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    mctk2kamo10

    @mctk2kamo10

    道タケと牙崎漣
    ぴくしぶからの一時移行先として利用

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    2018/07/01

    ……2018年?

    #エムマス【腐】
    #腐向け
    Rot
    #道タケ
    #牙崎漣
    asakiProducts

    光へ!注意書き
    ・エムマスとエムステごちゃまぜ設定(マス中心。ステの設定はタケルの網膜剥離だけ)
    ・年取るアイドル(開始時点でタケル20、漣21、道流27)
    ・割とよく喋るプロデューサー

    ざっくり言えばくっつかない道タケが牙崎漣に振り回されてる話です。

    --- * ---

     新曲のジャケットには炎を写し込んで「THE虎牙道らしい」ものにしましょう、とは、プロデューサーの案だった。もうすぐデビューCDの発売日、つまり三周年。その記念日に被せて発売する予定だから、原点に立ち返ろうということだ。確かに獣や炎と言った単語は活動初期に大切にしてきたイメージコンセプトで、二つ返事でタケルと道流は了承し、漣は「なんでもいい、それよりダンスは今までで一番激しいやつを寄越せ」といつも通りの文句を述べた。
    「でも、漣の言う通りッスよね。コンセプトはデビュー当時と同じだとしても、ダンスや歌は今までで一番のものを見せないと」
    「ああ。三年分の成長をファンに見てもらいたい。衣装も当時と似たものにしよう。……十七のときと同じ衣装か」
    「タケルは特に体付きが変わったものなあ。身長はそんなに変わってないが」
    「くはは! チビはほんっといつまでもチビだよな!」
    「そういうオマエは十八超えて成長期と反抗期と思春期が来たよな、ガキ」
    「テメェの方がガキだろチビ、表出ろ!」
    「受けてやるが勝負は会議の後でな!」
    「何言ってんだ今すぐだ!」
    「ははは、落ち着け、会議が優先だ。本当にタケルと漣は変わらないなあ」
     ひたすら騒がしいのは虎牙道の十八番で、これだけは三年間変わらなかったことである。
     タケルはボクサーを辞めたことで育てる筋肉の自由度が増し、体つきが大きく変わった。漣は身長が伸びに伸びて今や道流に並ぶほどである。もともとのスラブ系の顔つきも相俟って、今の漣にはただ存在するだけで気圧されるような迫力があった。道流は若い二人には負けまいと体型の維持には気を配ったがさすがに成人前にデビューしたふたりの変化を前にすると「少し筋力が落ちたかな」と思わなくもない。
     けれど、ダンスや歌で負けるつもりはない。アクションでも当然だ。新曲の方向性確認、そのジャケット、MV、記念ライブツアーに新規アー写など話し合うことは盛沢山であったがそのすべてで「三人それぞれの『勝ちたい』『負けたくない』という気持ちを見せたい」「変わらない、けれど進化したTHE虎牙道を見せたい」という方向で話を決め、激しくも熱いイベントにするべく詳細を詰めていく。
     そういった会議を終えて、部屋を飛び出すなりタケルと漣は「円城寺さんも勝負に参加してくれ」「勝った奴にはらーめん屋のラーメンだかんな!」と言いながらレッスンスタジオにあっという間に走っていってしまった。道流はそれを見送りつつ、プロデューサーと話をして歩く。
    「三周年、ッスか。速いもんですよね、時間の流れって」
    「そうだね、特に二十超えちゃうとね……タケルくんも漣くんも二十前にデビューしたんだな。若いなあ」
    「自分が十七や十八の頃は柔道しかなくって、もっと視野が狭かった気がするんスけど、ふたりはすごいッスよね。すごい。デビュー当時はふたりのことを弟みたいだって思ってましたけど、今はとてもそう思えなくて。もちろんふたりのやんちゃなとこは今でもかわいいッスけど、それだけじゃないって思います」
    「うん、THE虎牙道は何年もかけて対等になったんだね。それは近くでプロデュースしてた自分が一番知ってるよ」
     そう言われて思い出すのは、武田信玄を演じた戦国映画村でのイベントだった。あのとき初めてふたりから勝負を挑まれ、そして勝った。いつもはふたりの喧嘩を諫める係だった自分が、ふたりと同じ立場で、勝負して、勝つ。それだけのことに心が打ち震える程の喜びがあった。きっとあのとき感じたものは、柔道家を離れて以降忘れていたもの。
     今でも全身に響き渡るように蘇る興奮をどうにか収めつつ、プロデューサーに語りかける。
    「楽しみ、ッスね。今度の曲で、ライブで、自分たちがどんなふうにファンに映るか。ちゃんと体作っていかないと!」
    「そうだね、肉体美は虎牙道の魅力のひとつだし」
    「そのためには計画的なトレーニング! もう一回スケジュールの確認だけ良いッスか、師匠」
     尋ねてみればプロデューサーは歩きながらも手帳を取り出し、道流の目線に合わせて開く。
    「うん、直近で言えば新曲のレッスンだな。歌収録が来週、MV収録は今月中で曲のデジタル先行配信が来月。CD発売がその二週間後になって、そこからCD先行のライブチケット抽選が始まる。ライブが三ヶ月先。それぞれレギュラーのテレビとかラジオの収録の他に、来月以降、道流さんはCM撮影、漣くんはゲストモデル、あとインタビューとかアー写の個撮が細かく入ってるけど単発の仕事だしそれほど負担にはならないと思う。タケルくんだけはこれと並行して映画の撮影があるよ。確か期間は一ヶ月半、撮影地は都内スタジオ中心の予定だったかな。CD発売あたりがクランクインだから、ライブのレッスンは彼だけちょっとキツいかも」
    「あーそっか、CMにモデル……タケルは映画か。主演でしたっけ」
    「そうそう。寡黙で孤独、ひとり正義と自己防衛の間で悩みながら戦い、本当の仲間を得ていく主人公のイメージにぴったりだってオファーがあってね」
     キャスティングを担当した人は、大河タケルという人物をよくわかっているな、と思う。確かにタケルは寡黙でどこか孤独な雰囲気を持っていた。今でこそこうしてTHE虎牙道という居場所を得て自分たちを仲間だと思ってくれているが、デビュー当時、彼がアイドルになった理由さえ教えてくれなかった時代は本当に彼は孤独だったろう。
     だからこそ、彼一人がこの映画に出るのは、少しばかりつまらないわけで。
    「その仲間の役、どうして自分たちを呼んでくれなかったんスかね」
    「キャスティング担当さん曰く『円城寺さんは年齢が高すぎ、牙崎さんは顔が日本人離れしすぎ』」
    「あはは! それは、まあ、仕方ないッスね!」
     手帳を閉じ、仕舞いこんでふたりで事務所を出る。「車出しましょうか」と尋ねられたが「タケルや漣が走っていったから自分も歩いていこうかって思ってます」と即答し、レッスンスタジオは近いと言えどプロデューサーを歩かせるのは少し抵抗感のある距離だと気づく。「師匠は車で!」と付け足せば「一緒に歩いていきます。虎牙道はプロデュースさえも体力勝負ですからね!」と答えてくれた。
     ふたりしてゆっくりと前を向いて歩いていく。タケルと漣はもうとっくに姿は見えないがその道中も騒がしいのだろうなと思えば愛しい。次は自分も勝負に混ざってみようか、と思って、先程の話題と思考が混線する。タケル主演で道流と漣もその仲間役となれば自分たちだけで空気を作ってしまって(しかも勝負だなんだとすぐに内輪ネタのように盛り上がる)、他の演者さんと壁を作っていたかもしれない。
     確かに道流とタケルでは七歳差。漣はハーフだかクォーターだかでどうにもアジア人要素が薄い。仕方ないよね、とプロデューサーと頷き合った。タケルがわかりやすい日本人体型で童顔ということもあり、仲間役は主に若めの役者で固められているらしい。
    「未成年もいるから打ち上げとかで事故起こらないと良いんだけどね」
    「タケルももうそういうので責任とる側ッスからね」
    「ねえ。そういえばデビュー当時は苦労したよね、飲み会に漣くん連れてきたら『昔どっかの国で酒飲んだことある』とか言い出して騒ぎになったり、タケルくんが水と日本酒取り違えそうになったり」
    「あー、ありましたね! 今でこそ一緒に飲めるようになりましたけど」
    「漣くんが飲み比べみたいなことをタケルくんに吹っ掛けなきゃね、こっちも心配要らないんだけど」
    「酒で勝負するのは危ないッスからね。あとタケルは美味い酒に出会ってほしい」
    「うん、無理して好きになる必要はないけど、美味しいものを共有したいからね」
    「タケル、何が好きッスかね……一緒に探していけたら楽しいッスね」
    「そうだね、そうやって虎牙道のみんなで美味しいごはん食べれたら良いよね。ラーメン食べてる時も十分楽しそうだけど」
    「そりゃ、自分のラーメンはがんばってる人に効くラーメンッスから! タケルと漣にはめちゃくちゃ美味いでしょうし、正直、一緒にいるだけで楽しいメンバーなんで。THE虎牙道は」
    「ならよかった!」
     会話を続けてなお、歩き続ける。東京の街並みにはもう慣れて、地元の空気が恋しくなることもあれど今となってはここを離れたくないとも思ってしまう。道流は愛着というものが自分の大半を占めることを理解していた。格闘家を諦めざるをえない故障のとき感じた絶望もそう、ラーメン屋になって、今のビルで続けてゆきたいと思ったこともそう。THE虎牙道のふたりと過ごす時間を心地よく思ってしまうのも。すべては愛着のせいであった。――そして今愛しく思うすべてを守る手筈は整っている。もう少し待てばすべてに手が届くのだ。
     ぐっと手を握りしめ、今すぐにでも駆け出したくなる気持ちを抑えつけて、しかし抑えきれずに跳ぶように数歩先へ。
    「師匠、急ぎましょう! きっとタケルと漣がスタジオで喧嘩してます」
    「うん、そうだねえ!」
     車でどうぞなんて言ってたのに結局走らせてしまう。けれどそれが楽しかった。


     無事歌収録やMV撮影が終わり、デジタルの先行配信が開始された。各サイトの配信売り上げランキングの上位に自分たちの曲が入っていることを確認してはメンバー内で喜びを分かち合う。もともと勝負の世界にいた虎牙道の三人にはこういう数字となって結果が返ってくることはやはり嬉しかった。そしてその先に彼ら本人だけではなく、曲を聴いて喜んで、自分たちを応援してくれる人がいるという事実も。
     もちろん音楽だけでなくて、身体能力を活かした番組収録や派手なアクションのある映像作品も楽々こなしてきたし、特に道流は歌の良さから声の仕事が得意なのだと教えて貰ってから、ラジオ、声優、アナウンスといったジャンルにも手を広げて新しい自分を見せてきた。そのひとつひとつで技術に磨きをかけ、技術は確実な評価となり、評価は重みある報酬として手元に帰ってくる。CDでも新曲が出たその日、給料の振り込みを見て道流はひとり、拳を胸に抱えて少しだけ涙した。あのビルを守るだけの金を手に入れた。
     とは言っても、これだけの金額だ。自分ひとりだけで集めたわけではない。店頭に立ってくれるおやっさんや同じビルの店長を中心に出資も募ってみんなで集めた金だ。道流自身のアイドルとしての稼ぎも、決してひとりでは為しえなかったとわかっている。これは虎牙道の三人でトップを目指したからこその結果であり、ふたりが道流に与えてくれたものだった。
     ビルの立ち退き期限も目前に迫った、梅雨の終わりかけ。権利者を相手取り、不動産会社や弁護士立ち合いの元「このビルと土地を買収します。一括で」と通帳を見せびらかしたときの達成感と優越感は、正直なところ、アスリート時代に勝ち取った金メダルの喜びにも似ていた。唯一違ったのは、それが、自分の努力だけではなくて、支えてくれたとかそんな力関係の見える表現でもなくて、真の意味で「みんなで」手に入れた喜びであるという実感があったこと。これは自分とビルの仲間と、THE虎牙道で掴み取ったものだ。
     そういう感動的な経験を経て、ビルの仲間以外で一番に「おめでとう」と言ってくれたのはやはりと言うべきか、同じユニットのリーダーであった。一度は「その目標を手伝わせてくれ」と言われて断った相手。結果的には、自分と一緒になって闘ってくれた相手。
    「おめでとう、円城寺さん。これはTHE虎牙道にとってもひとつの勝利だ。――で、円城寺さんはアイドルを辞めるのか?」
     それへの返事は「まさか」だった。事務所に入ってふたりの姿が揃っていたので、その場で話しかけたのは自分であったが、こういう大切なことはやっぱり男道らーめんの超大盛りと共に提供してやるべきだったかな、と道流は思う。とりあえず今は返事だ、と咳ばらいを一度してタケルに微笑みかけた。その奥で少しばかり険しい顔をしている漣にも届くような張りのある声で答える。
    「まさか、辞めないさ。一度始めてしまったし、お前たちにも出会えた。自分はまだまだアイドルを続けてお前たちと頂点までの道のりを競っていたいぞ」
     タケルは顔を解いてとろけるように笑み、ははっ、と勝ち誇ったように笑うのは漣だった。
    「だよなあ、らーめん屋ぁ! オマエがこんなところで勝負から降りるわけねーだろ」
     妙に嬉しそうに語る彼の扱いについては、正直なところ、ここ最近リーダーの方が上手い。くすくす笑いながら「さっきのさっきまでふてくされて機嫌損ねてたのはどこの誰だよ」と呟いている。
    「お、漣は自分の心配してくれてたのか?」
     自分も畳みかければ虎牙道のやんちゃ坊主は照れを隠すように慌て「ウルセェ!」とタケルに向かって地を蹴った。「らーめん屋は昔っからそうだけどチビはほんと最近、特に気に食わねえな!」、よくそれだけ体を動かしながらそれだけ喋れる、と思うほどの声量。それと共に繰り出された蹴りをギリギリまで引き付けてから間一髪避け、タケルは緊張した顔を挑発するようなアスリートの顔に変えて漣に向けて鼻を鳴らした。
    「そういう勝負はこのあと、レッスンでな」
     彼の挑発に乗るのもまた、アスリートの顔をした漣であった。
    「いいぜ。長くスタジオに立ってられた方の勝ちな」
    「わかった。円城寺さんもそれでどうだ?」
    「お、いいな! ちょうど長丁場になってもいいようドリンクと塩飴をいっぱい持ってきてたんだ。暑くなってきたからな、水分補給はしっかりしろよ」
     選手時代にも使っていたスポーツバッグを指差す。軽く十キロ分の水分は入れてきたので、着替えのシャツなどを合わせてもはやパンパンに膨れ上がっており、一般人ならば誰が見てもあんなもの持ちたくないと言い出すであろう。しかしここにいるのは元格闘家ユニットのTHE虎牙道であったので、そんなこと話題にもならなかったし、思考回路が似ている。
    「円城寺さん、俺も持ってきちまった。水……」
     タケルが至極申し訳なさそうに指差した先には同じように膨れ上がった猫田ジムのバッグ。見たところ二リットルのペットボトルが三本あるか。顔を見合わせて笑えば漣だけが「ア? なんで笑うんだよそこで」と理解が及ばない様子で機嫌を損ねた。彼は意外と構ってもらいたがりなのか、仲間外れにされることを嫌う。「なんでもないよ」と道流は受け流し、話題を変えることにした。
    「じゃあ、そろそろ移動しよう」
    「今日も走っていくぜ、チビ!」
    「断る。今日は走るのには向いてない。それともあれか、最強大天才様はたかだか水三本も持てないか」
    「ハァ? ンなもん出来るに決まってんだろ!」
     三年前となんら変わらない物言いで、漣はタケルのバッグを担いだ。たかだか六キロと少し、持てるには持てるが確かにこれを持って走るには厄介だ。上手く荷物を持たせたタケルはくすくすと笑いながら「円城寺さん、そっちの荷物、半分持つよ」とサブバッグを取り出して中身を入れ替え始める。
    「これだけ飲んだら便所が近くなりそう」
    「はは、でも代謝が良いってことはすごいことだからなぁ」
     半分に分けた荷物をそれぞれ担いで、すでにドア付近にいた漣のもとへ。彼は「遅ぇよ」と文句を垂れたが、それも日常茶飯事。三人そろって同じ方向へと歩き始めた。
     スタジオに着けば貴重品はロッカーへ預け、タオルと水分だけ持ち込んで挑んだレッスンは来る新曲発売記念ライブに向けてで、そのダンスの特訓だった。さすがに長くアイドルを続けていれば、(二人に比べて)ダンスが苦手な道流でもカンが養われており、習得そのものは難しくはない。あとはどれだけ完成度を高められるかだが、今回は時間的に余裕があるのでこの調子でレッスンを重ねておけば問題ないだろう。
     自分たちの中でも特にダンスが得意な漣は、最初からカンがよく習得が早かったし、おそろしいことに最近は努力とアレンジを覚え始めた。今も振付師から教わったばかりのダンスを覚えきった上で「それならここはこうだろうが」と、よりアクロバティックに、より魅力的に昇華させていく。正直、いつもここで道流とタケルは置いていかれるように思ってしまうのだ。
     漣はすごい、と確かに感じていた。昔から。それは隣で踊り続けている自分たちが一番わかっている。彼はあっという間にダンスを覚えて自分のものにしてしまうから、決して追いつけない差ではないとしても、倒せない壁のようにも見えてしまう。目標として目の前に存在してくれる彼の存在は素直にありがたいのだけど。
     そう思う度に顔が暗くなるのだろう、いつも漣が「なーに考えてんだらーめん屋」と声をかけてくれる。
    「くだらねーこと悩む暇あったらオレ様のダンスについてきやがれ」
    「はは、そうだな! 自分も負けてられない。ただ自分と漣の魅力は違うから、そのあたりを意識して練習していこう」
     暗い顔を切り替えて返事をすれば、漣も満足げにして頷いた。漣はこういう奴だ。こうして喝を入れてくれる。本当に彼はこの三年で成長した。
     仲間を(以前よりは)素直に心配できるようになったのだ。最初からそうだったけれど、なおのこと、自分たちをちゃんと仲間と思ってくれている。――口調だけは、相変わらずだが。
    「ま、オレ様みてぇな身のこなしはらーめん屋には無理だよなァ! もちろんチビも。見ろよあのダッセェ動き」
     そう言って漣が顎でタケルを指す。振付師とほぼ一対一の状態で鏡の前で必死に動きを体に叩き込んでいる。まだ細かい動きの方が気になるようで、足と手の動きが一致しておらず、てんでばらばらな印象を受ける拙いダンス。漣は笑うというよりは険しい目つきで見つめている。どちらかといえば心配しているのだろう。
     いつも通りなら、心配はしなかった。これが大河タケルのやり方だ。スロースタートだが、ガッツはある。ずっと先生に食らいついて、時間の許す限り踊り続けてやっと物にする。それが努力なら得意だと歌った彼のやり方だ。
     だが回は事情が違う。タケルのみ出演、主演の映画。期間は一ヶ月半。撮影は基本的に都内のスタジオらしいので遠征はないだろうが、不安は不安だ。しかしそれを今から口に出すのもどうか、とも思う。タケルの邪魔をしたくはない。
    「……まあ、間に合わなければ頼ってくれるだろうし、それまでは自分たちも個人練だ」
    「そうかよ……あー、オレ様喉乾いた。水、一本もらうぜ」
    「ああ、遠慮するなよ! 倒れちゃ元も子もない」
     スタジオの端へと移動していく漣を見送る。その道すがらも、彼はまだ機嫌悪そうにタケルを見ている。
     干渉しないことを選んだ道流とて同じ気持ちでタケルを見ていた。仲間意識と同じくらい「ライバル」の意識が強い自分たちは妙な距離感で成り立っている。こういう時に手を差し伸べるのではなく見守ることを選ぶのだ。助けに行くのではなく、頼られるのを待つ。――少なくとも、それで道流はタケルに救われた。目標を手伝うと申し出されたとき、断って良かったと今でも思っている。そうして見守ってもらうことで、ただただ自分たちのリーダーであってくれることで、どれほど励めただろう。今度はその感謝を少しずつでも彼らに伝えていく番だ。同じように見守りたいし、同じようにTHE虎牙道の最年長として拠り所でありたい。
     努力家の彼だから下手に睡眠を削ったりしなければいいのだけど。タケルを見て考える。ダンスの習得に勤しむ彼の横顔がどこか思い詰めた様子に見えるのは彼のもともとの顔つきのせいか、それとも思い過ごしなのか。映画のクランクインもそろそろだというし、まだ首を突っ込む段階ではないが今後気にかけておくべきだろう。ひとまず、今晩は男道らーめんに誘ってやって超大盛りでも出してやるかと思う。いや、でも。それは最終手段だ。今日は家に呼んで、大盛りの白米と芋の味噌汁、豚肉多めで野菜と炒めて、豆腐か鶏肉で高タンパクサラダでも作ろう。たぶん、ウケがいいのは丼物とラーメンなのだろうけど、それは食事さえ面倒になってきたときの彼に贈る最終手段なのだ。今はまだちゃんと食事が摂れる時期だろうし、いろんなものをバランスよく。うん、と頷いてタケルを見る。フォーカウントの後、鏡越しに目が合った。
    「タケル、今日は晩飯、自分の家でどうだ」
     ほとんど断られるつもりもなく手を振って尋ねるとタケルも「わかった」とすぐさま頷いた。
     そうなれば叫び出す我らが牙がいるのは自明なことで。
    「らーめん屋、それオレ様もだろうな!」
    「もちろんだ! 帰りにスーパー寄って食材買って行くから先に部屋に上がっていてくれ。鍵は自分のバッグの内ポケットだからな」
     ぱっと笑顔で振り返り、漣のそばにあったスポーツバッグを指差すと彼は勝ち誇ったように鍵を引っ張り出し、ポケットに突っ込んだ。それをタケルと一緒になって笑い、レッスンを再開する。
     その後、嬉しそうに(野菜炒めではやや苦い顔をしていたが)飯を食うタケルに「映画の方、がんばれそうか」と尋ねてみると、少しの沈黙のうちに笑顔が消え、「アクションは最高のものを作って見せる」と無表情で答えがあった。


     週一のラジオはタケルが道流と会話をしていて不意に「声が良いよな」と笑った、その翌日プロデューサーが持ってきた仕事だった。三十分のトーク番組で、基本はお便りの読み上げで宣伝程度に自分たちの曲を流す、それ以外は好きにしていいと言われていた。「道流さん、喋ってるだけで力強くて優しい性格してるって伝わってくるし、自然体で良いよ」と言われたので、できうる限り普段通りに喋った。最初のゲストはタケルと漣だった。ハチャメチャになった収録現場は全員がずっと笑っていて(タケルと漣は多少機嫌を損ねて勝負だなんだと騒いでいたが)、いろいろあるアイドル業の中でもかなり好きな仕事になった。
     その仕事を三度か四度こなしただろうか。ここのところリスナーからのメールは主に新曲の話題でいっぱいで、格好良かった、痺れた、好き、というストレートな表現を読み上げるたびにこちらまで胸が暖かくなる。毎週のように自分たちの曲を流し、時折デビュー曲も流して思い出にふける。ビルも守れたし、そういう気持ちで満たされていれば周囲の人にも同じ気持ちでいてほしいと思ってしまうのは人であれば大小あれど自然なことで。
     漣はモデルの仕事を気に入っているようで、雑誌のゲストモデルの他アー写撮影も軽々こなし、常に機嫌が良さそうだった。タケルに絡みに行く言葉の端々にも余裕が見える。ライブに向けての調整も十分なようで、セットリスト全曲分、もうすっかり頭に入っており、彼だけで言えば明日にも本番と言われても問題ないレベルだった。
     ただタケルの方に、少しの陰りが見えた。久しぶりの合同レッスン、曲を流して合わせてみるがどうにもタケルだけ動作が揃わない。それは本人も感じていたようで「まだ時間はあるから、間に合わせる。今はすまないが待っていてほしい」と静かに目を伏せた。
     映画の撮影が、押しているようだった。スケジュールが合わなくなって、一ヶ月半の予定は二ヶ月に延びたとプロデューサーに聞いた。
    「ただ、それほど心配することもないかもしれません。今は特にタケルくんが苦手なヒロインとの恋愛シーンが続いてるから、手間取ってるだけかも。これからアクションシーンの撮影が増えるので気も晴れてくると思いますよ」
     そうプロデューサーが言ったので表立って心配するようなことはなかったが、やはりこうも辛そうだとどうにかしてやりたいとも思ってしまう。だが、干渉のし過ぎはポリシーに反する。自分たちTHE虎牙道はそれぞれがそれぞれのフィールドで闘いながら頂点を競い合う獣たちだ。
     自分がすることは、かつての彼のように見守りつつ、少し先で待っていてくれる存在であること。
     レッスンの合間にまた「晩飯はうちに来るか」と誘ってみたら、タケルはこちらを見上げて、少しばかり視線を彷徨わせたあと「今日は、ダメなんだ」と苦笑する。
    「あと二時間したら現場に戻って撮影して、そのあと中間打ち上げがあって……」
    「な、なかなかハードだな?」
    「まあ、俺だからこなせるスケジュールかもしれない」
     体力と努力には自信のある彼が真顔でそう言うのは、笑うところか頷くところか迷ってしまう。リアクションが遅れれば、タケルの方から「冗談だよ」と助け船をくれた。
    「今、撮影の前後で殺陣を詰めているところなんだ。俺の前歴を考えてストレート多めの接近戦で調整してもらってる。だからアクションが後回しなってるだけで、そんなに悪いペースでもないよ。……うん、そうだな」
     この説明的な口調は、心配していることを見透かされているのだろうか。それはそれで構いはしないが(そもそも上手く隠せる質でもない)彼の負担にだけはなっていなければ良いのだけど。
     不安そうな顔が出ていたのか、タケルはじっと、真顔で見返してくる。
    「最近、円城寺さんの飯食ってないから調子が出ないんだ。明日は男道らーめんに呼ばれても良いか」
     気を遣わせた。それだけはわかった。道流は心の中で頭を抱える。自分が満たされている間に彼はたくさんのことを悩んでいる。彼はそういう人だ。わかっていた。ひとりで抱え込む質だ。妹や弟を探すという目標を聞いたのだってつい最近。ボクサーからアイドルに転向した理由が「ちょうど網膜剥離でボクサー休業中だったから」だと聞いたのだってビルを買い取る少し前。きっと自分はまだ彼のことを完璧には理解していないのだろうし、そんな日も来ないだろう。だけど、気を遣わせたかったわけではない、と強く歯噛みする。
     悔しい、と思うが、しかし正解の行動もわからない。同じユニットなのに近くにいられないことはやはり寂しいという思いもある。少しくらいのわがままは許されるだろうかという気持ちで「漣と待ってるな」と言えば、遠くから「勝手に決めんならーめん屋!」と怒号が飛んできた。ダンスレッスンが落ち着いてきた彼は、ここのところすっかり荷物番と化している。
    「あ、でもチャーシューのサービスあるんなら行っても良いぜ」
     続けざまに飛んできたのはそんなご機嫌な声色で、タケルとふたりで笑った。ああ、こうして笑えるならまだ大丈夫だろう。道流は頷く。ひとまず、明日は三人分の食事だ。超大盛りをふたつ、チャーハンとから揚げもつけて、自分も同じものを食べたい。


     そんなふうに一緒にラーメンを食べて、さらに数週間。ラジオに届く声はライブツアーが楽しみだという話題に変化して行き、自分も楽しみだと答えることが増えた。やや長引いたが、もう直に映画の撮影も終わり、すぐさまライブがはじまるだろう。漣と道流のみでのレッスンばかりだったが、順調だった。
     映画のクランクアップももう目前という日の、一ヶ月ぶりの合同レッスン。「撮影現場から中抜けしてきたので、あとでまた送り返します」とプロデューサーが連れてきたタケルは、さすがの疲れか顔色が悪かった。撮影スケジュールの合間を縫って個人でちゃんと練習していたのか、無事ダンスと歌は間に合わせてきたが、それを評価する前に心配になるほど。細かい調整、という名のレッスンにも鬼気迫る様子で食らいついてくるが、今にも倒れそうにしか見えない。
     これは、見守っているとか、待っていてやるとか、そういう場合ではない。休憩時間、漣と相談するより早く道流の体は動いていた。
    「タケル」
     短く名前を呼びつけ、隣に立つ。タケルはこちらを見ない。手が出かけて、ぐっと堪えた。十七の子供だったら多少力に訴えてでも言うことを聞かせたが、彼はもう成人した大人だ。自分が二十の時、何を思っていたのか。自分よりもずっと大人びた考え方の彼は何を思うのか。それだけは傷つけたくない。
     そう思えば結局核心から遠ざかるしかなくなってしまう。
    「タケル、今日は、……うちで飯食ってけ。精の付くもの出してやるから」
     最初はどうにか叱りつけようとも思ったのに上手く伝えられない。タケルはそんな道流を一度も見ることなく、鏡を見るでもなく、足元を見つめている。
    「飯は、大丈夫だ。これからまた撮影なんだ。プロデューサーが用意してくれたの移動中に食べるし、夜も遅くなると思うし」
     そうか、とだけ頷いてまた一ヶ月前のように「明日」と言い出してくれるのを待ったが、どれほど待とうとこれ以上の言葉はなかった。しかし今日は引き下がれない。ここで彼を支え切らないと大変なことになる、と予感がある。今度こそきつく叱るしかないかと唇を噛み、それも逆効果かもしれないとかぶりを振る。
     わざとらしくも聞こえるほど大きく息を吐いて、無理矢理に笑顔を作る。
    「タケル、なら明日はどうだ? 明日なら自分も時間を取れるし好きなもの作ってやれるぞ」
     鏡に映る限りはかなり綺麗な、穏やかな笑みを作れていて、アイドルをやっていて良かったと改めて思った。タケルはまた口を噤んでいるが、それが漣を煽ったのか。彼もまたわざとらしい足音を立てながら近づいてくる。
    「それともあれか? チビは食欲ねーってか? オレ様の方がラーメン食えるからなあ、勝負したくもなくなるってか」
     タケルはというと、それでもなお、無言で、今度は首を振った。
     ついぞ怒ったのは、漣だった。
    「辛気くせえ顔してんじゃねえチビ!」
     ツーステップからの飛び蹴り。確かに速いが、予備動作は大きかった。タケルほど動体視力の良くない自分でも避けられる、と道流が思ったほどだ。所詮はいつもの喧嘩だ、数度やり合わせてタイミングを見て止めに――と思っていたのに、漣の飛び蹴りがタケルの腹に直撃した。
    「……え?」
     道流の間抜けな声だけが、レッスンスタジオに響いた。
    「タケル!」
     鈍く深い音が叫び声に重なる。覆いかぶさる形で倒れ込んだ漣を突き飛ばし、タケルを抱き上げた。
     漣の足が、いや、漣の全体重がそれなりのスピードでぶち当たったはずだ。当たったのは腹だから急所でも致命傷でもないはずだが、倒れ込んだところを考えるとガードしきれなかったと思った方が良い。呻いて頭を抱える彼にタケルと何度も呼びかけ、負傷位置を確認する。頭や顔を手で押さえているところを見ると、ぶつけられた腹より倒れたときに打った頭部の方が重傷か。ただ、ちゃんと意識はある。血は出ていない。しばらくは安静にさせて、落ち着き次第病院で、いけるか。
     揺らさぬように気を付けながらタケルの手を押しのける。まだ彼はぎゅっと目を瞑っていた。
    「タケル、大丈夫か、どこが痛む」
    「え、んじょうじ、さん、……大丈夫、少し目が回って……」
     弱々しい声色ではあったが、返事があった。視界がおかしいから目を瞑っていただけか。ならばそれほど痛みはないと思って良いだろう。前歴を考えれば痛みには強いはずだし、焦る必要はない。タケルは、無事だ。
     息を詰めていた分、大きく吐き出す。しかし安堵と共に、一足遅れた怒りが沸き起こってきた。ただそれが何に対してなのか、道流は自分で理解していなかった。何に対してだ。抱えているタケルの体を強く握る。
     まだ目を開けようとしない彼に対して? 違う。
     止めるのが遅れた自分に対して? それはある。
     でも、まだ、何か、別の。
    「おい、チビ……」
     漣の声はこの混乱の中で、ひどく不釣り合いな異音だった。――だからこそ、これが答えだと悟ってしまった。
    「漣……!」
     怒鳴りつける必要はなかった。だが自分の体の制御が利かない。漣はたじろぐ。こちらに近寄ろうともしない。それが余計に腹立たしくて舌打ちして視線を逸らした。
     タケルを見つめる。呼吸はある、意識もある、タケルと名を呼べば「円城寺さん」と弱々しいながらも返事がある。さすがに救急車は要らないはずだが、プロデューサーに連絡はしなければいけない。タケルをまた撮影現場に送ると言っていたのだから近場にいるはずだ。スマートフォンはロッカー室なのだから今すぐ漣を走らせれば良いのだが、とてもそんな指示を出す気にならない。
     祈るようにタケルを見つめていれば、ようやっと目を開けた。ぼうっとあたりを見回し、首を振って、道流を見上げる。
    「えん、じょうじさん……?」
     不安げに名を呼びながらタケルが手を伸ばした。頬に触れる、というより唇の端に指がぶつかる。「タケル?」と名を呼び返す唇の動きに沿って、彼の指もうごめく。冷たくはない。むしろ熱いくらい。
     しかし次に彼が発した言葉は、ひどく冷えていた。
    「ああ、円城寺さん。どうしよう、見えない」
     タケルの手を掴んだ。泣き出しそうな目とは、視線が合わなかった。
    「円城寺さん、どうしよう、見えない、真っ暗だ、見えない……!」
     師匠、と助けを求めるように叫んでいた。しかしタケルを置いて動けない。突如足音がして、レッスンスタジオの出入り口が開いて、閉じて、しばらくしてまた開いた。入ってきたのはプロデューサーひとりで、タケルの状況を説明して彼の肩を掴み、眼科へと送り届ける。


    「網膜剥離ですね。以前発症したのは?」
    「もう三年くらい前です。ボクサーをやめるきっかけだったので」
     医者の質問に、冷静に答える彼を、道流は心臓を掴まれたような思いで見下ろした。感情のこもっていない声だと感じた。
     普段の彼の声は静かながら優しさと愛に満ちて深い。呼吸のひとつにも気遣いを感じられる話し方で、それがいつだって心地よかった。――今道流の目の前にいる大河タケルは、何者なのだろう。道流はこんな冷たい声で受け答えをするタケルを知らなかった。
     プロデューサーは検査待ちの間に「漣くんの様子を見に戻ります」と言って出て行ってしまった。正直なところ、そうしてくれて助かった、と思っていた。漣の足で沈んだタケルを繰り返し脳内に描いては、後悔で心がぐちゃぐちゃになる。怒りもある。ただそれは、自分自身への怒りではなく自分たちの仲間を傷つけた、三人全員に対しての、だ。特に直接原因となった漣への怒りが一番大きい。
     きっと漣とて傷ついていることは想像に難くない。それを追い詰めてしまうようなことは、したくない。だが、こうしてタケルの言葉を聞いているのもつらい。一番つらいであろう彼の前で弱音を吐けないことも。
     道流の思いも知らず、タケルはただ目の前の医者だけを見て――医者とだけは、視線を合わせようとしている。
    「確か術後半年再発しなければ安泰と聞いていましたが」
    「ほぼ、ね。完全に安泰とは言えません。可能性はゼロではないのですから。ただ、再発というよりは、外傷性のような気もしますが。目や頭に何か当たりましたか」
    「倒れた時に、頭を打ちました。メンバーの蹴りが当たって」
    「は?」
     医者があきれたような顔でこちらを見て、慌てて道流が身を乗り出した。
    「だ、ダンスの! 仕事でダンスの練習をしていて! 運悪く、そう、運が悪くて! メンバーの足が当たってしまって!」
     ただでさえ声に存在感があるのにこんな大声を出してしまえば、相手に威圧感を与えてしまうことくらい、普段ならわかっていた。ずっと体の制御が出来ない。タケルがこちらを見上げて言葉を無くしている。そういう、状況把握は出来るのに、唇は「違うんスよ」と焦りばかり紡ぐ。
     守ってやらなくては、という思いだけが先行している。でもそれは何をだろう。自分でも答えがわからない。後悔と怒りで、自分が今、ひどく凶暴な生き物になっていることだけがわかる。
     医者は何かわかったように頷き、タケルを見る。
    「そうですか。運悪く、ね。……ところで大河さん、は、成人してるのか。一対一で話しませんか」
    「良いですけど、あとで円城寺さんに内容を伝えても?」
     ほとんど淀みなく答えたタケルにまた傷つけられる。また一層怒りが深くなる。けれど今の自分なら、もうどこかへ逃げ出した方が、よっぽどベターな選択だとも理解している。医者を見ると、タケルには伝わらないだろうに優しく頷いていた。
    「もちろん、それは構わない」
    「わかりました。すまない、円城寺さん。出て行ってくれ」
     焦点の合わない目が円城寺を捕らえ、すぐに逸らされた。わかった、と頷く声は情けないほどに震える。
    「待合室にいるから、終わったら、すぐに来てくれ」
     タケルは「歩けたら」と乾いた笑みを見せた。

     ひとり、待合室へと移る。眼科というのはこんなに混雑していたものだろうか。どうして医者が自分を遠ざけたのか、察しているからこそ悔しさが感情を塗り替えている。落ち着け、と言われたのだ。それくらい、わかる。だから、この混乱を鎮めなければいけない。そうでなくては、この大事な時にタケルのそばにいてやれない。そばにいたところで、事態も好転しない。
     必死に怒りを堪え、嘔吐感を飲み下し、嗚咽を押し留める。呼吸をしているのに息が苦しい。背中を丸めて、顔を覆っている。目を閉じれば暗闇で、タケルが今なおこの視界の中にいるのだと思うと瞬きさえ恐ろしく、ずっと自分の手だけを見つめていた。

     受付でのやりとり、家族連れの話し声。子供の泣き声。喧騒の中で、ただひとつ、真っ直ぐに道流の耳に届いた声があった。
    「円城寺さん」
     タケルのだった。いつも通りの優しい声だ。けれど遠く、不安げにも聞こえる。「タケル」と名を呼び返して姿を探せば、待合室に続く廊下の壁に手をついて、きょろきょろと顔が動していた彼が見つかった。
    「タケル!」
     叫びながら近づくと、やっとこちらを見てくれた。
    「ああ、円城寺さん。良かった、見える」
    「……視界、戻ったのか」
    「落ち着いてちょっとだけ回復した。けど視野が狭くて、まだ慣れない。手、引っ張ってもらっていいか」
     先程と同じ乾いた笑み。ああ、と頷いて、彼の右手を取った。一番近い空席まで彼を導き、彼の左手がソファの皮に触れたのを確認して、手を離す。音もなく座った彼の隣に道流も腰掛ける。
     タケルの「回復した」という言葉で、ずいぶんと救われていた。心が凪ぐ、とまでは言わずとも荒波までは立っていない。今ならちゃんと話を聞けると思った。
    「どんな話をしたんだ」
     細心の注意を払って、口にした言葉はいつも通りの、円城寺道流らしい優しい声色だった。少し落ち着いたことで、脳にスペースが出来て、演技することを思い出したようだ。
     隣を見る。自分よりはるかに小柄で、七つ年下の、リーダーだ。支えてやらなければ。
    「もちろん、言いたくなかったら言わなくていい」
    「いや、聞いてくれ。本当の話をしてきた」
    「本当の?」
    「本当の。漣といつも喧嘩してるとか、いつもなら避けられるとか、……どうして今日に限って、避けられなかったかとか」
     道流は何も言えなかった。ずっと違和感はあったにしても、ただのハードワークから来る不調だと思っていた。だけど、どうして映画の撮影が押したのだろう。本当に恋愛シーンにてこずっていただけか? ダンスの飲み込みが自分以上に遅れたのは? それもレッスン不足だとでも言うのか。そもそもどうして、躱せなかったのか。いつもなら躱せたのは事実だ。躱した上でカウンターでもかましただろう。なのにできなかった。だからこそ自分も驚いたし、あの時の漣も驚いて、それ以上動けなかった。
     タケル、と名を呼びながら見下ろす。真っ直ぐに伸びた背筋の少年は、同じように真っ直ぐな視線をこちらに向けた。
    「網膜剥離が再発している、自覚があった。二ヶ月前から」
     視線は前向きに戻される。
    「徐々に視界が狭まってる感覚もあった。でもここのところ、忙しくて、上手く寝られなくて、アクションシーンも多くて、全然目のことを気遣ってやれなくて。気づいたら視界が半分で、だめだなって思ったときに漣の足が飛んできてた。二ヶ月前なら、一ヶ月前ならきっと見えてた。見えてたんだ。こんなにふうに病院に来ることも、プロデューサーや円城寺さんに迷惑をかけることも、アイツに傷つけさせることもなかった」
     何と応えるべきかわからず「そうか」とだけ、頷く。二ヶ月も前から自覚があったということは、実際はそれより前から病症が進行していたということ。ちょうど三周年イベントに向けての会議をしていた頃からだろうか。そんなに前から、この子はひとりで、暗がりに進む視界を抱えてきたというのだろうか。
     そしてこれからもきっと彼はひとりで抱えようとする。
    「二ヶ月前、どうして言わなかった、と聞いても?」
    「映画のクランクインだった。網膜剥離は出術前後で一ヶ月近く入院することになる。主演だったから、俺のスケジュールが一ヶ月押すだけで、どんな迷惑になるか」
    「よし、わかった。一ヶ月でいいんだな。今からなら取り戻せる。師匠に取り合ってもらって、スケジュールを調整しよう。撮影が一ヶ月押すくらいでタケルの視力がもどるなら……」
     タケルはくんっと円城寺の袖を引いた。首を振る。
    「もういいんだ。いいんだよ、円城寺さん」
     ああ、やはりだ。彼はそういう人だ。わかっていたから、彼をリーダーとして、自分たちはここまで進んできたのだ。道流はひとり胸を絶望で埋める。
    「剥がれた網膜の上に余計な膜が形成されてて、くっつかないらしい。仮にくっついたとしても視力は著しく下がるし視界も狭まる。覚悟をしろと言われた。お医者さまが、もうほとんど治らないって言ったんだ。もうあんなダンスもアクションも出来ない。ボクシングはもちろん、きっと、町中を走ることさえ――本当はこのまま入院して出術するべきって言われたけど、断ってきた。まだもう少し、アイドルの大河タケルでいたかった」
     そこまで言って、孤高の獣のような彼は口を噤み、かぶりを振った。
    「いや、違うな。そんなことはどうだっていいんだ。でも、映画の撮影をこのまま降りてしまわなければいけないだろうことが、また兄弟を探し出す手段を断たれたことが、悔しくて。整理する時間が欲しかったんだ。映画に出れば、少しでも人前に立てれば、きっとあいつらが俺を見つけてくれるって……今度の映画がそのきっかけかもしれないって、思ってたのに。そっちのふんぎりがつかない。はは、バカだな、俺。バカだ。二ヶ月前、言っておけばよかった。ごめん、円城寺さん。プロデューサーにも謝らなきゃ。漣にも、スタッフにも、みんなにも……」
     なんと声をかけるべきかわからなかった。体調不良を言わずに耐えようとした幼い選択を責めるべきか。叱るべきか。彼より七つも歳を取っているくせに、正しい選択がわからなくなる。ただわかることは、彼を叱るよりは自分を叱ったほうが良いということ。ぐっと拳を握りしめ、目の前の暗闇で震える彼を想う。きっとここで円城寺道流がかける言葉はひとつだ。
    「タケル。ラーメン食べに行くか」
     うん、と頷いた彼の目から何かが零れた。受診料を払えと名前を呼ばれたが彼をひとり待たせるのが心苦しくて、俯いて目をこする彼を引きずって金を払った。
     しゃくり上げるタケルの手を引きながらタクシーに乗り込み、プロデューサーに連絡を取って、ひとまず男道らーめんに向かってもらうよう伝える。その途中で「漣くんがどこにもいない」という返事があったが、隣でまだ鼻を鳴らすタケルがいたので「その話はまた後で」と言う他なかった。漣のことだから、きっとどこかで無事だという思いもある。ひとまずは目の前にいるタケルの方が心配だった。
     男道らーめんはそれほど混み合う時間でもなく、プロデューサーが先に着いて、おやっさんと話をしていた。どうも三人分の席を空けておいてくれたようだが、断って、プロデューサーとタケルだけを座らせて道流は厨房に立つことにした。タケルとプロデューサーに自分の作ったものを食べてほしかった。
     ラーメンが出来るまでのわずかな間、嗚咽をのみ込み、謝罪を繰り返す少年にプロデューサーは優しく笑ってひとつひとつ言葉を投げ返していた。「ごめん」には「大丈夫ですよ」、「映画が」には「それをどうにかするのがプロデューサーの仕事です」、と。ああ、こんなふうに弁の立つ人間だったらどんなに良かったのだろう、と道流は思う。師匠には敵わない。自分に出来ることはせめて腹を膨らませてやるだけだ。
    「はい、師匠には並で、タケルには大盛り。食えるか?」
     苦笑するように尋ねたが、彼は返事を迷ったようだった。食欲がないのか。プロデューサーは笑って「じゃあ、お話はあとでにしましょうか」と言って割箸を彼に差し出す。
    「ラーメンは熱いうちに食べないと。道流さんにも失礼だし」
    「そう、だな。うん、円城寺さん。いただきます」
     そう言って手を合わせる。割箸を綺麗に割って、麺から一口。それが多少ぎこちないながらも、普段通りでやっと安心した。先程の会話の流れで食事に移りづらかっただけか。
     ただ、見えない視界をぼやけさせていたからか、タケルの食事はひどくゆっくりだった。いつものように漣と張り合うときの勢いはどこへ消えたのかと思うほど。やっと掬えた麺を大事に大事に啜り上げ、咀嚼し終わる度に「美味い」と呟く。ダシも飲みきって、最後に残ったネギの1片までレンゲで集めて、まるで最後の晩餐のようにも見えた。
     箸を置き、静かに、タケルは「アイドルを、THE虎牙道を辞めようと思う」と呟いた。
    「目がこんな状態じゃ、アイドルとしての活動は間違いなく、無理だ。歌や楽器が出来ればもう少し道はあったと思うけど、俺はそこまでじゃない。何か出来ることを探せばなんなりとあるんだろうけど、今はとても探す気にはなれない。こんな気持ちでは、ステージに立てない」
     うん、とプロデューサーが頷く。道流も思うところも、口を挟みたいところもあったが、先程までの出来事を思えば何も語れない。ただプロデューサーの言葉が自分の気持ちを代弁してくれるものであることを願って、口を噤んだ。
    「プロデューサーとして、タケルくんの判断を一切否定しません。それだけは覚えておいてほしい。自分たちアイドルのそばで支える仕事の人間は、アイドルが輝けるよう全力を尽くすけど、それは本人の暗い気持ちに目を瞑ったり、間違いだと決めつけるようなことはしない。その上で、もう一度聞くよ。アイドル大河タケルは、本当にアイドル活動から離れたい?」
     タケルの動きが止まる。考えているようだった。プロデューサーの言葉を受けて、自分の感情と照らし合わせて、誠意を込めて答えようとしている。
     しばらくして「えっと」という前置きののちに「やっぱり、辞めたい、ってわけじゃあ、ない」と首を振った。
    「辞めたいわけじゃない。辞めざるをえない、と思うだけだ。そのあとのこともよくわからない。とにかくこんな気持ちでステージには立てないし、映画の撮影も続けられないだろうし、次のライブどうしようかって思いでいっぱいで、それ以上は……何も考えられない」
    「うん、よく考えたね。ではそれを受けて提案しようかな。アイドル活動の休止はどうだろう?」
     プロデューサーはすでになんと答えるか決めていたようだった。
    「今度の映画公開で、アイドル活動を休止。THE虎牙道脱退でも、アイドル引退でもない。休止だから、いつか戻れると思ったときに戻ってきていい。もちろんそのまま引退したっていい。勝負の世界にいたタケルくんや道流さんには、こんな宙ぶらりんな状態は嫌かもしれないけど、まあ、そのへんはずる賢くいきましょう。これも作戦のうちです。大河タケルは自分とファンのみんなのために、一時的にアイドルをおやすみする。――これでどうかな、タケルくん」
    「休、止……ああ、そっか。そういうやり方もあるのか」
     ひとつ、落ち着くところを見つけたようだった。タケルの表情も明るく見える。
     しかし「今度の映画公開で、アイドル活動を休止」ということはライブツアー中や映画を完成させるまでは普通のアイドルでいるということ。どう落としどころをつけるつもりなのか。お冷を注いでやりながらプロデューサーに尋ねる。
    「とは言ってもどうするんスか。ライブはまあ、うち個人の仕事だしどうにかするとしても映画の方……残ってるのは数シーンと言えど全部アクションで、まさかこんな状態のタケルにやらせるわけにはいきませんよね」
    「ボクシング経験があり、そして小柄なスタントのツテがあります。伊達にプロデューサーやってませんから。引きの絵は全部その人にお願いして、顔のアップが必要な場面はタケルくんにやってもらいましょう。多少視線がおかしくなってもCG班に放り投げればOKです」
    「し、しーじー班の人、仕事増やして大丈夫ッスかね」
    「大丈夫ですよ。アイドル大河タケルの休止前最後のお仕事となれば宣伝も全部こちらで引き受けたようなもの。予算をスタントやCGにまわすことくらい容易い」
    「そんなもんッスか」
    「ええ。だから、大丈夫ですよ、タケルくん。中途半端に仕事を投げ出してしまうことにはならない。全部諦めるのか全部取り戻すのかを決めるのだって、そこからで大丈夫なんですよ」
     もちろん、プロデューサーがほとんど大げさに言っていることはわかる。そんな単純なものじゃない、とはたった三年と言えどこの世界に身を置いていたのだから、道流も、タケル自身もわかっているだろう。けれどプロデューサーがそんなふうに自信満々といった様子でタケルを見るから、彼は頷くと同時にまた何かを零した。
     そろそろ混み合ってくるから、とプロデューサーに手を引かれてタケルは寮へと帰っていき、道流はしばらくその場で店の手伝いをしていたが、漣は現れなかった。ただ、閉店後に帰宅すれば漣がドアの前におり「泊っていくか」と言えば彼は首を振った。
    「それより、あの……チビは」
    「タケルは無事だよ。体は。目は駄目だ。正しくは明日にでも直接会って確かめるといい」
    「そうかよ。そうか。……そうか。じゃあ、いいや」
     漣は何度となく頷いて、その場を去った。どこで眠るのかはわからないが、この季節だし凍えることもないだろう。
     とにかく、怒りや後悔に流されることなく、落ち着いて話を出来た、と道流は思う。


     そこからの日々はせわしなかった。目を治すことよりも映画を完成させることを前提にタケルの手術の日取りが決まり、映画以降の仕事はすべてキャンセル。大半はタケルの事情を話せばすんなりと通ったが、穴は作れないからと代役を求められるものもあった。道流で代役が利くならばそこに入り、体格や年齢の問題で無理だと分かれば他のユニットのみんなが助けてくれた。こういうとき、事務所に所属するメンバーが多くて良かったと思う。
     新曲発売記念のライブはさすがにタケル以外にはどうしようもできないので、タケルは歌のみ、MCのみの参加と決まった。ほぼほぼトークゲストのような形である。これはライブ開始前にファンへ通達しておいた方が良いだろうということで、この発表と同時に「網膜剥離が再発によりライブツアー千秋楽を以て芸能活動を休止する」と報告。ファンクラブ会報やメディア関係への調整を付け終わった頃には、プロデューサーが疲労いっぱいで倒れる寸前であり、タケルが申し訳なさそうに「プロデューサーに何かお礼がしたい」と道流を頼ってくるのがくすぐったかった。ダンスレッスンが必要なくなって、一気にスケジュールに余裕が出来たタケルと一緒にクッキーを作って渡してみれば、すっかり涙腺が緩んだプロデューサーが泣きだして、タケルが慌てていた。気持ちがわかったので、道流の方はもらい泣きしないように堪えるので必死だった。いつかの誕生日を思い出す。
     こうしてビジネスの方はプロデューサーを中心に話をつけていったが、プライベートの方は道流が中心となって世話を焼いた。もともと一人で生活していたのだから多少のことは出来るだろうが、視力を失うとなると心配事も多い。事実タケルはよく道流の家に泊まりに来たし、「あの日、ひとりで家に帰って来て、びっくりするくらいあちこちに体ぶつけた」と報告してきた彼の体にはあざが大量にあって、なんと返事をするべきかわからなかったほどだ。しばらくは気をつけないとな、なんて軽い調子で会話を続けていたのだが、ふと思い立って「一緒に暮らすか」と聞いてみれば「……アイツも一緒に?」と、彼は笑ってくれた。ライブ前最後のオフにはファミリー向けのマンションを探しに行った。段差が少なく壁やドアの手触りが分かりやすいマンションというのはそう簡単には見つからず「一軒家でも借りるか?」と笑ってみたのだが「確かに、兄弟が見つかったあと円城寺さんや漣や俺たち兄弟が過ごすならそれくらい大きい方が良いかもしれない」とあまりにも真面目に答えてくれるので、マンションの一室という考えを止め、郊外の借家を決め、入居日も都合をつけた。漣はどうせ家に寄りつくかわからないので、入居日――アイドル休止日を過ぎてからの報告でもいいかもしれない、とタケルは遠くを見て語った。
     漣は仕事にはきちんと顔を出したが、タケルとはまともに会話をしていないようだった。こういうことに慣れていないのか(当然と言えば当然である)転びやすくなったタケルを遠巻きに見つめて唇を噛み締めている場面をよく見かける。かけるべき言葉が見当たらないのだろう。それを悪だとは言わないし、道流から見れば漣もまだまだ幼い。自分と同じように出来ないことを咎める気もない。数週間、数ヶ月かけてでも、以前と同じように話が出来るようになればそれでいい。そんな調子でいたら、漣が男道らーめんに寄ることはなくなった。収録やレッスンを終え、事務所に戻ろうとするタイミングで漣がシャワー室に向かうので、その後ろ姿に「また明日な」と声をかける。後ろ姿が手を振り返してくれて、タケルを連れて自宅に帰る。
     あの日から日常生活が一変したタケルであったが、本人の努力と道流のほんの少しの手助けで取り戻せるところは取り戻してきた。スケジュールに空きが出来て、道流の家に泊るようになって、どうにか日常生活をこなせる程度には慣れてきたのだ。それが幸福なことなのかは道流には判断つかないことであったが、タケルは「きっとこのまま完全に見えなくなるだろうから、今のうちに練習できてよかった」と言って平然としていた。なんにしろ、彼の体にあった怪我が薄くなったのは良いことではあると思う。
     道流も彼に対する気遣いはいくつか覚えた。いきなり体には触れず、まずは音で合図を送ること。手を引くのではなく、腕を掴ませること。食事も小皿の多い一汁三菜ではなく、距離感の掴みやすい一品物にすること。ライブツアー前、ゆっくり料理していられるのも今日が最後という日にふたりで晩ご飯を摂ったときもそうだった。タケルが食べやすいようにと、親子丼をスプーンと共に出した。そんな道流の気まずさの塊を嬉しそうに頬張りながら、タケルは新居に持ち込むものや家事の分担について話すのだ。「新しい家で何が出来るかな」、と。
    「……そうだな。何でもやってみたら案外出来るかもしれないな。でも慣れるまではあまり危険なことは……」
    「もちろんだ。ただ、俺は最終的に円城寺さんや漣の仕事をサポートする側になりたい。有名人のそばにいればいつか妹や弟にも見つけてもらえるかもしれないだろ?」
     結局、彼の根底にあるものはそれなのだろうな、と道流は思う。知ったのがつい最近と言えど、彼がどれほど悲痛な思いで兄弟を探し続けているのかは想像に難くない。親もいない中、幼い頃失った唯一の家族を「かけがえのないもので、大切」と語るタケルの姿から、きっと人並みの青春や幸せを捨ててでも努力し続けたであろうことなど、簡単にわかる。
     だから、というわけではないが、道流はタケルを自分と同じものだと思う。愛着、というものが大半を占めるタイプ。一度愛したものを一生手放せない生き物。タケルはきっと「円城寺道流というアイドル」を気に入ってくれているし、アイドルではない自分のことも好いていてくれているだろう。――それを不自由に感じてしまう。自分は良い。もう二十七だ。自分の生き方は理解してあるし、どんな苦労だって受け止める覚悟はした。だけど彼はまだ二十で、すでに有り余るほどの苦労をしている。
     もう自由になって良いのだ、もうあなたは十分に傷ついたのだと伝えたいのに、上手く語れない。
    「そうか。タケルはまだ自分にアイドルでいてほしいんだな。なら、がんばろう。自分が頂点に連れて行ってやるからな」
     できうる限り優しい声色で伝えたつもりだったのにタケルは手を止めた。
    「えっと、円城寺さん。違ったら、言ってほしい。――いまの、嘘か?」
     答えられない。そんな道流を前に、タケルは困ったように眉を寄せながらも、頬を緩める。
    「ああ、俺のいないTHE虎牙道は意味がないって、思ってくれてたのかな。今、ちょっと、安心しちまった。……だけど、いいんだ。俺がいなくても円城寺さんとアイツならやれる。俺もそれをサポートできる。こんなに幸せなことはないよ。きっともうふたりの姿は見れなくなるけど、その輝きをそばで感じられることはわかる。俺が探してるひとも、きっとふたりが見つけてくれる。だから、円城寺さんは罪悪感とか、もしもそういうのを抱いてるなら、今すぐ捨ててほしい」
     タケルにしては長い台詞だった。そして自分を見透かされているようにも思う。事実、タケルのアイドル休止と共に自分も仕事を減らす相談をプロデューサーにしていた。
     彼は気丈に振る舞っており、道流の手伝いさえあれば「普通」の生活も可能だが、失明した人間ひとりでは日常生活も難しいだろう。少なくとも慣れるまではずっとそばにいて支えてやりたい。それだけの情があったし、そうできるだけの関係性だ。ユニットというのは、そういうものだ。もちろんその解釈にはいろいろあるし、道流は「運命共同体なのだから家族のように協力してやりたい」と思うだけで、自分と同じものを漣に求めているわけではない。完全に好意でやっていることだから、誰に強要することも出来ない分、誰に辞めさせられるものでもない。――タケル本人以外には。
    「どうして、嘘だってわかったんだ? これでも結構演技力は磨いてきたつもりなんだが」
    「……なんだろう。声色に違和感があった」
     それほど言葉の得意な子ではないからこれ以上の説明は求めるだけ無駄だろう。諦めて考えていたことを口にする。
    「今以上には休みが欲しいと師匠に相談していたことは間違いない。だけど、本気で休止や引退するつもりだったわけでもない。休養期間、というか……ラーメン屋に専念する時間もあってもいいな、と思ってはいたんだ。テナントの立ち退き期限はもう過ぎているし、アイドルを続ける理由はすでに『一度始めてしまったから』と『隣にタケルと漣がいるから』以外なくなってしまって。本当に、自分は今、タケルと漣と一緒に頂点を目指せないならアイドル活動に積極的にはなれない。自分たちのリーダーであるタケルがいなくなるなら、自分はただのラーメン屋に戻って、タケルと一緒に出来ることを探す期間に入ったって良いんじゃないかって、考えていた」
    「……それを、引退と言うんじゃないのか」
    「タケルには迷惑だったか?」
    「どうだろうな。どうだろう。わからない。でも円城寺さんとアイツが、俺のせいで頂点を目指せなくなるなら苦しい。……それと同時に、ふたりと同じ景色を見られないことをさみしいと思う」
     さみしい、という言葉が響く。そういうのを不自由と言うんだ、なんて傲慢な説教は出来ない。けれどさみしさを埋めるならば一緒にいれば良い、なんて単純なものではないこともわかっている。
     しかし、ならばどうすればいいのかがわからない。自分にとって今一番大事なことは勝敗をつけることでも闘うことでもなく目の前の少年に寄り添うことだ。勝敗とか頂点とか、どんな状況でだって欲しがったけれどこれは寄り添える状況で望む贅沢品。家族を失った時点で止まったままの彼と、暗闇の中を共に歩くことこそが一番大事、というより、今一番やりたいこと。――結局は、一緒にいたいだけだ。そんな単純ではなくても、一番心の奥底から望むものはそれだ。一緒にいるために、この子は努力を重ねてきたし、自分はその努力に惹かれてきた。ならば、今度は自分が一緒にいるための努力をするとき。
    「自分はどんな形であれ、タケルと漣のそばにいたい。タケルと同じ景色を見たい。アイドルの頂点というのはわかりやすい目標で、それを競っているのは楽しかったけど、本質はただお前たちと一緒にいたいだけなんだ。ステージの上じゃなくてもよかったんだよ。だから、タケルがさみしいと思うのなら自分はタケルと同じものを見る努力をしたい。タケル、自分はどうしたらいい?」
    「……わからない」
    「はは、だよな。そうだよな。自分もわからん」
     食べ終わったどんぶりを下げる。その底にある「虎」という文字はもう一皿の「牙」とお揃いで、いつもダシまで飲み切ってくれる彼らだからこそ気づいてくれると信じて入れた。そして「道」のどんぶりはない。あのときはまだ自分が彼らと対等だとは思っていなかった。それが今、猛烈にさみしい。どうにか彼の目が見えているうちに、もうひとつ、自分のものを足さなくては。
    「探そう、タケル。自分たちがどうしたらいいのか。一緒にいたいなら、それだけの努力をしなくちゃならん。離れ離れになった人たちがもう一度巡り合うのは難しいって、タケルが一番よく知っているだろう。自分はタケルや漣と一緒にいたいよ」
    「……うん。うん。ありがとう。大丈夫、努力なら得意だ」
     すっかり涙もろくなった彼の目の前からどんぶりを下げて「これ、向こうにも持っていくか」と言えば、うん、と頷いたあとに「大事に使うよ」と言葉が足された。すでに大事に使ってもらっているよ、と思う。

     タケルの視力は劣化した壁のようにぼろぼろと消えていったが、撮影の方は無事終了。スタントの方もCG班も監督も共演者もよく調整してくれたと思う。完成形をタケルが見ることは難しそうだが、代わりに自分が見るよと道流が伝えるとタケルは嬉しそうに頷いた。映画の仕上げには時間がかかるそうだが、その間に大河タケルの網膜剥離によるアイドル休止、実質の引退も公の情報となり、遺作とも言うべきライブ――THE虎牙道活動休止ライブツアーと映画の告知ムービーは大反響を呼んだ。
     ライブ初日はタケルの姿を一目でも確認したいとファンが会場まで来てくれて、会場の内外に人が溢れ返った。その光景を閉じゆく視界で認めてタケルは「最後にこの光景を見れて良かった」と笑った。ライブツアーをやっているうちに映画の公開日が決まり、その番宣にタケルの代役として出演して、ライブ現場にとんぼ返りして、リハをして本番を迎えて。目まぐるしく日々は過ぎる。
     漣は相変わらず無口なままだが、鬱憤を晴らすかのように日に日にダンスが強烈なものになっていった。攻撃的で尖ったエネルギーは見ているこちらが不安になるほどで、タケルもそばで何かを感じてはいたようだ。「上手く見えないけど、アイツ、おかしいんじゃないか」と道流に零すことがあった。
    「確かにおかしい……でも、漣の発散方法はあれしかないだろうしなあ」
     いつかの神速一魂との合同ライブを思い出して語ればタケルも頷いてくれた。
    「そういえばそうだな。言葉でどうこう言うより、アイツは体動かしたほうがスッキリする。そういう奴だ」
    「ああ。待とう。今は耐える時だ」
     うんと頷くタケルもストレッチ程度の運動をして体を温め、ライブ本番では歌のみで参加していた。毎公演ソロ曲を披露したのだが、そのたびに客席から嗚咽が聞こえてきて、バックダンサーに徹していた自分もかなり目頭に来た。漣は泣くそぶりも見せなかったが、その分ダンスに熱がこもっていった。そんな空気の中で「もっと声出せ!」と笑って叫ぶのはタケルくらいのもので、彼は本当にアイドルという仕事を気に入っていたのだと、道流もスタッフも観客も、全員が感じただろう。
     そうして、千秋楽の日に、タケルはマイクを置いた。休止に関してのコメントは何日も前からプロデューサーも巻き込んで考えて、何度も道流の前で練習していたものがあったはずなのに、それも吹き飛んだようでその日語られたのは道流もまったく聞いたことのない彼自身の言葉だった。
    「実のところ、今、観客席は見えていません」
     そんな絶望から始まる言葉を、タケルは笑顔で紡いだ。
    「でもわかることがある。俺を支えてくれている円城寺さんの優しさと、全力のダンスを魅せてくれたライバルの存在。今日来てくれたみんなの熱い気持ち。ちゃんと、全部受け取ってる。そしてそれを返すような歌をうたったつもりだけど、届いてるか」
     どこからか、届いているよ、という声がある。頷くようにブルーのペンライトが揺れて、客席に波が起こるのだけど、タケルはきっとそれを見てはいない。
     見てはいないはずだが、タケルはより一層笑みを深くして、声を張り上げていった。
    「デビュー当時から、いっぱい客席を見てみんなに応える、そんなライブをしてきたけど、時にはステージに立つことがただ楽しくて、上を向いて、自分のための歌をうたったこともあった。そんな楽しそうな姿も好きだよってファンレターに書いてくれた皆がいて、次はまた客席を見て歌った。それはそれで楽しかったんだ。俺にとってライブはひとつの勝負で、みんな今日はどれだけ楽しい気持ちで帰ってくれるんだろうって思っては、いや俺の方がきっと楽しかったから俺の勝ちかななんてひとりで思ったりして。今日の勝敗はどうだったか。どうかな、楽しかったって思うなら声を」
     湧き上がる声が空間を埋め尽くした。鳴りやまないエコーがゾクゾクと体を襲う。大河タケルというアイドルは、ファンからこんなにも愛されていた。
    「ありがとう。みんなが楽しめたのなら、それはやっぱりアイドルとしての勝利だな。この勝負は俺の勝ちだ。――本当は、最後を勝利で飾れて良かったと言うつもりだったけど、それは言わないでおく。まだ『最後』じゃないから。確かに目を悪くしてしまって、ダンスを続けることは難しくなった。ボクシングにも復帰できないだろう。だけど歌なら怪我なく続けられるだろうって今回のライブで教えてもらった。アイドルをやることで、視界が広がったんだ。視力をなくしても出来ることはある。ここから入院したりいろいろあるからしばらくアイドルの大河タケルは休みに入るけど、それでも俺はここでリングを降りるつもりはない。まだ勝負は前半戦。終わっていないんだ。勝利の咆哮……虎の雄たけびを絶対に届けてみせるから、待っていてくれ」
     そうして突き上げられた拳は大河タケルの十八番、ストレート。客席から虎のような歓声。彼の影を残し、ステージの照明が落ちた。
     タケルに掴まってもらって、ステージから掃ける。もうこれでアイドル大河タケルのアイドル生命は閉じたと思って良いだろう。休止という形を取れど、復帰も難しい病だ。そして同時に、円城寺道流のアイドル生命もほぼ終わった。残っている仕事もあるしそれを放り投げるつもりは到底ないが、漣とふたりだけのTHE虎牙道というのも想像がつかない。マルチタレント程度にバラエティ番組を中心に出るか、ボーカルの強みを生かして歌手に転向するかだろうか。それもタケルと漣との三人の生活が軌道に乗ってからの話だ。今一番の目標はラーメン屋に戻りつつ、タケルのサポートをすること。
     タケルの方はというとスタッフからの数々の花束と歓声を、不安に上塗りした笑顔で迎えていた。ぱっと見下ろしてみて、ステージ上で見えた眩しいほどの笑顔との対比に思わず腹の底が冷えた。
    「……タケル?」
     スタッフに囲まれてねぎらいの言葉を浴びる彼の名前を呼びながら、軽く腕を引く。それでも彼はこちらを見ずに、目を凝らすかのように耳を周囲に向けた。
    「いや、円城寺さん……アイツ、漣の姿、見えるか」
    「漣の?」
     そう言われてあたりを見回すが、確かに漣が見当たらない。先に着替えに行ったのか、向こう側に掃けてしまったのか。
    「いや、見えないが……漣のことだから掃ける方向を間違えたんじゃないか。上手側に行けば……」
    「おかしいな……確かに同じ方向に向かう足音がしたんだけど、スタッフさんの音に紛れちまって」
    「タケルがそう言うならこっちに来たのか? どこに行ったのかな」
     もう一度漣の姿を探ってみるが、スタッフの間にも、物陰にもいるような気配はない。タケルを置いて舞台袖だけでなく通路に出てみたが人影はなく、ちょうど通りかかったスタッフやプロデューサーに聞いてみたところ「特に見てはいない」という返事があった。
     確かに突飛な行動の多かった漣だが、こうして誰の目にも触れずいなくなるようなことはなかった。慌ててプロデューサーと共に楽屋まで戻ってみれば、部屋のど真ん中、脱ぎ捨てられた漣の衣装が道流らを迎えた。
    「は? え、漣、もう着替えたのか……?」
    「そ、う、かも? 先に出て行ってしまったのかな」
     困惑している、というのを互いに確かめ合うように顔を見合わせる。漣、と呟いてみた声に返事はなかった。
     僅かな間だが沈黙が場を支配し、体が凍る。嫌な予感、というものがよぎる。が、はっとプロデューサーがスマートフォンを取り出して「事務所の方に連絡とってみます」と言ってくれた。
    「あ、ああ、じゃあ自分は男道らーめんの方……」
    「お願いします。でもまあ、漣くんのことなのでそれほど心配する必要もないでしょう。とりあえず打ち上げは不参加ということで……」
     自分に言い聞かせるような声色のプロデューサーの返事を聞きながら、楽屋に放置していた自分のバッグに手を伸ばす。スマホはこの中。ファスナーを開ける。一番上にあった自宅の鍵も、中でかさばっている着替えも無視してスマホを探し、おやっさんに電話をかけて詳細を伝え、漣が現れたら連絡を返してくれるように頼む。
     その後タケルには「先に帰っていったみたいだぞ」とだけ伝えてみたが、嫌な予感というものも伝わってしまったのか、彼の表情はあまり晴れなかった。打ち上げの予約があったのでどうにか移動したが、漣のことが気がかりだとずっとその顔が物語っていた。
     飲み屋での打ち上げそのものはつつがなく終わり、プロデューサーもアルコールを飲んでいたのでタクシーにタケルとふたり乗り込み、行き先は男道らーめんを指定した。タクシー内部では特に会話もせず、どことなく重い気持ちで辿り着いた男道らーめんはしっかり施錠されており漣もいなかった。仕方なくその場でタケルと苦笑し合い、家まで徒歩で向かうことにする。真夜中ではあったが、東京という土地柄、光の届かない場所はめったとない。タケルに掴まってもらいながら歩く。「もうすぐ右に曲がる」「そのあたり段差、上がるほう」という指示もお互いに慣れてきた。
     花束を抱えたままの足取りは重いが、網膜剥離が発覚した当初よりはしっかりしている。指示は最低限に留まり、話題は明日からの入院の話に移った。残すイベントはタケルの入院と手術、そして改めてのアイドル休止に伴う慰労会兼退院祝いの席のみで、退院より先のことはまだうまく想像できない。
    「ここのところずっと円城寺さんと一緒だったから、明日からひとりで入院と思うと変な感じだ」
    「はは、さみしいか」
    「さみしいよ、そりゃあ」
     少しの意地悪のつもりだったのに、思ったよりもずっとストレートな返事があって、素直にタケルはすごいなと感じてしまう。こういうときに漣ならばまず否定から返ってくるだろうに。
     漣とタケルはあの日からまともに会話していないだろうからこのまま別れてしまうのは双方にとって良くない。一度でもいい、ちゃんと向き合ってほしいのだが、ライブ終了後からの流れを考えれば、恐ろしいと思う他ない。タケル、と名を呼んで、こちらから話を切り出すより先にタケルが口を開いていた。
    「アイツが、漣がどこにいったか、円城寺さんもプロデューサーもわかってないんだよな」
    「……ああ。男道らーめんの中で飯でも漁ってるなら、って思ったけど、いなかったな」
    「まあ、漣のことだ、どこかでいつもみたいに寝てるんじゃないか」
     そこで笑い声を漏らしたタケルに少しばかり救われる。
     だが、入院からの流れでタケルの方には話したいことが決まっていたようだ。さほど間もなく、続けて声が聞こえる。
    「俺、円城寺さんには感謝してる。あの日からは特にそうだけど、その前から、出会ったときからずっと俺を支えてくれてた。漣のことも、張り合ってくるところはちょっと鬱陶しいと思ったこともあったけど、そう、だな。そうだなあ……好きだったよ、ちゃんと」
     三年間一度として聞いたことのなかった言葉に「そうか」と頷く。ふたりの間にあった感情が「好き」の一言で片付くものではないのは重々承知だが、タケルがそれでも「好きだった」「ちゃんと」と表現したことが何故か道流にも嬉しかった。
    「THE虎牙道のひとりになれて、良かった。円城寺さんはすでにそう思ってくれてるだろうけど、漣にもそう思っていてほしいんだ。――ただ、もう会えない気がするのが怖くて。俺は網膜剥離を黙って耐えてたことも、お医者さまからの入院の勧めを断ってステージの光を選んだことも、最後までふたりの間で歌えたことも、何一つ後悔してない。してないんだよ、円城寺さん。でも、アイツの蹴りを躱せていたらって、それだけはずっと後悔してしまうんだ。俺もまだまだ弱いな」
     やはりだ。もう一度、タケルと漣は話し合わなければいけない。いろんな不幸が積み上がった結果が網膜剥離に繋がっただけで、漣だけが悪者なのではない。なのにそれをタケルの方から伝えることなく、牙崎漣はTHE虎牙道の前から姿を消してしまった。
    「……漣はきっとレッスンスタジオに帰っているんだ。また病院に連れてくるよ。それで退院したら三人で同じ家に住んで、THE虎牙道じゃなくなっても、そうだな、家族みたいになろう」
     口を突いて出た言葉は希望がほとんどの大嘘で、しかしタケルは一度目を丸くして、そして笑った。
    「家族。家族か……俺にとって家族は妹と弟だけで、それも大昔になくして……どんなものが家族なのか、わからないんだ。そんな俺でも、円城寺さんと家族になれるか?」
    「なれるさ。なれる。THE虎牙道のこと、自分は男三兄弟みたいだなって思ってたんだ」
    「ああ、円城寺さんは俺たちのことをよく弟みたいだって言ってくれてたな。俺はずっと自分の事を兄の立場だと思っていたから、弟と呼ばれるのがくすぐったかった」
    「そうか。じゃあ、これからはもっと兄に甘えて、わがままも言ってくれ、弟よ」
    「努力はするよ、お兄ちゃん」
     お互いに嘘だとわかっているからこその、ふざけたやりとりだった。けれどそれに多少なりと心が浮上する。
     そう言っているうちに家に着き、ドアを開けたがやはり漣はいなかった。

    --- * ---

     牙崎漣は、消えた。嫌な予感の通り、どこを探してもいなかった。あちこち探し回ったのだ。漣の行きそうなところを尋ねてはずっと待ってみたり、家の鍵を開けっぱなしにしてみたり(これはさすがにプロデューサーに怒られたが)。事務所のメンバーも気にかけてくれていて、特に漣と親しかった四季や麗はひどく落ち込みながらも懸命に捜索に加わってくれた。皆、仕事の合間を縫って、ずっと漣を探している。けれど見つからない。
     道流は漣の捜索に加えてタケルの世話もあった。仕事を減らしておいて正解だったと強く思う。漣を探して、ラーメン屋のシフトに入り、たまにアイドルの仕事に行き、それらが終われば、病院に顔を出す。ただ、それも終わりに近づいていた。タケルの退院日が今日だった。
     午前休だったのでその間はやはり足の届く限りの場所で漣を探し、昼頃事務所に顔を出すと、やや青い顔をしたプロデューサーがそこにいた。道流に気づくなり「あ、あの」と震えた声で呼びかける。手はデスクの引き出しにかかっている。
    「どうしたんですか師匠」
     落ち着いて、という意味も込めて笑いかけてみれば、プロデューサーは首を振った。
    「漣くんから預かっていたパスポートが、なくなっていることに、今、気づいて」
    「パスポート、ッスか?」
    「うん……漣くん、家とかないから、いつまでも身分証明書をポケットに入れっぱなしで外で寝させるのもどうかと思って、以前から預かっていて、鍵付きの引き出しにしまってたんです。で、今、別の用があってここを開けて、パスポートがなくなってることに気づいて……鍵の置き場所は自分と漣くんしか知らないはずだし、そもそも他の貴重品は特になくなってないので、他人に盗まれたわけではないと思うんだけど、漣くんが持って行ったならもしかしてもう日本にはいないのかも」
    「はは、そりゃどこを探してもいないわけッスね!」
     笑い話じゃない。それは道流も理解している。けれどもはや笑うことでしか話の展開を作れなかった。プロデューサーはそんな道流を見て痛ましくでも思ったのか、不意に立ち上がって頭を下げる。
    「ごめんなさい、実は漣くんから仕事を減らすように言われていたんです。自分は漣くんも道流さんと同じようにタケルくんと一緒にいたいんだと思い込んで……これがまさかいなくなる予兆だったとは、思わなくて」
     まだ荷物もおろしていないというのに、そう言ってプロデューサーが頭を下げるのを、どんな思いで見つめればいいのか。それはわからなかった。わかるのは、プロデューサーが悪いのではない、ということだけ。顔上げてくださいと慌てて伝えながら、事務所のソファに荷物と腰を下ろし、プロデューサーも座らせる。
     こうなってしまっては、なんと話を切り出すべきかさえ、わからない。
     牙崎漣の失踪を「THE虎牙道から追い出された」と表現するなら、追い出した悪は道流とタケルだ。そしてタケルはもう十分に反省していて、漣に傷つけさせてしまったことをずっと悔いている。では自分は、と振り返ってみて、道流はまたわからなくなる。自分は確かに漣を追い詰めたひとりで、怒鳴りつけてしまったことを謝りたいとは思っているが、それでも「今一番目の前で苦しんでいるタケルのそばにいる」という選択肢を後悔してなどいない。
     そうなれば出てくる言葉など、ごまかしになるだけで。
    「……はは、まあ、うん。まさかッスよね。漣、ああ見えてTHE虎牙道のこと気に入ってくれてると思ってたんスけど」
    「うん……漣くんのことだから死んではないとは思うけど、難しいね」
    「そうッスね。漣、いつからこんなこと考えてたんだろうなあ」
     そんなこと今更わかるはずもない。思えばあの日から何一つ会話らしい会話をしていないのだ。あの怒号を謝ることはもちろん、THE虎牙道の三人が一緒にいるために考えていたことだって漣には伝えられていないままだ。タケルだって漣に言いたいことがいくつもあるだろうし、漣にだって自分たちに文句のひとつやふたつあるかもしれないのに。
     いや、あるからこそ、こうして離れていってしまったのだ。たくさん伝えたいことがあったのに、上手く伝えられなくて、黙することを選んで、離れた。
     今の自分には「話をしたいと強く思うのにどうしようもできない」という気持ちが痛いほどわかる。
     タケルはこんな「会いたい」という気持ちを二人分抱えて、ずっと走り続けてきたのだろうか。道流が漣に対して会いたいと思うだけでも潰れそうに重いのに、兄弟という肉親への思いを何年も抱えて、今もそこに三人目の気持ちを乗せようとしているのか。たったひとりで、気持ちを抱えて。誰にも言わずに、暗闇の中に見えた一筋の光へ手を伸ばすような努力を繰り返してきたのだろう。
     タケルを思えば思うほど、どうしてか心が苦しくなる。雑念を振り払うかのように、道流は勢いよく席を立った。「じゃあ、収録行ってきます」とだけ言い残し、事務所を出て、まだ真新しい愛車に乗り込む。
     収録が終わり次第タケルを迎えに行かなければ。


     タケルの術後しばらくして、視界のことを尋ねると「本当に狭い視界がちょっとだけ残ってる。真っ暗で長い長いトンネルの出口みたいな、そんな小ささだけど」と返事があった。やはり手術を先延ばしにするうちに余計な膜が広がっていたようで、ほとんど回復できなかったらしい。わずかにでも見えるのならば救いはあるかと思ったがそう単純な話でもないようだ。「ほとんど全盲と変わらないって思ってくれ」とタケルが言うので、道流はただ頷いた。
     点字と白杖の扱いは入院中ずっと勉強していたようで、たまの見舞いの際に進捗のほどを教えてくれていた。もう何を見ずとも点字で読み書きが出来るし、慣れた場所ならばひとりで散歩するようなこともあった。
     退院日でさえ、道流が迎えに行くともうタケルはロビーで待っていた。声をかけて話を聞く限り、手続きもすべて済んでいたようで、入院セットを詰めたリュックサックを背負い、白杖を片手に立ち上がる。
    「ついさっきまで書類の処理に追われていたんだ。どうにか、間に合って良かった。多少のことはひとりでできないと円城寺さんを困らせてしまうだろうから」
     そう言いながら、ひとりで白杖だけで歩いていこうとするタケルの背中に道流はなんと声をかけるか悩んで「成長したなあ」と笑いかけた。
    「でも、自分の腕を使いたくなったら言ってくれ。いつでも手を貸すぞ、文字通り!」
    「そのときは頼むよ。あんまりないとは思うけど」
     そこまで言って、タケルは足を止めて、道流の方へと振り返った。ちょうど病院のエントランスを抜けたところだった。
     外は夏の名残もない冷たい風が吹いていた。とても攫われそうとは言わないけれど、薄着で、運動不足で、痩せた彼はわずかに身を震わせて、それでも笑ってくれた。
    「円城寺さん、どこに向かえばいいかな。早速だが手を貸してくれ」
     ああ、と頷くのが、どうしてか怖かった。タケルさえ失ってしまうのは絶対に嫌だと焦りがまた心に渦巻く。
     乾いた喉で生唾を嚥下して引き攣れるような痛みを覚えながら、足を踏み出し、タケルの隣に立った。入院前のように腕まで彼の右手を誘導する。彼の手が自分の腕に触れたのを確認してからまた一歩。その一歩が呼吸をおかしくするほど重い。
     どうして、など、本当はわかっている。しかし本人に言えるはずがない。気を遣われているような気がしただけだ。連想しているのはタケルの網膜剥離が発覚する前の彼の気遣いで、胸が塞がる。よっぽど自分の中でこれまでの出来事がトラウマになっているのだと思い知る。
     右へ、駐車場の方へ、と指示し、心の中で何度も大丈夫だと自分に言い聞かせる。漣ならどこかで生きているし、自分はもう何も失わない。柔道はだめだった。でもラーメン屋は続けられて、ビルは取り戻して、アイドルにも籍を置いたままで、タケルは自分のそばにいる。こうして腕を掴んでくれている。
     もう、これ以上は何も失わない。
     どんな苦労も、苦痛さえも受け止めるから、どうか。
    「く、るまを」
    「うん」
    「車を、買ったんだ。事務所へは電車の方が良いだろうが、家のあたりは車の方が便利だし、……タケルが、もしかしたら、人混みの中は歩きたがらないかと思って」
    「はは、心配のしすぎだ、円城寺さん。泣かなくてもいいのに」
     指摘されてしまった。返事ではなく嗚咽のような、意味のない音として「ああ」と声が漏れ出る。足が止まる。
     声色は普通だったと思うのに、彼にはわかってしまうのだろう。腕を掴んでいた彼の手が優しく撫でるように、あやすように動く。
    「たくさんがんばってきて、ちょっと緊張が緩んだのかな」
     ああ、と頷くのが、どうしたって怖かった。努力は得意だと語った少年に、どうして自分は努力を認めてもらっているのだろう。確かにここのところずっと気を張ってきた。タケルが倒れたあの日からずっとタケルに寄り添い、漣がいなくなってからもずっと探してきた。だけど、違う。タケルの方がよっぽど。
     空いていた手で顔を覆う。もう何も見えなくなる。でもそれでは歩けないので何度となく涙を拭い、視界がぼやけようとも前を見据える。
    「タケルは優しいなあ。はは、おかしいな、こんなに泣くのはおやっさんのラーメンを初めて食べたとき以来かもしれない。止まらないぞ」
    「それだけ円城寺さんががんばってきたってことだろ。大丈夫だ。頼りないかもしれないが、この先は俺も一緒にいる」
    「タケル頼む、これ以上泣かせないでくれ」
    「すまない。でも良いんだ、いっぱい泣いても。良いんだよ。でも少し危ないから、端に寄ろうか」
     くっと腕を引いて、いたずらっぽく笑うタケルが合図をくれる。それでやっと心に余裕が出来て、視界のにじみがなくなり始めた。鼻を啜りながら、そうだなと頷き、タケルを引っ張って道端へと寄る。まだ面会時間内であるからか、人の出入りはあったし、アイドルをやっている身でそもそもがこの身長と体格だからどうあがいたって目立つというのに、誰も彼も、見てみぬふりをしてくれた。嗚咽を噛み殺しつつ、空を見上げて人の視界から自分の顔を隠す。木枯らしが吹いて、涙が乾く。一度止んでも、はは、と笑う度にまた涙が湧いてきて、唇を噛む。
     人から優しくされるのに、慣れない。その度に泣いてしまう。故障で試合に出れないと知ったときも男道らーめんに救われ、アイドルとして走り続けていたときも、タケルと漣の出してくれた食事に、何かを認められた気がして泣いた。今だって、これまでの日々をタケルに肯定されて涙を止められないでいる。
     きっと間違いはいくつもあったのだ。だから漣はいなくなった。それでも何度同じ時間を繰り返したって自分は同じ判断をして、同じ行動をとるだろう。そういう意味で何一つ後悔などしていない。これはただ心の痛みが重いだけの通過点で、きっと漣が帰ってくるゴールが未来にあるはず。またすぐに動き出さなければいけない。笑うのをやめて目元を拭う。落ち着け、と何度も繰り返す。大丈夫だ。タケルはこの腕を離すことはないだろう。ならば大丈夫。
     涙を飲み込んで何度か目元を拭っていればタケルの方から「いけそうか」と笑い声がした。それに「ああ」と明るく返して、道の真ん中に戻る。
     車を停めた場所とそこまでの距離感を確かめてタケルに方向を指示して、歩み寄る。赤外線キーでロックを解除し、タケルを助手席に乗せてから、運転席へと回り込んだ。タケルが難なくシートベルトをつけたことだけ確認して、発進させる。BGMには道流のスマホから一番上に表示されていたプレイリストを選んだ。「315プロダクション」と名の付いたそれは、事務所から出た曲をすべて詰め込んだもので、最初に流されるのはアルファベット順でAltessimoのデビュー曲。そのあとはシャッフルになる。
     会話は特になかった。座席に身を預けながら、タケルは目を閉じていた。景色も見れないし、話すこともなければつまらないのではないかと思うがしばらく走ったあとの信号待ちで、不意に声を掛けられた。
    「円城寺さん、運転上手い?」
     何を考えていたのかと思えば。驚きのあまり返事の声色が素気なくなる。
    「いや、長いことペーパーだった。免許を取ったのが体大時代だったから……車を買ってからかなり練習はしたが」
    「そうか。でも無理な加速も減速もないし、エンジン音が優しい」
     タケルは妙に嬉しそうに微笑んでまた眠るように耳を澄ませる。話をしない方が良いのかと思って道流も黙って運転を続けた。
     車種にはこだわった。鉄道と同じで、自動車だって力強さを感じる魅力的な乗り物だ。エンジンとか、モーターとか、そういった技術とか。詳しく理解は出来ずとも惹かれてしまうのは間違いない。だからいろんな要素をできうる限り吟味して購入を決めた。タケルがエンジン音を誰と比べたのかはわからないが(経験を考えればタクシーかプロデューサーの車だろうが)、車種のせいもあるだろうと道流は思う。――車体の色はTHE虎牙道らしいブラック。それだけは言わないでいて良かった。
     流される曲はいつの間にか自分たちの曲になっていて、タケルが道流のパートに鼻歌を被せていく。彼は彼なりに、トンネルの中を楽しんでいるようだった。道流も一緒になってメロディを口ずさめば、タケルが一層笑みを深くして、パートを譲った。交互に口を開いては閉じ、録音された声と自分の生の声を重ねて、笑う。漣のパートだけ歌う人がいない。
    「タケル、楽しいか」
     空白に耐えかねてそんなことを言ってみれば「楽しいよ」と頷いてくれた。
    「病院食は、正直、好きじゃなかった。やっぱり円城寺さんの飯が世界一美味いよ。今晩それが食べられると思うと楽しみで」
    「はは、そうか! そうかあ、じゃあ、タケルの好きなもの作ってやろうな。何が食べたい? ラーメンは明日店に連れて行ってやるからとりあえずナシで」
     退院日はさすがに家に慣れてもらった方が良いだろう、ということで何の予定も入れていないが明日はタケルの退院祝いの名目で事務所メンバーと集まることになっており、その前に昼食も兼ねて男道らーめんに連れて行くつもりだった。
     タケルはラーメンなしと言われてしばらく考え込んでいたようだったが、結局答えが見つからなかったようで「味が濃くて、白いご飯が進むやつ」と呟く。
    「またざっくりした注文だなあ! それならこれからスーパー寄るか。食材を確認しながらだったらタケルも何が食べたいか思いつくかもしれない」
    「ああ、いいな。俺やアイツだけ先に部屋に上がってたこともあったけど、円城寺さんと一緒に買い物するのも楽しそうだ」
     そう言われて、そんなこともしていたな、と思う。タケルとは外で昼食を調達するときにコンビニへ行ったことはあったが、スーパーでしっかり夕食のメニューを悩みながら一緒に買い物というものはしたことがない。漣が隣にいたときは、彼の相手をタケルに任せていたのだ。ひとりになって、ゆっくり彼らの好みを考えながら物を選ぶ、そういう時間が嫌いだったわけではないが、漣がいなくなった一因でもあったのではないかと邪推してしまう。
     三人の在り方は変わってしまった。漣がいなくなってしまった。ならば残された自分たちも、変わるべきだ。一緒にいるために。
     うん、と頷いて道流はハンドルを回す。家から一番近いショッピングモールの駐車場に車を止め、またタケルに腕を掴んでもらいながら店内に入る。郊外というだけあって土地に余裕があるのか、通路が広めになっているので道流がタケルと並んでも問題はないだろう。
     道流はカートを押し、タケルも白杖は手に抱えて、二人して歩幅を合わせながらひとつずつ品物を見ていく。においがはっきりしているからか、タケルは生鮮食品ならばおおまかな売り場はわかるらしく「魚……魚はしばらく食べたくない、肉が良い」と呟いて笑わせてきた。彼の出身地を思えば魚は好きそうだと思って、宮城にいたときは食べなかったのかと聞いてみれば案の定「こっちの魚、どことなく臭いし、食べ慣れたものも少ない」と首を振った。
    「種類に詳しいわけじゃないから、上手くは言えないけど……もともとそんなに好きでもないし。出されたら食べてたけど、選べるなら肉ばっかりだな」
    「なるほどなあ。……もしかして、鰹とかも好きじゃないのか」
    「嫌いでもない、けど食べ慣れてはないな。円城寺さんが時々鰹のたたきを懐かしそうに注文して食べるのを見てるのは好きだった」
     やはりだ。同じ太平洋側と言えど宮城と高知では海流が違う。鰹は道流の地元、高知の名産だし、実際に地元で食べるたたきは好きだったし(向こうでは塩で食べるのだが、やはりそれが好きだった)、タケルたちと食べに行った店で鰹のたたきがあると無条件で注文してしまっていた。それをタケルが嬉しそうに見つめてくるから、タケルも魚が好きなのかと思い込んでいたがそもそも食べ慣れていなかったようだ。そして好きなのは魚じゃなくて、道流が食べている様だという。
     三年以上も一緒にいて、これからも一緒にいようと決意しておいて、まだまだ知らないことがたくさんある。
     少しばかり嬉しくなって、タケルの死角を狙って鯖のパックを手に取ってみると、タケルがすぐさま不機嫌な顔をこちらに向けた。
    「円城寺さん」
    「はは、すまない。見えてるみたいに早かったな」
    「音と影でだいたいの手の動きくらいはわかる。鮭なら良いけど、他は嫌だ」
    「わかった、明日の朝は塩鮭にしよう。この鯖は自分が食べるから許してくれるな」
    「それなら」
     鯖のパックは戻すのも不衛生なのでカゴに入れ、冷凍されていた鮭の切り身を二人分追加で放り込む。きっとこの少年は塩鮭にもだばだばと醤油をかけるのだろうし(それが宮城で培われた食文化なのだろうし)とりあえず今日は調味料も一通り見た方が良いかもしれない、とカゴを見下ろして思う。
     二人数日分の野菜と、豆腐や油揚げといった大豆食品、さきほど放り込んだ鯖と鮭。ここに彼の希望通り肉類を入れていくことになるし、彼のことだから卵もかなりの量を食べたがるだろうし、あとは飲料だって必要だ。普通の水、豆乳、牛乳、気分転換にジュースやコーヒーも欲しい。カップ麺のような簡単に準備できる食べものもいくつかはストックしておいた方が良いだろうし、最後に醤油も含めて合わせ調味料とか、缶詰とか、乾物も見ておきたい。
     タケルの入院中はこうもいかなった。食べる人間はひとりだったから。
     一緒に買い物するのも楽しいものだなと噛み締めながら、コーナーを移り、鶏や豚や牛や、目につくものを放り込んでいく。そんなに買って大丈夫なのかと言われれば「基本的には冷凍するし、タケルは大盛りで食べるだろう」と笑い返した。
    「で、そろそろ何が食べたいか決まったか」
    「決まらない。どうしようかな、円城寺さんは食べたいものあるか」
    「自分の食べたいものじゃ退院祝いにならんだろう。そうだな、鶏ならから揚げとか好きだったよな。照り焼きやチキン南蛮も出来るし……豚もいろいろ出来るな、トンテキ、トンカツ、生姜焼き、肉巻き……あ、タケル、鍋は平気か? しゃぶしゃぶとか、家でもしてやるぞ。牛肉使ってすきやきでも良いし」
    「いろいろ出てくるな。じゃあ、トンテキ。ニンニクソースで」
     適当に候補を挙げていればやっとタケルもピンときたようだ。トンテキ用の肉をカゴに追加すれば、タケルがまた腕を引いた。肩を叩くかのように、この子は自分の腕を使ってくれる。
    「明日は食べに行くから無理だけど、明後日にでも鍋をしよう。寒くなってきたし……よそってもらうことになるかもしれないけど、食べれると思うから」
     下からの視線が真っ直ぐにこちらを射抜く。無表情の多い彼にしては明るい笑みで、こちらまで心が弾んでくる。
    「ああ! タケルがそうやってわがままを言ってくれるのは自分も嬉しい。良いぞ、美味しいものを腹いっぱい食べよう!」
     タケルの手に自分の手を重ねれば、タケルは「くすぐったい」と払うような動きで応えた。はは、と笑い合って、カートを押し進める。先程考えていた通りに、飲料(自分用の酒も)や冷凍食品、調味料を入れて、レジまで並んだところで「エコバッグがない」と気づいてふたりして苦笑いを向け合った。仕方ないのでレジ袋を二枚ほど買って、ひとりひとつずつ持って、車まで戻る。

     退院してきたタケルを新しい家に迎えて、三人で暮らすにはきっと狭かったはずの借家も、タケルと道流のふたりでは広すぎると気づいた。きっと一番大きく動き回るであろう人物が消えてしまったからだ。それをタケルは静かに「まあ、アイツには手狭だったかもな」と受け流した。
     キッチンに袋を置いたところで、タケルがすっとそばを離れる。どうしたと尋ねれば「家の中、歩き回ってみたくて」と手を振る。
    「ついていこう。ただ先にこれを片付けないと……」
    「ああ、いいよ。ひとりで大丈夫。何かあったら呼ぶから、円城寺さんはゆっくり飯を作っててくれ」
    「そうか? じゃあ……」
     断られたので、言われた通り手を引く。退院明けと言えど、ここのところ足取りはしっかりしていたし、室内も特に危険なものを出しっぱなしにはしていないはずなので、そう大変な事故は起こらないだろう。屋内の構造と距離感を覚えるならば、自分がいるところで変に気を遣うよりもひとりでじっくり触ってみた方が良いだろうし。壁伝いに少しずつ歩みを進めるタケルの背を見送って、道流はひとりキッチンに戻った。定期的に聞こえてくるドアの開閉音と自分の鼻歌をBGMに、買い物の整理を始める。
     先に冷凍庫を埋め、調理に使うもの以外を自分のルールに従って冷蔵庫の中に並べていく。一番上は調味料関係、二段目はデザート関係で、今はここにプリンが並んでいる。三段目には作り置き。未調理の食材は四段目かパーシャルへ。野菜室も同じようにマイルールで埋め、空になったレジ袋はゴミ袋として扱うことにして、作業台に向き直る。
     まずは炊飯器に米をセットして、豚肉に下味をつける。手を洗って包丁を取り出し、無心で大量のキャベツを千切りにして、皿に移した。余ったものはボウルに水と共に入れてラップ、冷蔵庫へ。大鍋で味噌汁用のお湯を沸かしつつ、隣でフライパンを熱しながらニンニクをスライスしてそこに放り込み、油と共に少し焦がしてから肉を二枚並べる。そのあたりでタケルがキッチンに戻ってきた。
    「おかえり。家の感じはどうだ」
    「ああ、ぶつかるような危ないものもないし、慣れれば壁に頼らなくても歩けると思う。あと」
    「ん?」
     ソースを混ぜ合わせているあたりでタケルが言いづらそうにして、わずかに視線を漂わせた。わざとらしく首を傾げて続きを待つと「えっと」と前置きのあとに一息で答えがある。
    「円城寺さんは気にしないと思うけど、円城寺さんの部屋、勝手に入っちまった」
     思わず、笑い声が漏れた。そんなことか、とでも言いそうになって、でも彼は罪悪感を覚えて伝えてくれたのだと思ってぐっと飲み込む。
    「そうか、いや、本当に気にしないから、タケルも気に病まないでくれ! 確かにルームプレートもないし、わかりづらかったな」
    「ベッドがあって、おかしいなとは思ったんだけど小物とか確認しようと思っていくつか触っちまった。すまねえ」
    「大丈夫、本当に気にしてないから。タケルの部屋は隣にあっただろ」
    「ああ、定期的に掃除してくれてたんだな、綺麗で助かった。久しぶりに自分の布団で寝れるの、嬉しい」
     肉をひっくり返して、焼き具合を見る。隣はもう沸騰していたので粉末だしを放り込んで、豆腐と、水で戻した乾燥わかめを入れ、火を止めた。フライパンの方に戻って、一枚ずつまな板に出して切り分けてから、ソースと絡めて焼き直す。味が馴染んだあたりで皿に盛る。タケルが「俺が運ぶよ」と言うので、一瞬だけ迷ってしまったが、お願いすることにした。キッチンからダイニングまでそう遠くはないが、物を持ってとなるとやはり不安だ。一皿だけ片手に、もう片手は壁に触れながら、わずかな視界を頼りに歩くタケルの背中を見届ける。彼が「真っ暗で長い長いトンネル」と表現した世界はどんな風に見えるのだろうか。壁から手を離しても、まっすぐに歩いていく。
     一皿だけテーブルに置いて戻ってきたタケルの、達成感がありありと浮かんだ顔に「ありがとう」と素直にお礼を伝えつつ、もう一皿頼む。それをまた見送って、鍋の方に味噌を溶いてお碗に移し、お盆に乗せる。ちょうどご飯も炊きあがったのでふたつのお茶碗に山盛りにして、冷蔵庫から作り置きしておいたおかずも小鉢に入れ、箸やお茶、コップも揃えてこちらは自分で運ぶ。タケルはそばまで来ていたが、道流のあとを追って席に着いた。
     お盆からものを移しながら、二人分の夕食を丁寧に並べる。炊き立ての白いご飯、味噌汁は豆腐とわかめ、小鉢の方は豆苗と油揚げの中華炒め、メインはトンテキ、ニンニクソース焼き。
    「病院食が小鉢の多い食事だったようだから普通に作ったけど、食べれそうか。フォークが良ければ出してくるけど」
    「たぶん大丈夫、うん」
     皿の輪郭を触って大まかな距離感を掴んでいたようだったが、頷くと共に手が離れた。
    「匂いでわかる。美味そう」
    「そう言ってもらえて嬉しいよ。ゆっくり食べてくれ」
    「ああ、いただきます」
     そう言って手を合わせて、箸を取る。小さめに切った肉を摘まみ上げて、口の中に運ぶ。その瞬間に顔が綻んで、繰り返し噛んで、染み出すものも味わってくれる。
    「美味そうに食べるな。おかわりはあるから言ってくれ。肉も焼くぞ」
     そう伝えてみると、やっと一口目を飲み込んだ彼が大きく頷いた。
     きっと今隣に漣がいれば、タケルは食べる速さを競うように言われて、掻き込むように食事していたことだろう。思い返せばタケル自身は(そう遅いわけでもないが)ゆっくり食べる方だった。男道らーめんにはよく一人で食べに来ていたが、勝負事が関係ない場面での彼の食事スピードはごくごく一般的だ。今の彼の所作もそうで、見慣れた光景と比べればとても穏やかで、ひとつずつ噛み締めて味わうようで。
     ゆっくり食べてくれ、と言ったからか。それとも、視界のせいか。どことなくいたたまれなくなって、やっと道流も自分の分に手を付けた。肉が少し固いかもしれない。今度ヨーグルトでも買ってきて漬けてみようか。
     しばらくそうして食べ進めて、落ち着いてきたところで彼が入院していた間の話を切り出した。
    「こないだ見舞いに行ったときにどこまで話したかな、漣もタケルもいないから、ここのところは麗や四季がよく覇……チャンプの世話をしてくれていてな。朱雀もよく来る。そのせいかまたあの猫、太ってきた」
    「大変だ。減量させないとな」
    「ああ。……それで、今日、わかったことなんだが、漣が今どこにいるかという話で」
     タケルの手が止まる。口の中に入っていたものを飲み込み、真面目な顔でこちらを見る。
    「パスポートがなくなっていたらしい。たぶん、漣が持ちだしたんだろう。日本にはいないかもしれない」
     それを聞くなり、タケルは落胆するかと思いきや、安堵したかのように大きく息を吐いた。「良かった」と微笑み、頷く。
    「良かった、って言って良いものかはわかんねえけど、でも良かったよ。少しだけアイツの居場所を絞り込めた。それにアイツのことだから日本で小さくまとまってるより世界に飛び出して行った方がよっぽど生きやすいんじゃないか」
    「……はは、そうか。そうかもしれないな。タケルは強いな」
    「なんでそこで俺が強いって話になるんだ」
    「いや、自分は漣が遠ざかってしまったことが悲しくて、漣が今どう生きているかなんて考えなかったから」
     思うがままに伝えてみれば、タケルは今度こそ箸を置いた。逡巡するような間があって、おもむろに口を開く。
    「その、ちゃんと説明できるとは思っていないから、こう、円城寺さんには上手く汲み取ってほしいんだけど」
    「いい、話してくれ」
    「ああ。今、本当に安心したんだ。アイツがきっと自分の意思で、ちゃんとどこかにいるってわかって。その……入院中ずっと考えてた。俺はTHE虎牙道のひとりになれて良かったと思ってるし、アイツにもそう思っていてほしい。それは変わらないんだ。THE虎牙道はちゃんと『アイドルユニット』で、ユニットっていうのは、もともとボクサーやってたからちゃんとした感覚はわからないけど、サッカーとかバスケとか、そういう団体競技で言えば『チーム』だから。俺はアイツのこと、チームメンバーとして信頼していたし、ちゃんと好きだった。アイツにも信頼されていたかったし、気に入られていたかった。だけど、もしかしたら、アイツは虎牙道のステージのこと、ひとつの試合会場みたいに思っていたんじゃないかなって、考えてた。THE虎牙道は、勝負をする場所だったんだ、きっと、アイツにとって」
     それは自分たち個人競技の格闘家だからこそ、スッと飲み込める言葉だった。「勝負をする場所」と復唱すれば、タケルは「そうだ」と返してくれる。
    「勝負をするところ、って、俺にとってはリングなんだけど。拳法家だとなんていうのかな。それはわからねえけど。リングのこと考えてたら自分がボクサーとして勝負してた時のこと、いろいろ、思い出してた。リングに上るまでの緊張とか、高揚感? とか。勝ったときの、安心感と嬉しさ。負けたときの、逃げ出したくなるほどのいたたまれなさ。実際にリングから逃げ出したことはないけど、それでも、負け試合はつらかったな。勝敗が決まってからリングから降りて良いと言われるまで、あの時間は本当に苦しい。一刻も早くどこかへ帰りたくて仕方がなくなる。それを絶望と言うなら、もしかして、漣もそういう気持ちでいて、たまらなくなって、虎牙道を離れてしまったんじゃないかって。アイツ、今、心が絶望の中にいるんじゃないかって、そんなことを、入院中、ずっと」
     タケルの言葉は確かに的を得ていない。感覚と論理がぐちゃぐちゃになっていて、汲み取るのも難しい。だが、道流の心にはよく響いた。道流もまたひとりの格闘家として、試合へ挑むときの覚悟を思い出していた。
     つまり、きっと漣は、自分たちと勝負がしたかったのだ。アイドルとして、勝負がしたかった。だけどタケルが目を駄目にして、道流がそれに寄り添おうとしたことで、誰とも勝負出来なくなってしまった。自分の蹴りひとつで、試合相手を壊した。反則負けだ。漣の。
     それがどれほどの絶望だろうか。そんなものは世界の中で誰よりも、自分たちがわかっている。
    「そう、かもな。そうかもしれない。タケルの言いたいことはよくわかる。自分も技を決められてから相手に一礼するまでの間、どれほど悔しかったか、今思い出したよ。ああ、忘れてたな……当時はその瞬間が死ぬほど悔しくて怖くて苦しかったのに、前線から退いて忘れていた。そうだ、そうだった。あの恐怖は、ひとりじゃ耐えきれるものじゃない……」
    「ああ。それでも俺はリングを降りたらタオルを巻いてくれる人がいたから耐えた。円城寺さんも試合が終われば同じ日本選手団の仲間がいたんだろう? でも、アイツにはそれがなかった。なかったんだ。帰る場所もなくて、誰にも迎えてもらえなくて、虎牙道からいなくなった」
    「本来自分たちがその役目のはずだったのに。自分たちは漣の勝負相手であると同時に、漣の仲間だったのに。自分はそんな漣をひとりにしてしまったんだな」
     怒りにかまけて、漣と話をしなかったのは自分だ。タケルは目のことがあってそれどころではなかっただろうから、漣に孤独を押し付けたのは間違いなく道流の責任だった。そのままを呟けば、タケルは「違う」と答えてくる。
    「俺が目を悪くしたからだよ。俺がひとりで何もできなくなってしまったから、円城寺さんやプロデューサーが俺にかかりっきりになったんだ。アイツから人を奪ったのは俺だ。俺のせいだ。俺がアイツをひとりにした」
    「それは違う。自分のせいだよ、タケル」
     ヒートアップするという予感はあった。だけど否定せずにはいられなかった。
     案の定、タケルは顔を真っ赤にして大きく首を振る。
    「円城寺さんのせいじゃない! 違う、違うんだ、俺が言わなかったから」
    「タケル、自分を責めるな。お前さんのせいじゃない」
    「じゃあどうしてアイツが消えたんだ!」
     ぐっと息を飲む。そんなもの、――タケルが目を悪くしたからだ、なんて、言えるはずもない。机を叩きつけたくなる。けれどタケルを責めたいわけではないし、自分だってそんな感情に任せた行動を取りたくない。もう二度と。
     必死に思考回路を怒りから逸らしていく。話をしなければいけない。これ以上、漣に加えてタケルまで手元から離したくない。そうだ。三人で一緒にいる、それが自分の今一番の目標だ。漣がいなくなった原因なんて、なんだっていい。考えるべきは、どうやって漣を取り戻すか。それだけ。
     何度か大きく呼吸をして、気持ちと心拍を落ち着かせる。噛んだ唇を舐めて、そこに力が加わらないことも確認して、声が強張らないように意識して、微笑む。演技なら覚えてきた、大丈夫だ。大丈夫。
    「冷静になろう、タケル。さっきも自分で言ってたじゃないか、『自分の意思で、ちゃんとどこかにいる』って。これは漣が選んだことで、自分たちにとやかく言えることじゃない」
     苦し紛れの言い訳ではあるが、タケルには伝わるだろうという思った。タケルもはっとしたように自分の発言を鑑みて「そう言えばそう言ったな」と拳を握る。
    「俺たちがとやかく言えることじゃ、ないよな。……でも、やっぱり、ちゃんとアイツのことわかりたかった、とは思っちまう。牙崎漣って奴のこと、考え出したらもう止まらなくて」
    「はは、漣は難しいからな。そうやって理解してやりたいって思うことすら漣は嫌がるかもしれない」
     ゆっくり手を伸ばし、固いタケルの拳を握った。出会ったときよりも、これでも柔らかくはなっているのだ。彼の手はボクサーの手からアイドルの手になっていた。もうこんな手で人を殴れはしない。なのにそこに力を入れて、まるでこれから戦いにゆく、ひとりの獣のようで。
     しばらくそうしてタケルは自分の中の激情と向き合っていたようだ。一呼吸して、拳の力が抜け始めた。開かれた手が向きを変えて、道流の手を握り返す。
    「アイツは、なんだったんだろう」
     彼の言葉は、先程と同じで漣を理解したいという願望だ。しかし声色は落ち着いていて、道流にも安心して聞こえた。
    「すぐに張り合ってきて、確かに嫌いだった。ちゃんと好きだったけど、嫌いだった。ぐちゃぐちゃなんだ。嫌いだったけど、アイツの野生的なとことか、生命力とか……力強さ、っていうのかな。そういうのは本物だったと思うし、好きだったって言える。アイツが突っかかってくるのは面倒くさかったけど同じ景色を見るなら円城寺さんとアイツじゃなきゃ意味がなかった。――なのに俺、今となっては全然現実感がなくて」
     声色はひどく落ち着いていた。なのに手のひらがじんわりと、汗ばんで、滑っていく。冷や汗にも似て、触れあっているはずなのにわずかずつ体温は下がっていく。
     何を感じているのか。罪悪感か。怒りか。恐怖か。さみしさか。それらをまとめて悲しみと呼ぶのならば、悲しみできっと良い。
    「パスポートの話を聞くまで、過去形でしかアイツのことを語れなかった。良かった、って言ったけど、本当は自分に安心したんだ。アイツのことを、ずっと、俺が勝手に見ていた夢とか、幻とか、そんなものだと思ってしまいそうになっていたから。アイツの存在がさっきやっと重みを持って納得できて、自分のために安心したんだ。ステージを降りてから、アイツが存在したって証拠がもはやイヤホンから流れてくる歌声くらいしかなくて。映像はもう、見れないし。あんなに顔を合わせていたのに、そういえば知らなかったって思うんだ。好きな食べ物、好きなスポーツ、好きな歌、好きなダンス、アイツが見ていたもの。何が嫌いだったんだろう。本当に俺のこと気に食わなかったのかなって思うとき、同時にそれなりに好かれてたんじゃないかって思ってしまって。どんどんアイツを俺の都合のいいように歪めている気がして。そうすると、もう、牙崎漣って最初から俺が作り出した幻想なんじゃないかって思えてきて。アイツにも悪い気がするし、俺がとんでもなく薄情な人間にも思えてきて、苦しかった。悲しかったんだ、円城寺さん。アイツが本当に今生きているならきっとアイツの方が苦しいのに、まだきっとひとりなのに、アイツから円城寺さんも虎牙道も奪ったのは俺なのに、俺ばっかり、苦しんでるみたいで」
     滑り落ちそうになる手を必死に掴んで、引き上げる。うん、と相槌を打って続きを待ったが、彼はもう何を語ろうともしなかった。代わりに道流の手の形を確かめるように何度も指の腹を押し当てて、手慰みのように遊んでいる。――誤魔化しだと、道流は思った。悲しみを誤魔化している。この先をどう進むべきかわからずに、道流に答えを委ねている。
     入院中にきっとたくさんのことを考えたのだろう。漣がどうしているかに始まり、何を考えてTHE虎牙道にいたのか。THE虎牙道に何を求めていたのか。失明していく自分が、彼にどう見えていたのか。彼を失って、自分は何を思うのか。彼に何を思っていたのか。それらすべてに結論をつけて、「悲しかった」に行き着いた。
     そしてそれを道流に伝えておきながら、もう一歩先に進む勇気だけ取り零してまごついている。きっとこの小さな体に、三人目は重すぎたのだ。整理をつけるにはまだ少し時間が足りない。それだけだ。
     であれば、道流の口から伝えることは。
    「よく考えたな。自分もいつかの師匠と同じことを言おう。タケルの判断を、一切否定しないよ。お前さんの暗い気持ちに目を瞑ったりしない。間違いだとも言わない。……正直、自分も同じ気持ちだよ、タケル。まだひとりであろう漣のことを心配すると同時に、漣は最初からひとりだったから大丈夫だ、なんて思ってしまう。しかも、本当に漣を想うからじゃなくて、自分救われたさにだ。漣は……漣もひとりじゃきっと苦しかったから、自分たちのそばを離れたのに。だけど、タケル。このままじゃ駄目だ」
    「うん、円城寺さん」
     タケルが答えてくれて、ほんの少しの光明が差したように感じた。強く手を握る。殴るためではなく、人を愛するための手として、人の肌に触れる。
    「探そう、タケル。漣のこと。それしかないんだ。今までタケルがそうやって生きてきたみたいに、漣のことも探すしかない。大丈夫だ、自分たちなら出来る。だって、タケル、努力は得意だろう?」
    「ああ、そうだな。そうだ。長く休み過ぎて、少し迷っちまった。がんばるよ、円城寺さん」
    「その意気だ、タケル! 自分も負けてられないな」
     お互いに涙を耐えていたのか、やや水気を含んだ目を合わせ、笑い声を重ねる。ずっと俯いてばかりなのは自分たちには似合わない。
     気持ちの整理は、今ついた。休みは終わりだ。視界を狭めた彼と、それに付き添う自分に何が出来るかはまだわからないが、それでもやりたいことを確認できた。
     一緒にいたいならそれなりの努力を。離れ離れになった人たちがもう一度巡り合うのは難しい。そう語ったのは自分だ。ならば自分が努力せずしてどうする。彼も努力は惜しまないだろう。タケルと共に探して、必ず漣と再会する。
     道流がそう決意して、ぐっと手に力を込めたところで、「食べづらいよ、円城寺さん」と笑われ、やっと今が食事中だと思い出した。ぱっと手を離す。
    「ああ、すまない。冷めたなら温め直そうか」
    「いいよ、円城寺さんの飯は冷めても美味い」
    「タケルは嬉しいことを言ってくれるなあ! ちなみにデザートにはプリンがあるんだ。昨日作ってな。タケルと漣好みの甘さ控えめの固いプリン」
     冷蔵庫の方を指差すと、彼の顔がぱっと輝いた。もう成人と言えど、こうして食事関係で喜んでくれるあたりはまだまだかわいらしい。
    「本当か! ああ、楽しみだな……楽しみだ。明日からまたがんばるから、たくさん食べないと」
    「はは、そう焦るな。自分たちは漣みたいな最強大天才じゃないからな、ゆっくりやっていこう」
    「そうだな。とりあえず、おかわり」
     こん、と箸が空になりそうな皿を叩いた。わかった、とだけ言って、おかわりを用意すべくキッチンに立つ。しかしフライパンを温めていたところで、ふと思い至る。
    「いや、明日は師匠たちとの退院祝いだろ? 今日食べ過ぎることはないんじゃ」
     キッチンからダイニングに声をかければ「こんなもの食べ過ぎなはずがないって円城寺さんは知ってるだろ?」と笑い返された。


     自分たちの進むべき方向はわかった。スロースタートなだけで、走り、闘い続けることは自分たちの得意分野。出来るだけ早くアイドル活動に戻る、と話が決まった。
     ただ、道流もタケルや漣のいない中でのアイドル活動というものが想像つかず、ラジオやアクションムービーを中心に仕事を増やした。THE虎牙道としての活動はなし、ソロのマルチタレントとして動いていく方針だ。声の仕事はやはり楽しかったし、アクションの方も相変わらず好評。柔道試合の解説に呼ばれた時などこれは柔道家、ラーメン屋に次ぐ天職なのではないかと思ったほどだ。その仕事を終えたあと、帰宅するとタケルがテレビの前のソファで眠っていて、生放送を聞いていたのだろうなと思えば愛おしかった。
     タケルの方は、やはりダンスには不安があるようなのでしばらくは目に負担をかけない仕事を中心にしていきたいとプロデューサーに伝えており、音楽関係を主に受けていた。ただそれだけでは物足りないということで、点字やパソコンの練習がてら視覚障害者向けの書き物も始めたようだ。このあたりではいつか福岡でライブをしたときの縁で一希を頼ったのか、スマホの自動読み上げはよく「『九十九さん』からメッセージ」と喋った。彼とはどんな話をしているのかと問えば「文章の書き方とか、資料の集め方とか、教わってる」と返事があった。
    「中学卒業してこっちに出てきたときも、ボクサーやめてアイドルを始めたときも思ったけど、本当、すごい人がいっぱいいるんだな、って改めて思う。俺の見たことないものを当たり前のように見つめてる人がいて、俺にわからないものを理解してる人がいて、そうして俺を助けてくれる。プロデューサーや九十九さんだけじゃなくて円城寺さんもそうだ、みんなすごいよ。それにちゃんと気づけて良かったと思うし……こういうこと、なんて言うのかな。『視界が広がった』?」
    「はは、良いジョークだな。自分は嬉しいよ、タケルの役に立てるのは」
    「いつもありがたいと思ってる。助かってるよ。俺も円城寺さんの役に立ててるならいいんだけど」
    「もちろん助かってるさ。持ちつ持たれつ、協力し合っていこうな」
     そんなことを話し合いながら、お互いに仕事をこなしていく日々だった。家事の分担についても、食事関係はすべて道流の担当で、それ以外のところはタケルの手が空き次第、出来るところまで進めてもらう形で定まっている。スケジュールがかなりソフトになり、書き物にも慣れてきたタケルは実際上手く家の中のことをまわしていた。視力のせいで手が届かないところは道流のオフの日にふたりで片づける。そうすれば、二度目からは工夫なり努力なりして、危険のない範囲まではひとりで処理し、ふたりで過ごす時間を増やしてくれた。
     タケルはTHE虎牙道の休止前以上に、道流の隣にいることを好むようになった。おおよそこの視界では単独行動は危険だと悟ったからだろうが、頼られることは道流にとっても嬉しいことだったので歓迎していた。締め切り前などは家の中にこもりっきりで必死に原稿を片づけているが、比較的余裕のあるうちは男道らーめんまで来て、手伝いを申し出ることもあった。さすがに火まわりは預けられないにしても餃子を包む作業についてはかなり器用にこなしており(最初の頃の目も当てられない分に関してはすべて自宅に持ち帰って夕食にしたのでしばらく家がニンニク臭かった)、店としても大いに助かっている。
     そうした手伝いも終わって客もまばらな時間になれば道流の上がりを待って店内の末席に座り、点字の本を読んだり、書いたり(点字と言うのは書くと言うより専用の機械で紙に凹凸を打っていく感じになるのだが)、時間を潰す。パソコンの方も音声補助のあるものを練習しているのか、点字に飽きればイヤホンを使いながらの執筆作業もよく見かけた。
     今後の話、という程度でもないが、そんな風に「この視界でも出来ること」を確認したタケルは将来的な展望も語るようになっていた。「全盲の場合、マッサージ師なんかも人気の職業になってくるらしい」と言われ、ふたりで専門学校を調べてみたこともあった。
    「ボクサー時代にも整体師さんにはお世話になったし、いずれこういうことも出来たら格好良いなって思ったんだけど……でも、アイツの目に触れるかはわかんねえな。もっと目立つ職業の方が良いかもしれない」
    「それで言えば、アイドルが最強だな」
    「『最強』、そうだな。もっとがんばらないと」
     本当に短い会話で結論は「専門学校は見送り」となったが、もし今後気が変わって本気でチャレンジしたくなったら言ってくれ、送り出すつもりはある、とだけ伝えて、いつもの仕事に戻る。

     そうして慌ただしく日々が過ぎ、平日、男道らーめんの昼間三時から五時が一番落ち着いてタケルと過ごせる時間だなんてことになったとき、ガラっと店の扉が開いた。
    「らっしゃい! お仕事帰りッスか」
     郵便配達員の格好をしていたのでそう声をかけてみたが彼は首を振った。
    「いや、お仕事中です。男道らーめんさんにお届け物」
     そう言って一枚のはがきをカウンターに置く。
    「じゃ、本当の仕事帰りにまた来ます」
    「はは、待ってますね」
     そうして帰っていった配達員にタケルが会釈をして、はがきを手に取った。いつかのタケルが語った通り「音と影でだいたいの手の動きくらいはわかる」ようで、視線は確かにはがきのあるあたりを捉えていたし、ためらいなくはがきを拾い上げ、すぐさま「点字だ」と呟く。
    「点字? 誰からだ」
    「ごめん、時間かかるから、円城寺さん、差出人を読んでくれ」
     カウンター越しにタケルからはがきを受け取った。確かに点字の凹凸が、ペンで書かれたアルファベットの上に重なっている。差出人の名前はなく、書かれているのは男道らーめんの住所だけだ。しかも角ばった、下手な男の字。
    「……、も、しかしたら、漣……?」
     思い浮かんだ顔の、その男の名前を呟けばタケルの表情が変わった。奪うように手を伸ばしてきたので彼にはがきを渡す。タケルは裏表を確認し、住所側に凸字が来ていたようでそちらを表にして机に置き、すぐさまそこに文字に指を走らせた。見たところ文字は少ないようだが、そこに何が込められているのか。まだ自分にはわからない。
    「タケル、なんて書いてある」
    「いや……すまねえ、ちゃんと読めない。漣のことだから日本語のはずなんだけど日本語として読めないんだ。英語なのかな、困ったな、英語だったらアルファベットまでは読めても意味は……」
    「それなら自分がわかる。アルファベットだけ言ってくれ」
    「ああ、でも……ん? 英語でもない気が……あ、わかった。ちょっと待ってくれ」
     タケルの表情が一気に綻んだ。指の走る方向が反転し、左手の人差し指が、潰れかけた凹凸をなぞる。時折意味を確かめるように戻り、進んで、笑みが零れる。
    「漣だ、漣だよ、円城寺さん。アイツ、点字は裏側から打つから読むときには反転するってことを知らなかったんだな。鏡文字みたいになってる。それでもちょくちょく間違ってるし」
     嬉しそうに何度となく指を走らせ、意味をなぞるタケルに、こっちの心まで浮足立つ。こんなことなら自分もスマホの読み上げに頼るのではなくて点字も覚えれば良かった。そもそも資格の勉強は自分の得意分野なのだし、早速今晩から覚えてみよう。そう決意しつつ、今はタケルの言葉を待つしかない。「なるほど、漣はなんて?」とせっつけばタケルは花の咲いたような笑みではがきを道流に差し出した。
    「きっとびっくりするよ、円城寺さん。アイツ『いまにほんじゃないところ』だって」
     紙一枚、それを受け取る道流の呼吸が一瞬止まる。
    「は?」
    「驚くよな。今日本じゃないところ。たぶんアイツ、自分がどの国にいるかも理解してないんだろう。円城寺さん、切手とかで国がわかるんじゃないか」
    「あ、ああ……そうかもしれないな。見てみよう」
     タケルからはがきを返してもらい、言われた通り切手を見る。幼い文字の隣に貼り付けられたのは、原色の主張激しいデザインというだけで、特に印象的な図案でもない。押されたスタンプの文字を追いかける。
    「……チリ?」
     書かれている表記をそのまま読めば、タケルは首を傾げた。
    「チリなら聞いたことはあるけど……どこの国だ?」
    「南米の国だよ。南アメリカの南西側、南北に長い」
    「ま、待ってくれ、今方角がいっぱい出てきて混乱した」
     傾げられたタケルの顔が一層険しくなる。思えば、タケルはそれほど勉強の得意な子ではなかった。いつかハワイに行ったときも英語を話せないと気に病んでいたし(実際あそこは日本語がかなり通じる)、世界の国名くらいは知っていても詳しい場所や地域性のことはわからないのだろう。今度世界地図でも買ってきてやれば喜ぶかもしれない。きっと標高をそのまま再現した立体的な地図も探せばあるのだろうし、そういうものなら彼も触りながら学んでいけるだろう。
     地図のことを思い浮かべながら、タケルが求めそうな返事を考える。
    「ああ、すまない……地図で言えば縦に長い国ってことだ。南アメリカはわかるな? あそこの、下の方、左側。乾燥気味の気候で過ごしやすいし、楽しい人も多いと思う。柔道の国際試合ではあんまり当たらなかったけど……名産はやっぱりワインかな。チリワインは安くて美味い。今度買ってこようか」
    「ワインはまだよくわからないけど、円城寺さんがそう言うなら試してみる」
    「はは、わかった。じゃあ早速だ、今日の帰りにスーパー寄ろうな」
     タケルは自分のシフトが終わるまで待っててくれるんだろう、という意味で笑いかけると、彼もまた笑って頷いてくれた。シフトは間もなく閉店組との交代で、道流の上がりだ。夕食を家でゆっくり摂れる。
     ワインに合う食事、というのはあまり考えないので(得意分野は和食だ)、気分も楽しくなってくる。献立に思いを馳せていれば、タケルが「はがき、もう一度見せてくれ」と言って手を伸ばしてきたので素直に渡した。何度も何度も点字を追いかけ、神妙な顔で、ぼそりと呟く。
    「いや、でも、なんでチリ……?」
     確かに。道流とて漣のことを理解できているなんて思ってはいないのだから、そう尋ねられたところで答えられるはずもない。けれど多少の想像はつく。
    「少しでも日本から離れたかったのかもしれないな。父親のことも、THE虎牙道のことも思い出さないような遠い場所に」
     こう切り出したものの、続きがある。それを伝えようとしたところで先にタケルが口を挟んだ。
    「だけど、虎牙道のことは思い出して、こうしてはがきをくれた」
     タケルの言葉は、自分が伝えたかったことそのもので。
    「そうだな! それが漣のかわいいところだ」
    「面倒なとこでもあるけどな」
     タケルと笑い合って、はがきはタケルが一度持ち帰ることにした。帰りはスーパーに寄るついでにファイルをひとつ買って、そこに保存しようと話し合う。二通目があるだろう、という予感がふたりの共通見解で、それもきっと男道らーめんに届くだろうからファイルは店に置かせてもらおう、とも決まった。


     はがきは大事にファイリングして男道らーめんの隅、タケルの定位置に置いた。タケルはそこに座ってイヤホンでボイステキストを聴き、執筆に勤しみ、合間合間には笑みを浮かべてはがきをなぞる。それを道流は麺の準備をしながら見つめて、鼻歌程度に次の仕事の練習をして。漣が今どこにいるかはわからないまでも、生きていると知ってかなり心が楽になった。しかもわざわざ日本語の点字を調べて、男道らーめんの住所を思い出して、ここに送ってくれた。彼の不器用な愛情を思えば十分すぎる。
     それに、買い与えた立体地球儀を、タケルはひどく気に入ったようだった。最初はちゃんと四角い地図を買うつもりでいたのだが、ちょうど事務所内の空き時間を使って通販サイトで情報を見ていた際、そばにいた幸広とクリスに「持ち運ぶつもりでもないんだろう? だったら、平面地図は歪みが大きいし、可能ならば地球儀で」「立体精度もなるべく海溝などの再現度で測ってください!」「国のことなら俺から教えるから」「海のことなら私から! これでも元大学教授です! 助教ですが!」と力説され、さらには静かに本を読んでいたはずの一希に「……資料に良いものを買うのは、タケルさんも喜ぶと思う」などと言われてしまえば、もうその場で購入するしかなかった。翌日の夜には家に届いた地球儀を抱えて「で、どこに置くんだ」と笑ったタケルには、とりあえずテレビ横、ディスクラックの上を指定して、幸広らの言葉をそのまま伝えた。うん、うん、と頷きながらも指は何度も南アメリカの山やそのあたりの海をなぞる。話を聞き終えて「やっぱり、みんなすごいな。こうやって助けられると、心がギュウってなって、たまらなくなる」と呟くその表情に、どうしてか道流の方がたまらなくなる。その後、地球儀は何度か居場所を変えて最終的にはタケルの自室に収まったのだが「よく回したり触ったりして遊んでる」と報告があった。
     タケルが世界地理を学び始めると同時に、道流も点字を覚えた。もともと資格取得が趣味なだけあって暗記は速く、ひらがな五十音程度なら問題なく読める。しかしあまり濁音や拗音の多い単語や英数が混ざってくる文章になると途端に混乱するのでまだ慣れは必要だった。漣の鏡文字になったはがきも自分で触ってはみたが、とてもじゃないが読めたものじゃない。――それが愛しい、と思うのは同じユニットメンバーとしての贔屓目だろうか。
     そんなふうに過ごして、チリからのはがきをもらってから二度目のラジオの収録終わり、男道らーめんに寄ると、引き戸を開ける前からおやっさんとタケルが楽しそうに話し合っているのが聞こえた。やはり大切なひとと尊敬するひとが、だいすきな場所で楽しそうにしているのはこちらまで嬉しい。にやつきながらドアを引くと、その音で真っ先にタケルが振り返った。
    「タケル、おやっさんも」
    「円城寺さん!」
     道流の声を聴いて、タケルが返事をする。合図するように一枚のはがきを振ってくれた。おやっさんはニコニコしたままこちらを見て頷くだけだ。
    「なんだタケル、また漣のはがきを読んでたのか」
    「違う、新しいのだ!」
     はっとして、駆け寄る。ほとんど奪い取るような勢いでタケルからはがきを受け取って、紙面を確認した。今度はちゃんと白紙面に点字の凸が来ていた。点字の打ち方を理解したらしい。宛名面にはやはり下手な字の英語で男道らーめんの住所。切手は単色の絵画のような、よくあるそれだ。重ねられたスタンプを確認する。
    「B……B、R、A……ああ、ブラジルか」
    「ブラジルは知ってる。チリと同じ南アメリカの国だろ」
    「うん。前回のチリよりは少し北に、さらに東に来てる。結構大きい国だから詳しい位置まではわからないな……北の方になると赤道直下になるし、漣、肌が弱いからこんな日光の強そうな国じゃ大変だろう」
    「それはそうかもしれないな。でもそんなこと気にもしてないかもしれない」
    「その線はあるな」
     ふふ、と顔を合わせて笑い合い、おやっさんを見る。「いやあ、俺にはよそのお国事情はよくわからんからな」と苦笑された。そういう意味ではなかったのだが、彼には切手を読んでやってくれなかったのか、と聞こえたようだ。「違いますよ」と笑い返しつつ、手元を見る。タケルも今は世界地理の勉強中だし、おやっさんも日本を出たことがないらしいので、ふたりはきっと今の今までどこから届いたのかさえわからないはがきを読んでいたのだろうか。いなくなった男が話を、たった二枚の紙切れを挟んで、あれやこれやと話し合いながら。それはあまりにも楽しそうで、自分ひとりラジオ収録に行っていたことさえもったいなく思えてしまう。
     少し、アイドルの仕事、減らすか。
     それは妙案にも思えた。もちろんアイドルとして活動を続けて目立つ、という目標を捨てるわけではない。ただ事情が変わった。漣のはがきが定期的に届くのであれば、漣が自分たちを忘れていないのであれば、必死になって表舞台に出て行く必要はない。あとでおやっさんにはラーメン屋のシフトを増やしてもらう相談をすると決め、タケルの横に座る。ラーメン大盛りを注文してから、はがきに指を這わせた。
    「読めるか?」
    「うん、まあ……えっと……『まだにほんじゃない』……?」
    「そう!」
     声を弾ませつつ、タケルが道流の右手にその左手を重ねた。三文字の(点字は濁点だけで一文字のカウントになる)単語を指差すように、ふたりでなぞって、何度も「まだ、って言ったんだ、アイツが」と繰り返す。
    「きっとそのうち日本に戻ってくるつもりなんだ。いつ頃になるだろう、ブラジルって確か、日本の裏側なんじゃなかったっけ。ああ、ずいぶん遠くに行っちまったんだなあ」
    ――アイツ、今、心が絶望の中にいるんじゃないかって、そんなことを、入院中、ずっと。
     泣きだしそうにも聞こえたあの言葉がフラッシュバックして、目の前で喜びながらはがきを読むタケルに重なる。漣は確かに絶望してTHE虎牙道を離れていったのだろうが、それでも彼自身が自分の意志で日本に帰って来てくれるのなら、自分たちはそれを迎えるだけだ。たくさんの伝えたいことと謝りたいことがあって、彼から聞きたいことがたくさんある。そうして話をしたあとはまた三人で並び立って、喧嘩をするように勝負し合って、勝った人にも負けた人にも同じラーメンを出して、目指した頂点まで走っていたい。
    「ああ、そうだな。早く帰ってくるといいなあ!」
     そう言っている間におやっさんがラーメンを出してくれて、またいつかのように泣きそうになりながら食べきったあと、閉店作業だけ手伝ってタケルと一緒に帰った。

     帰宅して、食後のトレーニングをして、タケルと道流で順にシャワーを浴びる。自分が風呂から上がればタケルがスマホの自動読み上げを聴きながら自分のカレンダーに転写していた。ここのところ点字を打つスピードも上がって、彼の努力家なところが上手く発揮されてきたなと思う。こういう世界にいる以上、報われない努力ばかりして苦しんできた仲間だって見てきたが彼はいつも真っ直ぐに努力をして、そしてその結果に愛されている。神様から祝福を受けているのだろう、と柄にもなく感じてしまうのだ。
     最近のタケルの、手元を確認するような、しかしはっきりとは合わない視線を、神秘的に感じている。本人には到底言えたことではないし、トレーニング中に大量の汗を見せたり、山盛りのから揚げを平気で食べきるところを見るとまったく神秘など感じなくなるのも確かなのだけど。
     そんなことを考えながら、タケルの向かいに座ってその様を眺めていた。ある程度文字を打ち終わったところで、やっとがこちらに顔を向けてくれる。
    「円城寺さん、明日はオフだし、男道らーめんのシフトも入ってない。家事でやってほしいものも買い出しと軽い掃除くらいだし、時間に余裕がある。何かしたいこと、あるか」
     そういえばスケジュールはタケルにも共有している、とプロデューサーが言っていただろうか。点字を打てるように、と固めの紙で自作したスケジュール帳は、年が変わったばかりなのでまだ十二枚も残っており、しかも各日に二段分のスペースがあるのでかなりの大きさを見せている。
    「そうか、明日は休みか……タケルは?」
    「俺も休み。原稿の締め切りが近いけど、目途はついてるしまた男道らーめんで作業させてもらうから……」
     すっとこちらを見上げてくる、真っ直ぐな視線は、あくまで「人のいる場所」を見てるだけだ。タケルの視界は本当に狭く、この距離ではほぼ鼻の頭くらいしか見えないらしい。文字を読もうとしても大概は一文字視界に収まるか、収まらないか。長い長いトンネルの出口にある光は、もはや色くらいしか彼にはわからない。
     だからなのか。否。たった三年と言えど、アイドルとして隣で見てきた彼の目はずっと綺麗だった。この目で見つめられれば簡単に心が彼に傾く。
    「わかった! じゃあそうだな、明日は一日タケルといよう。朝から美味い飯でも食べて、少し暖かくなるらしいから公園をウォーキングがてら散歩して、昼はパン屋さんで焼き立てを買って、カフェでホットコーヒーも買って、そのまま公園で食べよう。午後は雨の予報だし、どこかに避難したいな」
    「ああ、それなら買い物に行こう。事務所への用が少なくなってから、みんなの仕事が掴めなくて悔しいんだ。CDとか、雑誌とか、あれば買いたい」
    「それはいいな! ついでに買い出しも済ませて、夜は家で食べようか。食べたいものは?」
    「肉。減量は気にしないけど、やっぱり豆類は欲しい。魚はなし。野菜は……出てきた分は食べる……」
    「えらいぞ! よし、鶏ミンチと豆腐でハンバーグでも作ろう。おかわりもたくさんしてくれ!」
    「決まったな」
     タケルの目が細まって、手元に下げられた。スケジュール帳に、ゆっくりと点字を打ち込んでいく。二段――タケルと道流のそれぞれの欄に跨って「がいしゅつ」と記される。記入が終わると、点字盤とスケジュール帳をまとめて抱え「もう寝るよ、おやすみ」という言葉と共にタケルが立ち上がった。おやすみ、と言葉を返しつつも彼のそばを歩き、タケルの部屋の目の前まで一緒に向かう。慣れた家の中なので本人から助けを求められない限りは手を出さないが、出来るだけそばにいる、と決めたのは自分のルールだった。
     ドアノブに手を掛けたところで、ふと、タケルが見上げてきた。いつもならここでまたおやすみと言い合って、それぞれの部屋に入って、眠る。それだけのはずだ。しかしタケルにはまだ言いたいことがあったようで、数度視線を彷徨わせてから、その目を伏せた。二十センチも身長が違っている上に首を下げられてはもう表情は見えない。
    「ええと、タケル……?」
     肩にでも触れてみるか、と伸びた手は、タケルの次の言葉で引っ込んだ。
    「円城寺さん。俺が入院する前、家族みたいになろう、って言ってくれたこと、覚えてるか?」
     それは意を決してやっと発した言葉のようで、あまりにも重く、今まで何度となく話そうとしてためらってきたのだろうとすぐに思い至った。
    「お、覚えてはいるが、それをどうして今……」
    「俺、誰かと一緒に暮らすのは本当に久しぶりで」
     タケルは自分の問いかけに答えていない。引き戻した手で拳を作り、ぐっと耐えて、タケルの次の言葉を待つ。
    「施設を出て以来、初めてで……施設にはいっぱいルールがあったんだ。朝はチャイムと同時に起きる、食事と掃除はグループの当番制、買い出しは先生と一緒、おかしは買う余裕がなくて、学校に必要なものは春休みのうちに年上から譲り受けて、自分の分は年下に譲り渡す。誕生日祝いは月に一度、同じ月の子供まとめて祝うんだ。それぞれの誕生日当日はおめでとうという言葉が飛んでくるだけでプレゼントは特にない。誕生月の子だけが食べられるケーキは、ひとつのホールケーキを分ける。はっきり誕生日がわかってる子もいれば拾われた日を誕生日扱いしてる子もいて、確かにお祝いする日なのに、施設にいる意味を考えなおすような重たい空気が必ず一瞬は漂った」
     タケルの誕生日は、この間祝ったばかりだった。道流からのプレゼントは、誕生日用の特別ラーメンと、猫グッズ。食べる人間はふたりしかいないというのにホールケーキを作ってみたらタケルはひどく喜んで、当日の夜と翌日の朝に分けて、ほとんどをひとりで食べきった。
     ひっきりなしに飛んでくるスマホの通知を、ひとつずつ愛おしそうに聞くタケルこそが愛おしかった。彼が他者からの愛情を受け取る様は、ガラス細工を扱うかのようで、心が痛むほど、小さい。
    「俺は……俺と妹と弟は、そんな場所で育った。だから、アイドルを始めてから……円城寺さんが、特別メニューだって言って、本当に特別なラーメンを俺だけに出してくれて、誕生日は特別なんだって思い知った。生まれてきて良かったんだ、ってあの時思った」
    「……」
    「こんな特別な日は誕生日だけなんだって思ったし、そんなお祝いを妹たちにもしてやりたいって思った。妹や弟だけじゃなくて、俺のまわりにいる色んな人、円城寺さん自身や、アイツにもしてやりいたいって思ってしまったんだ。だけど、思い返してみれば、一緒に暮らし始めてからはずっと俺が円城寺さんを独占して、ずっとずっと毎日がびっくりするくらい特別で、こんな贅沢してしまっていいのかな、って怖くなる。少し前まで、休みの日はひとりでランニングして昼飯はラーメン屋に顔出して、またひとりの家に帰ってくる、そんなものだったのに、明日だって一日中円城寺さんと一緒にいて良いんだって思えば、たまらなくなって……こんな感情を家族って言うのかなって、最近ずっと考えている。目を悪くしてから考えることが増えて、自分のこともわからなくなるんだけど、確かに円城寺さんからもらったものを思えば暖かい気持ちになる。俺はそれを円城寺さんに返せているか?」
     もちろん、と頷くのに、タケルには見えていない。
    「俺は、ちゃんと家族みたいになれているのか。なあ、俺はわがままを言うの、上手くなったか」
     そう言われて、まざまざと思い出すのは自分の発言だ。『これからはもっと兄に甘えて、わがままも言ってくれ』。そう伝えたのは自分だ。――だけど、聞きたかったのは、こんな悩みじゃない。
    「そ、の返事は、どんなのが、いい……? 自分にはわからん……」
    「正直な答えが欲しい。円城寺さんは俺のわがままを嬉しく思うのか、思わないのか」
    「タケルが心からわがままを言っているならそりゃあ自分は嬉しい! だが、自分の言ったことを気にして、タケルが計算づくのわがままを言うなら、悲しいと思う。それだけだ、自分にはタケルがどんな思いで『わがまま』を言ってきたのかわからんからどう思えばいいのかもわからん」
     そう言ったところで、彼に願われたことなど数えるほどしかない。いつだって道流が先に「何が食べたい?」と聞いてタケルは大雑把に食べられるものを答えるだけ。メニューの提案は道流からだ。地球儀を買ったのだってタケルにねだられたからではなく、自分が買ってやりたかったから。目を見れば、一緒にいたいと思ってくれているんだな、とか、その程度のことはわかってもそれ以外のことはわからないし、そもそもそれで正しいのだと彼から肯定されたこともない。一緒にいたいと思うのは道流の方だけだと言われたら、そうか、と頷いて身を引いてしまえる。その程度の理解だ。
     タケルからわがままを言われたことなど、一度もなかったのかもしれない。ならばなおさら返事は「どう思えばいいのかもわからない」、これに尽きる。
     タケルの肩をおそるおそる掴んで、顔を上げさせた。不安げに瞳は揺れている。
    「タケル……」
    「……自分のこともわからない、と言った。わからないんだ。わかるのは、円城寺さんと一緒にいれて嬉しいことと、妹と弟を探し出したいこと、それと同じくらい、漣にも会いたいこと。こんなに毎日特別で幸せなはずなのにまだ足りないと思ってしまう。円城寺さんも、兄弟も、漣も、生まれてから出会ってきた大切なひとみんな近くにいてほしかった。それ以外なかったんだ。こんなわがまま、贅沢すぎて、とても口には出来なかった。あまりにも高望みだ。叶いっこないって、自分がわかってる。家族の幸せを願えても、家族を取り戻すことを願うのは怖い。そんな他力本願な願い事にして、叶わなくなることの方が怖い。だから手を伸ばした。努力するしか、俺は知らなかった。わがままの言い方なんか知らない」
     タケルがこのまま、泣き出してしまうのではないかと思った。たまらなくなって抱きしめる。すぐさま、タケルの細くも力強い片腕が背中に回った。点字盤と紙を抱える腕はふたりの間で潰れそうになっている。
    「円城寺、さん、ごめん、ちゃんと家族みたいになれなくて」
    「違う。そんなことで謝らんで良い、タケルは」
     言葉が止まる。続きなら決まっていた。だけど本当に伝えて良いのか――言葉にしてしまって良いのか、自分が、戸惑った。
     ずっと言えなかった言葉で、彼のことを許してやりたかった。ただ、それは同時に自分のことも許してしまうことになる。自分には許される覚悟だけが足りなかった。怖い。唇さえ震え、声色はもっと頼りない。
     それでも。
    「タケルは……自分も、もう、良いんだ、そうやって傷つかなくて。もう十分傷ついてきた。たくさんのものを失くしてきた。だからもう良いんだ」
     タケルからの返事はなく、あごの下で、小さく鼻を啜るような音が鳴る。背中の方で彼の手が服を掴んでいることがわかる。道流もタケルを抱きすくめながら、手に力がこもっていくのを止められない。
    「自分は今でもお前さんと家族みたいになりたいと思う。だけどタケルが『ちゃんと家族みたいになれなくて』なんて思うなら、それで謝ってしまうくらいなら、なれなくていい。タケルの隣にいる口実なんかで傷つきたくない。もうたくさん失くして、もう十分傷ついてきたんだ。一緒にいるだけでいい。家族になんかなれなくていい。ただ一緒にいたい」
     ああ、と小さな相槌が聞こえる。
    「どんな苦労だって受け止める覚悟で、目の前にあるもの全部守って、取りこぼしたものを拾いに行って……これ以上がんばる必要はない。もう自分たちは十分がんばったんだ。がんばったよ。ふたりとも――どうして漣を頼れなかったんだろうなあ」
     自分たちは同じ獣だった。愛着、というものが大半を占めるタイプ。一度愛したものを一生手放せない生き物。愛を与えることには慣れておきながら、受け取ることは苦手な化け物。頼ってくれと人に伝えながら、頼ることはできない愚か者。それが道流とタケルであり、漣とは真逆だった。漣はたとえどれほど悩んだとしても最終的には、愛も捨てられる。
     そんな漣を頼るということは、自分は傷ついたのだと、自分たちは勝負に負けたのだと、認めるのと同じだった。
     いろんな理由や、意地があったにせよ、先に漣を除け者にしたのは道流とタケルだ。ふたりともTHE虎牙道のひとりでしかなかった。三人組ユニットのひとりだった。それを忘れておきながら、漣がいなくなった今、寂しがって、ふたりでどうにかその空白を埋めようとして、もがいて。挙句、勝手に傷ついて、こうして広い家の中で立ち尽くす。完敗だ。道流とタケルの。
    「漣みたいになれたら良かったなあ、自分たち。そうしたらこんなふうに敗北感を味わうこともなかったのに」
    「ああ……そういえば、俺、アイツのなかなか負けを認めないとこは結構良かったと思う。面倒なとこでもあるけど」
    「はは、そうだな。タケル……」
     ぐっとお互いの手に力がこもる。うん、と頷き合って、落ち着くのを待った。何度となく鼻を啜り、呼吸を繰り返す。
     少し落ち着いてきたところで、腕の力を緩めた。わずかばり余裕のできた道流の腕の中で、タケルは小さく「だけど、俺は円城寺さんと家族みたいになりたい」と呟く。
    「ちゃんと家族みたいになれてるか不安だったのは間違いないけど、家族みたいになりたかったのも本当なんだ。もちろん、アイツとも」
    「そうだな。うん、きっと直に漣も帰ってくるんだ、もう一度家族を目指そうか」
     ああ、と返事があって、見つめ合って、タケルの頬に残った涙を拭ってやる。それをくすぐったそうに受け止めてタケルは笑った。手を離して、距離を作る。――どうにもこのまま別の部屋に入るのが惜しい。
     タケルもちらちらと部屋の方を気にした様子は見せるが、足までは動かそうとしない。やはりまだ一緒にいたいと思ってくれている、ので、間違いないだろうか。彼の左手を握ってみると、不安と期待が入り混じったような、絶妙な表情が向けられた。確信する。大丈夫だ、この目を向けられると、心は簡単に彼に傾く。
    「タケル。体を自分の方に向けて」
    「えっと、円城寺さん……?」
    「良いから。自分の手が引く方に歩いて。段差はない。ほんの少しだ」
     タケルが視力をなくし始めた頃のように指示を出しながら手を引いて、自分の部屋に彼を引き入れる。さらにふたりで中へ進んで、腰掛けるように言えば、タケルは素直にベッドに座った。
    「円城寺さん、これは……」
    「家族は一緒に寝るものだろう?」
     そう言って笑ってみれば、やっとタケルの中で合点がいったようだった。一拍遅れて「そうだな」と笑い声が上がる。
    「布団の方がそれっぽいんだが、まあ、そのあたりは目を瞑ってくれ」
    「瞑るも何も、見えていないからな」
    「自分は嬉しいよ、タケルがそうしてジョークを言ってくれるのは」
    「今のは円城寺さんに誘導されたんだ」
     軽口を叩き合いながら、横になるように言いつけ、道流は反対側からベッドに入る。サイズは体格を考えてセミダブルにしたが、さすがに男二人だと狭い。もともと柔道家というのは体に厚みが出る職業であるし、タケルがいくらフライ級ボクサーだったとしても、ふたりで並んでみるとかなり圧迫感があった。
     申し訳ない、と思いつつも、ここは小柄な彼に譲ってもらうことにする。
    「タケル、少し詰めるぞ。落ちないようには気を付けてくれ」
    「あ、ああ……でも、どうしよう円城寺さん、こんな距離で人と眠るなんて初めてだから、少し、緊張する」
     スペースを明けつつ、さほど変わらない表情でそんなことを呟く彼に「そのままでいいよ」と声をかける。自分の体をもぞもぞと動かして、なんとなく感じの良いポジションを定めると、ふたり一緒にブランケットをかぶって、リモコンで電気を消す。
    「さすがに人がそばにいると暑いが、まあこれについては明日以降に考えよう。もっと大きなサイズのベッドを買っても良いし」
    「……明日からもこうして寝るのか」
    「ダメ、か?」
     暗闇の中で、少しの間。タケルの笑い声。
    「その声色はずるい。円城寺さんはときどき子供みたいな声を出す」
    「こういうのをわがままと言うんだ」
    「そうか、こういうのか……」
     タケルの方は多少の会話でリラックスしてきたのか、体から緊張を解いて、道流にすり寄ってきた。その様は猫にも似ている。真っ暗なのでタケルの表情は伺えないが、それはきっとタケルとて一緒なので、道流は安心して顔を綻ばせる。
     タケルのにおいのする空気の中で数度呼吸をして、緊張と高揚感よりも眠気が勝ってきた頃、不意にタケルが呟く。
    「円城寺さん、起きてるなら、俺のわがままを聞いてくれないか」
     緊張している、というよりも、夢見心地で、とろけたような声だった。「起きてるぞ」とだけ答えて、彼をあやすように背を叩く。タケルは腕の中に収まって、身を丸める。
    「俺が眠れるまで、起きていてくれ。明日はどれだけ寝坊しても、良いから。今はひとりになりたくない気分なんだ」
     そんなもの、言われるより前に、してやるつもりだったのに。苦笑でもって返事をして、応えるように、腕の中の彼に触れ続ける。
     タケルは思うより早く、寝息を立て始めた。その呼吸を子守歌に自分も眠る。

     翌朝もいつも通り、つまりタケルより早くに目覚めてしまった。朝食の用意でもしようかと一度は体を起こしたが「どれだけ寝坊してもいい」と言われたのだから、その言葉に甘えることにして、ベッドに戻った。
     二度寝をする気にはならなかったので、タケルの寝顔をじっと見つめる。出会った頃よりも顔立ちや肌に深みが出てきて、大人びてはいる。表情はもともと変わりにくい方だったようだが、アイドルを始めてからは演技力トレーニングが効いたのかころころと表情が変わるようになった。それを成長と思って愛しくなるのと同時に、その身に降りかかってきた不幸を思って苦しくなる。
     自分が彼くらいの歳の頃は、まだ確か柔道家で、戦えば勝てて、挫折を知らなかった。この時期のことで唯一心に残っているのは尊敬していた先輩たちを倒して日本代表に選ばれてしまったことくらいだろうか。だがそれも勝負の世界では当然のことで、先輩たちだって笑って自分を応援してくれていた。挫折と言えるほどでもない。自分が知っている挫折らしい挫折なんてこの歳になっても故障と漣の失踪くらいなのに、タケルは小さい頃から親もおらず兄弟を失って、さらには視力もなくして。仲間のひとりもなくして。そうしてやっと言えたわがままが「俺が眠れるまで、起きていてくれ。明日はどれだけ寝坊しても、良いから」だ。自分だけでもそばにいてやりたい、と思う。一緒にいたい。願うことは変わらず、それだけだ。
     髪を梳くように撫でていると、その違和感で目が覚めたのかタケルがぼうっとしつつも目を開け、手を払うような動作を見せた。が、それにも屈しず髪を触り続ける。しばらく続けていたところで、タケルも覚醒してきた様子で、表情が変わった。
    「円城寺さん、少し、意地悪だ」
     むすっとした声色で彼が語るのでさすがに手を引く。
    「すまんな。おはよう」
    「ああ、おはよう」
     ふたりで体を起こし、部屋を出て、お互いに着替えて歯磨きをしてからキッチンへ。そのタイミングで炊飯器が音を立てて炊きあがりを示して、笑ってしまった。手を洗って、コップ一杯の水だけ飲んで、朝食の準備を始める。タケルはその間に洗濯物を回してくれていた。
     今朝は炊き立てご飯と油揚げとキャベツの味噌汁と、ツナを混ぜた卵焼きに冷ややっこのサラダ。豆類を好む元ボクサーのタケルだけは卵焼き大きめ、さらに納豆を追加していた。それらを並べたテーブルで向き合う。互いに「いただきます」と手を合わせて、数口進めれば納豆を練りながらタケルがふと思い出したように語った。
    「そういえば、漣は納豆が嫌いだったな」
    「ああ、そうだったなあ! 臭いからしてダメだって言って怒ってたよな。目の前で食うんじゃねえ、とか言って」
    「漣が帰ってきたら食べれなくなるから、今のうちに好きなだけ食っとこう」
     一パック分をほとんど飲むように食べきった彼に「おかわりは?」と尋ねれば、はにかんだように頷かれた。朝からよく食べることだ。見ていて嬉しくなる(と同時に、自分の歳も感じる。二十五を超えてぐっと食事内容と量が変わった。時折彼らと同じものを食べるが正直、無理している。そして翔真などには「三十でまた変わる」と脅されている)。冷蔵庫から納豆のパックを取り出し、開封したものをタケルの前に置くと礼を言われると同時に「味噌汁もおかわり」とお椀を突き出された。
     食事の後は自分が洗い物をして、タケルには掃除機をかけてもらって、ふたりで洗濯物を浴室に干したら、ウォーキングに出る。曇り空ではあったが、息は透明で過ごしやすい日だった。歩けば歩くほどコートの中でじんわりと肌が汗ばむ。布越しのタケルの手もどことなく暖かく感じる。


     ふたりで出かけたり、タケルが盲導犬募金の広告塔に選ばれたり(CM撮影の日にはひどく難しい顔で帰って来て、やけに神妙に「犬派になるかと思った」などと呟いていたので、タケルにとってかなり事件の日だったらしい)、自分がアニメ映画のゲスト声優をやったり、ソロアーティストとしてCDを発売したり、そうしているうちに季節はひとつ巡って、さらに漣からのはがきもかなり届いた。どうにも彼は東へと進む形で日本に近づいており、チリ、ブラジルと来て次は南アフリカ、エジプト、サウジアラビア、インド、タイ、フィリピンと続く。国が変わる度にに点字は上達しており、同時に「日本じゃない」以外にも「飯がうまい」くらいの感想が追加されるようになった。それを微笑ましく思いつつ、男道らーめんでファイリングする。もうフィリピンまで来ているなら(韓国あたりを経由するかもしれないが)一ヶ月もせず日本には来るだろう。
     とにかくいつ漣が日本に来るかわからないので、おやっさん含め男道らーめんのスタッフには「牙崎漣が来たらすぐに連絡を入れろ」と言い続け、アイドルとしての仕事も「いつ抜けるかわからないが」と断ってから受けることにした。タケルも同じ気持ちだったようで仕事のメインを書き物にして、出来るだけ男道らーめんで作業するようにしているらしい。おやっさんが「あの子が店の隅にいるとまるで神様に見守られているみたいで気が引き締まる」と笑っていた。
    「漣が日本に来るまでなんで、すみません」
    「いや違う違う、嫌味じゃねえよ。混み合う前に退いてくれるし、厨房の手伝いしたり列整理の声かけしたりしてくれるしな。それにあの子目当てファンがよく来てくれて、売り上げも助かってんだ」
    「ああ、タケルは自分とはファン層がまた違うんで面白いでしょ」
    「若い姉ちゃんたちがラーメン食ってってくれんの、普通に嬉しいねえ」
     道流がアイドルになったあとも、ファンだという子がよく訪れてくれたが、道流のファン層はTHE虎牙道の中で最も男が目立つ。タケルのファンはほとんど女なので、ラーメン屋としては珍しい客になるだろう。そういったファンごと、タケルが自分の好きな場所の尊敬するひとに受け入れられていると思うとまた誇らしくなる。これがきっと家族愛だというなら、もう十分自分たちは家族みたいになれたのではないか、なんて思ってしまう。
     はがきの周期的にそろそろ新しいものが届くか、日本に帰ってくるか、という頃になれば、道流もタケルも一日のほとんどを男道らーめんの中で過ごしていた。もはや男道らーめんにいられない時間の方が落ち着かなかった。そうは言ってもただ漣本人、もしくははがきの到着を待つ身で出来ることなど少なく、結局はいつも通りの作業をするしかなく、緊張はしっぱなしではあった。昼過ぎ、客はおらず、タケルもまかない程度の飯を食って、環境としてはリラックスできるはずなのにキーボードを叩く音は時折乱れ、呼吸を整えるかのようにファイルをめくる。道流は夜に向けての準備をこなしていたのだが、包丁の柄が滑る。不格好なトッピングが増えていく一方だった。
     会話をしたところで、どうせ漣の話題になって、また緊張するだけだしなあ、とタケルのいるあたりに目線を向けては逸らす。それを三度は繰り返したその日、あの懐かしい声が引き戸の音に重なった。
    「おいチビ、勝負しろ!」
     漣は店に飛び込んでくるなり、当たり前のようにタケルの隣に座った。
    「らーめん屋は超大盛りな! チビにも同じやつ出せ、早く食べきった奴が一番だ」
     返事ができなかった。
    「お、おい、オマエ、しばらく連絡してなかったくせに言うことがそれか!」
    「ア? 連絡ならしてやっただろうが! このオレ様がわざわざ郵便なんてメンドクセーことしてやったんだぜ? 感謝しろ」
    「ああそうだな、送り主も書いてない、点字も間違ってるめちゃくちゃのはがきだな!」
    「オレ様はテメーがあれじゃねーと読めねえと思ってやってやったんだろうが!」
    「普通に日本語でも英語でも円城寺さんが読めた!」
    「チッ……うるせぇな! らーめん屋! 早く飯!」
    「あ、ああ……タケルはどうする?」
    「いらない! さっき食った!」
    「そ、そうだったな」
     漣がいなくなる前ならこのあたりで自分が笑って空気を変えていけたのに、今はただ漣の帰還に面食らうばかりで何も言えない。救いは漣の言う「勝負」が武闘的なものではないことだろうか。――そうなったらさすがに止める。絶対に止める。思い出すのは、どうしたって漣の蹴りで沈んだタケルのことだ。
     麺を湯に放り込みながらステップを確認する。カウンター越しだ、体で止めることは出来ないから何か音を立てるかものを投げ込むか。音で気を逸らせるのならば自分が叫べばいいが、投げるなら二人が冷静になるもので、安全なもの、となると水くらいだろうか。さすがに食材は投げたくないし、調理器具は軽すぎて飛ばない可能性がある。チェイサーならカウンターにあるから、それを引っ掴んで、中空低めに向かって投げる。当たらなくて良い(むしろ当てたくない)、驚かせるだけでいい。それでいい。何度か呼吸を繰り返していれば「円城寺さん、手伝う」とタケルが壁伝いに歩いてきた。彼も喧嘩はしたくないらしい。ほっと息を吐く。
    「具、乗せてもらえるか」
    「わかった」
     短い言葉でタケルとの会話を終え、漣に向き直る。
    「大盛りだけで足りるか? チャーハンも作ろうか」
    「チャーハンも大盛りだ、わかったな」
    「わかったわかった、好きなだけ食ってけ」
     傲慢に、横柄に、ふんぞり返る漣を見てなつかしさで心が痛む。それを振り払うかのように勢いよく湯切りした麺と出汁を入れたどんぶりを台に置いて、タケルの右手を誘導した。
    「距離感、いけるか?」
    「大丈夫」
     タケルの左手はすでにチャーシュー専用のトングを掴んでいる。本当に大丈夫そうだ。分厚くなった一枚が麺に乗ったのだけを見届けて、油を引いたフライパンに卵を入れ、ご飯とチャーシュー、ねぎを追加。がっと掻き回して器に盛る。ラーメンを出していたタケルを待って、チャーハンもそばに置く。
    「チビの作った飯かよ」
    「具を乗せることしかしてない」
    「ま、食えりゃなんでもいいけど」
     漣が割り箸に手を伸ばした。相変わらず割り方は下手くそで、でも本人は気にしていない。不格好な箸が麺を摘まみ上げ、ズッと啜った、その瞬間表情が曇ったように見えた。
     唇を噛み締めるような、わずかな間。その意味を確かめる時間もなく彼はすぐに咀嚼もそこそこに麺を飲み込み、チャーシュー一枚を一口で食べて、チャーハンも口の中へ放り込んだ。味わうも何もないが、ラーメン屋という場所を考えればこういうのもひとつの作法かなと思ってしまう。おやっさんなら「気持ちいい食べっぷりだな」と笑っただろうか。「美味いか」と尋ねてみたが返事はなかった。チャーハンを掻き込んだ皿がどんっとテーブルに置かれる。言葉ひとつも挟まれず次はラーメンへ。タケルが「オマエなあ……」と呟いたときだけ漣は「文句あんならオレ様と勝負しろ」と言い返していたが、それに対してのタケルの返事はなかった。家族みたいになりたい、と、だって、自分たちは思うのだ。
     ラーメン鉢を置いて、ふーっと息を吐く。そのどんぶりの底を見つめて、漣は思い出すことがあったようだった。牙の字が、厨房からでも見える。伝わってくれ、THE虎牙道であることを思い出してくれ、と道流は願うが、漣は似つかわしくない神妙な声で「クソ」と呟いた。がしがしと頭を掻いて空いた手はこぶしを握り締める。ある種の自傷にも似た姿に、はっと思い至ることがあった。――アイツ、今、心が絶望の中にいるんじゃないかって。タケルの言葉だ。まだ漣は絶望の中にいる。
     ならば、帰って来てくれ、と願うだけだ。
    「漣」
     名前ひとつ呼びかけて、じっと彼を見据える。隣でタケルも同じように漣を見つめていた。
    「日本にはこれからずっといるんだろう? 家に帰ろう。タケルが退院してから新しい家にタケルと一緒に住んでてな、漣の部屋があるんだ」
    「そうだ、広い家だ。家族みたいに過ごせる。きっとオマエも気に入……」
    「……メンドクセェな」
     遮るようにつぶやかれた漣の声は低く、そして小さかった。
    「要らねえよ。オレ様に家なんて要らねえ。帰ってくる場所なんて作る方がめんどくせぇ。家族も要らねえ。なんだよ、テメェら腑抜けやがって。あのクソ親父みたいに意味わかんねえこと言いたいなら勝手に言ってろ。オレ様はひとりで最強になる」
     ツーステップ。軽い足取りで漣がカウンターから離れて、店の扉を引いた。あっけにとられて反応が遅れた上に、厨房にいたのでは追いかけられない。
    「れ、漣!」
     慌てて追いかけようとしたときにはもう扉が閉まっていた。それでも追いかければ届くと信じて、タケルとふたりで外にまで出て漣の足取りを探してみたが、そこにあるのは雑踏だけで、漣の姿はない。
     脳裏に、脱ぎ捨てられた漣の衣装がよぎる。
    「円城寺さん、漣、見えるか」
    「見えない。タケルは何か聞こえるか」
     タケルは静かに首を振る。
    「聞こえない……聞こえないんだ。はは、最強だっていうならちゃんと俺にも届くくらい強くなってくれよ……」
     春の、日光の中。顔を覆うタケルを見て、取り残されたような気持ちになる。これを漣は味わっていたのだろうか。ひとり取り残されて、追いかけられなくて、絶望だけが味方で。ああ、今すぐ、今すぐここを離れたい。でも、一体どこへ? 漣のいない場所へ? それならこの場にいたっていい。だけどステージを降りたい。どこへ?
     違う。これはつまり、敗北の恐怖だ。
     何度も語り合って、もうわかっていた。負けることは怖い。それは絶望だ。戦うことしか知らない自分たちには、この恐怖は耐えらない。だけど、戦うことも、やめられない。これしか知らない。勝敗をつけなければ、生きてはいられない。
     自分たちは、負けたのだ。漣に。たったひとりに。
    「タケル、とにかく、中に入ろう。また漣には出会えるよ」
    「うん、円城寺さん。俺……」
    「ああ、たぶんきっと、今同じ気持ちだ。悔しいよ」
    「そうだな。悔しい。漣に勝ち逃げされちまった」
     あの時の勝負は漣の反則負けだった。けれど今回は自分たちの不戦敗だ。向き合うことさえ出来なかった。家族みたいになりたかった。だけど離れ離れでいても家族であることは出来るし、きっと、同時に勝負だって出来たのだ。それを忘れて、ただ一緒にいようとした自分たちの視界が狭かった。
     タケルと共にラーメン屋に戻り、唇を噛み締める。今のは、まごうことなく漣の勝ちだ。
    「はは、もう一度漣を探す生活か……悪くはないな。自分たちも最強を目指すだけなんだから」
    「ああ。また、トップを目指そう」
    「どこにいるとも知れない漣の目に、耳に入るように」
    「次は勝つ。絶対に」
    「もちろんだ。自分も負けはしない」
     互いに頷き合って、漣からもらったはがきのファイルを手に取る。忘れていた闘争心が胸に炎を宿した。タケルの中でそれは無口な青い炎になり、自分の中では道を照らす黄色い炎になるだろう。絶望がゆっくりと晴れていく。
     三人は、同じ獣だ。戦う獣だ。どれほど逃げ出したくても、どれほどのハンデを背負っても、リングや、ステージに帰って来てしまう。たったひとりで戦う場所だ。孤独を恐れ、敗北を恐れ、どれほど逃げ出したくなっても、一度は試合から逃げたとしても、自分たちは何度でもここに戻ってくる。その闘志こそが自分たちを繋ぐもの。
     呼吸をひとつ。顔を上げた。
    「タケル。THE虎牙道をやり直そう。全員がソロの活動をする、前代未聞のユニットになろう。若干一名、居場所もわからないがそれも面白い」
    「……そうだな。それもTHE虎牙道らしくて良い。リーダーとしてその提案、受け入れるよ」
     いたずらっぽく微笑むタケルもきっと今、絶望を振り払って、炎と共に前を向いたところだろう。
     道の行く手を阻むものは何度だって訪れたが、その度に、トンネルの先の光に手の重ねながら走り続けてきた。それでこそ自分たちTHE虎牙道だ。光へ走り続ける獣たち。タケルの失明で確かに自分たちは暗闇の中に落とされたが、心に差す光はまだある。まだ、走り続けられる。まだ勝利には手が届く。まだ心に炎は宿っている。

     ここが本当のスタートラインだった。今、それぞれ、踏み込んでいく。あとは走り続けるのみだった。
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