全部流れてしまえばいい 雨が降っている。バケツをひっくり返したようなひどい雨が黒い雲から地面へと降り注いでいた。
「あーあ」
心の中で呟くつもりが自然と声に出てしまい、新八は慌てて口を閉じた。こんな事になるなら傘を持ってくれば良かったと、新八はうんざりしながら空を見上げた。
「ツイてないなぁ」
またもや心の声が漏れた。誰かに聞こえただろうかと、新八は辺りを見回した。しかし、周りの人間は新八の声なんかに耳を傾ける事なく、傘を差して足早に歩いている。まるで、雨宿りしている新八の空間だけが世界から切り離されてしまったかのようだ。ザァザァと降る雨を眺めながら、新八はもう一度心の声を漏らした。
「今日はツイてないなぁ」
新八は朝から全くツイていなかった。まず、目覚まし時計が鳴らずに寝坊した。道場の壁に掛かっていた竹刀が落ちて己の頭に直撃した。その後、出勤途中に転倒して後頭部を強打、チンピラに遭遇、再び転倒。今日の結野アナのブラック星座占いは絶対に僕が12位に違いないと、新八は思った。ヨロヨロとした足取りで何とか万事屋に辿り着いた。
「おはようございます」
新八の元気のない挨拶が、空気中に虚しく漂って消えた。大方万事屋の住人たちは、いまだに夢の中なのだろう。
よし、切り替えるぞと新八が玄関を上がって廊下を歩いた直後、グジャリと何かを踏んだ。じわじわと足袋が湿っていく。恐る恐る足下を見れば、モザイク処理されたゲロがあった。犯人はこの万事屋の家主に違いない。おそらく飲みに出て帰って来た時に吐き気を催したが、トイレに間に合わなかったのだろう。
怒鳴り散らしたい気持ちをなんとか抑え、新八は大きく深呼吸をした。とたんに、酸っぱい臭いが鼻を突く。くさい。新八はその場で足袋を脱ぐと、脱衣場に直行した。足袋を軽く濯いで洗濯機に入れる。しかし、洗濯機の中には銀時の着流し等の衣類は入っていない。まさか着替えずに寝たのか。ということは、おそらくあの部屋の中はあの臭いで充満しているに違いない。新八の中で一度鎮火した怒りが再びプスプスと音を立て始めた。
脱衣場を出てドタドタと足を踏み鳴らしながら寝室に直行し、乱暴に襖を開けた。すると、案の定ゲロ特有の刺激臭が鼻を刺した。新八は思いきり窓を開け、布団の上でうつ伏せになっている銀時から着流しを無理矢理引き剥がした。
その時、着流しの衿が新八の目に止まった。赤いシミが付着している。いや、シミではない。これは口紅だ。途端に、新八の怒りは一気に燃え広がった。
「あー、頭ガンガンする」
銀時はコメカミを抑えながら、のそりと起き上がった。
「あれ?お前いたのかよ、新八。ちょうどいいや。お前ばあさん所から二日酔いに効く薬貰ってきてくんない?銀さんまだ本調子じゃねぇんだわ」
何やらペラペラ喋っている銀時の顔に向かって、新八は持っていた着流しを勢いよくぶつけてやった。
「こんの馬鹿天パ!!!」
「ぶわっ!いきなり何すんだゴラァ!つーか、くっさ!」
いきなりゲロまみれの着流しを顔面に叩きつけられ、銀時も怒鳴り返す。もう何もかも嫌になって、新八は玄関の方へと歩き始めた。
「おい、新八」
銀時が追いかけて新八の肩を掴もうとした。そんな接触からも逃げたくて、新八は咄嗟に手を振り上げるとパンッと音が鳴った。びっくりして音の方を見ると、銀時の頬が赤くなっていた。
「いって」
「あ……」
違う。たまたま当たっただけだ。自分のせいじゃない。違う。違うんだ!頭の中ではそんな言葉がぐるぐると回っていたが、口からは荒い息しか出てこなかった。
「しん「失礼します!」」
銀時の言葉に被せるように叫ぶと、新八は全速力でその場から逃げ出した。
そこまで思い返して、新八は頭を抱えた。やってしまった。完全に八つ当たりだ。手を上げるなんて子どもの癇癪そのものじゃないか。
新八は足の指を閉じたり開いたりしながら、雨が止んだら家に帰ろうかとぼんやり考えた。何でこんなことになってしまったんだろう。本当に今日はツイてない。
「あぁ、もう嫌になっちゃうな」
「本当にな」
ハッとして、新八は顔を上げた。
そこには、ずぶ濡れの銀時が立っていた。
「ぎ、銀さん」
「帰んぞ」
そう言って、銀時は新八の腕を引いた。
「いや、でも」
銀時は中々歩きだそうとしない新八の腕を勢いよく引いた。
「うわっ!?」
新八はとうとう雨の中へ引っ張り出されてしまった。途端に雨が全身に染み渡っていく。雨宿りしていたのが馬鹿らしく思えるほどに、新八は一瞬でずぶ濡れになった。腕を掴んだまま歩き出した銀時の後を、新八は黙って付いていくしかなかった。
ずぶ濡れになった男二人が雨に打たれながら歩く。新八は腕を引いて歩く銀時の背中を見据えた。怒っているのだろうか。今までずっと探してくれていたのだろうか。この後何を言われるのだろう。嫌な考えが浮かんでは消え、また浮かぶ。雨に打たれるごとに新八の肩は重くなっていくような気がした。
ふいに銀時は立ち止まって腕を離すと、新八の方を振り返った。
「新八。お前さ」
新八はキュッと眉を寄せて身構えた。
「先週のジャンプ捨てたろ。俺まだギンタマン読んでなかったんだけど。捨てるなら先月分までにしてくれよ」
「えっ?」
言ってる意味が分からず、新八は銀時の顔を凝視した。てっきり朝の事を責められると思っていたのに。
それから銀時はつらつらと文句を並べていった。
「あと、二日酔いの日に掃除機かけるの勘弁してほしいし、急に卵焼きの味変えるのもいやだわ。しょっぱい卵焼きなんざ卵焼きじゃねぇだろ」
何で今そんな事を言うんだろう。銀時の意図が分からない。言いたい事があるならはっきり言ってくれ。新八は焦れったそうに顔をしかめた。
「あと、真選組の連中にヘコヘコするのも気に入らねぇ。挨拶とか『っす』とかで十分じゃねぇか。特に、あのマヨ野郎のタバコの臭いさせて帰って来るのマジで嫌い」
銀時はそこまで言い切り、フーッと息を吐き出した。どうやら言い終えたらしい。
「結局あんた何が言いたいんですか?」
とうとう我慢できずに、新八は尋ねた。すると銀時はヘラリと笑った。
「別に深い意味はねぇよ」
ただと、銀時は続けた。
「こういうザァザァ降る雨に打たれてたらさぁ、モヤモヤした色んなもんが流れ落ちてくれるんじゃねぇかって。そう思っただけ」
あぁ、この男は気付いている。気付いた上で新八を責めることも慰めの言葉を掛けることもなく、一緒になって雨に打たれてくれているのだ。新八は泣きたくなるのをぐっと堪え、大きく息を吸った。
「じゃあ、僕も言っていいですか?」
「どーぞ」
銀時に促され、新八はゆっくりと口を開いた。
「ジャンプは燃えるゴミじゃなくて資源ゴミの日に出してください。お登勢さんも困ってました」
「何でいつも吐くまで飲むんですか。掃除する身にもなってくださいよ。着物も。洗濯しないでいいですから、せめて脱いで寝てほしいです」
新八の言葉に、銀時は黙って耳を傾けてくれた。
「それから……僕ら以外にあまり無防備にならないでください」
そこまで言い切った後、新八は先ほどの銀時と同じようにフーッと息を吐き出した。降り注ぐ雨は新八の髪を濡らし、身体を辿って地面へ落ちる。たしかに、これなら心の垢のようなモヤモヤも流れ落ちてしまうかもしれない。現に新八の心は先程よりも軽くなっていた。
「他に言いてぇことは?」
「あとブーツなんですけど…」
「まだあんのかよ」
銀時は嫌そうに眉を寄せた。新八は笑って『冗談です』と言った。本当はブーツを脱ぎ散らかすのをやめてほしかったのだが、何故だか言う気にはなれなかった。まぁ雨に流されたという事にしておこうかと、新八は思った。
「銀さん」
「ん?」
「叩いてしまってすみませんでした」
新八はペコリと頭を下げた。たとえ銀時が水に流してくれたとしても、銀時に手を上げてしまったことに変わりはない。新八は素直な謝罪の気持ちを伝えた。
「新八ぃ。顔上げろ」
銀時に言われて、新八は身体を起こした。銀時は新八の頬に手を添えると、ペチペチと軽い音を立てて叩いた。キョトンとした顔で見つめる新八を他所に、銀時は新八の手を取って再び歩き始めた。新八は朝の時とは違う熱が燃え広がるのを感じて衿元をキュッと握った。そうしないと大きな声で叫んでしまいそうだった。その代わりに、新八は繋がれた手を強く握った。
「銀さん」
「ん?」
「帰ったら、もう1つ言いたい事があるんです。聞いてくれますか?」
1歩先を歩く銀時の背中に向かって尋ねる。銀時の足が止まった。
「俺も」
「えっ?」
銀時は新八の方を振り向いた。
「俺も1つ言い忘れてた事あったわ。帰ったら聞いてくれるか?」
新八は笑って頷いた。あぁ、また気付いているのだろう。新八が銀時に何を伝えたいのか。そして、新八も気付いていた。銀時が新八に何を伝えたいのか。
「じゃあ、早く帰りましょうか」
「そうだな」
新八は銀時の隣に立つ。そして、ザァザァ降りしきる雨の中をずぶ濡れの男2人が愉快そうに手を繋いで帰っていった。