君を迎えに来てるんだよ「タソガレドキにおいでよ、歓迎会張り切るよ」
「……6年生に軽々しく言うことじゃないですよ」
失言だったのだろう。
先程まで穏やかだった空気が一変して寒々しい空気になったことで伊作は自分が発言を過ったのだと気づいたがもう取り消せない。
この人があまりに穏やかに笑って伊作たちの元へと遊びに来るから忘れていた。
彼が、威圧するだけでその場を制圧出来る実力者であると言うことを。
いつもは穏やかに笑む雑渡が時折見せる底知れぬ、闇を思わせる瞳を伊作は恐ろしく思う。
ああ、しかし伊作が恐れているのは雑渡の実力や怒気ではない。
失望されてしまったかもしれない、或いは呆れられているかもしれないと思えばもう雑渡の顔を見上げることが出来なかった。
ああ、ああ。
いっそ溜息でも良いから落として欲しい。
こんな空気を纏いながら何も言ってくれないことが今は只管に恐ろしいのだ。
いつまでも何も言わない雑渡を恐る恐ると見上げれば先程のほの暗い瞳をしていた人間とは思えないほど穏やかな光を湛えて伊作を見下ろす男が居た。
穏やかな雰囲気に安堵して良いものかと、いいや、あの時見た闇こそが雑渡の本意なのではと。
雑渡の顔色が何色なのかが底知れなくて怖いのだ。泣きじゃくって怖いと泣ける年齢はとうに終えた。
「伊作くんは、」
ああ、雑渡の声が優しい。
きっと怯えた伊作にも気づいているのだろう。
良かったきっと、いつも通りこの場を和ませるようにしてくれるはず、そう。
「私のこと、怖い?」
訳もなく、雑渡を信じていたから。
だから雑渡にこんな風に聞かれるなんて想像もしていなかった。
今、怯えていることを知られている相手に手放しで怖くはないと答えるのは果たして正解なのか?
「怖くなど、」
「本当に?」
今日はやけにしつこいなと感じたが、心当たりが無いわけではないのだ。
最近良く誘いに来た理由を少し考えれば思い当たるくらいには目の前の大人は伊作の前にやってくる度に肝心な感情を露骨に見せびらかして来た。
普通は隠したり照れたりするものだろうと思う感情もしっかりと見せて、しかし引くところは引くという大人の手練手管で伊作を翻弄するのでいつの間にか心の中で図々しく棲み付いていた。嫌な大人だ。
「私ってば伊作くんのことが大好きなんだけど、それは困る?」
伊作はこの問いに対する答えなど持ち合わせていないし、この問いに答えることで齎されるものが想像できない。
だから怖い、間違えてしまったらと怯えている。いっそもう逃げてしまいたいけどそれこそが一番の不正解であることは理解している。
伊作は雑渡への感情を未だに理解できない。ただ、ずっと傍には居たい。それだけではいけないのだろうか?
「えーっと……?」
質問に質問で返すというのは果たして逃げには該当しないのか?
直接的な言葉を告げてこの状況が進展するのが怖いし、今日は逃げ道を用意してくれない雑渡も怖い。
きっとそんな伊作に気づいているのに、こうやって詰めて来るのは何故なのか?子供相手だからといつもなら加減をしてくれるのに。
伊作は恐らく、雑渡が好きだ。ただその好きが仲間たちに向けた好きとの違いがわからず、雑渡の言う好きの種類もわからないから怖いだけ。
そうして悩んでいる内に雑渡が伊作の手の届かないどこかへと行くのも怖い。
だからいつも通りに過ごしたいだけ。
いつも通りで良いではないかと願っているだけなのに。
伊作は再度勇気を出して恐る恐ると上目遣いに雑渡を見上げる。
いつも通りの雑渡を望む伊作だったが、そこにはいつもの雑渡の笑顔はなかった。
先程の闇を思わせるような、底なしの沼のような雑渡の瞳はまるで闇夜、月明かりを弾いて光る刃の如く鋭く冷たい。
「あの、その……、」
また間違えたのだ。あの質問には言葉を返さないといけなかった。
正直にわからないのだ、答えを教えてくれと言えば雑渡は許してくれるのか?
いつものように逃げ道を用意してくれて、またいつも通りに笑ってくれるだろうか、もう許して欲しいのに。
それは無い、それだけはわかった。
雑渡はこんな時も露骨に、わかりやすく、逃げ道は無いのだと纏う雰囲気だけで教えてくれている。
どんな形でもいいから焼き付けようと、逃がしはしないとばかりに詰め寄って来る。怖い。
伊作は困っている、雑渡の言う困るとは違う場所で困っていた。
子供のように思考停止で泣いて同情を引くようなことはしないが、いっそでも泣いたら許してくれるだろうか。
どうしたらいいのか、正解はどこか。
なんて答えればこの場は丸く収まるのか、いっそこの場に誰かやってきたらいいのに。
いいやきっと、この大人はそれすらも考えて対策しているに違いない。きっと誰も来ないのだ、ここには。
なんて言えば良い?
雑渡の気持ちは嬉しいのかもしれないが、受け取るのが怖い。伊作には理解できない好きだったから。
同じ好きじゃなかったとき、取返しが付かないかもしれない、傷つけるのが怖い。傷つくのだって怖い。
でも、こうやって遊びに来て欲しいのだ。
一緒に笑って、無駄話して、同じ時間は共有したい。
何かを言わないといけないが、考えれば考えるほどに何を伝えたら良いものか。
困りません。
そう伝えたら良いのだろうか?
そうしたら、その後は?
「……はぁ、」
伊作が混乱している間に、ついに雑渡のため息が落ちてきた。
あの時はせめてため息が欲しいと願ったが、実際ため息を落とされると全身が底冷えする。
やはり失望されたのかと。呆れられて、もうこの場所にはやって来なくなるかもしれない、会えないかもしれない。
いやだ、いやだ。
会えなくなるのは嫌だ、引き留めなくては、引き留めるだけの何か、伊作にはあっただろうか?
どうして、なんで。
こんな状況なのにこの口は愚鈍で、舌はまるで回ってはくれないのか。
「おりこうさん、正解だよ」
「え?」
「まあ、ズル賢いとも言うけどね」
想像もしていなかった言葉に伊作はギクリと肩を震わせる。全身の血の気が引くように、息が苦しいような。
驚いた、という自覚すら持たせてもらえずただ呆然とする伊作の頤を人差し指だけで持ち上げて、強制的に雑渡を見上げる形をとらされる。
そこに現れたのはいつも通りの穏やかな雑渡だったのに、そのはずなのに、何故か伊作の前に居たのは知らない男だった。
いつもの雑渡ではないのだと。
そう知らしめるかのように、ゆっくりと頬を撫でる男があまりに恐ろしくて。
「……好いてくる男に気持ちを無闇に差し出してはいけない、断ってもいけない。もしこれが誰に教わったわけでもなく自然に行ったなら末恐ろしいね」
伊作は混乱していた。
ああ、いつもの雑渡はどこにいる。
この男は誰なのか、時間が流れた分だけ雑渡が遠ざかるのは何故なのか。
「君は、一番賢い選択をしたんだよ。飼い殺しっていう」
瞠目する伊作の顔を見て雑渡は愛おしいのだと、焦がれているのだと微笑んでいる。
隠そうとも臆すこともなく大層愛おしそうにして伊作の頬を両の手で包み込む。
まるで愛を囁くように、何を言っているのか。
雑渡が言わんとするものがなにか、伊作には何もかもわからない。
伊作が今度こそ雑渡自身に怯えているのに、雑渡は笑んでいた。
それが怖いのだと今にも逃げ出しかねない伊作を見て、男は一層嬉しそうに笑っている。
「君の言葉や行動ひとつに一喜一憂してるんだよ、私。君に恋焦がれている大の大人は滑稽でしょ?」
言いながら雑渡は伊作の唇を指でなぞって、己の唇を口内に引き入れ舌でなぞる。
そうして予約をするように、覆面越しに伊作に口づけをひとつだけ。
一生囚われてやると言っているのだからこれくらいは安いものだろう。
しかし伊作は今この瞬間、気づいてしまった。
本当に囚われているのも焦がれているのも雑渡ではないのだと。
男が仕掛けた罠に、とっくの昔に嵌っていたのだ。
気づかない内に、知らず知らずに。
飼殺されているのは、本当はきっと。
相変わらず雑渡の瞳は計り知れず、今もいつもとは違う男のようだった。
伊作には底知れない男、それだけがいつも通りで。
先程まではそれが怖くて怖くて。
それなのに今は彼を見ても恐ろしくは無かった。
恐ろしくはないどころか、この奇妙な甘い緊張はなんと形容しようか。
答えが出ている、直ぐそこまで。
きっとこの男が齎したもの。
雑渡は、いつから伊作に罠を仕掛けていたのだろう?
いつだって雑渡は伊作へと両手を広げていたし、逃げ場など既に無かったのだろう。
用意されていたと思っていた逃げ場は全て雑渡の手の届く場所だった。
後は伊作が雑渡の両手に閉じ込められるだけとなったから、伊作が罠にかかったと確信したから、だから雑渡は伊作を捕まえに来たのだ。
「伊作くん、」
雑渡が呼ぶから伊作が見上げる。
穏やかに笑って雑渡が言うのだ。
「私ってば伊作くんの事が大好きなんだよ、本当にね」
逃げ場など無い。
逃げる気など失せる程に、どうか。
君を迎えに来ているんだよ