そして帰り道を見失った陽が昇る前。
拠点として使っている廃墟からは少し離れた場所で、イエルはひとり煙草を燻らせていた。昨夜降った雨が埃を洗い流して、今朝はことさらに空気が澄んでいる。
皆が起き出す前のこの時間は、イエルがひとりきりになれる、数少ない時間だった。
一日が始まる前の、まっさらな空に向かって、煙を吐く。
自分が吐き出したちっぽけな汚れが、綺麗な空気に包まれて馴染んでいくのを見るのがイエルは好きだった。
何か考えたいことがある時、あるいは何も考えたくない時、イエルはこうしてひとりになる。悩み続けた難題も、頭の中を一度空にしてみると、案外良い解決策が見つかったりするものだ。
ただ、この方法も今頭を悩ませている問題には効果がないようで、先ほどからイエルは空気を汚すだけの、無意味な煙を吐き出し続けている。
…いや、答えはとっくに出ているのだ。考えるまでもなく。それなのに気がつくと、そのことが頭の中を巡り、貴重な時間を無駄に費やしている。
まったく、自分らしくなかった。
昨日より風が冷たい。また、季節が変わるのか。
彼女と出会ってから二度、季節が変わろうとしていた。
(…長く居すぎたんだ)
煙草を取り出そうと胸ポケットを探る。
思案に暮れるのは一本吸い切るまで、という自分で設けたルールを、ここ数日破り続けてる。これも自分らしくない。ポケットの中からくしゃりと包装紙が潰れる軽い感触がして、中を見れば最後の一本だった。イエルは舌打ちしたくなる。このところ、吸う煙草の本数が明らかに増えていた。嵩んだ煙草代をベネリットグループに請求してやろうか。
「イエル?」
火を付けたところで不意に背後から声をかけられて、振り返る。そこには先ほどまでイエルの頭を占めていた少女が居た。
「おまえ、なんで…」
「目が覚めちゃって」
そう言うとミオリネは当然のように、イエルが座っている瓦礫の隣りに腰掛けた。立ち去るのもあからさま過ぎて動くこともできず、最後の一本を吸いながら隣を盗み見る。冷たい風が二人の間を通り過ぎた。ミオリネは肩を縮こませて二の腕をさする。イエルはわずかばかり逡巡して、自分の着ている上着を差し出した。
「ほら、着てろ」
ミオリネは少し驚いたように、目を見張った後、小さくありがとうと言って受け取った。
「…ねぇ」
「なんだよ」
「なんで私を避けるの?」
「…別に避けてない」
「嘘。なのに、こんな風に優しくするし…」
なんなのよ。ミオリネは膝を抱えて顔を埋めた。
避けてはいない。
話しかけられれば普通に答えるし、こちらからも最低限の交流はしている。
ただ、イエルからミオリネに気安く声をかけることはなくなった。からかい混じりにちょっかいをかけたり、世間知らずな振舞いを見兼ねて助け舟を出すことも。
避けてはいない。正しい距離感に戻っただけだ。
「…お願いがあるんだけど」
「ん?」
「もう一度してくれない?……キス」
ごふっ。吸った煙が変な所に入り、盛大に咽せた。その拍子に煙草を取り落とす。運悪く水溜まりに着地し、じゅっと火の消える音がした。あーくそっ、まだ長かったのに。
「…しない」
「なんでよ」
「もうしないって言ったろ!」
「私がいいって言ってるんだから、いいでしょ!」
「そういう問題じゃ…大体なんでそんなしたがるんだよ!」
しまった。濁してきた答えを求めるような返しをしてしまったことに、馬鹿かとイエルは自身に悪態を吐く。
この少女といると、本当に調子が狂う。
「確かめたいことが、あるの」
頬を真っ赤にしてる癖に、強い意思の籠った瞳が見上げてきて、たじろぐ。かと思えば、急に俯いて何やらブツブツと言い出した。
「初体験の心拍数の上昇を脳が勘違いしている可能性だって…だからもう一度すればきっと…」
「はぁ?」
「は、初めてだったんだからっ!」
ハジメテダッタンダカラ。
「……ああ、そう」
「そ、そうやって、自分は慣れてるからって馬鹿にして…!」
他にどう言えっていうんだ。経験については、まぁそうだろうなとは思っていたが。喜ぶのが正解か?そういう気持ちは無くはないが。
自分には縁遠いと思っていた気の抜けたやり取りに、脱力する。
…だんだん考えるのが、面倒くさくなってきた。
「…もう一度したら納得するんだな?」
ミオリネは緊張した面持ちで、こくりと頷いた。
わかったと言って、掠めるように唇に触れて、すぐに顔を離す。
「ハイ。終わり」
「…は、はあ⁉︎」
「キスはキスだろ」
「この間のと全然違うじゃない!」
「同じ同じ」
「べろっとしてない!」
べろっとってお前…。
なおも卑怯だなんだと言い募るミオリネに、とうとうイエルは根負けした。
「あーもう、わかった!わかったから!」
気を落ち着けるように、はーっとたっぷり息を吐く。
「……べろっとしたやつはしない」
何を言ってるんだろうな。俺は。
「ほら、目つぶれよ。するから」
ミオリネは言われた通り、ぎゅと目をつぶる。自分からしてくれと言ったくせに、イエルが顎に触れるとびくりと震えた。
らしくないと思いつつ、安心させるように、軽く親指の腹で頬を撫でる。
出会った頃より日に焼けた肌。絹のように滑らかだった髪も、今は埃を含んで毛先が傷んでいる。
長く一緒に居過ぎたんだ。
こんなくだらないやり取りを冗談混じりに、かわせないくらいには。
それ以上先を考えたくなくて、イエルはミオリネの唇に自分の唇を重ねた。柔らかな感触を確かめるように、何度か角度を変える。その度に隙間から、ふっとどちらともしれない吐息が漏れた。
繰り返して、顔を離した。
「……何かわかったかよ」
ミオリネが、ただ夢に浮かされたようにイエルを見上げていたら、軽薄に笑ってこう答えるつもりだった。
なんだお前、俺のこと好きだったのか?
世間知らずのお嬢様を戯れに弄んだ悪い男でも演じて、こんなのは特殊な環境と経験の上での勘違いだって諭してやって、それで、全部終わりにするつもりだった。
なのに。
ミオリネは、まるで帰り道を見失った子どものように、泣き出しそうな顔をしていた。
その表情には、夢見る少女の姿なんてどこにもなかった。どうすることも出来ない現実を前に、ただ小さく絶望する彼女を見て、胸の奥が軋んだ。
用意していたはずの言葉が出てこない。
「俺は…」
そのまま抱きしめていた。何をやってるんだ。腕の中に閉じ込めたところで、手離さなければいけないとわかっているのに。そう、だからイエルの答えは最初から決まっていた。
「─…無理だ。応えてやれない」
「っ、わかってるわよ。そんな事…っ」
腕の中で、ミオリネが何かを堪えるように額をイエルの胸板に押し付けた。
「…私、結婚するの」
ずきんと、今度ははっきりと胸が痛む音がした。
「十七歳になったら、親が決めた相手と…。だから、安心してよ。追い縋ったりなんかしないから」
ずきん、ずきんと胸の痛みが断続的に続いた。
「…ッ馬鹿みたい…なんで…こんな気持ち…一生知るつもりなんてなかったのにっ…!」
胸の痛みが一際大きな音を立てる。その音はミオリネがイエルの腕の中で発した、小さな悲鳴に似ていた。
彼女と自分とでは、住む世界が違う。最初からわかっていたじゃないか。
これから経験するだろう色んな〝初めて〟を大事にしてやれる、そういう男と彼女は幸せになるべきだ。
眦に溜まった涙を、溢れ落ちる前に拭ってやる。そのくらいしかしてやれることがなかった。
「…一週間後、ベネリットとの交渉の場がある。その場でお前の身柄を引き渡すことになっている」
ミオリネが驚いて顔を上げる。
「ちゃんと無事に、家に帰してやるから。…もう泣くな」
ミオリネは何かを言いたげにしていたが、やがてこくりと頷いた。ぬぐいきれなかった涙が、その拍子に地面にぽとりと落ちた。
「…最後にもう一度して欲しいって言ったら…困らせる?」
「…いいよ」
顎を捉えて、さっきより深く口付ける。
もう二度と触れ合うことはない唇の温度を記憶に刻むように、イエルは目を瞑った。
こんな気持ちで誰かにキスをすることなんて、きっともう一生無いんだろう。
名残惜し気に唇を離すと、ミオリネが泣き損ねたみたいな顔を歪めて、くしゃっと笑った。
「…こういうキスはしないんじゃなかったの?」
「最後らしいからな。サービス」
軽薄に笑う。
今度はちゃんと演じることが出来ているだろうか。
冬に近づいた冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
季節が変わろうとしていた。