チョコレートドリンク 渋谷の街は、三途の川に似ているとよく思う。
もちろん俺は死んでもいないから、そんな場所には行ったことがない。ただの概念としての見解だ。けれど会話のさざめきや、重なる足音、イヤホンをさした耳から漏れる音楽なんかが、どうもこの世のものとは思えない、って俺はあの場所を訪れる度に思った。
これをふとした話題として傑に言った時、傑はそれは地獄じゃないの? と言った。審判を受けた人々が蠢いている場所、それが渋谷なんじゃないかって。そしてあの交差点は、それぞれの地獄に向かっているんじゃないかって。
「地獄ね……」
俺は交差点がよく見えるカフェで、行き交う人を見ながら言った。隣には傑と、珍しく高専の結界の中から出た硝子がいる。今日の任務は細かな弱い呪霊を一度に祓うってものだった。そして夜蛾先生がその実習場所に選んだのが、あの交差点ってわけだ。強いものが出て来た時は高専に連絡するように言われていたが、正直全て祓ってしまった方がやりやすいっていうのが俺の考えだったし、傑も硝子もそうだったろうと思う。
「あ、また呪霊だ。今度は少し大きいね」
「……もう疲れた。あとはあんたたちでやってよ。私はこういうの柄じゃないんだから」
硝子はグレープフルーツジュースを飲みながら言った。傑の真面目な態度と違って、彼女は呪霊を祓うのが一種のストレスになっているのか、授業を受ける態度じゃなかった。もちろんそれは俺も同じで、気まぐれに知らない人間に憑く呪霊を祓うくらいしかしていなかったのだけれども。硝子が席を立つ。そしてバッグから取り出したブランド物の財布からジュース代を取って、それをレジに立つ店員に渡した。あとはきっと適当に本屋をぶらつくつもりだろう。硝子は反転術式を極めてはいるが、より多くの人を救うために医者としての知識を得たいと思っているのを俺は知っている。斜めに世間を見ているくせに、なんだかんだいって彼女は真面目だった。ここ渋谷には大きな書店が多く、医学書を置いている店もあった。目当てはそれだろう。わざわざ結界の外に出たのもそれが理由に違いない。そんな彼女の後ろについてゆくのは補助監督だった。高専は硝子を値段の高い手として見ていて、それを失うのを恐れているふしがあったから。
「硝子行っちゃった。じゃあ俺も傑に頼もっかな」
「やめてよ。さすがに私一人じゃ追いつかないよ」
「本当に? 傑は最強じゃん。俺も最強だけどさ」
傑はブラックコーヒーを飲んで、少々迷惑そうに言った。ちなみに俺が飲んでいるのは季節限定のチョコレートドリンクで、甘い飲み物は口の中を黒く染めていた。俺はそれに呪霊を飲み込む傑を思って、勝手にセンチメンタルになっていた。傑は何も言わないけれど、彼があの黒い球を飲み込む時、少し苦しそうにするのを俺は知っている。きっと苦しいかまずいかどっちかなのだろう。なのに傑は飲み込むのをやめない。どんなグロテスクな呪霊だって、非術師を守るために使えるのならば、彼は苦しむことを厭わない。どんなことが起こったって。
「でもキリがないね。これってどんな訓練なんだろ。自分たちの限界を知れってこと?」
「さぁ。どこでゲームオーバーするか調べられてんのかもな」
俺はそんなことを言いながら、もう最後にしようと思って、女子高生の肩に乗っている、大きな呪霊を睨みつけ祓った。しかし傑もそれに目をつけていたのか、俺が消滅させてしまったことを少し不服に思ったようだ。
「私も狙ってたのに。いい呪霊だったのに」
「いい呪霊って、使いやすいってこと?」
「道具としてだよ、もちろんね」
また傑はコーヒーをすする。そして青年に手を引かれた幼い少女に憑いた重い雰囲気を漂わせる呪霊を選んで祓って、それを球にするとコーヒーとともに飲み込んだ。それに、傑は俺に苦しそうな顔を見せないんだなと思った。俺があの時苦い顔をした傑を見たのは偶然で、彼は自分の感情を隠しているんだったんだと思った。俺は信用されていないのだろうか? 身体を重ねて、お互いの欲求を満たしあって、綺麗なところも汚いところも全部見て、それでもなお傑は俺と距離を取っている気がした。苦しいなら苦しいと言ってほしい。俺に助ける術がないとしても、寄り添うくらいは出来るから。それとも俺には無理だって思っているんだろうか? 俺はこんなに強いのに? 非術師の家庭で育った傑には分からないだろうけれど、五条家なんてものに生まれたら、普通の感情を持てないほど痛みに鈍感になるっていうのに。あ、でもそれじゃあ駄目なのか。俺は傑の痛みを軽く見積もっているのか。そう思うと、自分の力のなさが苦しく思えた。
「そんなに飲み込んでたら、三途の川の渡し船も呪霊でキャリーオーバーするかもよ」
「……五条家の坊ちゃんは、まだ三途の川を信じてるんだ?」
傑はそう言って俺を誤魔化して、椅子から立った。手元の腕時計を見ると、そろそろ夜蛾先生が言った連絡時刻になっていた。さすが優等生だ。時間の感覚もずば抜けている。でも俺はそれが憎くて、腹いせに彼の足を踏んでやった。傑は少し痛そうに腰をかがめたけれど、そんなのはどうでもいい。俺は傑に幸せになってほしいのだ。俺は五条家に生まれた時点でゲームオーバーだから、非術師の生活を知っている彼には、普通を知っている彼には幸せになってほしかった。でも、彼はそれを拒否したけれど。
「確かに、三途の川に似てるかもね。もしそれが本当にあったとして、私は出来たら悟と同じ船に乗りたいな」
足をふんずけた俺にそんな馬鹿みたいなアイラブユーを言って、傑は俺に席を立つように急かした。どうせ硝子と携帯で連絡をとって合流して、先生に連絡しようって思っているんだろう。やっぱり優等生だ。俺がそんなふうに何も言えないでいると、傑はさらに続けた。
「私と乗るのは嫌かい? 同じ地獄に行くのは」
嫌だね、とは言えなかった。傑とならどこにでも行きたかった。それに自分が天国に行く側の人間ではないことくらい、俺はずっと昔から知っていた。
「お前となら、どこへだって行ってやるよ」
俺は交差点がよく見える席から立つ。チョコレートドリンクは真っ黒な色をしている。傑が飲み込む呪霊と同じ色をしている。俺はそれが苦しくて、レジに向かう傑に続いた。
窓の外には俺たちが助けなかった、呪霊に憑かれている人々がまだたくさんいた。けれどいいのだ、助けるべき人を助けなかったせいで俺たちは地獄に行っても、何があったって同じ船に乗るのだから。キャリーオーバーで乗れなかったとしても、渡賃を余計に払えば二人どこへだって行けるさ。どんな地獄にだって、俺たちは行けるさ。