、任務の合間に鬼の情報交換をすることもしばしばある。現に宇髄と伊黒には先月会ったし、甘露寺とは食事も共にした。本部ではこれから任務に向かう時透と立ち話をしたし、蝶屋敷に来れば胡蝶がいるし、先程は俺と同じく健診にやってきた悲鳴嶼さんや冨岡とも挨拶を交わしたのだ。それなのに、不死川とはすれ違うことすらない。連絡がないのは無事の証とはいっても、さすがに消息が気になるところである。
俺が腕を組んでそう言うと、胡蝶はどこか呆れたようにため息をついた。
「不死川さんなら今は北の方へ遠征していますよ」
「北?」
「山間の温泉地に鬼が巣食っているという情報がありまして。呆れた人ですねぇ、そんなに長い間煉獄さんに居所を知らせないなんて」
「いや、それは別に構わないんだが…そうか。無事でいるならいいんだ。…彼がそんなに手間取るような相手なのだろうか」
「…彼のことですから、与えられた任務は早々にこなして、そのまま転々としているんじゃないでしょうかね。困ったものです。まったくどうしようもない。私が言ったことを全然…」
「……。胡蝶。何か知っているのか?」
額を押さえてぶつぶつと唸る胡蝶の様子から察するに、彼女が不死川の置かれている状況を正確に把握しているようだ。俺が身を乗り出すと、胡蝶は別に隠すつもりではないんですよと困ったように微笑んだ。
「ご存知のとおり、不死川さんはここを嫌っています。…いえ、嫌っているというよりは、気兼ねしているのでしょうね」
「稀血の凶、か」
「彼なりの気遣いは理解できますが、限度がありますよね。三ヶ月前に彼がここへ運ばれたのは血鬼術によって神経系が麻痺して頭を強か打ったからだというのに、彼は治療もそこそこにアオイの制止を振りきって出て行ってしまって」
「…なるほど。不死川らしいな」
「ちょうど私が不在の時だったので、アオイが随分落ち込んでしまって。彼にちゃんと治療を受けさせてやることができなかった、何か後遺症が出たらどうしようと自分を責めるんです。…見ていられなくて」
「……そうか……」
「なので私がお館様に上申しました。次の不死川さんの任務には、ぜひ部下を数名同行させてやってほしいと」
不死川は稀血という自分の特異体質を鬼との戦闘に利用する。それは彼の戦闘の一つであるし、彼の実力を骨身に染みて理解している俺としては、やめてほしいと感情のままに口にはできない。そして不死川自身も、稀血の絶大な効力を理解しているが故に、自分の戦いに誰かを巻き込まぬように単独行動を取ることが少なくない。胡蝶は以前からそのことにも警鐘を鳴らしていたのだが、胡蝶の不在を良いことに敢行した此度の蝶屋敷出奔には、さすがに胡蝶の堪忍袋の緒が切れたということか。
「煉獄さん。私はね」
「うん?」
「不死川さんと貴方は似た者同士だと思っているんですよ」
「…そうか?」
「貴方達は二人とも非常に責任感が強い。部下がいれば自分よりも部下の命を優先するようなところがある。けれど決定的に違うのは、向いている方向だと思うんです」
「方向…」
「不死川さんは、…どの柱よりも更に、地獄の方を向いている、というか」
「……」
「煉獄さんは人の命を救いたいと思うでしょう? 当然不死川さんもそこは同じです。けれど彼は、死んでいった者達の命を、一つ残らず背負って歩こうとする。大切な者を守る為に戦った人間の無念を、全て自分で背負い込んで行こうとする」
「…そうだな」
「生きている者達を守りたい気持ちと、死んでいった者達を弔う気持ち。それは誰にも同じくあるものですが、彼の場合は時折比重が傾き過ぎる気がしています」
「……うむ」
胡蝶の言わんとすることはわかる。不死川は守りたいものへの気持ちが強過ぎて、時折その命を救う代償に我が身を地獄へ捧げようとしているかのようだ。目の前で死んでいった仲間達の無念を、祈りを、一つも零さず背負って走り抜けようとする。
生きなければならないと、まるで義務のように息をしているくせに、自らの罪に罰を与えるように肉を削ぎ、己の血を流すことを厭わない。生きている者を愛しみその手で守りたいと切望しながら、一方で自分の命を塵のように軽く扱う。他者を守るということに驚くほど貪欲で、自分の命に対してどこまでも希薄な男。矛盾を抱えながら必死で運命に抗い、足掻いている彼の姿は、時に胸をかきむしりたくなるほどに切なく、哀しい。
彼の闇は深く、そしてそれと同じくらい、己の大切な人が生きる世界を照らしてくれる強烈な光を求め、藻掻いているのだ。
(不器用な男だ……それ故に、たまらなく愛しい)
俺がその光の一筋になれたら良いと願うのは、烏滸がましいだろうか。
胡蝶はため息混じりに苦笑して、診察室の窓を開け放った。冷たい風が幅を利かせるこの時期には珍しく、優しい微風がふわりと室内の空気を洗っていく。
「ですからね」
「うん?」
「そろそろ彼も、その柱としての自覚と責任感に比例する分だけ、目の前の部下の命を預かってみるのはどうかとお館様に進言したんですよ」
「…そうすれば彼がもっと頼もしい存在になると?」
「ええ」
胡蝶は微風と共に暗い雰囲気をかき消すようにおどけて肩を竦めた。なるほど、うまいなと俺は苦笑した。
一部隊を指揮する立場になり部下の命に責任を負えば、彼はおいそれと自傷することはできない。彼が度を越して無茶をすればそれだけ部下を危険に晒すのだ。部隊を率いるということは自分の戦闘能力だけを信じていればいいのではなく、共に行動する部下にも配慮し、柱として相応しい指揮能力と全体を俯瞰する視野を持たなければならない。……不死川にとってはひどく窮屈だろう。
「追いつけない奴は知らない、勝手にしろと口では言うだろうが、無責任に放り出す男ではないからな、彼は…」
「死んだ魂ばかりでなく、たまには目の前で生きている誰かの命を背負ってみればいいんですよ。これを機会に少しは私やアオイの気持ちもわかってくれるといいんですけど」
風柱と共に戦えば、それを糧に強くなる隊士も一人二人は必ず出てくるでしょうから、と胡蝶は目を細めた。
「そしてさすがなのは、この二月、彼の部隊からはまだ一人も死者が出ていないんですよ。立派なものです」
「ほう、そうか。それは素晴らしいな」
「なので、煉獄さん。彼自身も五体満足だと思いますよ、ご心配なく。何か情報が入ったら鴉を通じてお伝えします」
「ありがとう」
「いいえ」
あまりに目に余るとはいえ余計な差し金をしてしまったせめてものお詫びです、と胡蝶はにこりと苦笑して、俺を玄関まで見送ってくれる。俺は息災でなと手を振り蝶屋敷を後にした。
鬼によって屠られる隊士が後を絶たない現実にあって、二月もの間、部下を一人も死なせていないという不死川の手腕には感心するばかりだ。実戦に勝る修行はない。多少厳しい手段ではあるが、不死川の戦闘を見て少しでも戦い方を学べる隊士がいれば、鬼殺隊はまた一つ強くなる。
お館様の命令に逆らえず、部下を帯同するはめになり苦虫を噛み潰したような顔をする不死川を思い浮かべ、俺は思わず嘆息した。
◇
不死川との連絡が取れない事情は把握した。が、それはそれ、これはこれである。
(…恋人の生死を気にする気持ちも、ついでに理解してほしいものだな、あの男には…)
俺とて任務が忙しければ連絡を怠ってしまうこともあるが、それにしても二月半はさすがにないのではないだろうかと、僅かな不満が心の縁を掠める。
彼が無事でいるならそれに越したことはないし、まして一個小隊を率いているというなら普段とは別の忙しさがあるだろうが。事情はわかる、わかるのだ。
しかし、だ。
(胡蝶が不死川の現状を正確に把握しているのに、……俺はなんだか置いてきぼりを食らった気分だな……いや、いかん。冷静になれ)
脳裏に浮かんだ小さな火種を捻り潰す。胡蝶は不死川の為、隊士の為、ひいては鬼殺隊の未来の為に最善を尽くしているのだ。彼と連絡が取れないことをついこの間不思議に思ったばかりの俺が、自分の怠慢を棚に上げて不平を抱くのは筋違いだろう。
(俺は何故、彼のことになるとこう心が狭くなるんだ。未熟者め……)
屋敷へ帰り、入浴を済ませて書斎の文机へ向かう。
不死川、君は今どこにいるだろうか。無事でいるらしいとは聞いたが、せめて何か便りをくれないだろうか。文でなくて良い、どんな形でも良い。たった一つ、何か君からの報せがあれば、俺はまた明日を生きる力が漲るのだ。
唯一無二の愛しい相手へ文を認めていると、ふと庭の上空をぱさぱさと舞う軽い羽音がした。要だろうか。今日は晴れていて暖かいから、空を舞うのは心地良いだろうな。
「杏寿郎様ァ」
予想通り障子の向こうから要の声がした。何か慌てた様子なのが不思議で、俺は筆を置いて縁側へ出て硝子戸を開けた。要は俺を認めるとふわりと頭上を旋回した。
「風柱ヲオ探シデスカ」
「ああ。ふふ、耳が良いな、要。胡蝶との会話が聞こえたか?」
「聞キ耳ヲタテルツモリハナク。杏寿郎様ガ浮カナイ顔ヲスルノハアノ男ノコトバカリカト案ジテオリマシタ故ニ」
「…お前は目敏いな。俺はそんなに顔に出ていたか」
長きに渡り俺の傍にいてくれる相棒は、このところ俺の顔色を読むのがすこぶる上手くなってきた。ごまかしがきかないなと笑うと、要は呆れたようにため息をついた。
「風柱ハ時機ヲ読ンデイルカノヨウデ、少シ憎ラシク思イマス」
「え?」
「爽籟ガ本部ヘ帰還シマシタ」
爽籟というのは不死川の鎹鴉だ。要と同じく常に彼の傍に在る爽籟が本部ヘ帰って来たということは、不死川に何かあったのか、或いは。
「ゴ心配ナク、任務報告デス。風柱ハ無事ニ任務ヲ終エ、明日未明ニ帰還スルト先触レニ来テ」
「そうなのか!」
「コレヲ預カリマシタ」
要はそう言って両の爪で掴んでいたものを俺の手に落とし、俺の肩へ舞い降りた。手折られたばかりのような元気な細い木の枝の先には、濃い緑の葉と共に桃色の半八重の大輪が咲き誇っている。
「これは美しい。山茶花だな。…これを、不死川が俺に?」
「長ク連絡ヲセズマナカッタト」
要は頷き、杏寿郎様がそんなに嬉しそうになさるなら伝令のしがいがあると誇らしげに胸をそらした。うーむ、またしても顔に出てしまったか。自分の頬に手を当てて緩んだ口の端をぴしゃりと締めた。
「では、要。不死川へ返事を言付かってくれるか」
「何ナリト」
「美しい花をありがとう、明朝会えるのを楽しみにしている、と」
「カシコマリマシタ」
言うが早いか北の方角へ羽を広げた要を見送り、手元に残された山茶花を見つめた。
枝ぶりがしっかりしていて美しい。これは野山に咲いたものではなさそうだ。もしや滞在先の藤の花の家で一枝貰ってきたのだろうか…自分の生存証明と、俺への不義理を詫びる為に。
(…時折こうして、気障な真似をしてみせるな、あの男は……)
周囲に誰もいなくて良かった。このだらしなく緩み真っ赤に染まった顔を目撃されるのは要にだけで充分だ。
無愛想で口下手な男は、時にそれを補って余りある天然誑しぶりを発揮するのだ。こちらが油断している時に限って、特大の爆弾を平然と投げつけてくる。おかげで俺の心臓は制御が効かないほど乱れ、せっかく長年培った全集中常中も簡単になき者にされてしまう。「悪かったなァ」という本当に悪いと思っているのかわからないようなぶっきらぼうな物言いと、反対に長い不義理が俺の怒りを買ってはいまいかと広い肩を小さくしている様子が浮かんでしまって、思わずくすぐったい笑みが漏れた。
贈る花が山茶花というのがまたなんとも言えず照れくさい。彼は意味をわかって選んだのだろうか…いや、彼のことだから、おそらくそんな意味は微塵もなかっただろう。ただ滞在先で見つけて、綺麗だと思ったから。それだけだ。…他意はないから困るのだが…。
頼むから他の人間にはしてくれるなよ、と俺は不死川へ念を送る。見上げる青い空は、たとえ遠く離れていようとも、確実に彼のいる場所と繋がっている。
君が今いる場所も、この空と同じく澄み渡っているだろうか?
(…今日、急な任務が入らなければ…明朝には会える……)
二月半ぶりに、愛しい彼に会える。きっと疲れているだろう。胡蝶の言うように各地を転々と戦い続けていたのなら、体はぼろぼろだろう。慣れない部隊長としての立場に、おそらく神経もすり減らしているだろう。俺の姿を見た彼が、張り詰めた気持ちをほんの少しでも緩めてくれるといい。
(どうか、あと一晩、…無事にいられますように)
ちょうど天辺に差し掛かった太陽に向かって、俺は両手を合わせ精一杯の祈りを捧げた。
◇◆◇
初冬の夜明けは空気が冴えていて気持ちいい。夏に比べて随分と陽が昇るのが遅くなったが、明ける空は薄紫と白と橙を水で溶いたような独特の透明感があり、夜露を反射した太陽の光がきらきらと眩しくて、血腥い夜を駆けた後はいっそう心が洗われる心地がした。
警邏を無事に終え、俺は足早に風屋敷へと向かった。要を先触れにやったところ、既に帰還した不死川から「待っている」と返事が来た。
落ち着け、焦る必要はない、夜が明けたところなのだから時間はたっぷりあるだろう。頭では冷静な思考がそう叫ぶのに、体は全く言うことを聞かない。足は勝手に回転を速め、腕は大きく振られて加速をつける。それと共に脈も速くなり、心臓はばくばくと忙しない。夜明けの直前は、一度炎屋敷に帰って湯浴みをしようと考えていたにも関わらず、俺は一直線に風屋敷への道を進む。自分の乱れた服装に気を遣うよりも一刻も早く不死川に会いたい。彼の無事を確かめたい。低い声を聞きたい。光を宿す瞳を見たい。
(彼の体温を感じたい…)
「御免下さい。煉獄だ」
風屋敷の立派な門を叩き声をかける。早朝という時分を鑑みなるべく小さく挨拶したが、内側からすぐに応答があった。
「おォ。入って来い」
心臓がまた跳ねる。久々に聞く不死川の声だ。疲労故か少し掠れて上擦ってはいるが、低くて甘い、彼の声だ。
「お邪魔します」
脇戸をそっと開くと、隊服姿の不死川が既に玄関の引き戸を開けて待っていた。
「不死川。久しぶりだ。息災だったか」
「……ん。……まァ……」
不死川はどこか居心地悪そうに首筋を掻き、視線を落とした。広い肩が心なしか縮こまり、いつもはぴんと張っている背筋が丸く曲線を描く。顔は青白く目の下には隈ができていて、元々細い顎が更に細くなった気がする。これは想像以上だ。
「君、随分と疲れているようだな。大丈夫か」
「……その様子じゃ、聞いたのかァ……」
「君が一個小隊を率いて任務に赴いたという話なら聞き及んでいるが」
「……なっさけねぇわァ……」
何が、とは明確にしなかったが、不死川はそう言うと盛大なため息をついて、まァ上がれと俺を促した。
座敷ではなく広い庭に面した縁側へ案内され、二人並んで腰を下ろし東から昇る朝日を拝む。世話役の隠が二人分の茶と茶碗、味噌汁、そして炊きたての白米が山程入ったお櫃を運んで来てくれた。
「よもや、俺の分まで朝飯を用意してくれたのか。かたじけない」
「気にすんなァ。テメェも警邏明けだろォ」
「どうぞ召し上がって下さいませ、炎柱様。風柱様が美味しい漬物を土産に下さいましたので、ぜひに」
「ありがとう。遠慮なく相伴に預かるとしよう」
不死川はお櫃から白飯を茶碗一杯によそい、俺へ差し出してくれた。炊きたての白飯からは美味そうな湯気と香りがほかほかと立ち昇る。ちょうど良い加減の味噌汁は寒風に冷えた体を温めてくれるし、不死川が土産に買って来たというきゅうりと茄子の漬物はしっかりと漬かった塩味が白飯をいっそう引き立ててくれる。続けて運ばれてきた南瓜の煮物や焼き鮭も胃に優しいほっこりとした味付けで、箸が面白いほどに進んだ。
不死川は始めは慣れ親しんだ味を噛みしめるように黙々と食べていたが、ある程度腹が落ち着いてくると、珍しくぽつぽつと愚痴をこぼした。
「知ってはいたが最近の隊士の質の悪さにゃァ反吐が出らァ。鬼の気配もろくすっぽ追えねぇ、標的が目の前に現れたってのに縮み上がってまともに刀も振れねぇときた。俺の堪忍袋にいくつ緒がついてりゃァあの連中をまともに教育できるってんだよォ…」
「その割には死者を一人も出さなかったと聞いたぞ。君の実力には感服する」
「運良く死ななかったってだけだろォ。次にテメェらだけで任に就くってなった時にゃァ、今のままだとあの中の四、五割は間違いなく死ぬぜェ」
「そんな連中ばかりだったか?」
「あん?」
「見たところ、君に傷はなさそうだ」
「……」
「君が稀血を使わずとも、それなりに戦える隊士がいたのではないのか。君の速さについて来られて、君の補佐として刀を振るえる隊士が、少なくとも一割程度はいたのでは?」
「……嫌な野郎だなァ、テメェは……」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「…一割もいねぇよ。〇・五割くらいだなァ」
「はは。やはりいたのか」
風柱の速さと剣技に食らいついてこれる有望な隊士が〇・五割もいたのなら、鬼殺隊の未来はそう悲観するものではないなと笑うと、不死川はどこか不本意そうに舌打ちした。
どうやら今回二月半もの間不死川と行動を共にしたことで、彼の剣技にいたく惚れ込んだ隊士が二、三名いたらしく、そのうち稽古をつけてくれと懇願されるに至ったという。
「命知らずっていうか、馬鹿なのかってんだよォ。まともな神経じゃねぇなァ」
「ははは、そんなことを自分で言うか」
「恐怖で麻痺しちまったのかって言ったら、強くなりたいんだって渾身の眼差し向けてきやがる……頭のネジがぶっ飛んじまってるとしか思えねぇ」
「ふふ。なかなか骨のある者達だな。しっかり指南してやるといい。君の為にも」
「んだ、そりゃァ」
「他者との稽古は自分の向上にも必ず役立つ筈だ」
「……ふん」
「気概ある隊士に巡り会うのは嬉しいものだな。君にもついに継子ができるだろうか」
「……。……取らねぇよ、継子なんざ」
絆されたつもりはないが死なねぇ自信があるなら嫌ってほど扱いてやるとは言っといた、と不死川はぶっきらぼうに言って茶碗に残った味噌汁を飲み干した。その耳は少し赤く染まっていて、彼の複雑な心境を如実に物語っていた。
本人は決して認めないが、不死川は人に情を移すことを怖がる傾向がある。それは失うことが多過ぎる故のある種の自己防衛のような気もするし、また単にその内側の優しさを知られたくない、もっと端的に言えば極端に照れ屋なだけという気もする。いずれにしても不死川実弥という男は、天邪鬼かと思えば意外なほど素直であり、そうと油断すれば照れ隠しの鉄拳を食らってしまうような、扱いが難しく少し歪で、しかしその強面の風情に慣れてしまえばなんとも興味深い人間である。
胡蝶の思惑通りに事が進んだなと呟くと、不死川は「だから嫌なんだよアイツ、何かにつけて口うるせぇったら」と憎々しげに吐き捨てた。彼自身、何故自分が小隊を任されることになったのかは察しているらしく、自分に対する胡蝶の心遣いも理解した上で悪態をついてみせる男に俺は苦笑した。
「そもそも君が勝手に蝶屋敷を抜け出すからだろう。神崎隊士にもきちんと謝罪するべきだぞ。彼女は役割を全うできなかったと自分を責めていたらしいから」
「……わかってらァ……」
「……。ふふ」
「んだよ」
「いや。君は傍若無人のようでいて、存外素直だから」
「……」
「その様子ではここへ帰り着く前に蝶屋敷に寄ってきたのだな。俺が小言を言うまでもなく、君はきちんと謝罪できる人間だった。余計なことを言ってすまなかった」
「……テメェもテメェで嫌な野郎だ。何でもかんでもいちいち見透かしやがってェ……」
不死川は膝に片肘をついてそっぽを向いた。不死川は見目にそぐわず女子供にはかなり甘い。傷つけただろう相手に頭を下げられる素直な面は彼の長所ではあるが、ふと昨日感じた恋人としての一抹の不安が再び脳裏によぎった。この男の謝罪とは、果たして言葉だけなのだろうか、と。
「なあ、不死川。まさかと思うが、神崎隊士に花を手渡したりはしていないだろうな?」
「あ? いや、花は…金平糖とか干菓子を置いてきたけどォ……なんでェ?」
「そうか。良かった」
「あん?」
意味がわからないと顔に書いて首を傾げる目の前の恋人に、俺は自らの不安は決して杞憂ではないことを悟る。本当に天然とは恐ろしいものである。少しくらい自覚してくれなければ、彼に恋をしている煉獄杏寿郎という生身の男の心が全くもって休まらない。
「昨日の俺への美しい花の贈り物、ありがとう。とても嬉しかった」
「……別にィ……最後に立ち寄った藤の家の庭に、随分綺麗に咲いてたからよォ…見事だって褒めたらわざわざ手折ってくれたんだよ。無下にできねぇだろォ」
「…うむ、なるほど。予想通り、やはり深い意味はなかったのだな。残念無念」
「なんだよ、深い意味って?」
「君は花言葉というものを知っているか?」
「はなことば? …知らねぇ。なんだ、それ」
「人に贈る花にはそれぞれ意味があるというものだ」
「そんな雅なこと俺が知ってるわけねぇだろォ」
「うん、まあそうだろうと思った。これからは覚えておくといい。君の為だ」
「……ちっ……」
なんか小馬鹿にされてる気がすると口を尖らせるので、君の何の気なしの行動がどれほど人を惑わせるのかいいかげん理解してくれと俺は額を押さえた。無自覚天然誑しもここまで来るともはや立派な罪である。蝶屋敷の年端もいかぬ少女達の淡い初恋を奪いかねない己の恋人に、俺は心の底からの強い危機感を持った。
「山茶花の花言葉には、『永遠の愛』『貴方は最も美しい』というものがあるんだ」
「へ!?」
「二月半もの不義理に不満を抱く頃にそんな意味のものを贈られて、俺は血管が破裂するかと思うくらいどきどきしたぞ。君が言葉で届けられない想いを花に乗せて贈ってくれたのかと」
「だんっじてそんな意味はねぇっっ!」
「そんなに強く否定することはないだろう。傷つくな」
「たまたま! たまたま見かけたからだァ! テメェにだって日々の憂いは少なからずあるだろうから綺麗なモン見て癒やされてくれりゃいいなって、ただそれだけで」
「…ふふっ、そんなに慌てずとも、わかっているとも。だから、ありがとう」
「……」
綺麗だと思った花を、彼は他の誰でもなく俺に贈ってくれたのだ。俺がほんの一瞬期待したような求婚めいた意味はこもってなくとも、彼が俺を想い、俺の無事を信じて爽籟に言付けてくれたあの花は、俺への愛が不死川の内に常に息づいているのだという証拠のように思えた。文を書けない不死川からの、文以上の愛の告白。戯れに拗ねた横顔が愛しくて、その少し痩せた頬をそっと撫でた。
「なあ、実弥。お願いだから、その想いを他の誰かに向けるのはやめてくれ。俺だけにしておいてほしい」
「……他の誰にすんだよ」
「どうだろう。君は存外迂闊だからな。油断できん」
「人を阿呆みてぇに言うなァ……」
不死川は俺の二の腕へ拳を突き立て、俺の唇を指でなぞった。くだらねぇ戯言だと笑う唇がゆっくりと迫ってくる。瞳を閉じるとあたたかな感触が柔らかく唇を覆った。優しく触れただけで離れたそれが物足りなくて、もう少しと強請ると、不死川は小さく笑ってもう一度俺へ口づける。普段は俺より冷たい彼の唇がやたらと火照っている気がして薄目を開けて様子を窺うと、不死川はついに堪えきれない欠伸を漏らした。
「…不死川。正直に答えてくれ。今回は何日不眠不休だったんだ」
「数えてられるほど余裕ねぇわァ……ヤベェ」
「どうした」
「…一気に眠気が下りてきたァ……」
耐えられないというように不死川は俺の膝へ頭を乗せた。悪いが少しだけ膝を貸してくれと眠気満載の声で強請られる。俺は何とも言えない脱力感にため息を吐いた。
「俺の膝でいいのか。布団のほうがよく眠れるだろう」
「……あのなァ」
「うん?」
「………惚れた相手の膝で眠れるってのは………至上の幸福だろォがァ……」
「………」
「……あぁ、ちゃんと生きてる、って………思える………」
不死川はほやほやとした口調で途切れ途切れにそう呟き、あっという間に眠りの世界へ落ちていった。
またしてもとんでもない大型爆弾をぶつけられ、俺は照れるやら嬉しいやら恥ずかしいやら、どんな反応をしていいのかわからずに、真っ赤に染まった顔をひたすら手で覆い隠した。
(…これだからこの男はたまらないんだ。俺のツボを嫌というほど的確に押してくる……)
俺の膝など硬いだけだろうに、不死川はまるで極上の枕を手に入れたように心地良さげな寝息を立てる。この男がこんな調子で甘えてくるなど滅多にないことで、こちらこそ至上の幸福に感謝して、せめて彼の首が痛くならないようにと足を緩く崩した。
俺の脚絆は泥で汚れていないだろうか。汗臭くないだろうか。血腥い夜の穢れは残っていないだろうか。俺は胡座をかいた姿勢で見え得る限りの己の服装を見直した。こんなことならやはり湯浴みをしてから来るべきだったと一瞬後悔したが、腹が満たされたことでこんなにも簡単に眠りに落ちてしまうなら、やはり寄り道をせずに来て正解だったのだと思い直した。せっかく彼に会える数少ない機会なのだ。訪れた時に既に眠ってしまっていたのでは寂し過ぎるし、疲れている彼を起こす真似などできよう筈もなく、この機を逸すると次はいつ会えるのかもわからないのだから。
ふわりと舞う暖かな風が不死川の色素の薄い髪を揺らして去っていく。その髪に手を差し入れると、絹糸のような感触が指に絡まる。硬質な印象なのに意外と柔らかで、心地良い。規則正しく上下する開けた胸は多少目に毒ではあるが、高まっていた口づけの先の触れ合いへの甘い期待を遥かに上回る幸福感が俺の胸を満たしている。警戒心の強い彼がこんな無防備な姿を晒すのは俺の前でだけなのだ。いっそこのまま一日寝入ってくれればいい。
(あたたかい。…ちゃんと生きている……)
不死川は俺の膝を枕にしたまま穏やかな顔をして眠り続ける。俺は彼を起こさないよう気をつけながら、銀に光る髪をそっと撫で続けた。
彼のぬくもりが俺を包んでくれる時、俺は他の何よりも生を実感できる。生きていて良かったと、また明日も生きていたいと思えるのだ。不死川が俺の体温を感じる時、俺の温度もまた、彼の孤独な心を少しでも癒やせているといい。
(…束の間だが、…ゆっくり眠ってくれ。実弥)
俺の唯一の愛しい男。
誰よりもこの世の生を愛しむ君が、どうかこの先も、あたたかな世界に生きていてくれますように。
◇◆◇
「おーい、そろそろ風呂の支度ができるぞ。風柱様、お食事を終えられただろうか」
「ああ、そろそろいいんじゃないかな。俺、ちょっと声かけて来るよ」
久方ぶりの主の無事の帰還である。その間、実に二月半。俺達世話役の隠も出迎えにいっそう力が入るというものだ。未明から屋敷を隅々まで清掃し、食事と風呂の支度をして、風屋敷の世話役総出で風柱様を出迎えた。身体よりも神経をすり減らしたようなげっそりとやつれた様子の風柱様は、血走った両目を庇うように眉間を押さえ、ぐっと眉を寄せつつ俺達に謝辞を述べ、土産だと言って漬け物や可愛らしい干菓子を数箱渡してくれる。見目に似合わずお優しくて、気配りを忘れない方なのだ。
風柱様の帰還と時をほぼ同じくして炎柱様が来訪されたのは少し驚いたが、御二方は元々仲が良いほうだし、長期の遠征から得た情報を一刻も早く共有したいのだろうと納得した。ほんの少し前までは御二方の真剣な話し声も聞こえていたし、膳を調える間も最近の隊士の不出来に苦言を呈する風柱様の尖った声がぎりぎりと地を這っていた。
だが炎柱様を前にすると、脈がひりつくような風柱様の低い声は不思議と丸く柔くなる。炎柱様の快活なお人柄のせいなのか、青空の如き爽快な笑顔のおかげなのか、風柱様の研ぎ澄まされた鋭利な空気が春風のように穏和になるのだ。御本人は無意識なのかもしれないが、炎柱様の隣では、風柱様といえど全く普通の青年なのだと、普段の様子からは忘れてしまいがちな現実をふと実感するのである。
さて、それはそれとして、だ。久々に帰還した我が主は、憔悴とまではいかないがかなり疲弊されている様子だ。疲れを取る為にも少し温めの湯にゆっくりと浸かって、存分に体を休めて頂きたいのが世話役としての当然の心情だ。ちょうど良い湯加減の今、風柱様に入浴を勧める為、俺はいそいそと厨から続く廊下を渡った。
南向きの縁側へと足を進める中、ふと、先程まで話が弾んでいた筈の風柱様と炎柱様双方の声が全く聞こえないことに気がついた。気配はあるのに、どうかしたのだろうか。俺は不思議に思いながら、廊下の角で膝をつき、御二方の邪魔にならないように小さく声をかけてみた。
「失礼致します、風柱様、湯浴みの準備が………」
そこまで口にしてそっと角の先を覗くと、そこには目を疑うような光景があった。
炎柱様の膝の上に大の字になって転がり、すうすうと穏やかな寝息を立てる、まさかの風柱様の無防備過ぎるお姿……。
思いもよらないその図に、俺はあんぐりと口を開けて固まってしまった。あの風柱様が、人前で。人を寄せつけない警戒心の塊で、弱みなんて決して見せない風柱様が。どんなに疲れていても俺達の前ではおくびにも出さず、毅然となさっている方が。
炎柱様の膝で、まるで子供のようにぐっすりと寝入っているなんて。
俺は自分の見ているものが信じられなくて思わず両目を擦った。しかし何度目を見開いて見直してもそこにある光景は寸分も変わらず、あまつさえ寝返りを打った風柱様が炎柱様の膝に猫のようにすり寄るという更にあり得ない仕草まで見てしまって、俺はどうしていいかわからず反射的にその場に蹲ってしまった。
これは絶対、見てはいけないものだったに違いない。こんな光景を目撃してしまったなんて後で御本人に知られたら、怒髪天を衝く勢いで殴られるとしか思えない。申し訳ありません、と何に対しての謝罪だかわからない文言を繰り出した俺に、炎柱様は察したように小さく肩を揺らした。
「君」
「は、はいっ!」
「……内緒だぞ」
炎柱様は悪戯っぽく、それでいてどこか艷やかにそう囁いて、節ばった人差し指を口元へ当てて俺を牽制した。
(………それは、どれをだ)
風柱様がこんな場所でうたた寝をしてしまっていることか。
炎柱様の膝枕を享受していることか。
それとも、御二人の間に流れているいやに甘ったるい空気をか。
おそらくはその全てがばっちり当てはまるだろうその「内緒」に、俺は当然の如く平伏せざるを得なかった。
「もちろんでございます。五秒後に忘れます」
俺は裏返りそうになる声を必死で抑えてそれだけ言って、床板に手をついたまま後退るという器用な真似をしてその場から逃げ去った。
(忘れます。忘れますとも。俺だって…命は惜しい……)
あまりの衝撃的な光景は忘れることなど生涯に渡ってもほぼ不可能だ。当然である。もちろんそう理解しているが、得も言われぬ炎柱様のあの色気と有無を言わせぬ圧に逆らうほど命知らずではない。決して他言はしないという誓いの意味で言った言葉を、きっと炎柱様も理解して下さっているだろう。
それにしても。ああ、俺は心底この職が似合いなのだなと自賛する。刀を振るうより、どこか抜けている人間の世話をする方が性に合っている。
今日は陽射しが暖かく比較的穏やかな気温ではあるが、真冬である。
(……あのままだと、…風邪をひかないかな……)
硝子戸を閉めていても寒いものは寒い。日向ぼっこ程度ならまだしも、風柱様の胸を全開にしたあの服装のままで寝入ってしまったのでは、さすがに心配だ。疲労は免疫を低下させますから、という蟲柱様のお言葉を思い出し、やはり捨て置けないと俺は寝室の押し入れを開けた。
掛け布団か、せめて半纏をお届けしよう。その際はもちろん無言で、そっと廊下の端から押しやろう。炎柱様のことだから、俺の世話役としての気遣いはちゃんと受け取ってくれる筈だ。
「あれ? 風柱様を呼びに行ったんじゃ……」
「ああ、もうお休みになるらしいから、奥には行くな。風呂は目覚めてからでいいとさ」
「そうかぁ。さすがにお疲れなのかな。二月半は長いよなぁ…」
「……そうだな…」
うちの主は、実に二月半もの間、神経を張り詰めて鬼殺に邁進していたのだ。珍しく配下の隊士を引き連れての長期遠征で、珍しく傷を作らずに帰ってきた。その褒美に、誰にも邪魔されない束の間の休息を得ることくらい許されても良い筈だ。
「…なあ」
「ん?」
「……例えば、例えばさ。恋人と連絡を取らずに許される期間て、どれくらいだと思う?」
「は? ……さあ、人によるんじゃないか? まあ俺なら半月もすれば不安で仕方ないと思うけど」
「…だよな。普通は……」
「なんで?」
「……いや……まあ、ちょっと」
せめて今日だけでも、ごゆっくりとお寛ぎ下さい。俺は先刻の御二方の睦まじい様子を脳裏にそっと浮かべながら、心の中で祈った。
どうか、再び、この心安い日が訪れますように。
なるべく早く、できれば長く。