山本冬樹、ぎっくり腰になるの巻(超仮題)その2「はい、着いたよ」
「小戸川様、ありがとうございます!」
「どうも……」
着いたのは、剛力医院。やはり、例の看護士が勤務している病院じゃないか……。思わず眉を顰めてしまう。流石に診療時間外だからいないと思うが、正直落ち着かないと言えば落ち着かない。
「小戸川様、冬樹さん支えるの手伝ってくれます?」
「え、俺も手伝うの?」
「冬樹さんでかいから、俺一人だと結構大変なんですよ~」
倉庫のバックヤードから社員通用口まで移動するまでの間、旬くんに支えられながらなんとか移動した。しかし、俺の方が背が高いため旬くんはかなり四苦八苦している様子だった。そりゃ、一人よりも二人の方がいいとは思う。でも、よりにもよってこのタクシードライバーの手を借りるのは滅茶苦茶嫌だ。
「おー、小戸川着いたか」
「剛力先生自らお出迎えか」
「話聞いた限り、かなり痛がってるみたいだったから、車椅子出して待機してたんだよ」
医院のドアが開き、大柄な男性が車椅子を押しながら出てきた。この人が、院長の剛力先生のようだ。初対面の、しかも時間外対応をしてくれている医者に言うのは非常に失礼かもしれないが、ちょっとゴリラに似ている。
「どうも、院長の剛力です。歩くのも辛いと思うんで、車椅子で移動しましょう」
「……お前が患者に敬語使ってんの、何か違和感あるな」
「流石に初対面の患者さん相手にタメ口ってわけにはいかないだろう」
「いや何か普通に気持ち悪いなって」
「気持ち悪いは酷くないか? 俺だってTPOはちゃんと弁えてるぞ、大人なんだし」
「慇懃無礼が服着てるみたいなタイプじゃん、お前」
「嫌味で偏屈な奴に言われるのは心外だな」
このタクシードライバーの友人だと言うのはよく分かる医師だな……。いや、悪い人でないのも確かなのだろうけれども。突然の嫌味の応酬に、旬くんも口を挟む隙がないようだ。
「あー……冬樹さん、車椅子に移動できます?」
「いや、どうかな……いててててて!」
車を降りようと体を動かしたが、やはり腰に激痛が走った。体の向きを変えるのがやっとで、車を降りることすらままならないとは。情けなさと痛みで涙が出そうになる。
「無理して動かないで。ちょっと失礼しますね」
「いててて!」
剛力先生が、俺の姿勢を整えようと少し体を押しただけで痛みが走った。何をしても痛いとか、どうしたらいいんだよこれ。後部座席に浅く座るような体勢になり、剛力先生が車椅子をタクシーの近くに停める。
「ちょっとだけ前屈みになれます?」
「え? はい……いててて!」
「……おっさんが密着するのは気持ち悪いかもしれないけど、我慢してくださいね」
「うお、おあ」
腰を抱えて持ち上げられ、痛みよりも先に驚いて思わず剛力先生にしがみついてしまった。そのままくるりと向きを変えられ、車椅子に下ろされた。恐らく間抜け面で剛力先生を見ていたのだろう、明らかに笑うのを堪えているような表情をしている。
「凄いですね! えっ今のどうやったんですか⁈」
旬くんが大興奮した様子で剛力先生に詰め寄っている。決して小柄ではない俺を軽々と移動させた方法が気になる気持ちは分からなくもないが、今はそれよりも診察をしてもらいたい。
「あー、教えたいのは山々なんですが、先ずは山本さんの診察をしましょう」
「あ、それもそうですね……」
「時間外に、すみません……」
「大丈夫だよ。どうせこいつのことだから、残業後に閉店間際の山びこ行って一杯だけ飲んで帰ろうかなとか思ってたんだろうし」
「何で俺じゃなくてお前が答えるんだよ」
「えっ大体いつもそうだろ、違うのか?」
「悔しいけど合ってる」
「ほら、やっぱり」
また俺と旬くんは置いてけぼりにされている。対して付き合いがあるわけではないが、このタクシードライバーがこんなにぽんぽん話すのは初めて見たような気がする。それにしても、この偏屈なタクシードライバーと普通に会話できる剛力先生凄いな。医師と患者だけでなく、友人同士だというのは移動中に旬くんから聞いたが……よくこんな偏屈野郎と友達になれるな。俺には無理だ。……自分の過去の行いもあるから、絶対に無理だ。
「失礼しました、では診察しましょうか」
「じゃあ、診察終わるまで待ってるから」
「ありがとうございます、小戸川様!」
剛力先生に車椅子を押され、診察室へ向かった。個人医院の割にしっかりした建物だし、内装も綺麗だ。いわゆる町医者になるのだろうが、結構良い病院のような気がする。
「ぎっくり腰になったのは、今回が初めてですか?」
「はい、初めてです……」
「どういう風に動くと痛いです?」
「体をちょっと動かすだけでも、とにかく痛いです」
「楽な姿勢はありますか?」
「横になっている方が、ちょっと楽かなと思います」
「なら、そちらのベッドに移動しますか?」
「あ、いえっまた体勢変えると痛くなりそうなので、とりあえずこのまんまで良いです! いてて!」
医務室で横になっていたときが、痛みとしては一番マシだった気がする。今も本当は横になりたいが、また抱えられて移動するのは恥ずかしすぎる。相手は医者だから、気にしていないだろうけれども。
剛力先生は多少体勢のことを気にしつつも、淡々と診察を続けてくれた。体をどう動かすと痛いか、腰のどこが痛いか、一つ一つ丁寧に確認をしていく。座った状態でもじっとしていれば痛みは我慢できるが、少し動かすと激痛が走り、何度も情けない声を上げてしまった。
「なるほど……典型的なぎっくり腰ですね。とりあえず、今日は痛み止めと湿布を処方しておきます。今夜は安静にして、明日形成外科を受診してください」
「ありがとうございます……」
ぎっくり腰なんて、もっとおっさんがなるものだと思っていた。まさか自分がこの年齢でなるとは……まだ俺ギリギリ三十代なのに。四捨五入すると四十だけど、それでもまだ大台には乗ってないのに。
「あ、あの、いつまで冬樹さんの腰は使い物にならないんでしょうか?」
「旬くん、もうちょっと他に表現ない?」
「うーん、単なるぎっくり腰なのか、骨に異常があるかによって違ってくるので何とも言えませんなあ。数日で痛みが治まる人もいますし、なかなか引かない人もいますし。とにかく安静にして……」
「ほんとになんでもないんだって!」
出入り口の方から、例のタクシードライバーの慌てた声がする。いつも淡々としていて感じが悪いのに、あんな慌てた声も出るんだな。しかし、何があったのだろうか。……何か、段々声が近づいてないか? それに、足音が複数あるような気がするんだが。
「何でもないって、小戸川さん、また変なことに巻き込まれてるんじゃないの⁈」
「いや、今回はマジで違うんだって」
「だったら、何でこんな時間に病院なんて来てるの⁈」
「いやだからそれは、話聞いて、白川さん……一応病人が……」
例のタクシードライバーの声と、女性の声がする。白川? 白川って……まさか……あの時の、あの看護師もそんな名前だったような気がするんだが。
「剛力先生、またなんか小戸川さん変なことに巻き込まれてるんじゃないでしょうね⁈」
威勢のいい声とともに、診察室のドアが乱暴に開けられる。見覚えのある若い女性。忘れもしない、あの夜俺に見事なケイシャーダを喰らわしたあの看護士だ。
「何でアンタがここにいるの?」
「ひっ……! いててててて!」
「冬樹さん⁈」
「白川さん、ダメダメダメ!」
「白川くん⁈」
俺の姿を見た途端、彼女は以前も見た蹴りの構えをし始めた。思わず声にならない悲鳴が漏れ、横にいた旬くんにしがみつく。だが、体勢を変えたことでまた腰に激痛が走る。怖いやら痛いやらで、涙が出てきた。本当に情けないが、怖いものは怖いし痛いものは滅茶苦茶痛い。
少し遅れて、かなり慌てた様子でタクシードライバーが追いかけてきて、彼女を制し始めた。この男が大慌てしている様子は初めて見たなと思いつつ、激痛と恐怖で俺はそれどころではない。
「白川さん、ケイシャーダは止めて、一応病人だから。あとこんな狭い診察室でケイシャーダは危ないから!」
「病人?」
「ひっ……」
怪訝な顔でジロリと睨まれて、思わず体が硬くなる。あの夜の見事な蹴りの威力を思い出し、どうしても萎縮して警戒してしまう。十歳も年下の恋人にしがみつかなんて、三十代後半の成人男性としては情けないことこの上ないが、怖いものは怖い。
「白川くん、とりあえず落ち着きなさい。それにしても、どうしたんだこんな時間に戻ってくるなんて」
剛力先生も驚いて目を見開いている。そりゃあそうだ、看護師が診察室で病人を蹴り飛ばそうと構えたら、誰だって驚く。驚きつつも、剛力先生は落ち着いた口調で問い掛けた。
「ちょっと更衣室に忘れ物しちゃって……そしたら、小戸川さんのタクシーが止まってたから、また何か変なことに巻き込まれてるんじゃないかって、心配で」
しおらしい態度を取ってはいるが、つい先程まで本気で蹴り飛ばそうとしてきた相手に警戒を緩められるわけがない。俺はあの夜の鋭い目つきと強力な蹴りをはっきりと覚えている。
「白川さん、心配性だなあ」
「元マネージャーも今井くんもいるし、本当は何かあったんじゃないの?」
「今回はほんとに違いますよ? 冬樹さんがギックリ腰になっちゃったから、小戸川様が剛力先生に連絡してくれて……」
「えっ待って待って旬くん、この凶暴で獰猛なバイオレンス看護師と知り合い⁈ いててててて!」
あまりにも普通に旬くんと看護師が話しているのでスルーしかけたが、二人とも知り合いなのか。初耳なんだが。一体どういう繋がりなのか問い詰めようと体を動かしたら、また腰に激痛が走った。
「冬樹さん大丈夫ですか⁈」
「誰がバイオレンス看護師ですって? そんなにケイシャーダ喰らいたいわけ?」
「ひぇっ……! いてててて!」
沸き起こる疑問と再び走る痛みとで、涙が出てきた。この看護士、本当に暴力的だな! 白衣の天使なんて言われるけれども、この女に関しては絶対に当てはまらない。こんな凶暴で暴力的で人の話を聞かない天使なんか、いてたまるかよ。
「白川さんステイ、ステイ!」
タクシードライバーがまた慌てながら看護士を止めている。今度こそ本気で蹴り飛ばされるのだろうか、居間の状態でそれは本当に勘弁してほしい。
「白川くん、山本さんと何があったかは分からないが、彼は病人なんだから暴力行為は止めなさい」
「いや病人関係なく暴力行為は駄目だろ」
「そうですよ、暴力反対!」
「それもそうだな、ははは」
「笑い事じゃねぇよ……」
剛力先生が毅然とした態度で看護士を制すが、確かにそもそも病院で暴力行為を働こうとする時点でよろしくない。タクシードライバーのツッコミはもっともなのだが、旬くんの間の抜けた援護射撃で脱力してしまう。
「時には実力行使も必要だと思いますけど、剛力先生が言うんなら……分かりました」
「あんたのは実力行使じゃなくて、ただの暴力じゃないか……」
「やっぱり、一発ケイシャーダ喰らわせないと気が済まない」
「もー、冬樹さん余計な一言が多いんですから。それだから、人の神経逆撫でしてイラッとさせちゃうんですよ?」
「えっ何、俺のせいなの⁈ いてててて!」
また蹴りを喰らわそうと構える看護士は恐怖でしかないが、旬くんの言い分はどう考えても聞き捨てならない。常に余計なことしか言わないのは、そっちの方じゃないか。
何だか俺が悪いみたいな方向になっているが、状況的には病人にケイシャーダを繰り出そうとしているこの看護士の方が悪くないか⁈ 少し大きな声を出したらまた腰が痛み、俺は情けない声を上げて呻いた。
「白川くん、とりあえず落ち着きなさい。まだ診察中なんだ」
「……すみません」
「もー白川さん、相変わらずおっかないなあ」
「あのさ、旬くん……この看護士とはどういう……」
「小戸川、白川くん。まだ診察が途中だから、二人は待合室で待っていてくれないか?」
俺が小声で疑問を口にするのと、剛力先生が口を開くのとがほぼ同時になってしまい、俺の問いはかき消されてしまった。いや、まあ後で改めて聞けばいいのだが。あの暴力ナースと旬くんがどういう関係なのか、さっきから気になって仕方がない。
「だってさ、白川さん、一旦向こうに行こうか」
「……はーい」
タクシードライバーに促されて退室する間際、看護士は俺を思い切り睨みつけてきた。やっぱりあの女、滅茶苦茶おっかねえ……出来るならば金輪際関わりたくない。あの夜のことは俺の自業自得であるが、今回のことはどう考えても俺のせいではない。そもそも看護士が病人を蹴り飛ばそうとするとか言語道断だろ⁈
「あー、話が大分逸れましたが……。とりあえず、今日のところは痛み止めと湿布を出しておきますね。明日、多少動けるようになったら形成外科に行ってください」
まだ諸々解決していない気はするが、二人が退室した後、剛力先生が話を強制的に戻した。この人はこの人で、かなり器がでかいというか、動じないというか……このタクシードライバーの友人というだけはあるというか。俺にはあの男と友人になるなんて、絶対に無理だと思うが。
「分かりました」
「それから、腰の痛みが強い間はコルセットを着けると多少楽になりますよ」
「コルセット、ですか」
「ドラッグストアでも売っているので、痛みが落ち着くまで着けることをオススメします」
「ちょっとでも楽になるんなら、帰りに買っていきましょうよ、冬樹さん」
コルセットなんて、爺さん婆さんが着けているイメージがあるものを着けなければいけないのか……。いやでも、少しでも痛みが楽になるのなら背に腹は代えらえない。帰りに適当なドラッグストアに寄ることにしよう。
「湿布はどうしますか、今ここで貼りましょうか?」
「冬樹さん、今貼ってもらいましょうよ、ちょっとは楽になるかもしれないじゃないですか。剛力先生、お願いします!」
「いや、何で俺じゃなくて旬くんがお願いするわけ?」
「ははは、仲が良くて結構」
湿布を貼ってもらうためにベッドへ移動した際に、また情けない呻き声を上げてしまった。本当に嫌になるが、痛いものは痛いから仕方がない。情けないやら申し訳ないやらで、本当に居た堪れない。
「多少はこれで痛みは治まってくると思いますが、早目に形成外科を受診してください。腰の骨に異常があるかもしれないので、念のためレントゲンも撮ってもらうようにしてくださいね」
「はい、ありがとうございました」
「お大事にしてくださいね」
旬くんに車椅子を押されながら診察室を出ると、先ほど追い出された二人が待機していた。看護士の方がジトリと俺を睨んでおり、また体に緊張が走る。そこまで敵視しなくてもいいじゃないか……。本当に怖いな、この女。
看護士の視線に緊張を感じつつも、やはり先ほど聞きそびれた疑問が沸々とまた湧き上がってきた。やはり、今ここで確認しておきたい。どうしても気になる。
「あのさ、旬くん……」
「何ですか? あ、もしかしたまたトイレですか?」
「ちげーよ! いててて!」
「あ、違うんですか。何です?」
「あの……彼女と旬くんって、どういう知り合い? なんか結構仲良さそうに見えたけど……」
「え? あー……どういうって言われるとなあ……」
「は? なんであんたがそんなこと気にするの?」
そこまで睨まなくてもいいだろうというくらい、剣呑な眼差しを向けられてまた体に緊張が走る。本当にとんでもない女だな、この看護士……。それでもやはり、気になるものは気になる。
「まさか、まさかだけどさ……元カノ、とかじゃないよね……?」
「……」
「……」
突然の沈黙。旬くんの真顔も怖いけど、看護士の真顔はもっと怖い。え、何この沈黙どういうこと。二人とも真顔で固まっていて、真意が読めない。無意味に緊張が高まり、物凄くドキドキしてきた。どちらでもいいから、早く答えてくれ。
実際にはほんの数秒の沈黙だったと思うが、とても長く感じられた。ふとタクシードライバーの方を見ると、向こうも何故か緊張した面持ちをしていた。何であんたまで緊張しているんだ、と思った時だった。
「は? 今井君と私が付き合っていたとか、一体どんな冗談? 有り得ないでしょ、何をどうしたらそういう発想が出てくるの」
「いやあ、ないないないない! 白川さんと俺が付き合っていたとか、ないですって! 白川さんは美人で可愛らしいですけど、俺の好みじゃないですし、絶対有り得ないですって」
二人が口を開いたのはほぼ同時で、しかも二人して早口かつ全力で否定してきた。懸念していたような関係でなかったことに安堵しつつ、なら一体どういう関係なのか問い直そうとしたが、それは叶わなかった。
「待って今井君、その発言は正直ちょっと腹立つ気がするんだけど?」
「えっどこら辺がですか?」
「美人で可愛い以降はめちゃくちゃ余計だよね?」
「いやでも、好みってめっちゃ大事じゃないです? 白川さん、可愛くて美人だけどおっかないじゃないですかぁ」
「ちょっと、それどういう意味⁈」
旬くんの余計な一言が、逆鱗に触れたのか看護士が起こり始めた。二人のやり取りを見るにつけ、どう考えてもある程度以上親しい仲のように見えるが、付き合っていたのではないのであれば……一体どんな関係なんだ?
「白川さん、落ち着いて、時間外だけど一応病院だし」
「小戸川さんはいいの⁈ 目の前で私のことは好みじゃないって言われたのに‼」
「ええ……俺に飛び火すんの……?」
タクシードライバーも巻き込んで、三人で揉め始めた。何でタクシードライバーも巻き込んだのかはよく分からないが、まさかこの二人はそういう関係なのか? 大分年齢差ありそうな気がするけど……。
そう思ったが、俺と旬くんも十歳離れているため特大ブーメランになって俺に返ってきた。うん、年齢差については考えるのを止めておこう。それにしてもこの不毛な言い合いはどうやって止めるべきなのか。