星に願いを「どうか、俺のために今のお前の全てを捨ててくれないか? 代わりになるかはわからねぇが、これからの俺の全てをお前にくれてやる」
そんな兄の言葉と共に差し出された手を取ってから早数ヶ月。
昼側の勝利によって争いに決着が着いたとは言え、未だ両者の間に緊張は耐えず。最近は人間による過剰な吸血鬼狩りが問題になっているらしい。
それに対する吸血鬼達の抵抗も。
昼の英雄たる赤い退治人やその仲間達、それに竜孫公を中心に主だった古き血の当主達がなんとか両者の軋轢を解消しようと奔走しているそうだが、おそらくそう簡単にはいかないだろう。
憎しみというものはそう簡単には拭えないものだ。
現在は常に身につけていたマスクを外し、髪も下ろして服装も兄と同じ和服に変える事で外見の印象をだいぶ変えているとは言え、常に前線に出ていた私は人間側にも吸血鬼側にも顔が割れすぎている。
人間にとって私は『憎悪すべき吸血鬼』の典型だ。おそらく、捕まれば処刑は免れない。
兄の手を取り夜を抜けたあの日。
元々兄に殺されるつもりで諸々の準備をしていた事もあり、対外的には死んだと思われている私だが、それでも何処から私が生きている事が露見するかはわからない。
そうなったら面倒だからと、定期的に住処を転々としながら兄と二人、世間から隠れて暮らす内に気がついた事がある。
どうやら、離れている間に兄には妙な甘やかし癖がついたらしい。
二人きりでいる時には基本的に私を膝の上に乗せているし、着替えだとか風呂の世話まで毎日されていた。酷い時には自分の足で歩くことさえ許されず、どこへ行くにも一日中抱き上げられた状態で過ごした事もある。
そうして私の世話を焼けるだけ焼いて、1日の終わりには互いの額におやすみのキスをした後、兄が私を抱きしめたまま眠るまでが日々のルーティンだった。
たしかに、着物の着付けに慣れなかった当時は着付けをしてくれるのは素直にありがたかったが……「もう一人で着れるようになったから着せてもらわなくても大丈夫だ」と私が言っても、頑として兄さん手づから着付けようとするのは一体何故なのか?
膝に私を乗せるのも、一緒に風呂に入るのも、共に暮らし始めたばかりの頃は力を酷使しすぎた反動で見窄らしい程痩せていた私の体重がちゃんと戻ってきているかどうかチェックする為の行為(だと兄さんが言っていた)だったが、兄さんの献身のおかげでそれなりに肉もついて健康的な見た目になった今となっては必要な行為だとは思えない。
当主代理になってからずっと患っていた酷い不眠に関してもそうだ。
兄さんの温もりが側にあると、不思議と良く眠れはするが、きっとただ眠りにつくだけならもう一人でも眠る事はできる……と思う。たぶん。
何より兄の手で一から十まで甲斐甲斐しく世話を焼かれている現状が、小さな子供扱いされているようで気恥ずかしかった。
「あ〜……離れてる間は構えなかったからその穴埋めと言うか、甘やかしたいというか……」
もうそこまで世話を焼く必要も無いのに、何故そんな事をするのかと問えば、兄にしては珍しく随分と歯切れの悪い答えが返ってくる。要は離れている間出来なかった兄弟間のスキンシップがしたい、という事か。
正直、例え兄弟だとしてもいい大人が毎日服を着せてもらったり、一緒に風呂に入ったりと言うのは兄弟のスキンシップとして普通の事なんだろうか?と疑問に思わなくも無いが、兄さんがそう言うのならきっとそうなのだろう。
「その……嫌だったか?」
遠慮がちな兄の質問に、軽く頭を横に振る。
「嫌ではないな。ただこんなふうにされた事なんて今までなかったから慣れないだけで」
没落したとはいえ貴族の端くれ。身の回りの世話を他人にされる事自体は普通の事だったが、甘やかされた経験と言うのは記憶に全く無い。だからどうしても落ち着かないのだ、と。
そう素直に告げると、なんだか苦い物を飲み込んだような顔をした兄が私の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でた。
「じゃあこれからは今まで出来なかった分思いっきり甘やかすし大事にするから、追々慣れてくれ」
「———と、言う訳なんだが、一向に慣れる気がしなくてな。トオルはどうだろうか?もう慣れたか?」
「ごめん、ちょっと理解が追いつかない」
トオルと地縛霊の子供たちが住む廃病院の一角。
兄の不在時にはいつも訪れるそこの中庭で、遊ぶ子供達の霊をトオルと、石段に並んで座って見守りながら、兄さんとの先日のやりとりを話すと、何故か弟は「待て」をするように私に向けて右手を突き出して頭を振った。
「俺だって、ケン兄に頭撫でられたりとかぐらいはあるけどね?でも2人っきりで風呂に入ったりとか、ずっとお膝抱っことかは一回も無いし、仮にやられても困る」
「そうなのか?」
思わず首を傾げる。
てっきり私の知らないところでトオルにも同じような事をしていると思っていたのに、どうやら兄の甘やかし癖は私相手にしか発揮されていなかったらしい。
私なんかよりも遥かに可愛らしいトオルなんて、さぞ甘やかし甲斐があるだろうに。
「うぅ…拗らせてるのは知ってるし、なんでそんな事になってんのかもだいたい予想つくけど何やってんだよケン兄。ミカ兄の信頼につけ込んでやりたい放題じゃねーか。ふざけんなよ、あのムッツリスケベハゲ野郎」
顔を両手で覆って俯いたまま、すぐ横にいる私にも聞き取れないような声量で何やらぶつぶつと言っているトオルの様子が心配になって思わず覗き込む。
「どうしたんだ、トオル?私は何かおかしな事を言っただろうか?」
「あ〜、いや気にしないで。おかしいのはミカ兄じゃなくてケン兄だから。ミカ兄はさ、ケン兄の、その、奇行っていうか甘やかし?は嫌じゃないんだよね」
「ああ」
恥ずかしくはあるが決して嫌な訳ではない。
ただ、不安になる。
なぜ私なんかを大切にしようとするのか、と。
そんな私の内心に気付いたのか、トオルが苦笑しながら問いかけてきた。
「ねえ、ミカ兄はまだケン兄の事信じられない?」
「そんな事は……」
「ん〜……言い方変えるね。まだいつかまたケン兄が自分の事置いてどっか行っちゃうって思ってる?」
告げられたトオルの言葉に思わず固まる。
「違う」と言いたいのにどうしてもその言葉が喉から出てこなくて下を向いてしまった。
世界が変わったあの日、私に全てを捨てさせる代わりに自分の全てを私にくれると言った兄の言葉を信じていない訳ではない。
けれども……。
「兄さんを信じられない訳じゃないんだ……ただ、どうしても……」
兄さんに優しくされるような価値が自分にあるとは思えなかった。
兄さんとトオルから与えられる愛情を疑う訳ではないけれども、こんな、出来損ないの汚れきった醜い自分が本当に受け取っていいものなのかと常に不安に苛まれてしまう。
「まぁ、中々信じられなくても仕方ないよね。それに関しては完全にケン兄の自業自得だし」
「違うんだ。兄さんは何も悪くない。兄さんの優しさを素直に受け取れない私が悪いだけで、兄さんには何一つ悪いところなんて……」
「もー、そんな自分を責めないでよ!今までケン兄のせいで当主とかやらされて散々苦労させられてたんだもん、ちょっとくらい空回りさせてもバチは当たんないって」
私の内心など知らないトオルが慰めてくれる。
それが例えようもなく辛くて、何よりトオルの優しさを辛いと思ってしまう自分に嫌気がさした。
自己嫌悪に項垂れる私の手を両手でそっと握って、「でもミカ兄にはもうちょっと自分に自信は持って欲しいかな?」と、わざとらしいくらい明るい口調でトオルが言う。
優しいこの子に気を遣わせてしまったのが申し訳なくて、ますます俯いてしまう私の頭を胸に抱えるように抱きしめながら、まるで言い聞かせるようにトオルが囁いた。
「あのね、ミカ兄。俺やここにいる子達はもちろん、ケン兄だってすごくミカ兄の事大好きで大事だって思ってるんだよ。それは信じてくれる?」
喉に大きな物がつかえたみたいに出てこない言葉の代わりに小さく頷くと「良かった」とトオルが笑った気配がした。
「あとさ、ミカ兄の心に余裕ができてからで良いからさ、ケン兄がミカ兄にだけそんな風にする理由を考えてあげて欲しいかな」
それからほどなくして用を終えた兄さんが私を迎えに来たので、トオル達にまた来ると告げて廃病院を後にする。
今宵は新月で、星灯りが良く映える夜空の下、前を歩く兄に手を引かれながら今のねぐらに向かって夜道をお互い無言で歩いて行く。
(トオルは兄さんの行動理由を考えてみてくれと言っていたが……)
幼い頃から兄の思考に私のそれが追いつく事は一度も無かった。
いつだって兄さんの考えは深すぎて、私程度では到底推し量る事は出来ない。
ただ、共に暮らすようになってから私を見つめる兄の視線や私に触れる指に、時折兄弟に対するものだけではない熱を感じる事があった。
もちろん、それは私の願望が見せた錯覚の可能性が高いのだけれど。
だって、私は兄さんの事が———。
兄にわからないように、小さく頭を振って浮かんだ感情を振り払う。
今、それを直視するわけにはいかなかった。
それを認めてしまえば、きっと自分は「弟」としてこの人と共に居ることができなくなる。
せっかく兄弟に戻れたのに、その感情に名をつけてしまえば弱い自分は浅ましい欲に流されて全てを台無しにしてしまうだろうから。
俯いた視界に繋がれた手が映る。
こうして、手を引いてもらえるだけで十分だと思わなければ。
これ以上を望んではいけない。余計な事を考えてはいけない。
側にいる事を許されている、それ自体が奇跡のようなものなのだと言う事を決して忘れてはいけない。
大丈夫。自分の心を殺す事には慣れている。
今、自分の胸の奥底に沈めた感情も、ちゃんと殺しきって見せよう。
決意もあらたに上げた視線の先、兄の背中越しに広がる夜空にいく筋もの星が流れて行くのが見えた。
幼い頃に聞いた、流れ星に願い事をすると叶うのだと言った兄さんの言葉を思い出す。
星に願いを、なんて。もうそんな事を無邪気に信じる無垢さなんて、とうの昔に失われてしまったけれども。
(どうかずっとこの手が繋がれていますように———……)
それでも、そう願わずにはいられなかった。