【タイムマシンはいらない】
──もし、タイムマシンで時を遡れるとしたら。
放課後の屋上で、凪ぐ風に紫の髪を優しく揺らされながら天を仰いだ。
今はまだ水色の濃いこの初夏の空も徐々に橙色へと移り変わっていくが、例えばこの空が水色に戻って、白んで、暗くなって……その過程を眺めることを考えると楽しくはあった。が、架空の物語の中での時間遡行を参照するとすればそういったものではないだろう。
寄り道も感傷的になる暇もない。目標の地点まで一足飛びだ。
では、
(そうまでして変えたい事があるかな……?)
僕は高校二年だ。人間の平均寿命を考えれば決して長いとは言えないが、とりあえずこの歳まで確かに生きてきた。その間に後悔が全くなかったわけじゃない。あの日、あの時に戻れたらと考えた事もある。
──瑞希と出会った、あの頃。
──耳にピアスをあけた、あの日。
──胸踊らせ寧々と演劇を観ていた、あの瞬間。
分岐点になり得そうな記憶の欠片を次々引っ張り出していき、最後に一番賑やかな彼とのファーストコンタクトを思い出したところで苦笑する。
(……ああ、ダメだな)
もし過去に遡ってどこかの地点をやり直したとしたら未来は変わってしまうに違いない。今よりも沢山の仲間や理解者に出会える未来だってあるのかもしれない。だが、それはきっと──彼には出会えない未来だ。
……それだけは、絶対に嫌だった。
(だって僕は──)
その時、ポケットの中でスマホが音楽を奏で始めた。取り出して画面に表示されていた名前を確認した僕は、ふと沸いたイタズラ心に一人にんまりし。咳払いをしてから通話ボタンを押した。
『もしもし、類か? お前いまどこに──』
「コチラハ、ルスバンデンワさーびすデス」
極めて機械的な音声で応えると、電話向こうから声をつまらせたような呼吸音が聞こえてきた。
『る、留守番電話だとっ? くっ……つい話しかけてしまったぞ』
その言葉に一瞬耳を疑う。
まさか本当に信じているんだろうか。にわかには信じがたいが、しかし彼のことだ。十分にあり得る。僕は演技を続けた。
「タダイマ、デンワニデルコトガ、デキマセン。ゴヨウケンヲ──」
『音が鳴ってからだな! あー、ごほんごほん』
「カミシロルイヘ、アイノコクハクヲシテカラ、オハナシクダサイ」
『よし、類へ愛の告白、…………ってそんなわけあるかぁ!? さては類本人だろう!!』
「ふふふっ。やっと気づいてくれたのかい?」
さすがに失礼だろうと幾ばくかは押さえた笑いをくつくつ漏らしていると、彼は大きなため息をついた。
『委員会が終わったから約束通り連絡したのに、オレが電話を切っていたらどうするつもりだったんだ』
「薄情な恋人に恨み言でも言いながら、一人泣き濡れて帰っていただろうねぇ」
『何故だっ!?』
不意に強めの風がひゅるりと僕の髪をなぶった。
改めて空を見上げると空の色は変わり始めていたが、色づくキャンバスを覆い隠すように急ぎ足な雲がそこかしこにやってきていた。これは一雨くるかもしれない。
『とりあえず中央玄関の前で待っているから早く来い』
「そんなに早く僕に会いたい?」
『夕方に一雨降るという予報を見たからだっ!!』
「おや、それは大変だね。わかった、すぐ行くよ」
ああそうだ、と僕は言葉を継ぐ。
「……大好きだよ。司くん」
思いの丈を込めて。
すると、
『っ…………お……オレも大好き、だぞ。類』
かなり声量は落とされていたし、くぐもってもいたが、その口調から可愛らしい顔立ちを真っ赤に染め上げて言っただろう事は容易に想像がついた。目の前にいないのがひどく悔やまれたものの、急げば名残くらいは見られるかもしれない。僕は、じゃあ後でね、と無難な一言で通話を切った。
「さて、それじゃあ急ごうかな」
足元にほったらかしていたカバンを拾い上げ、急ぎ足でドアに向かう。温かいものに満たされている胸を一撫でしてドアノブを掴んだ僕は、無人になる屋上を肩越しに一べつし。その場を後にした。
──やっぱり、この『今』以外は要らないな。
そんなことを再確認しながら。