どうか正しく導くために「困りました」
青ざめた顔で居るのは果たして睡眠を削り不健康に重ねた夜のせいだろうか?
それとも寄る年波に勝てなかったか……果たして。
出来れば早めに話を切り上げたい……頓挫しているテラ計画の資料を纏めたいし大穴に向かうための資金繰りについても考えねば。
しかし恐らくは聞き返してもらえると思っているだろう今回のプロジェクトの相棒の顔色を見てフトゥーはため息をひとつ。
仕方がない。これは、もう。
「……なにに困っているんだ?」
クラベルの前に座りなおしたフトゥーが用意していた紅茶を差し出し、クラベルが望んでいたとおりの水をかけてやれば困惑したままの表情で話し始めた。
「なにを……いや、何をというか……もう最近は全て、と言いますか……以前は彼のためにも身だしなみや礼儀作法を指導しなくてはと思ったものですが……」
「まあ、ジニアの年齢を思えば矯正するならば今頃だろうな」
目に入れても可愛くない、とクラベルは自分が生み育てたかのようにジニアを可愛がっている。
しかしそんな親馬鹿なクラベルでもその点はしっかりと考えていたようだ。
若干安心すらしてしまったフトゥーは肩をすくめ、一応は目上であるクラベルに感心した。
「ジニアは今、10歳……くらいだったか?」
「ええ……最近はアカデミーでの出来事を良く話してくれるようになりました」
「困るようなこと、あったか?」
これまでの会話で、クラベルが困るような話があっただろうか?
フトゥーが顎に手を当て小首を傾げて不思議がると、クラベルはまた表情を暗くして小さく口を開く。
「ジニアが、可愛くて仕方がないのです」
今なんて言ったか?
いや、もう聞かなかったことにしてしまった方が良いような。
フトゥーは思わず半眼になり、そうして考えることをやめた。
「……頼んでいた観測ユニットの可動率、設備管理指標に関する書類は出来ているか?」
「それは完成していますが……まだ私の話が終わっていません」
「今終わっただろう?」
「終わっていません。まださわり部分でしょう」
「……ジニアが可愛いならめでたいことだろう」
そうしてジニアとクラベルは末永く幸せに暮らしました。
十分にハッピーエンドだ。これでいい。
フトゥーが紅茶を口にしながら話を終わらせようとするのでクラベルが話を強引に進める。
「書類なら持ってきているので話を聞きなさい……ジニアが可愛くて、なんでも許せてしまうのです」
「それがジニアの教育に良くない、と?」
「ええ……彼の今後のために少し厳しくしなくてはとも、私とばかり関わって年頃の友人をあまり作らないのは良くないのでは、と思ってはいるのですが……」
これは子供のしつけと同じようなものどころか本当にしつけなのだ。
クラベルは真摯にジニアに向き合っている……それが報われた結果かジニアの両親にも信頼を寄せられている。
そしてジニアのクラベルへの懐きっぷりは尋常ではなく、クラベルの後ろにジニアありというくらい当ラボでは見慣れた光景になっていた。
「クラベルはジニアが正しくなくても良くなったのか?」
フトゥーはクラベルの想いなど手に取るようにわかっていて、しかしワザと意地の悪い問いかけをする。
案の定クラベルは心外だと驚いたような表情をして、その表情には強い否定が滲んでいた。
「そうではありません、ジニアが道を踏み外せば全力で手を貸してやりたいと思っています」
「ならばそれで良いだろう?」
大事な芯の部分が愛情で染まっているならば、そう悪いことにはならないだろう。
何故ならジニアの幸福を心から祈るクラベルが大きく間違えることはないはずなので。
「良いのでしょうか……? 最近、ジニアが多少だらしなくとも良いと思っているし……負担に思うならば人付き合いもしなくていいとすら思っています」
ジニアはありのままでとても可愛い。
ジニアがクラベルについて回ってくれて嬉しい。
そうとしか聞こえないのだが。
ああ、それに気づいてすら居ないのだろう、この不器用な研究馬鹿は。
同じ研究馬鹿であるフトゥーに内心で馬鹿にされていることなどまるで気づかないクラベルは更に話を進めていく。
「ジニアが笑っているならばそれで良い、ジニアが多少やんちゃをしても私が傍に居る時ならばなんとでもしてやれるから楽しそうであればそれで良い……など、ジニアが笑うと愛くるしくてもうなんでも良くなると言うか……」
そこまで口にしてクラベルは失言だったと口を手で覆う。
そしてそこまで聞かされたフトゥーはやれやれと呆れたように額を手で覆った。
クラベルのジニアの甘やかしは日々どんどんエスカレートしているのはわかっていたから驚かなかったが、まさかここまでとは。
「クラベル。結論から言うと……ボクはこの話を聞いても何も答えは持たない」
「……それはそうですよね。聞いても困るだけでしょうし……」
「勿論それもあるが、キミのその悩みは一生抱える問題だろうから」
キミがジニアを好ましく思う限り永遠に、とフトゥーは心の中だけで飄々と付け加える。
「……なにを?」
何を言っているのだろうか?一生、などと……そんなはずはない。
ジニアは成長する。いいや、現在進行形で成長しているのだ。いずれは可愛いなどと言えなくなる。
驚いたように目を剥くクラベルにフトゥーは揶揄うような顔をするわけでもなくとても真面目な表情をしていた。
「キミはこれからジニアに対して厳しくしなくてはいけないのに甘やかしてしまったり、大なり小なり様々な二律背反を抱えながら悩むんだ」
それを、人は愛と呼ぶことをクラベルは知っているだろうか?
別に愛の種類は恋愛がらみだけではない。
親愛、友愛、慈愛……上げようと思えばいくらでもある。
「フトゥー……それは、」
クラベルはフトゥーの言葉を反芻して、眉間に皺を寄せ腕を組んで言葉を選ぶ。
たっぷりと時間を置いて、そうしてやがて意を決したように口を開いてクラベルはフトゥーに確認する。
「……それは、やはりおかしいことでしょうか?」
とても真面目なクラベルの困惑した表情、不安げに揺れる瞳を見てフトゥーは真面目な表情を崩すことなく首を振って否定をしてやる。
本当に、心から育児に悩む新米ママのようなクラベルに苦笑いのひとつもしてやりたい気持ちを抑えながら。
「キミがそうやって悩んでいる限り、問題はない」
「……そうですか?」
「ああ……そもそもジニア自身が一番大事な部分では弁えている。あの子は賢い子だ」
ジニアを称賛するフトゥーの言葉にクラベルは息をつき、少しだけ表情を柔らかくする。
それはアカデミーに在籍していた頃からここまで、長年付き合ってきたフトゥーにだけ伝わるような変化だったが確かにクラベルは安堵した。
「ジニアは賢い……そうですね」
「そうだ」
嬉しそうに言うなと。そもそも自分が一生悩まないといけない部分には触れないのか。
しかしフトゥーはすかさず相打ちを返して会話を終わりへと向かわせる。
「そうですね、ならば……私もしっかりとしなくては」
クラベルはとても嬉しそうに、納得したように頷いて見せた。
フトゥーはとうとう苦笑いを隠せなくなる。
そもそもしっかりしなくてはいけない当本人がこんな馬鹿馬鹿しいことで悩んで顔色を悪くしているのをもっとしっかりして欲しい。
「愛は盲目……先人は良く言ったものだな」
フトゥーは先人に対してとても敬意を抱いている。
前人未到の大穴を踏破しようとしたり、未開の地に観測ユニットを設置しようとしたり……こうやって途方もなく取るに足らないことに悩む友人に対する良くある返しだって遥か昔から似たような悩みを抱いて困惑する知らない誰かの話を聞いたそのまた知らない誰かが考えて来たのだろう。
「フトゥー? 今、何か言いましたか?」
「いいやなにも」
「クラベルさん!!! ぼく、生物のテストで満点でしたあ!!」
ばあん!!とノックという概念をまるで無視して勝手知ったるなんとやらで小さな子供が大きな大人の会話をぶった切った。
フトゥーもクラベルも驚きはしないが、クラベルは頭が痛いとばかりに額に手を当てて立ち上がる。
「……ジニア、ドアを開ける時はノックを、」
「はあい! ドアを開ける時はノックをして相手の返事を待ってから開ける、です!」
「わかっているならば、」
クラベルが説教をしようと口を開こうとしたが、それよりも先にジニアがしょんぼりした顔でクラベルを射抜く。
「ごめんなさあい……ぼく、どうしてもこのテストの結果をクラベルさんに早く見て欲しかったんです……」
……あざとい。
フトゥーがまだ幼いジニアのあざとさにドン引きをしていたが……そのあざとさを極近距離で受けたはずのクラベルはと言うと。
咳ばらいをして、顔を少しだけ赤らめて。
「……んん、仕方がないですね。今度からは気を付ければそれで良いです」
「わあい!」
満更でもないんかーい!とフトゥーの中のジョウト人が裏手でツッコミを入れるが実際のふたりの会話は誰もツッコむことなく筒がなく進行していく。
「それで、テストを見せてくれるんでしょう?」
「はあい!!」
ジニアに答案用紙をずずい、と渡されてクラベルが眼鏡をかけ直して律義にしっかりと読み上げる。
恐らく問題の内容など今直面しているパラドックスポケモンの生体に関する論文を書いているクラベルにしたら容易くて眠気すら覚えそうなものだろうが。
「ああ……矢張り素晴らしいですね。流石ジニアです……特にここの不可能性が良く証明出来ています」
「ありがとうございまあす! この前のクラベルさんの論文を良く見て勉強してきたのでえ」
「……凄いですね。もうそこまで理解出来るなんて……今度は一緒に資料室に行きましょうか」
「本当ですか!? 約束です!」
「ええ……もちろんです」
一応この場に居るフトゥーを無視して話がどんどん進んでいくので、冷めた紅茶を啜りながらジニアとクラベルを観察するフトゥー。
フトゥーの居る場であまりにも失礼だったとクラベルが振り返ったその瞬間、その時ジニアの表情が一気に鋭くなった。
「フトゥー、すみません……あなたも一緒に行きますか?」
「ああ、いや……」
ジニアの鋭い表情に驚き一旦思考が白むフトゥーが曖昧に返事を返していると、クラベルの足元で小さな体をぴょんぴょんと跳ねさせてジニアが主張する。
「フトゥーさんはオーリムさんをお食事に誘うって言ってました!」
言っていないが??
ジニアの言葉に驚いてフトゥーが目を剥くが、クラベルは愛しいジニアの言うことを信じたらしい。
「そうでしたか……それは野暮でしたね」
少し照れたように言うクラベルにフトゥーは否定しようと思ったが……ジニアの言う通り、このふたりに関わるよりはオーリムを誘った方が有意義な時間は過ごせそうだ。
ジニアの方に視線を向けると、クラベルの足元でじぃ、と鋭い視線を容赦なくフトゥーに突き刺してくる。
「クラベル、」
「はい」
「ジニアは、」
「はい?」
クラベルがフトゥーに言われてジニアに視線を向けると、それはそれは素早く表情を入れ替えるジニア。
その素早さにフトゥーが驚き再度目を剥く羽目になるが、クラベルはそんなことは知らずにまた目にでも入れようとせんばかりにジニアの頭を撫でつけ愛でる。
「ジニア、ここは退屈でしょう……食事は摂りましたか?」
「今日は授業が午前までだったのでまだです!」
「では一緒に食べに行きましょう。ラボでの食事も中々のものです……フトゥーは」
またもフトゥーを誘おうとするクラベルに対してジニアが慌てた様に体を跳ねさせている。
今度はクラベルの白衣を握りしめてそのまま部屋から出ようとすらしていた。
「フトゥーさん、入り口でオーリムさんに会った時ここに呼んだのでそろそろ来ると思いまあす!」
く る な!
という渾身のジニアの返答にフトゥーは小さく嘆息して首を小さく縦に振る。
フトゥーの想い人を知っていることも恐れ入るが……まさかその想い人を餌にクラベルを独り占めしようとするなんて……10歳にしてこれは舌を巻いてしまう。
「では、ボクは彼女を待つとするから……ふたりで食堂に行くと良い」
「そうですね……では」
ジニアの手を取りクラベルがやっとフトゥーの研究室から出て行く。
力なく手を振りながら、退出するふたりの後姿を眺めるフトゥーの表情には困憊の色が滲んでいる。
「愛は盲目……先人は良く言ったものだな」
そう、愛は盲目。時には手段も選んではいられなくなる。
しかしクラベルのジニアに向けている愛は親愛や子供に向ける愛情なのは見てわかるが……ジニアのあれは。
「あれは、」
あの、執着の強さや熱っぽさは、まさか。
いいや、まさか。まだ彼は10歳になったばかりだと言うのに。
「……徹夜をし過ぎたかもしれないな、」
今日は良く寝なくては。フトゥーが眉間を指で挟み軽く左右に揺さぶると強めのノックが聞こえる。
フトゥーの返答を待つことなくドアがバン!と開かれ出てきたのはオーリムだった。
「フトゥー! 食事をご馳走してくれるって聞いたから来たぞ!」
「惜しいなオーリム。60点だ」
返事を待てば80点だったのに、とフトゥーが言ってもオーリムは気にしていない。因みに優しくノックが出来ていれば満点だ。
本日二回目の元気な来訪者に乱暴に扱われたドアに同情をしつつ、ジニアに適当なことを言われてやってきたオーリムを引き連れてラボを出て行く。
今はジニアとクラベルを見たら色々と余計なことを考えてしまいそうだったから、なのは言うまでもなかった。