0 五十音の全てを使った矛盾 斑類。
猿以外の動物からヒト型に進化した種族。
繁殖能力は極めて低く、誰も彼も皆一様に口々に開くのは運命やら本能やらと言った言葉だった。
「これは運命なのよ! だって私、あなたに会って胸が高鳴って仕方ないもの!」
そう言ってアオキの上で良く鳴いていた同族の女性は他のパートナーを見つけて去って行った。
抗えない程の強い欲求に耐えられなかったとのことだ。
本当の運命を見つけてしまった、だとか。
斑類は、本能に抗えない。
能力は猿人より高いが、繁殖能力が低いが故に種を繋げるための欲求に理性で抗うことが出来ないのだ。
それは知識として知っているのでアオキはその女におめでとうございます、と言ったように思う。
忘れてしまった、そんなこと。
どうでも良かった。
本日の晩餐の内容の方がアオキにとっては余程重要とすら。
繁殖本能に抗えず、理性を失い感情を振り回されて、運命だのなんだのと口にする女のことなど覚えている程アオキは暇ではないのだから。
ああ、そうだ。
理性で抑えられないようなそんな感情は要らない。
運命などと体のいい言葉で覆いかぶせて暴力でねじ伏せてしまうような、獣のような感情はクソくらえだ。
アオキは平凡が良い。普通が好きだ。
特別など、要らないのだから。
「なんだかね、今日は良いことが起こりそうな気がするんだよ。根拠は無いんだけどね」
「……そうですか」
おもむろに、ジョギングの通りすがりに出会うとカブがニコニコと笑って話しかけてくるのは良くあること。
カブはアオキの前に現れては思いついたように、しかし必ずと言っていいほど良い知らせを運んでくる。
半ば強引に良い話を作ってくる日もあれば、本当に普通の人間ならば細やか過ぎて見過ごしてしまいそうなことまで。
カブにしてみれば少しでもアオキに笑って欲しいから良いことを探している、といういじらしい理由があったりするのだが。
が、カブのそんな努力が報われたことは殆どと言っていい程ない。
それでもカブは、話しかける良いきっかけだからこの日課を止めることは無かった。
「そうなんだよ。現に今日のニュースを見て一番最初に知ったのは保護された瀕死のポケモンくんが回復した話だったんだ、本当に良い時代になったね」
にこにこ笑う彼はこんなにも柔らかくて好意的なのに、アオキは直ぐに目を逸らしてしまう。
余りに眩しかった。アオキの恋心が彼に向かっている今、何をされても彼は愛らしく映ってしまうのだ……相手はもう、年配という表現が当てはまる男性なのに。
病気だ。先人が恋の病なんて言うのも解る気がする。
カブは特定の相手は作らない、自由にポケモンのことだけを考えたいのだと誰かに言っているのを聞いたことがある。
それはきっと、今でも。特定の相手を作る気はないのだろう。
お互いもういい歳だ。カブの言い分もわかる気がするからアオキは結局曖昧な立ち位置に甘んじている。
アオキの一方通行、虚しい片思い。
改めて自覚すれば直ぐにアオキが表情を硬くする。
大丈夫、今更こんなことで傷ついたりはしない。
カブには及ばないとしても、こちらもそれなりに経験は重ねてきた。
「カブさんは……本当に朝から元気ですね」
「そうかい?」
カブが困ったように笑ったのでアオキは軽く手をかざして誤解を招かないようにと少な過ぎた言葉に言葉を重ねる。
「褒めたつもりです……自分のように朝から上司に色々と仕事を言い渡されて理不尽ばかりの時代と嘆いているよりは余程建設的です」
「ははは! きみらしいね!……でもアオキくん、」
「何でしょうか?」
「そんな時代だからこそ能天気なことをいう人間が側に居た方が良いとは思わないかい? じゃあ、今夜またご飯でね!」
へら、と笑ってカブがアオキから離れていく。じゃ、と手を上げてマルヤクデを引き連れて走る彼はいつも通りに好感度が高い様相だ。
そんなカブの背中をアオキは思いっきり睨みつけたが、直ぐに瞬きをし、熱っぽい目つきになる。
それは良くドラマに出てくる叶わない恋に苦しむ、当て馬役のような顔で。
「あなたが側に、など……冗談じゃありませんね」
お断りだ。なんでこんなにソワソワとフワフワと、そしてズキズキと忙しなく苦しい想いをしながら彼の隣に居ないといけないのだろう?
それでも、もし。もし彼が少しでもアオキを想ってくれたなら。
そこまで考えたアオキは焦った顔をして、今考えた都合の良い妄想をしまい込む。
期待すればした分だけ、落ち込むなんて良く聞く話だ。
斑類であるアオキを、受け止めてくれたなら。
1度顔を出した望みが、更に奥深くにしまっていた欲深い望みまで引き上げてしまったようで。
アオキは慌てて更にまた奥深くへとしまい込み、全て見なかったことにする。
頼むから、頼むから。
もう、平凡のままで居させてくれ。
これ以上のややこしさはもう勘弁して欲しい。
アオキはシンプルが好きだ。普通が好きだ。
「本当に、あなたは……いつも厄介ですよ」
およそ、シンプルとは程遠いこのもみくちゃな感情に振り回されて……アオキは朝からひっそりとため息を落とすのだった。
「アオキ、頼んだ書類の方は出来ていますか?」
「……1時間前に渡されたこの書類のことでしょうか?」
アオキが遠回しに催促が早すぎませんかと伝えるがそんなこと気にも留めない上司、オモダカは半眼のまましれっと反撃をする。
「当然です。営業の成績が極めて悪いのですから事務作業くらい素早く出来て貰わないと……出来ているのでしょう?」
「出来てはいますけどね、確認お願いします」
アオキが上司のオモダカに書類を渡すと彼女はそれはそれは切れ長の目をキツく持ち上げて確認をする。
上司に詰められることは慣れているが、また無理難題を突き付けられたらと思うと今からゾッとしてしまうのは仕方がないものとして。
「上出来ですね、事務作業は有能なので助かります……あとはもっと勤務態度が真面目になって営業成績を上げてくださると助かるのですが」
「はあ、」
立てた人差し指を額にあてて左右に首を振る姿をアオキはこの先後何回見ることになるのだろうか?
褒められようと、咎められようとアオキの心は上下左右ミリ単位も動きはしない。
働かないで生きていけるなら働いていない、生きるために嫌々働くその辺に居る平々凡々な人間とさして変わらない構えで今日も生きている。
「では、パシオでの近況報告をしてください」
オモダカを早くやり過ごしたくて思考を他所の国へと飛ばして居たら意外な言葉で引き戻された。
パシオでの報告、とは。
ここはパシオで、日々の業務報告は日報に書いている。
「……報告、と言いますと」
「あなたにはカブさんと交流を持つようにと伝えたはずです」
もちろんカブ以外の者とも関わりを持っては欲しいが、カブという気概のいい年長者と交流を持つことで少しでもアオキの中で何かが変わればいい、と、オモダカは切に願う。
……しかしオモダカが心を砕く、それなりに大事にしている部下から返ってきたのはすこぶるやる気のない言葉で。
「日報を渡したと思いますが」
書いてあることは読めばいいですとばかりにアオキが眉目を動かすことなく言ってのける。
ビシ!と大きな岩に亀裂が走るような音が聞こえたような。
その場にふたり以外の人間が居れば怯えるだろうこの空気は誰に感知されることなく、オモダカの眉目が1度だけピクりと微細に揺れただけに終わる。
「今目の前に居るのだから、口頭で報告なさい」
それくらい、手間でもなんでもないだろうとオモダカに言われアオキは何かを思い出すように天井を見上げる。
直近の記憶と言えば昨晩まさにカブとふたりで食事をしているし、なんなら最近温泉すら入った仲なので交流の結果報告としては困らない。
「はあ……では、」
先ずは存外、カブは甘いものが好きなようだという話の滑り出しにオモダカは意表を突かれ閉口するもアオキは訥々とゆっくり語りだす。
この報告が自分にとって不必要なものと思いながらも、珍しく何かを思い出して楽し気でいる無気力な部下の様子を見てオモダカは黙ってそのまま報告を受けることにした。
「ああ~……て、言いたくなる心地良さだね」
「ええ……疲れが抜けていきます」
カブとふたり、パシオの外れにある温泉宿でアオキはゆったりと露天風呂に浸かっている。
庭に風呂が付いているタイプの部屋をとったのでふたりのペースでのんびり寛いでいた。
「すごいね、寝ながら入る場所まであるよ」
「体が温まったら移動しましょう」
まったりとしているアオキの横で露天風呂にテンションが上がっているカブが周囲を観察している。
経験ならばカブの方が豊富なはずなのに、終始楽しげにはしゃぐカブを微笑ましく思いながら提案すると更に嬉しそうな笑顔を向けてくるのにアオキも釣られて口角が持ち上がってしまう。
「寝湯も楽しみだけど、お風呂上がりに何飲もうかなあ……牛乳あるかな?」
「……牛乳?」
熱燗でキュッとね、と言いそうな風格の持ち主から牛乳というワードが出てきてアオキが首を捻るとカブが少しドヤ顔をして説明を始める。
「ぼくの故郷ではお風呂上がりには牛乳って根拠は無いけどよく言うんだ……でも体づくりを始めるのに色々調べた時に知ったんだけど、意外にお風呂上がりの牛乳って栄養補給としては効率的らしいね」
「はあ……」
体づくり……と言われてついカブの体にチラ、とやましい視線を送ってしまったアオキ。
その視線に気づいたのかカブが嬉しげに、自信満々に筋肉を浮き上がらせて披露されてしまったのでやましい気持ちは吹き飛んでしまったが。
鍛え上げられた人体の美しさの前で純粋に感嘆してしまったではないか、とアオキが内心で苦く笑う。
「まあそれはそれとして。ホウエン周囲の地方ではお風呂上がりに飲む飲み物ランキングなんてあってね……コーヒー牛乳かモーモーミルクか、ちょっとリッチにミックスオレ……悩むね」
「ミックスオレ……」
ドヤ顔で説明されても共感は出来ないが、カブが言うならやってみてもいいかもしれない。
なんとなしにゆらゆら揺れる湯に浮かぶ月を眺めながらアオキは日々の疲れを癒している。
水面の月を目で追うアオキに気づいてカブが夜空を見上げるとそこには綺麗に満ちた月が浮かんでいた。
「ああ。今日は満月だったね」
「ええ……」
「そういえば子供の頃に月にはうさぎが隠れてるなんて話を聞いてね、良く追いかけてたなあ……」
「うさぎ?」
「そう、あのクレーターの影がお餅ついてるうさぎに見えるんだって……もちろん子供騙しのお話だけどね」
アオキがそれを踏まえてじぃ、と月を観察するがそこにはただただ黒い影を乗せた黄色くて丸い月が夜空に浮かんでいるだけだった。
「うさぎ……?」
うさぎの形を探してもまるで見つからず。
アオキが半眼になりながら月を睨みつけていると、カブは大きく肩を揺らして周囲の湯を波立たせながら笑っている。
「子供の柔軟な想像力が無いと見えないかもね」
クスクス笑いながらカブも月のうさぎを探すと……子供の頃追いかけていたうさぎはすぐに見つかる。
口頭では説明が難しいのでアオキに言うつもりは無いし、餅をついたうさぎなんてこじつけのようなものだ。
こうも綺麗に浮かぶ月を見たら何か特別な話を作りたくなるのはわかるような気もするが……と、考えたところでアオキが暮らすパルデアの話が気になった。
「パルデアでは月に関する逸話みたいなのは無いの?」
興味津々と言った様子で視線を向けられたアオキだったが、普段と違うカブの前髪を下ろした姿が幼く映り言葉に詰まってしまう。
なんとか誤魔化すように月にまつわる話を思い返すも目ぼしいものは出てこなくて、月とは言ってもかすった程度の話題しか思い浮かばず正直に話すことにした。
「……自分はそういう話には疎く……月と言われてもロミオとジュリエットのような有名な話か、神話くらいしか思い浮かびません」
「シェイクスピアは世界中で有名だね」
ホウエンでもガラルでも見たことあるような、あまりにも有名なタイトル。
映画と言わずとも学生の演劇としても良く選ばれる程に有名な話なので所々の台詞なら思い出せる。
しかし月、と言うほど月に関係した話だっただろうか……と考えるがロミオとジュリエットの有名なシーンで月が使われていたと思い起こす。
「この愛を月に誓う、だっけ?」
「あまり記憶していませんが……そのような感じだったかと」
ロミオが月に愛を誓ったらジュリエットはクレームを入れていたような。
月に賭けて誓うのは止めて。移り気な月はひと月ごとに満ち欠けを繰り返す、あなたの恋もあんなふうに変わり易いといけない、なんて。
カブが月を見上げたまま小さく吹き出すように笑うのでアオキが少し困惑したように小首を傾げるとカブは更に擽ったそうに笑う。
「……カブさん?」
「ぼくはジュリエットくんに怒られてしまいそうだよ」
「は?」
「ん……と。ほら、ジュリエットくん、月は移り気だから、とか言うじゃない?」
「……そう言えば、そんな台詞もありましたね」
数回映画化されているが、このシーンは良く流されているので興味が無くても大体の人間が記憶している。
アオキの脳内で「おおロミオあなたは何故ロミオなの」と問いかけるジュリエットが思い浮かんだところでカブがまた話し出すので、不毛な会話をするカップルを思考から追い出す。
「ぼくは月は凄く一途だと思うけどな……何度姿を変えても必ず十五夜には頭上に戻ってくるんだもん」
「なるほど」
「勿論ジュリエットくんを否定するつもりは無いんだけどね……でも、今月も綺麗に浮かんでいる月も頑張ってるからそんなにダメ出ししないであげて欲しいよね」
そう言いながらカブはタオルをたたんで頭上にちょこん、と置いた。
いつもと違う降ろした髪型、その上に鎮座しているタオル、火照って赤くなっている頬……完璧なフォルムだ。
なんなんだろう、この愛らしいおじさんは……。
アオキがカブの台詞よりも行動に目が釘付けになって居ると、カブはもうロミオとジュリエットに飽きてまた他に意識を動かしているようだ。
「でもぼくはうさぎがお餅ついてくれる方が好みかな……売店のおまんじゅう……並んでたよね……」
「ああ、いかりまんじゅうですね」
「あれ、美味しいんだよね……ミナモデパートのジョウト物産展にたまに出てたけど直ぐに売り切れになっちゃうんだ……ここも直ぐに売り切れちゃうかな……?」
甘味を好んでいるカブが言うならば、多分いかりまんじゅうは相当美味しいのだろう。
そう言えばナナカマド博士と四天王のシバが愛した、と看板に書いてあったような。
なんて、思い馳せてみれば口の中が甘味を受け入れる準備を始めてしまった。
「……カブさん、今日は1泊しますし……少し涼んだら、」
「買いに行くかい!? いかりまんじゅう!」
風呂はまた入ればいいのでいかりまんじゅうを買いに行きましょう、と言わせては貰えず。
かなり食い気味にカブが釣られてくれたのでアオキは首を縦に振れば良いだけになった、ありがたい。
「そうと決まれば少しそこの椅子に座って休もうか」
「……ええ」
カブがアオキの返事を聞くや否や、湯を掻き乱しながらなんら躊躇いなく出ていくのに対してアオキがサッ、と視線でカブを追わないようにする。
「アオキくん? 逆上せちゃうよ?」
「あ、いえ……その、」
しどろもどろとモジモジしている大男を置いてカブは露天風呂の傍にある椅子にザバザバと2人分湯をかけて堂々と寝転んでしまう。
「ふう、気持ちいいねぇ……アオキくんも早くおいで」
「あの……その、頭の上にあるタオルは、」
そのタオルを使って身を隠すなどの対策をして頂きたい。
アオキにとって目の毒になっている光景を緩和して頂きたい、と切に願うアオキをきょとん、と見てくるカブ。
「ん? タオル?」
「その、隠す、などは……」
「男同士だから別に良いかなーって……ああ、見苦しいかい?」
「そうでは無いです、そうでは無いですが……」
なんなら感謝したい光景ですし、目がどうしてもそちらに向かってしまって申し訳ない……欲求には正直な身体なもので、と。
色々と葛藤をしていたがあまりにも意識していないカブの様子を見てアオキも覚悟を決めて湯から出て行く。
カブより大柄な分、アオキは更に大きく音をたてながら湯を揺らしてカブの元へと歩を進めると問題の彼はやはり恥じらうことなく寛ぎながら月見を楽しんでいる。
「アオキくん、月がとてもきれいですね」
「……ええ。そうですね」
突然どうしたのだろうか、とアオキが用意された椅子に座りながらカブの様子を窺うも彼の視線は月に向かったままだ。
やっぱりこの和訳には無理があるよね、なんて思いながら。
「本当に、綺麗だね」
満足気に笑って、そうして湯から出て体温が少しずつ落ち着いていくのが心地いいのかカブは目を閉じて口角で弧を描いている。
無防備だった。
ここまで無防備に、そしてなんら恥じらいもなくアオキに全てを晒している時点でまるで意識をされていないことがわかる。
いや、カブとどうこうなりたいなんて思ってはいない。いないが、こう……少しくらいは気にして欲しい、みたいな感情をどう表現すればいいのか。
アプローチもしていない時点で失恋が確定しているなんて……別に両想いになれるだとか、少しは意識してもらえているだとか、そんな大それた思いは抱いていないけれど。
カブは猿人なので斑類を感知することすら出来ない、ならば。
だからどうしたと言うのか。
結局カブとアオキが男性で、一般的に障害が多いとされていることには変わりないし……そもそもカブからまるで脈を感じない。
ポケモンのことだけを考えているいつまでも燃える男に恋をした……それは同時にアオキの失恋も同時に決まってしまっている、皮肉な話だ。
カブと結ばれようなんて思ってはいないはずなのに、自然と肩が落ちて胸骨が狭まり肺が苦しくなって体内に入っていた二酸化炭素を深く深く排出してしまう。
「ため息出ちゃうよね……気持ちいいもの」
「……ええ。そうですね」
いっそカブも斑類だったら何か違っただろうか?
いいや、きっとカブは斑類だったとしてもポケモンに生涯を捧げ燃え上がるように上だけを目指していただろう。
アオキもカブに倣い目を閉じて思考を放棄して熱を持った身体が少しずつ冷めていく感覚に身を委ねる。
だから、アオキはカブの表情を見損ねてしまった。
愛おし気にアオキに笑いかけるカブは月明かりに照らされて、とてもとても綺麗だったと言うのに。
「……と言ったところでしょうか」
……平然と、恥ずかしげもなく報告を終えたアオキにオモダカは頭痛のあまりに遠い目をしていた。
勿論自分のやましい感情や自分の恋心などは隠蔽した上の報告だったが、オジサンがふたりで温泉に入ってまんじゅうを買いに行った話をされても反応は困るだけだ。
「カブさんってほんと器デカいな……」
途中から増えていたギャラリーであるチリもまた同様の顔をしているので恐らくオモダカの反応こそが普通なのだ。
ああ、なんてことでしょう、と。自分の軽率な指示のせいで他の国の大事なジムリーダーに大変なご迷惑をおかけしている。
「アオキ……頻繁にカブさんを誘うのはやめなさい」
「何故です?」
心底訳がわからない、と言った様子のアオキに更に頭が痛くて頭痛がする状態になるオモダカだったが……本当にわかっていない様子のアオキでもわかるようにかみ砕いて説明するべく言葉を選ぶ。
「カブさんにも交流があるでしょう……他のトレーナーの方もカブさんと交流を深めたいはず……ましてガラルの面々はカブさんが来るのを長年心待ちにしていた様子ですし」
「……なるほど」
オモダカが諭すのに耳を傾けるアオキは少し悩むような仕草をして、一度だけコクリと頷く。
「了解しました。では、時間を空けて誘うようにします」
誘うのはやめないんかい、というツッコミはチリの中だけに留められた。
オモダカは……意外とすんなり言うことをきいたアオキに驚く、むしろ不安にすらなってしまう。
「そうしてください……」
素直な部下の様子に拍子抜けしている上司の心配を受けたアオキだが、気に留める様子もなく軽く一礼をする。
「……では、定時なので失礼します」
「ええ、お疲れ様です……その大荷物はどうしたのです?」
アオキがいつもの黒い鞄と一緒に持ち上げた大きな袋が目につき尋ねればまたアオキの瞳に温かい光が宿る。
食べ物が絡むとアオキの瞳には良くハイライトが宿るが……何故だかその光が普段の色合いとは違うような。
「昼の市場調査の際にホウエンのスイーツイベントがありまして」
「はあ!? 期間限定で毎度めっちゃ並んでるやつやん! わざわざ並んだんか!?」
「……並ばないと買えないならば並ぶだけです」
何を訳の分からないことを仰っているのでしょう?とアオキの目から光が消失したが……いや、仕事中に何しとんねんという話だろう。
これはトップの大目玉待ったなし、とチリがオモダカを横目で確認するも意外に彼女は咎めるつもりは無いようで何か考えあぐねている様子だった。
オモダカが何も発言しないならば、とまたチリが自分の興味があることをアオキに尋ねようと大量に色々入った袋を指差す。
「ほんで……そのおかしな量のスイーツはひとりで食べるんか?」
「いえ、全てカブさんへのお土産です」
「「……は?」」
チリとオモダカがまた同じ表情、発音は違えど同じ言葉でシンクロしているがアオキはまるで頓着するつもりは無いようで。
「……こちらの製菓はカブさんの故郷のものと聞きましたから」
チリが驚きに切れ長な目をこれでもかと見開くが、オモダカはやはり……とまた人差し指を額に当てて苦悶の表情を浮かべる。
言っている傍からまたカブに会いに行くと彼は平気で言ってのけるのだ。
呆れているオモダカの言いたいことを察知したアオキが表情を変えずに、しかし一応言い訳のようにひとことだけ。
「今日は既に約束をしていましたから」
「……そうですか、カブさんにご迷惑のないように」
「ええ、了解しました」
カブに会いに行く、それだけで普段の仏頂面が少し和らいでいるのをアオキ本人は気づいているのだろうか?
先程カブの話をずっとしていたから早く会いたくなってしまったアオキはそのままそそくさとふたりの前から姿を消してしまう。
そんなアオキの後姿を呆然と見ていたふたりだったが、先に意識を浮上させて沈黙を破ったのはチリだった。
「トップ……確かアオキさんって魂現、鷹じゃ……」
「ええ……それも厄介なことに蛇の目とのハーフです」
「うわ最悪や! カブさん逃げて、ごっつ逃げてや~!」
斑類は猿以外の動物からヒト型へと進化を遂げた種族。
ヒトは人類と斑類に分かれていて、猿人が70%を占めている。
残り30%の中でも更に希少な3%の蛇の目、更にその他の1%に属する翼主を魂現に持つ、それも翼主の中でも強い鷹なので重種……非凡の塊、それがアオキという男だった。
「鳥類の代表的な求愛行動……知っとります?」
「……求愛給仕……ですね」
求愛給餌とは、求愛行動の一つで、オスがメスに食べ物を渡し、メスが応えるとつがいとなる。求愛給餌の後に交尾が行われる事が多い。
多くの種で、求愛給餌を受けるメスはひなが食べ物をねだるような姿勢 (翼を下げ細かく震わせながら口を開ける)をとる。
「おさんぽ鳥見調べやで……ガッツリ当てはまってません?」
「……カブさんには本当に、なんてお詫び申し上げたら……」
アオキの恋心は確定的だ。
先程カブと温泉に行ったという話をしていた時の目線はこれまで共に働いていた中でも熱に侵されたものだった。
「でも、本人自覚あるんかな」
「アオキは……自覚していますね」
「ヤケにはっきり言うんやな」
「ええ、先程の話をしている際にアオキの表情が時折曇っていたので……恐らくはカブさんからの脈を感じられないことに憂いていたのでしょう」
異国の人口島にパルデア上層部の中では先陣切ってやってきて、まだ現地入りする前の部下の愚痴を言う割にはよく見ている。
しかしきっと、長年アオキで手を焼いているオモダカが言うならそうなのだろう。
「絶滅危惧種の翼主の斑類が猿人の……ましてや男性相手に恋だなんて……」
「まあチリちゃんは自由恋愛主義だからその辺どうでも良いけどなー」
ワハハ、と笑うチリにオモダカはスン、とした表情で肩をすくめる。
まあ、チリはそうだろう。いつだってその辺は自由で大らかだ。
「確かに、その辺は良いですが……彼の家系からは傍系からも翼主は生まれていませんし……何よりも色々と障害が多いでしょう」
「まあ同性同士って時点で斑も猿もめんどいからな、色々と……でも、」
チリが考える素振りをするのでオモダカは返事を待ってみる。
んー、と口にしながらチリが首を傾げ何かに悩みながらも口を開く。
「多分アオキさん、気持ちに気づいてても動かないつもりやないかなー」
「……何故?」
「だってアオキさん、もしカブさんとどーこーなろうと思ったら即行動しそうなもんやし……好きってものに対してはフットワーク無重力やないです?」
「……確かに、それもそうですね」
アオキがカブに恋をしているのは間違いないが……もしアオキがカブと結ばれたいと望んでいるならばきっとオモダカのカブとの距離を見直せという先程の発言にも首を振っただろう。
良くも悪くも、シンプルにストレートな男なので。
しかし、好いているのに身を引くような男でも無かったような……何か、あるのだろうか?
「今はまだ、成り行きを見ているしか無さそうですね……チリ、私たちもポピーを連れて食事に行きましょう」
「せやな! 早くハッサクさんもこっち来たらええのにな~」
「アカデミーの授業との兼ね合いも難しいようですが……必ず呼びます」
「おお、頼もしいなあ!」
オモダカの絶対の意思を感じながらもチリはアオキの恋心に一応小さく心でエールを送る。
出来れば全部丸く収まって、世界がいつまでも平和でありますように、と。
そして今日食べるディナーがとても美味しいものでありますようにと祈るばかりだった。
恋とは落ちるもの。
落ちたら最後、気づいてしまったならばきっともう引き返せない。
きっと、アオキはまだそれを理解はしていないだろう。