愛と海2「とても素晴らしいです」
横顔が煌めいている。
海は遠いはずなのに、風に乗って微かに潮の匂いがする。海と空が一望できるこの場所を、古論は気に入ってくれたようだ。
「こんな素敵な所へ、連れてきてくださってありがとうございます」
綻ぶような笑みを浮かべて感謝を述べる古論に、雨彦もつられて笑みが溢れた。
「どういたしまして」
山の中腹で気温が冷たいのか、古論の頬が少し赤くなっている。本人はそんな事に気付きもせず景色に夢中になっているから、愛らしさに胸が震えた。
「さっきの話の続きだが」
突然の雨彦の声に古論が振り向いて、きょとんとした顔で見つめてくる。
唐突な切り出しだったか。古論を前にするといつもこうだ。
「さっきの?」
「お前さんが、一つは選べないって話さ」
「…はい、そうですね」
「殆どの人はみんなそうだ。一つは選べない。ただ、優先順位やランク付けというものがあって、みんなその中での1番や2番と、都合よくその場限りで一つだけを選んでいるものだ」
「そうなのですか」
「そうだ。一つを選んだからと言って、それ以外が全てゼロになるわけじゃない」
「………」
考えたことも無いという顔だ。
まるで足が欲しいと言ったら声を失う人魚姫のような事が現実にあるとでも思っていたような。
そこまで極端じゃ無い。でも、古論の愛は全てだから、一つを選んだらそれだけになってしまう気がしていたのだろう。
「愛や情はいくつあってもいい。人によってはいろんな種類の愛を持っているが、お前さんの場合は全てがひとつの愛だ。だから、俺からひとつ言えることとしたら」
古論の真っ直ぐ正面に立つ。向き合って、少し赤い頬を撫でた。
「この広い海をたった1人で独り占めできるやつは果たして存在するのかってところだな」
「海を…」
琥珀色のまつ毛が重そうに降りる。古論の頬はすっかり冷たくなっていた。
「海の水を全て集めたいなんて、叶いそうもない選択にOKを出すのか?」
「わたしは…」
言いかけて、古論は口を噤む。無言の時間が続いた。
「帰ろう。すっかり寒くなってきたな」
切り出したのは雨彦からだった。
囁くような宥めるような声音になってしまったのは、雨彦の中の淡い感情が滲み出てしまっているからだ。
まだ気付かれてはいけない。
「はい。……雨彦」
「ん?」
「それでも私が、その叶いそうもない選択を選んでしまったら、どうしますか?」
「俺たちの古論クリスじゃなくなっちまうな」
「…それは、そうですね」
少し無理して微笑んだ顔は、やっぱり綺麗だと思ってしまった。
踵を返して車に戻る。古論は名残惜しそうに背後をもう一度だけ振り返って、大人しく雨彦の後を着いてくる。
「なにか、温かいものでも買って帰りましょう」
「そうだな、さすがにこの時間の山は冷えた」
「また来たいです。」
「喜んでドライバーになるさ」
「それは頼もしい」
2人だけの秘密だ。ここに来たのも、こんな話をしたのも。
古論がどんな選択をするのか、雨彦は全てを把握する権利を持たない。でもきっと、古論が古論のままで居られるような選択をしてくれるだろう。雨彦はそう願わずにはいられない。
「あれ、つけてなかったねー」
事務所のロッカールーム。レッスン終わりの着替え中に、北村がそう声をかけてきた。
「あれってなんだ」
「気付いてるくせに。雨彦さんが何か言ったんじゃないのー?」
「何も言ってないさ。そんな野暮な真似はしないタチなんでね」
着替えを済ませているはずなのに、北村はロッカールームから出て行く気配がない。この話をしたくて、雨彦と2人になるタイミングを伺っていたのか。ちなみに古論はまだ来ていない。プロデューサーと話し中だったので置いてきた。
「まぁいっか、なんでも。クリスさんに変な虫が付くの嫌だったし」
「虫というか、寄生虫だったんじゃないか」
「えーそこまでいく?」
「さぁな。俺は何も知らない」
「…いつまでもそんなんじゃ、また同じことになりそうだけどねー」
「───何の話ですか?」
ぎょっとして声のしたほうを見ると、古論が戻ってきていた。まだレッスン着のままだ。
「最近寒くなってきて、Gを見なくなったねって話。」
「あいつらは寒さに弱いからな。次の夏に見ないよう対策するには、冬の間がおすすめだぜ」
「そうなんだー知らなかったー」
棒読みの北村は放っておいて、「お前さんも早く着替えな」とだけ古論に言い残してロッカールームを出た。
あの深夜のドライブからもう1ヶ月が経った。古論はあの日の翌日から、本当に何事もなかったかのように、正真正銘普段の古論に戻っていた。流石の切り替えだったので、雨彦の方があの場所に行ったのは夢だったのかと疑うほどだった。
例のブレスレットは、その後数日はまだ手首についていたが、それもいつからか見なくなった。
たまたま外しているだけか、とは思ったものの、この2週間程は一度もつけている姿を見ていない。
なるほど、お相手と切れたか。
と雨彦が確信したのはここ数日。それは北村も同じだったようで、雨彦の気持ちを知ってか知らずか、先ほどのようにふっかけてきたというわけだった。
何にしろ、雨彦の中の心配の種が減ったのは良いことだ。古論の調子も良さそうだし、またしばらくは安心していいと言える。
『また同じことになりそう。』
北村の言うことは一理ある。雨彦もいつまでも傍観しているわけにはいかない。
それでもあの不器用な古論が、自分の中にあるのはただ広いだけの海ではなく、深海やもっともっと深く暗い場所を持つものなのだと気付くまで、雨彦は待っているのだ。
早くここまで落ちてきて欲しいと願いながら、溺れるのは自分のほうかもしれないと怯えている。
おかしな恋をしているものだ、と雨彦はまたひとつため息をついて、遅れてやってきた北村と古論を出迎えた。